「呪いを受けたキリスト」 ガラテヤ書三章六ー一四節

 一○節に「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われている。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからである。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明かである」とあります。
 そして、一三節には「キリストはわたしたちのために呪いとなって、私達を律法の呪いから贖い出してくださった」とあります。

 われわれにとって律法のことを考えるときに、一番わかりにくいのは、「律法の実行に頼る者はだれでも呪われる」とありますが、それならば、神はなぜイスラエルの人に律法を与えたのかということなのです。そのあとをみれば、「律法によっては誰も神の御前で義とされる者はいない」というのですから、だれも守れない律法を神はなぜ人間に与えたのかということなのです。神は誰も守れない律法を与えておいて、その律法を守れないから、誰も神の前に義とされない、律法によっては救われない、だから律法の実行に頼る者は呪われるというのでは、なんと神様というかたは意地悪なかたなのだろうかということになるのではないかと思うのです。

 これでは、ちょうど意地の悪い先生が、自分が教えてもいなかった難しい問題を試験に出して、だれもその解答ができない、だからみんなを不合格にして、生徒はなんとバカな連中だといって叱っているようなものではないかということなのです。

 そもそも律法とはなんなのでしょうか。それは初めから、もともと完全に守れないものとしてイスラエルの人に与えられたものなのでしょうか。それはただわれわれの弱さを暴露し、われわれの罪をわれわれに認識させるものとして与えたものなのだということなのでしょうか。そうしておいて、神はわれわれに神様だけを頼るように仕向けるために与えられたものなのでしょうか。そうであるとすれば、神はなんと意地の悪いかたということにならないだろうか。

 しかし旧約聖書の詩編などを読みますと、律法を与えられたイスラエルの民は、律法は甘い蜜のようなものだと喜んでいる、律法に喜んで生きている様子が歌われておりますし、律法を与えられて、イスラエルの人々は自分達の生きる道を明確にされて喜んでいるのです。
 
 律法はなんのために神が与えたのでしょうか。

 一○節に、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われる」と大変恐ろしいことが書かれている箇所は、旧約聖書の申命記二七章の二六節の言葉の引用であります。そこをあけてみればわかりますけれど、そこでは「呪われる、呪われる」と次々にでてくるところであります。新共同訳ではそこの箇所には、「呪いの掟」とタイトルが書かれております。

 しかしその掟が述べられる前に、主なる神はこう宣言しているのです。「イスラエルよ、静かにして聞きなさい。あなたは今日あなたの神、主の民とされた」とまず宣言されているのであります。その上で、「あなたの神、主の御声に聞き従い、今日わたしが命じる戒めと掟を行わなければならない」と続けられていくのであります。

 つまり、まず初めに「あなたは今日、あなたの神、主の民とされた」という宣言がある。つまり、これから述べる律法を守ったならば、主の民にする、というのではないのです。もうはじめに、あなたはわたしの民となった、だからこの律法を守れといわれているのです。この点が、この順序が、大切なのであります。

 あの有名な出エジプト記に記されている「十戒」が述べられているところも、そこではまず「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の民から導き出した神である」という宣言があるのです。それから十戒がつづくのです。「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」と、十戒が述べられていくのであります。

 旧約聖書で律法がのべられるところでは、みなそうなのです。まず神はお前を救った、救い出してわたしの民とした、だからわたしに従いなさい、その具体的な従いかたを示そうといって、律法がのべられていくのであります。

 律法は救いの条件ではないのです。いわば、律法は学校に入るための入学試験ではないのです。もう無条件で学校にいれてもらえたのです。そうして、今その学校でどのように勉強したらいいかを具体的に示すために、いわば教科書として与えられたのが律法であります。

 われわれはその律法を与えられて、自分は真剣に神に従っているだろうかと反省することができるのです。自分の生活を反省し、自分がどの点で、弱点があるかどうかを知るために律法があるのです。

 ですから、律法は、われわれが具体的に神に従っていくための指針なのです。律法を守れた時には、子供が親に喜んで報告しにいくように、神様に律法を守れましたと報告する、そして守れなかったときには、ますます神に近づいていって、自分は弱くてまもれませんでした、どうぞこのような自分を許してください、律法を守れる力を与えてくださいと、律法を守れないときにはますます神の前にでなくてはならないのです。そのために律法が与えられたのです。

 ところが律法はひとたび文字としてイスラエルの与えられた時に、それは逆転されてしまった。それは救われた民の律法ではなく、救われるための律法になってしまった。この律法をまもらないと神の民になれないのだと人々は考えはじめた。

 律法は入学試験になってしまった。従って、律法を守ることによって自分はその入試に合格したのだと考えるようになり、自分のわざで、自分の行いで、自分の頭のよさで、自分の努力で救われたのだと考えるようになったのであります。その時点では、もう、律法は神に従う指針ではなく、律法は自分の正しさを神と人の前に誇りだす道具になってしまったのであります。自分が救われたのは神の恵みによってではなく、自分の力で救いを獲得したのだと考えるようになったのであります。

 ルカによる福音書に、自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下げているファリサイ派の人々について、主イエスがこういう話したという記事があります。
ファリサイ派の人と徴税人の一人が祈るために神殿にいった。ファリサイ派の人はこう祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を捧げています」と祈った。ところが徴税人は、遠く離れて立って、目を天にあげようともしないで、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言ったというのです。
 そして主イエスは「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない」といわれたのです。

 つまり、律法を守ったと自負しているファリサイ派の人間は、律法を守れましたと神様に喜んで報告しにいっているのではないのです。自分は律法を守った、ほかの連中はちっともまもっていないけれど、自分は律法をまもっていると、自分の正しさを神と人に対して主張しているだけであります。

 これはもう祈りなんかではなく、神に対して自分の正しさを主張し、みせびらかしているだけであります。これはもう祈りなんではないのです。それを神が喜ぶ筈はないし、神はそれをもってこの者が律法を守ったのだと認定する筈はないのです。主イエスは「義とされたのは、ファリサイ派の人ではない」とはっきりと述べるのであります。

 一方徴税人はどうだったか。イエスは「二人の人が祈るために神殿に上った」というのですから、徴税人もはじめは祈ろうとしていたのです。しかしファリサイ派の人の祈りを聞いているうちに、もう祈れなくなってしまったのです。それで神から遠く離れて立ったというのです。胸をうちながら、もう神様に目をむけられないで、ただ「神様、罪人のわたしをあわれんでください」といっただけなのです。

 われわれだったらどうでしょうか。この徴税人は遠くはなれてではありましたが、そしてうなだれてではありましたが、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と辛うじて祈りらしきものを口にしてはいますけれど、われわれだったならば、どうでしょうか。もう神様からどんどん離れていってしまうだけなのではないでしょうか。もう祈ることがでなくなって、ただ絶望して神から遠ざかるだけなのではないでしょうか。

 本当は律法を守れないときには、ますます神に近づかなくてはならない、ますます神に祈らなくてはならないのに、律法が誤って用いられたために、律法はわれわれをますます神から遠ざけてしまったのであります。
 
 徴税人は、自分の罪を知ったときに、絶望はしましたけれど、かろうじて、うなだれてではありまけれど、小さな声で「神様」と呼びかけ、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と、祈ることができました。それで主イエスは、「神に義とされたのは、あのファリサイ派の人ではなく、この徴税人だ」といわれたのです。つまり、主イエスはもう律法によって、この人を義としたのではなく、律法を通してではなく、ただ神の憐れみを根拠にしてこの徴税人を義として、救われたのであります。

 神が与えた律法は、よこしまな人間によって、ただ自分のわざを誇るための手段となり、また自信のない人間にとっては、自分を絶望に陥れるための道具になってしまったのであります。律法はもはや呪いの道具になってしまったのであります。

 パウロはそのことに気がつき、自分が律法を守れば守ろうとするほど、守れたと思ったとたん、自分を誇りだし、威張りだし、傲慢になっていく自分を発見し、これではとうてい神様のみこころにかなっていないということを知ったのです。律法によって生きようとすれば、呪いの道を歩むだけだと知ったのです。パウロがローマの信徒への手紙で告白しておりますように、「わたしはなんと惨めな人間なのだろうか。死に定められたこの体から誰がわたしを救ってくれるだろうか」と嘆くようになったのです。

 それが一○節にあります言葉、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われている」ということであります。律法の実行に頼って救いを得ようとする者は、たとえ律法を守ったとしても、神に従うどころか、ただ自分を誇りだし、自分の正しさを主張するだけ、一方、律法を守れない者は、ただうなだれて、神に祈れなくなるだけ、神から遠ざかるだけになっていったのです。律法はそれを守ることによって、自分を誇り、神から遠ざかり、律法を守れないときには、絶望して神からとおざかっていく、どちらにせよ、それはもう呪いの道でしかないのです。
 
 「律法の実行に頼る者はだれでも呪われている」という言葉に続いて、「『律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守らない者は皆、呪われる』と書いてあるからである」とあります。この言葉は「律法に頼る者は呪われる」ということの理由としてあげられているのであります。
 つまり、律法を絶えず完全に守らない者は呪われるのだから、考えてみれば、律法を完全に絶えず守れる人など一人もいないのだから、結局は、律法に頼って生きようとする者はみな呪われることになるではないかということになります。

しかしそれならば、また前の問題になりますけれど、神はなぜ守れない律法を与えたのか、神様はそんな守れそうもない律法を与えておいて、それを守れないからといって、呪うとするのかということになると思います。

 しかしこの申命記にある「律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守れない者は皆呪われる」と書かれているところで、記されている律法というのは、決してそれほど難しい律法ではなく、ごくごく常識的なことであります。たとえば、「隣人をひそかに打ち殺す者は呪われる」とか「賄賂を取って、人を打ち殺して罪のない人の血を流す者は呪われる」とか、普通の人ならば、だれでも守れるものばかりであります。

 ですから、「律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守れない者はみな呪われる」という申命記の結びの言葉は、いっみれば、一種の脅し文句です、教育用語であります。ちょうど母親が子供をしつけるときに、夕食までに帰ってこないと家にいれませんよ、というような脅しと同じであります。

 しかしそれがいったん文字として定着してしまいますと、それは一人歩きしてしまって、恐ろしい呪いの言葉になってしまって、律法そのものをねじ曲げてしまったのであります。つまり、律法はもともと神様が愛をもって、われわれに与え指導するためのものであった、そうであるならば、われわれもまた神の愛を新羅して、守ってこそ意味があるものだったのに、まるで律法は神様のもとで守るものではなく、閻魔大王の監視のもとで守るものになってしまったのであります。

 従って、十一節の言葉「律法によっては誰も神の御前に義とされないことは明だ」という言葉は、神から一人歩きしてしまった律法によっては、だれも神の御前で義とされるないことは明かだということです。
 
 そして続いて、「なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からである」ということになるのであります。もはや、ねじまげられた律法、呪われた律法は人を生かすことはできなくなってしまったのです。ただ神の憐れみを信じる信仰に生きるもの、ただ神のみに信頼する者、自分の力ではなく、ただ神のみを信頼する人だけが正しく生きることができるようになったのであります。

 律法は信仰をよりどころとしていない。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」ことになるだけだというのです。もちろん、この場合の律法は、正しい律法の用い方ではなく、神の助けを借りようとしないで、自力で律法を守ろうとする者は、ということであります。自力で律法を守ろうとする者は、神からますます離れて自力で生きようとするようになるということであります。それでは救われないということであります。

 そして一三節にこう記すのであります。「キリストは私達の呪いとなって、私達を律法の呪いから贖いだしてくれた。『木にかけられた者は、皆呪われている』と書いてあるからです」とあります。これは申命記の二一章二二節にある言葉です。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」というところからの引用であります。
 
 イエス・キリストは十字架刑にかけられたときに、木にかけられて殺されたわけです。それでキリストは神の呪われた者として死んだと解釈したわけです。それは律法によって生きて、結局は呪いの道を突っ走るしかないわれわれのために、その呪いの道を生きることを阻止するために、私達の陥っている呪いをキリストが身代わりに引き受けてくださった。そうすることによって、それは、律法に生きることは、あげくの果てはこのように呪われたことなることをわれわれに示してくださったということであります。律法のなれの果ては、神の子を呪って木にかけて殺してしまったということであります。イエスは律法主義者たちの自分を主張する罪のために十字架へとおいやられたのであります。

 このことを鈴木正久がこう巧みに説明しているのです。今強大国の世界政策の遂行の力になっているのは、原水爆という核の力だというのです。核の力で自分の国を守る、そしてよその国を牽制する力になっている。しかしそれはエスカレートして核競争を生みだし、世界全体の恐るべき災厄の原因になっている、しかしその核戦争の自縄自縛から逃れられない。それをやめさせるものは何か。核戦争の脅威を防止し抑制するものは、広島と長崎に落とされた原爆だろうというのです。今の所目に見える世界では、この痛ましい広島と長崎の原爆の死の事実だけが、「ふたたびこのあやまちを繰り返しません」と人類に訴え、あの核による暴力を防ぐ唯一の力になっている、キリストが律法の呪いとなったというのは、そういうことだと、説明するのであります。

 しかし、残念ながら、現在広島と長崎の原爆の悲惨が、世界の核戦争の抑止力になっているかといいますと、それはなかなかなっていないのです。核をもっている強大国の指導者たちは広島と長崎の悲惨な事実をできるだけ隠蔽しようとしているのであります。しかしそれはどんなに隠蔽しようと、原爆の恐ろしさ、その愚かさを消すさることはできないのであります。核によって戦争を抑止しようとする方向は、相手を抹殺するための道具と思っているかもしれませんが、しかし、それは相手を抹殺するだけでなく、やがて死の灰となって、自国にはねかえり、この地球の環境を破壊し、生態系をこわし、それは地球を破滅させてしまうことは明かであります。それはまさに呪われた方向でしかないのであります。
その呪いの悲惨さの象徴が、広島と長崎の被災であります。

律法の実行に頼って救いを得ようとする者は呪われる、それはもう袋小路においこまれるのです。律法、律法といっても、われわれにはユダヤ人と違って、あまりピント来ないという人もいるかもしれません。
わたしなどは、はじめて聖書にふれたのが、キリスト教主義の学校に入ってふれましたので、まず強烈な聖書の言葉は、「情欲いだいて女を見るものはすでに姦淫を犯したのである、そのような罪を犯す目はえぐり出してすてよ、そうしないと地獄行きだ」という言葉であります。そのようにして、キリスト教教育されましたから、律法の問題、律法主義の問題は恨み骨髄の問題であります。

 しかし、この律法主義の問題は、結局は自分を中心にして物事を考え、そして生きようとする生き方であります。具体的な律法というものがなくても、そのような生き方、つまり自分を中心にして生きる生き方、自分を頼って生きようとする生き方全体をさしていることであります。
 自分の人生で起こった出来事を自分の浅はかな知恵で意味付けようとする生き方でもあると思います。

 たとえば、自分の子供が不慮の事故で死んでしまったというようなときに、われわれは必死にその意味を考えようとするわけです。愛の神様がおられるのに、なぜなのか、子供に罪がある訳ではない、とすると自分の罪のためではないかと悩んでみたり、自分を責めてみたりするのではないかと思います。

 そのようにわれわれが自分の知恵ですべてのことをどんなに真剣に誠実にものごとを解釈してようとしても、行き詰まってしまうのではないかと思うのです。隘路に入ってしまうのです。

 そういう時にわたしがそういう隘路から解放される聖書の言葉があります。それはイエスが終末を預言した言葉のなかに、「そのとき、畑に二人の男がいれば一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れ去られ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい」という言葉であります。

 ここには、なぜある人が選ばれるのかという理由づけはひとつもないのです。良い人間であるとか、信仰があるかないかとか、あるいは可哀想な人間であるとか、いっさい説明されていない、まるで偶然のようにして、ひとりは連れ去られ、ひとりは残されるというのです。

 わたしはここを読むときに、自分の、人間の合理主義的な考え、功利的な考えが打ち砕かれて、神の自由な広々とした、偶然といってもいいくらいの広い世界につれだされて、救われた思いがするのであります。自分中心という律法主義的な狭い狭い考えにとらわれていこうとする自分から救われるのであります。
すべてのことを、あまりにも自分中心に、人間中心に、ものを見たり、考えたりすると、本当に隘路に入ってしまう、狭い狭い呪われた世界に入っていってしまうことにならないか。

 キリスト教というものは、偶然というものを認めない、この世界には、偶然なんどといものはない、全ては神様の意志があり、ご計画があり、ご支配があるのだと考えられているかもしれません。しかしそれは違うと思うのです。そう考えるよりは、この世界には、偶然というものがある、そしてそれは神がそうっとおかれる偶然だ、それを神の偶然として受け止めるとき、われわれはあの人間中心、自分中心という狭い隘路から解放されるのではないか。

 イエス・キリストが呪いとなって十字架で死んでくださったいう事実は、律法に頼って生きようとする生き方、自分の力で、腕づぐで生きかた、人を見下げ、人を軽蔑しながら、自分の救いを獲得しようとしている生き方がどんなに呪われた隘路の道であるかを教えてくれるのではないかと思うのです。