「キリストを着る」 ガラテヤ書三章一五ー二九節

 今日選びました聖書のテキストは、一五節から二九節までの大変長い箇所を選びました。ここでパウロがいおうとしていることは、ただ一点であります。それはわれわれは律法の行いによっては救われない、救われなかったのだということであります。

 キリスト者であるならば、そのことはみなわかっている筈なのです。ユダヤ教徒は、律法を忠実に守って救われるのだと考えているわけです。律法というとわれわれ日本人にはもうひとつぴんとこないかもしれませんが、戒律といったら、いいかもしれません、あるいはもっと普遍的に、善行を積むということ、われわれの良い行いを積み重ねて救いを手に入れようとする生き方であります。それでは救われないということであります。

 われわれクリスチャンは、それでは救われなかったのです。良い行いができないし、いや、どんなに良い行いをしようとしても、その先から、自分は善い行いをしているのだ、どうだ、すごいだろうと自分を誇りだす、そうしては、他人を見下げ、裁き始める、それは少しも神様が喜ぶような良い行いにはならないのです。良い行いをしようとすればするほど、われわれはいつのまにか自分を誇り、他人を裁き始めるわけで、悪い行いしかできないのです。それでは救われなかったのです。

 そのことをパウロという人、かつては熱心なユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害していたパウロは、骨身に応えて知っているのであります。

 それなのに、そのキリスト者の中から、しかもそのキリスト者の大本山であるエルサレム教会の主だった人々が、確かにわれわれが救われたのは、ただキリストの恵みによって救われたのだ、しかし救われたあとは、ふたたび律法を守らなければならない、その徴として、キリストによって救われた異邦人はユダヤ人と同じように割礼を受けなくてはいけないといいだしたわけです。それはキリスト教をもういちどユダヤ教にもどしてしまうことだと、パウロは考えたわけです。

 その危機から守るために、パウロはここでもういちど、それでは律法とは何かということを論じようとしているのです。

 それが一三節の言葉です。「では律法とはいったい何か」という問いかけなのです。問題を混乱させるのは、その律法は悪魔がわれわれに与えたのではなく、神が、神ご自身がわれわれに与えたということから来ているのです。もし律法というのが、悪魔が与えたものならば、われわれは再び律法主義に陥ることはないのです。しかし、律法はモーセを通して神が与えたものだ、それならば律法は守るべきものではないかという考えが生まれてくるのは必然なのです。

 それで「いったい律法とは何か」という問いが生まれてくる訳です。それに対して今パウロは答えようとしているわけです。

 一五節からのパウロの説明は、神はまずアブラハムに対して全く一方的に恵みをもって祝福し、救うと約束したというのです。そしてそれはアブラハムとその子孫に対してなされた約束だというのです。その子孫とは単数形だから、それはキリストのことだというわけです。
 そのひとりの人とはイエス・キリストであって、そのキリストの恵みによって救うという約束なのだというのです。
 そしてそのあと、四百三十年後にモーセに律法が与えられたのだというのです。まず無条件にお前を恵むという約束がなされた、それからその約束に従って歩ませるために、神はモーセを通して律法を与えたのだというのです。

 先行するのは約束なのであって、律法ではないというのです。つまり、一方的に神がわれわれを救うという約束が先にあるのだから、あとから出てきた律法がその約束を反故にすることはあり得ないということです。あとから来た律法がその無条件の救いを反故にして、いや、やはり立派に律法をまもらないと救わないぞというような変更はあり得ないと言うのです。それだったならば、神はその約束を嘘の約束にしてしまうことになるわけで、そんなことを神がなさることはないということであります。

 それでは律法はいったい何なのか、ということになるわけです。パウロはそれに対して一九節で、「律法は約束を与えられたあの子孫、つまりキリストのことですが、キリストが来られるときまで、違反を明らかにするためにつけ加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものだ」というのです。

 二○節では、「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのだ」というところは、わかりにくいところで、なんでも三百ぐらいの解釈があるということですが、まあ要するに、これはパウロの屁理屈です。いわば律法をけなすためのパウロ一流の屁理屈です。律法というのは、モーセという人間の仲介者を経て与えられたもので、それに比べれば約束はアブラハムに対しては、ただ神おひとりが直接与えたもので、価値が高いということであります。どうみてもこれはあまり説得的な議論ではないと思います。

 それよりも、もっと驚くことは、パウロの論理、パウロの律法理解は、一九節の後半にある言葉です。つまり律法は「違反を明らかにするために付け加えられたもので」というところであります。
 この箇所は、口語訳聖書では「律法はなんであるか。それは違反を促すために、あとから加えられたものであって」となっております。「違反を明らかにするために」と言うのと、「違反を促すために」というのでは、ずいぶん意味合いが違ってくると思います。

 律法は違反を明らかにするためだ、つまり何が悪いことであるか、何が善いことかを明らかにするために、律法が与えられたのだと言う意味になります。これならずいぶんおだやかな訳になります。それに対して、口語訳のように、「それは違反を促すために」となりますと、律法があるために、われわれは悪につっぱしっていくのだ、ということになるわけです。神様がわざわざそんなことをさせるために律法を与えたというのは、どうしても困るのです。それで新共同訳では、「律法は違反を明らかにさせるために与えられたものだ」と訳したわけです。これは原語ではどちらにも訳せるところであります。

 ガラテヤの信徒への手紙は、神学書ではないのです。今再び律法主義に陥ろうとしているガラテヤの信徒たちに対して、律法主義の危険を今パウロが身を挺して訴えようとしている生きた手紙です。ですから、パウロはここで冷静な立場でそもそも律法となはなにかなどと、学問的に論じようとしているのではないのです。

 パウロが今述べようとしていることは、自分にとって律法となんだったのか、今ただ神の恵みによって無条件に救われたという立場、、キリストの十字架の恵みによって救われたというその立場に立って考えて、自分にとって律法とは何か、論じようとしているわけです。

 つまり、パウロにとっては、律法に対しては恨み骨髄なのです。それは今から考えると、自分にとっての律法は自分をただ罪へと追いやるものでしかなかったということなのです。どういう罪かというと、律法は自分を誇らせ、自分を傲慢にさせ、そうしては他の人を見下げ、裁くためにしか作用しなかった、律法は自分を本当の意味で神に信頼させ、神によって救われる道を示してはもらえなかった、その立場から今律法をみているのであります。

 そしてパウロはさらに律法というのは、「わたしたちをキリスト・イエスのもとへ導く養育係となった」といっています。養育係などといいますと、なにかやさしいベビイシッターのことを考えるかもしれませんが、ここはそういう養育係ではないのです。ときとぎテレビなどにでてまいりますが、隠しカメラがベビイシッターが暴力で赤ちゃんを扱っている場面がとられていて、逮捕されたと言う報道がされておりますが、ここでいわれている養育がかりとは、そういう暴力的な養育係りのことであります。律法は暴力的な言葉でおどすようにしてしわれわれをしつけるのです。

 パウロは恵みによって救われた、ただそれを信じる信仰によって救われた、その時点に立って、かつてのユダヤ教徒としての自分、律法に熱心に励んだ自分のことを考えたときに、律法に対するうらみつらみがここに出ているのではないかと思います。ですから、パウロはここで律法とは何かという本質論を述べようとしているのではなく、自分にとって律法はどのような役割を果たしたかということを述べているのであります。

 わたし自身かつてキリスト教というものを非常に律法的なものとして理解していたときに、どんなに暗い青春時代を送らざるをえなかったかと思い出すのであります。わたしの場合には、律法はパウロのように自分を誇らせることは一度もありませんでしたが、しかし律法はいつもわたしを打ちのめし、大げさにいえば、絶望に追いやるだけだったのです。そんなことをしていたら地獄行きだと聖書は絶えずそのことしか教えていない書物だったのです。そのようにしか聖書を読めなかったのです。

今から考えると、律法は確かに、わたしを追い込んで、ただキリストの恵み、罪の赦しの福音によってしか救われる道がないことをわたしに導いてくれたのであります。律法的キリスト教はそのようにして、わたしをキリストに導く養育係になったのであります。

 そしてパウロは二六節から一転して、こう述べます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたはみな、キリストを着ているからです。あなたがたはもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」というのです。

 洗礼を受けて救われるということを、パウロはここで「キリストを着る」ということで表現しているのです。これは本当に味わい深い、いや大変慰め深い言葉ではないかと思います。つまり、もう中身は問題にされない。ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、男であろうが女であろうが、その中身はもう問題にされないということであります。教養があろうがなかろうが、もはや問題にされないということであります。これによって差別がなくなったということであります。

 鈴木正久がここのところで面白いことをいっております。「パウロはこのキリストとわたしたちの関係、信仰による関係を『着る』というたとえかたで言う。冬寒いときに、わたしたちは自分が大いに肥って鯨のように皮下脂肪を厚くしたり、熊のように毛むくじゃらになって、寒さを防ごうとはしないだろう。オーバーを着る。わたしたちがこの世の罪と死の寒空の中を歩いてゆくのは、キリストを外套のように着るのだ。キリストにある主の恵みを、自分は罪でやせほそっている身体であっても、そうであればこそ、キリストという外套を自分の上に着るのだ」といっております。

 またこうもいっています。「飛行機に乗れば、体重の差なんか問題ではない。わたしは体重が重いから空を飛べないと思うことはない。同じようにわたしは罪のしがらみの重荷がいりくんでまつわりついているから、とても神の子として祝福された生活はできないと考える理由はない。キリストは力強い神の恵みの飛行機です。このわたしを主のみ国へ、主の祝福のもとへ運んでゆく力をもっている。信仰とはこの飛行機にともかく乗り込むことだ。わたしの身体は重いの軽いのと、とにかく、『わたし』『わたし』とここで言っているのは滑稽だ」といっているのであります。

 もう中身は問題ではないというのです。キリストという恵みの衣服を醜い自分の身体にまとってしまうことなのです。いわばそういう醜い自分を隠してしまうことであるかもしれません。

 アダムとエバは、罪を犯したときに、自分達の裸を醜いと思うようになった。罪を犯す前は、彼らは自分たちが裸であってもちっとも恥ずかしいとは思わなかったのにです。しかし罪を犯したあとは、自分達の裸を、つまりあるがままの姿が恥ずかしいと思ったというのです。それで裸をイチジクの葉で被おうとするのであります。しかしわれわれの罪という醜さはイチジクの葉で被おいきれるものではないのです。
 そのときに主なる神は、皮の着物を造ってくださって、それを着せてくださったというのです。神の憐れみであります。
 その皮の着物が今キリストなのであります。

 われわれクリスチャンはみなキリストという着物をわれわれの醜いからだの上からすっぽりとかぶってしまっているのです。われわれはお互いにもう中身を詮索してはいけないのです。上にかぶっているキリストという着物を見ようとしなくてはならないと思うのです。

 わたしが前に牧会しておりました大洲教会でこういうことがありました。ある年に比較的若い婦人が婦人部の部長になりました。あまり信仰的には経験のないかたで、牧師としてわたしは少し不安ではありました。あるとき、わたしのところにひとりの人が告げ口をしました。あの人は自分は神様なんかどうでもいいとおもっているのだ、といっていましたよ、というのです。
 もちろんわたしはとてもいやな思いをしました。その告げ口をした人に対してであります。そして同時にその婦人部長さんに対してもです。

そのとき、わたしは牧師としてこう決断したのです。たとえ、その部長さんが友人同士の茶飲み話でそのようなことを口にしたとしても、少なくも教会の集まりのなかで、その人が自分は神様なんかどうでもいいというようなことを口にするのでないならば、わたしは牧師としてその人の信仰を重んじよう、たとえだまされたとしてもその人の信仰を重んじようと思ったのです。

 その人にとって信仰は建前かもしれない。そしてその人にとって本当は神様なんかどうでもいいのだということが、その人の本音かもしれない。しかしわたしはその人の建前を重んじようと思ったのです。

われわれは建前と本音というときに、本音のほうがその人の本質を現していると考えがちです。しかし、それは違うと思うのです。その人が必死になって自分のみにくさを隠そうとしている建前のほうが、その人の本当の姿ではないかと思うのです。必死になって自分の恥じを隠そうとしている、その人の建前をわれわれは見てあげなくてはならないと思うのです。

もちろん、自分の醜さ、自分の罪というものに全然気づかないで、ただ上辺だけを飾ろうとしている人にたいしては、その人の罪、その偽善性、その醜さをある時には暴き立てる必要もあると思います。

 主イエスは、しばしば上辺だけを飾ろうとする律法学者やファリサイ派の人々に対して、「お前達は偽善者だ、杯や皿の外側はきれいにするが内側は強欲と放縦で満ちている。ものの見えないファリサイ派の人々、まず杯の内側をきれいにせよ、そうすれば、外側もきれいになる」と痛烈にその偽善性を暴いておられるのです。
 自分の内部の醜さ、自分の罪に気づかないで、ただ外側だけをきれいにしようとする人、いわば建前だけで生きようとする人を痛烈に批判しているのであります。

 わたしが建前を大事にしてあげようというのは、自分の醜さという本音に気づいて、その醜さを必死に覆い隠そうとして闘っている人の建前を大切にして挙げようということなのです。
 アダムとエバが自分の醜さに気づいてイチジクの葉で覆うとするその健気な姿を見て、神様は皮の着物を作ってそれを覆ってあげたのです。イチジクの葉で覆ったって、醜いその人の本音はすぐ分かってしまうのです、しかし必死になってそれを隠そうとする姿はかわいらしいではないかということなのです。

 われわれがお化粧するということもそれと同じです。年をとってきて、しわやシミを隠そうしてお化粧をする、そういうことも大事なことではないかと思います。ある人は自分の成人した娘に対して、すっぴんで人前に出てはいけないと教育したそうです。それもひとつの礼儀というものかもしれません。お互いに自分の醜さを隠そうとする、その人の建前を大切にしていくのも、それは一つの愛という礼儀ではないかと思います。

 キリストを着るということはそういうことではないか。われわれは教会の交わりのなかで、その人の中身を暴きだしたりする必要はないのです。その人の着ているキリストという外套、必死になって自分の醜さを隠すために着ようとしているキリストという外套を、見なくてはならないと思うのです。

 そしてキリストを着るということは、何もクリスチャンという制服、みんなが同じ制服を着るということではないのです。衣服を着るということは、その人に合った衣服を着ることです。クリスチャンという同じ統一した制服を着なくてはならないといいだすと、それはまた律法主義になるのではないかと思います。

 キリストを着るということは、その人にあった、その人にふさわしいキリストという外套を着ればいいと思います。

 内気な人は内気な人のままで、その上にキリストという外套をかぶればいいのです。みんながみんなわたしはクリスチャンですと自分を堂々と証する必要もないと思います。内気なクリスチャンでもいいし、またある意味では、積極的な堂々と自分を主張するクリスチャンであってもいいのです。そういう指導性を発揮するクリスチャンがいなくては困るのです。それぞれ自分にあったキリストという衣服を着ればいいのです。個性的信仰、個性的な信仰生活の歩みかたを教会はもっともっと大事にしなくてはならないと思います。

 罪赦されるということは、この自分のわがままな自分の個性がそのまま神によって赦され、受け入れられるということであります。