「神から知られているのに」 ガラテヤ書四章八ー一一節

 神を知る、神様を知るということは、神様に知られている、ということであります。もう少し、丁寧にいいますと、神を知るということは、自分が神に知られていることを自分が知るということであります。神を知るということは、神に知られていることなのであります。

 ある人が、このことをこういう風にたとえております。それはちょうど、母親と小さい子供が手をつないで道路を歩いているようなものだ。子供は母親の手をしっかりと握って歩いている。しかし突然そこに車が来て、ひかれそうになったら、子供はびっくりして母親の手を離してしまう。しかしそのとき、母親は子供の手をしっかりと握りかえして、車から守ってあげるようなものだというのです。母親はなんでもないときには、ただ子供の手に軽くふれているだけなのです。子供のほうはしっかりと母親の手を握りしめている。母親のほうはただ軽くふれているだけなのです。しかしいざというときには、母親は子供の手をしっかりと握りかえして、子供の手を引っ張ってくれるのであります。

子供が母親の手をにぎるなんてことは、あやふやなものなのです。しかし母親が子供の手を握るというその握り方は確実なのであります。
子供はそういう母親の手を信じているからこそ、安心して母親の手にふれているのであります。自分のほうから母親の手を離しても、母親は絶対に自分の手を離すことはないと信じているのであります。
 
 神を知るということはそういうことなのであります。わたしが神を知るなんてことは知れたものであります。実に頼りないものであります。大事なことは、母親が子供の手をしっかりと握っているように、神様がわたしのすべてをしりつくして、そのうえでわれわれを守ってくださっている、そのことを知ることが神を知るということなのであります。

 今われわれはガラテヤの信徒の手紙を学んでおりますが、少し間があきましたが、今日は四章の八節からのところを学びたいのですが、そこでパウロはこういっているのであります。
 「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神ではない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は、神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力な頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようといてるのか」と、パウロはガラテヤの信徒へさとすように、語りかけるのであります。

 ここでパウロは、ガラテヤの信徒に対して、「あなたがたは神を知っているのに」といったあと、あわてて、それを言い換えて、「いや、神から知られているのに」といっているのであります。

 このガラテヤの信徒への手紙は、ガラテヤの信徒の人々が、一度キリストの恵みによって救われておりながら、そこから離れていく、そこから転落していくことをパウロが嘆いている、いや、激しく怒っている手紙であります。

 この手紙は、パウロは短く自分のことを紹介したあと、いきなり怒り出すのです。キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てている。ほかの福音といっても、もう一つの別の福音があるわけではない、そんなものを告げ知らせるものがあれば、呪われよ」と激しい言葉を投げつけるところから、この手紙は始まっているのであります。

 どのようにしていちど信じた福音から転落しようとしているのかといいますと、それは福音から律法主義に転落しようとしている、神の恵みに全面的に頼るという福音から、自分のわざとか、自分の行いに自分の信仰の確かさを置こうとする律法主義に転落しようとしていることであります。
 そして一番の問題は、そういうことをしながら、本人はひとつも福音から離れていこうとしているという自覚がないということなのです。自分達は真面目な信仰生活を自分はますます歩んでいこうとしているのだと思っているということなのです。

 この手紙の相手は、ユダヤ人ではなく、異邦人なのです。ですから彼らはクリスチャンになる前は、様々な偶像としか思えない神々を信じていたのです。それらを信じていたというよりは、その神々に振り回され、その神々の奴隷になっていたのであります。
 そして今や、キリストの福音を信じるようになって救われた。それなのに、どうしてその福音から離れようとするのか、というのです。福音から離れて、あの無力で頼りにならない支配する諸霊に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとするのか、というのです。

 ここは少し考えてみると不思議なことです。つまり、今パウロが問題にしているのは、彼らが福音から離れて律法主義に陥ろうとしているということなのです。具体的にいいますと、救われた異邦人も、ユダヤ人と同じように割礼を受けなくてはならない、ユダヤ人と同じように律法を守らなくてはならないと言い出していることなのです。今パウロは、彼らが福音から離れて律法主義に陥ることを嘆いているところなのです。

 それなのに、パウロはここで、律法主義のことをとりあげないで、かつて信じていた神々に対する信仰、偶像崇拝、無力で頼りにならない支配する諸霊のもとに逆戻りするのか、といっているのです。

 これはどういうことなのでしょうか。もう律法主義は問題ではなくなっているのか、と思いますと、四章の二一節から、再び「わたしに答えてくれ、律法の下にいたいと思っている人たち」と、やはり律法主義に転落することを憂えていることがわかります。

 つまり、パウロからすれば、律法主義に転落するということは、異邦人にとっては、再びあの無力で頼りにならない迷信とか偶像崇拝、そうしたもろもろの神々を信じる宗教に転落することと同じだということなのです。あるいは、律法主義に陥ったら、あの迷信に振り回される神々を信じるもとの状態にすぐ転落してしまうということなのだ、とパウロは考えているのです。

 ユダヤ人の律法主義と異邦人の偶像信仰とは紙一重だということなのです。たとえば、一○節で、パウロは「あなたがたはいろいろな日、月、時節、年などを守っている」と指摘しています。それはその前のところで、「無力で頼りにならない支配する諸霊のもとにいる」ということを別の言葉でいいかえたことであります。
 
 われわれ日本人にとって、すぐ思いつくのは、友引とか大安という日のことであります。友引の日には葬式はしないというのは、その日にすると、その葬式に参列する友達も一緒に冥土につれていってしまうという迷信があって、今でも火葬場は閉鎖されております。あるいは大安の日に結婚式をするとその結婚式は祝福されるとか、ということであります。それはつまりわれわれの人間の背後には、なにか得たいの知れない諸霊というものがわれわれを支配していて、悪さをする、脅かす、そういう思いからわれわれは離れられないのであります。普段はそんなものをまともに信じてはいないのですが、しかしわれわれの人生において何か重要なことを決めるときには、どうしてもそうしたものに囚われてしまうということであります。そうしたものをふっきれないということであります。

 パウロは異教の神々に対する迷信的な信仰も、律法主義もその根っこは同じだと考えているようなのであります。

ユダヤ人たちは、そうした迷信的な占いとかいわば諸霊を信じていなかったのです。そうした偶像的な宗教を厳しく退けていたのです。そういう意味では、偶像に振り回されるということはなかったのです。

 自分達には律法があると誇っていた。この律法さえ守っていれば、自分達は大丈夫だ思っていた。あるいは自分達にはエルサレム神殿がある、この神殿がある限り大丈夫と思いこんでいた。あるいは自分達はアブラハムの子孫で、選民で、特別に選ばれた民で、その血筋をうけついでいれば、大丈夫だとおもいこんでいた。そこから律法主義が生まれたのであります。

 それは「自分が」ということであります。自分が律法をまもっていれば、自分が真面目な生活をしていたら、自分が割礼を受けていれば、大丈夫だ、自分が神様を信じていたら、大丈夫だという信仰であります。

 ユダヤ人は、異邦人のように迷信とか諸霊にふりまわされてはいなかったかも知れない、しかしユダヤ人達は、諸霊の代わりに、自分が、自分が、という自分に振り回されているではないか、とパウロは言いたいのであります。迷信とか諸霊に振り回される代わりに、自分というものにふりまわされてしまっている、といいたいのであります。割礼をうけて、ユダヤ人の仲間入りをする、選民という血筋の仲間入りをする、そこに自分の救いの確かさを求めようとするということは、それはあの日や月を守る、そうした諸霊に振り回されることと同じことになるのであります。

 そうしたことはそもそもどこから、起こるのか、それは信仰というものを、ただ自分が神を知る、自分が神を信じる、ということだけに留まるからそうなるのだということであります。自分の知識、自分の信仰に救いの土台を据えようとするからであります。

 しかし、神を知るということは、ただ自分が神を知るということではなく、実はもっと大切なことは、自分が、このわたしが、神によって知られていることを自分が知ることなのだとパウロはいうのです。
 
 つまり、神を知るのということは、神に知られているということなのであります。そうでなければ、神を知ったことにはならないということなのです。

 「知る」と言う場合は、自分が知る、ということであります。自分が、ということが主体であります、自分がというところに重点がある場合には、とても頼りないものになるのではないかと思います。信仰の基礎を、信仰の土台を、自分がというところにおいたら、どんなに頼りない救いになるかということなのです。

 自分がという場合には、自分の意識とか、自分の自覚ということであります。それはとてもうつろいやすいものであります。今日神を信じていると思っても、次の日にはもう神を信じているかどうかわからないという自分を発見するのではないかと思うのです。それでわれわれは自分の意識とか自分の自覚だけではなく、やはり頼りないものですから、自分の行い、自分がどれだけ善行を積んでいるか、どれだけ律法を守っているか、あるいはどれだけの額を献金しているかという、そういう客観的な目に見えるもの、自分がしている実績というものに、救いの確かさをおこうとするのであります。それの象徴的な現れが割礼を受けるということだったのであります。割礼は一度受けたら、それは取り消すことができない肉体の徴、つまり、それは客観的な徴だから、ユダヤ人はそれを救いのよりどころにおこうとしたのであります。

 それはもう救いの確かさを神におくのではなく、神の恵み、神の赦しにおくのではなく、神以外のものに、おくことになる、それは結局は諸霊に、迷信に占いにおくことになるのと同じなのであります。

 われわれが神を知るなどというものは、知れたものであります。しかし大事なことは、われわれが神を知るということよりも、神のほうでわれわれのことを知ってくださっているのだということであります。このことを、われわれが知るということが救いの確かさであり、それが信仰の確かさであります。

 ペテロは主イエスのことを知っていたのです。ある時には、あなたと一緒に死にますとまで、大見得を切るほどに、ペテロはイエスをメシアだと知っていたつもりでした。しかしイエスがいざ捕らえられてしまいますと、たちまちそのイエスを裏切り、見捨ててしまうのであります。

 ペテロが三度目に、「そんな人のことなど知らない」と誓ったとき、鶏の声がした。彼はその時、「鶏が鳴く前、わたしを知らないというだろう」といわれたイエスの言葉を思いだしたのです。その言葉を思いだして、ペテロは外に出て激しく泣き出したのであります。

主イエスはもう既に自分の裏切りを見通しておられた、知っておられた、そのことをペテロは知ったのであります。自分はもう主イエスにすべてを知られている、そのことを知ったのであります。
 
 自分の卑怯さを人に知られるということは恐ろしいことであります。自分の罪を人に知られるということは恐いこです。しかし、今ペテロは自分の卑怯さが警察にしられたのではなく、検察官にしられたのではなく、主イエスに、神に知られていたことを知ったのであります。その主イエスは、ペテロの裏切りを知りながら、「お前の信仰がなくならないように祈っている。だからお前が立ち直ったときには、兄弟達を力づけてあげなさい」と言われているのです。

そういうイエスに自分のすべてが知られていた、そのことをペテロは知ったのであります。だから彼は外に出て激しく泣いたのです。ただ恐怖に襲われたのではないのです。激しく泣いたのであります。

 そしてペテロは復活の主イエスにお会いして、イエスからもう一度「わたしを愛するか」と問われるのであります。そのとき、ペテロは、イエスの「わたしを愛するか」という問いに対して、彼は「はい、愛します」とは答えていないのです。そうはいわないで、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるのです。ただ単純に「はい、わたしはあなたを愛します」とはもういえなくなっているのです。そしてさらに三度目にイエスから「わたしを愛するか」と問われたときに、ペテロは悲しくなってこういうのです。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と、答えるのです。


 「わたしがあなたを愛すること、それがどんなに頼りない愛であるかをあなたは知っておられる、そのうえでなおあなたはあなたのほうからわたしに来てくださって、もう一度「わたしを愛するか」と問い直してくださっている、あなたはわたしのすべて知ってくださっている。だからわたしはその自分の頼りない愛であっても、その愛でわたしはあなたを愛します、愛しています」とペテロは応えているのであります。
このときペテロは、ただ自分が神を知っていると思ったのではなく、神に知られている、そのことを知って、神を知り、神を愛したのであります。

 われわれが神を知っているということは、本当に頼りない知り方でしかないのです。ですから、われわれは神を知っている、信じているといいながら、それだけでは安心できないで、占いに頼ったり、日や月や時節や年などを守ることによって、友引とか大安とかから完全に抜け出せないでいるのではないかと思います。

 前の教会で、ある若い婦人がクリスチャンでありながら、子供の名前を字画がわるいと占い師にいわれて、変えましたと、牧師であるわたしに、なんの悪びれもなくいっていて、このときほどわたしは憤り、唖然としたことはありませんでした。

 われわれは、自分が、自分が、と自分を中心にして、信仰を維持しようとしたり、自分の生活を守ろうとしますと、いつのまにか迷信的なものに囚われてしまって、そうしたものの奴隷になってしまうのであります。現代人のわれわれはもう迷信にはとらわれないかもしれません、しかしわれわれはお金に、財産に自分の生活の安定を得ようとしていないか。そうしたらそれは、われわれが富の奴隷になってしまうということなのであります。

 そのことをパウロは「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度あらためて奴隷として仕えようといているのか」というのです。

 それはわれわれが、ただ神を知っている、というだけに留まって、本当はわれわれは神に知られているのだということに気がつかないからだ、というのです。

 神はわれわれの髪の毛一本一本までも数え尽くしておわれると主イエスはいわれるのです。われわれのすべての弱さを知り尽くしておられるというのです。そうした上で、多くの雀よりもまさったものとして、われわれを守ってくださっている、それならば、どうして迫害を恐れるのか、というのです。われわれの命を奪い取ろうとするものを恐れるのかというのです。今日のわれわれの状況から言えば、われわれの命を奪い取ろうとするガンをどうしてそんなにも恐れるのかとのいうことであります。

 もう自分で自分を守ろうとするな、われわれは神に知られていて、神に守ってもらっているのだから、もう自分を裸にしなさい、そしてキリストとという衣をわれわれの醜い弱い身体にすっぽりとかぶってしまいなさいというのであります。

 詩編の一三九篇はこう歌うのです。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまた一言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前から後ろからわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる」と歌うのであります。そうしてこう歌うのであります。「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない」というのです。

 このすべてのことを知っておられる神の前では、われが絶望してもう自殺してしまおう、もういっそのこと陰府に身を横たえようとしても,見よ、そこにあなたはおられます」というのです。「闇の中でも主はわたしを見ておられる」と歌うのです。このすべてのことを見通しておられる神の前では、自分の絶望なんかとるに足らないというのです。
 
 パウロはコリントの信徒の手紙の第一の八章に、「神を愛する人があれば、その人は神に知られているのです」といっているのであります。