「自由を得させるためにーその二」 ガラテヤ書五章一ー六節

パウロは、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」というのです。これはつまり、自由にされたのだから、自由になりなさいということであります。自由にされたのなら、なぜわざわざ自由になれ、といわなくてはならないのかということであります。これは不思議な言い方であります。

 わたしが自由ということを一番実感したのは、前にお話をしたことがあると思いますが、わたしがキリスト教を放棄した時でした。わたしはキリスト教主義の学校に中学からはいりましたので、その時からキリスト教を学んだのですが、わたしが誤解したのだと思いますけれど、そこで自分が受け取ったキリスト教は律法主義的なキリスト教でした。つまり、簡単にいえば、悪いことをしたら地獄に行くぞ、だから良いことをしないと救われないというキリスト教でした。

 わたしはそれをまともにうけとって、一生懸命に良いことをしようと努力しました。そうすればするほど、自分の内面の悪に目を向けさせられ、これでは自分は到底救われないということで、暗い暗い青春時代を送っていたのであります。それでも、もうそろそろ洗礼を受けないと、やはりいつまでも傍観者的にキリスト教をみていてもわからないのではないかと思い、大学の一年のときでしたか、洗礼を受けたのです。今でもその時のことを覚えているのですが、牧師の水に浸した手が自分の頭にのせられたときに、ああ、自分は神様を信じていないということでした。
 
 洗礼を受けてから、ますます本格的に自分は救われていない、これからも救われないという思いでした。それでわたしの信仰が律法主義だと批判してくれた牧師の教会にも通いだしたのですが、それでも律法主義的なキリスト教から解放されないで、とうとうある時に牧師ともケンカして、こんなにも熱心に求道してもキリスト教がわからないのだから、もうキリスト教と縁を切ろうと決心して、ある時から教会にいくのをやめたのです。それまで毎日習慣的に読んでいた聖書も読まない、祈ることもやめたのです。キリスト教からいっさい離れたのです。
 
 この時くらい解放された、自由を感じたことはありませんでした。変な表現てずが、これで自分は自由気ままにどんな悪いことでもできるんだとうれしくなったのです。一切の禁欲主義的な生き方から解放されたのです。こんなにうれしかったときはそれまで味わったことはなかったのです。

 わたしは確かに自由になったのです。しかしわたしはそのとき自由に行動できたかといえば、できなかったのです。確かに律法からは、律法主義からは解放されて自由になった、しかし実際に自由に行動できたか、悪いことをすることができたかといえば、できなかったのです。第一、遊べるお金がなかったということもありました。
 しかし何よりも、その時にわたしが直面したことは、自分の弱さということでした。今まではまがりなりにも、キリスト教という支えがあった、まがりなりにも、神様がどこかでまもってくださるのではないかという思いがあった。それを自分のほうからすべてとっぱらってしまったのです。

これからはともかく自分一人で、生きていかなくてはならなかったのです。その時に直面したのがなにものにも守ってもらえない裸の自分、もうなによものにも頼らないで生きて行かなくてはならないという自分の弱さそのものでした。

 先日の説教で、自由とは主体的であるという鈴木正久の言葉を紹介しましたが、主体的とは要するに、自分の決断と自分の意志で動くということであります。しかしその肝心の「自分」というものが自分で決断し、自分で意志し、自分で動き回れる強いものをもっていなければ、自由だ、自由だといっても、結局はなにもできない、すこしも自由ではないということであります。

 わたしはキリスト教から解放されても、そして一時はわたしが誤解したキリスト教の律法主義から解放されたとしても、一時は自由を謳歌しても、それは空元気でしかなかったということであります。

 わたしが自由になったのは、自分が捨てた神様から、今度は神様の方から捕らえられて、再び神に自分は支えられ、赦され、肯定されているという信仰をあたえられてからであります。それはちょうど子供が親の愛を一杯に受けているという自覚があるときに、子供は伸び伸びと自由に動き回れるということと同じであります。
 
自分がキリスト教を捨てて自由になったと思ったときは、それをみんなに知らせたくて、自由だ自由だ、もうどんな悪いことだってできるんだぞと宣伝したくなるほどの気持の高揚を覚えましたが、神によって守られているということから与えられた自由をあじわったときには、そんな高揚した気持ちではなく、静かな自由を味わったのであります。

自分の力で勝ち取った自由は、いつも自分の力を保持しつつげなくてはならないという緊張感のなかで生きなくてはならないわけで、自分が自分がと自分を主張しつづけなくてはならないわけで、大変な事だと思います。自分で勝ち取った自由は、結局は自分の自我に振り回され、自分の我が儘さにふりまわされ、自分の欲望にふりまわされ、自分というものの奴隷になってしまうのではないか。結局は自由を失ってしまうのではないか。

 パウロは、与えられた自由、キリストによって与えられた自由は、いつもこの「与えられた」という自覚をもって、自分が勝ち取ったのではないという自覚をもって生きなくてはならないということであります。それはつまり、再び、あの「自分が、自分が」という自我という奴隷の頸城につながらせてはいけないというのです。この自由はキリストによって、キリストの恵みによって与えられたのだという自覚と信仰をもっていないと、われわれは再び自分というものの奴隷になってしまうということであります。
 
 奴隷の頸城とは何か、何がわれわれを奴隷にするのか。ここでの問題はいうまでもなく、律法であります、というよりは、律法によって救いを確保しようとする律法主義的な生き方であります。律法主義の中心は、自分が、ということであります。

 自由とは、主体的に生きることだといっても、その言葉のかっこよさに災いされて、その主体性はともすれば、神をのけものにした主体性になりかねないのです。ですから、あまり主体性などという言葉は使わないほうがいいかもしれません。

 主体的に生きるわけですが、その場合いつも聖霊の導きを信じて、聖霊の助けに支えられながら、聖霊という言葉がわかりにくければ、神の導きということです。神の導きと神の助けを信じながら、自分の足で、自分の判断で、自分が選択していきていくわけです。
自分で判断し、自分が選択するわけですから、それは誤った選択をするときもいくらでもあると思います。それによって転ぶし、躓くし、痛みが伴います。

 しかし、その時にまた立ち上がればいいのです。神は立ち上がらせてくださるという信仰をもって生きるのです。その信仰をもって転ぶのです。転ぶのがいやだといって、ベットで寝たきりの生活をすれば、われわれは一生歩けなくなります。

 自分の足で歩くのです。しかしその自分をいつも絶対化しない、自分の考え、自分の意見、自分の個性を絶対化して、人に押しつけないということであります。

 パウロはコリントの手紙のなかでこういっているのです。「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。わたしにはすべてのことが許されている。しかしわたしは何事にも支配されはしない」というのです。「わたしは何事にも支配されはしない」ということは、つまり「すべては許されている」という自由であります、だからなんでも出来るんだ、なんでもしていいのだ、という生き方をしていれば、それは結局は自分の我が儘さ、自分の自分勝手な欲望にふりまされ、それは決して益になるわけではないということであります。
 
 そういう自分の我が儘さにも支配されないためにも、神によって与えられた自由をしっかりと自分のものにして、二度となにものにも支配されない、奴隷にならないという決意と行動が必要なのであります。

さらにパウロはこういいます。「ここでわたしパウロは断言する。もし割礼を受けるならば、あなたがたにとって、キリストは何の役にもたたない。割礼を受けるすべての人にいう。そういう人は律法全体を行う義務がある。律法によって義とされようするなら、あなたがたは誰であろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失う」といいます。

 当時のユダヤ人にとって、割礼を受けるということが自分たちが神によって選ばれていることの誇りだったようです。割礼を受けるということは、律法を守るということの最大の象徴のようでありました。だからキリストの恵みによって救われるということを、割礼を受けることによって、完成させようとしたり、それに保険をかけておこうなどというさもしいことを考える人は、律法全体を守る義務があるというのです。

 ルカによる福音書の一九章に徴税人ザアカイの話しがあります。みんなから罪人扱いされ、嫌われていた徴税人ザアカイがイエスから声をかけられ、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」といわれて、これを見た周りの人々は「イエスは罪深い男の家にはいって、宿をとった」と悪口をいうのですが、ザアカイはとても感激して、イエスにこう誓うのです。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かだましとっていたら、それを四倍にして返します」という。するとイエスは「今日救いがこの家に来た」といわれたのです。

 ここでザアカイは、イエスから声をかけられ、イエスみずから自分の家にきてくれたことを感激して、自分の財産の半分を貧しい人々に施すというのです。自分の財産の全部ではないのです、半分なのです。

 ここが面白いところです。といいますのは、すぐその前の記事では、ある金持ちがイエスのところに来て、「救われるためには何をしたらいいですか」と聞きにくるのです。それに対してイエスは律法があるだろうと、いって「姦淫するな、殺すな、盗むな」とあるではないかといいます。すると彼は「それらのことは子供の時からみな守ってきました」と、答えるのです。するとイエスは「お前に欠けているものが一つある。もっているものをすべて売り払って、貧しい人々に施しなさい」というのです。「そうしたら救われる」といわれのです。

 イエスはこの男に対しては、自分のもっているすべての財産を投げ出せ、そうして貧しい人々に施せ、そうしないと救われないぞ、といわれたのです。
 それなのに、イエスはここではザアカイに対しては、ザアカイが「自分の財産の半分を投げ出す」と言ったときに、「いや、半分ではだめだ、全部投げ出せ」とはいわないで、「救いがこの家に来た」といわれたのです。

 これはどういうことでしょうか。つまり、金持ちは「何をしたら救われますか」とイエスに尋ねた。それはどんな行いを自分がしたら救われるかということ、つまり、どんな律法を守ったら救われるかということです。それに対してイエスが言おうとしたことは、救いというのは、自分の行いとか、自分のわざとか、どれだけ律法を守ったから救われるとか、そんなところに救いを見いださそうとすること自体が間違いなのだ、そういう方向で救いを勝ち取ろうとすることが間違いなのだ、救いというのは、そんなものではないというのです。もしそういう方向で救いを勝ち取ろうとするのならば、パウロがいうように律法を全部まもらなくてはならないということであります。

 人々が「全財産を投げ出さなければ救われない」というイエスの言葉を聞いて弟子達は「そんなことは到底できることではない。それをしないと救われないというのでしたら、いったい誰が救われますか」とイエスにいったのです。その時に、イエスは「人にはできないが、神にはおできになる、神にできないことはひとつもない」といわれるのです。

 つまり、救いというのは、人間にはできないことも、神にはできる、神様にはできないことはひとつもないということを信じることだ、自分の行いで、自分のわざで救いを勝ち取ろうなどというさもしい考えをするなということであります。

 ですから、もしこの金持ちがイエスから聞いて、自分の全財産を投げ出して貧しい人々に施したとしても、イエスは「お前にはまだ欠けていることが一つある」といわれたのではないか。なぜなら、この金持ちは自分は全財産を投げ出して、貧しい人々に施したということを盾にして、それを誇りにして生きようとするからであります。それに頼って救いを勝ち取ったと考えるからであります。イエスは
その金持ちに対して「そういう自分を捨てなさい、最後には自分を捨てなくては駄目だ」といわれるのではないかと思います。

 それに対して、ザアカイは自分の行いで救いを勝ち取ろうとしたのではないのです。ただただ、イエスから声をかけられ、「今日是非ともお前の家に泊まりたい」といわれて、誰も自分のことを認めてくれないのに、イエスだけは、自分を人間として認めてくれた、自分を受け入れてくれた、その喜びの余り「自分の財産を半分」といったのです。

 救われるために、そんなことを言ったのではないのです。救われた喜びのあまり、そういったのです。イエスはこのザアカイの誓いを聞いて「今日お前の家に泊まろう」といったのではないのです。その言葉を聞く前に、イエスのほうから「今日お前の家に泊まる」と言ったのです。

 この違いであります。イエスから「全財産を投げさせ」といわれて、それができないで、悲しみながらイエスのもとを去っていった金持ち、一方はただイエスの方から声をかけられて喜ぶザアカイ、一方は悲しみ、一方は喜んでいる、これはまさに律法主義的に救いを勝ち取ろうとする人間の悲しみをあらわし、ただただ神の恵みのみによって救われた人間の喜びをあらわしているのではないか。

 ガラテヤ書のほうにもどりますと、パウロは五章の五節で「わたしたちは義とされる者の希望が実現される事を、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいる」というのです。本当ならば、「義とされた」ことを喜んでいます、といってもよさそうなところであります。しかし、パウロはここではそうはいっていない。義とされるということを何か既成の事実のように、なにかの既得権があるかのようには言わないのです。
「義とされる者の希望が実現されることを」といい、「待ち望んでいる」というのです。ここに神の恵みによって救われるということの不思議さが示されてると思います。

 救いを神の恵みを、既得権を得たように、自分のポケットにしまい込んでしまわないということであります。いつも上から与えられるものとして、希望として待ち望むという姿勢を崩さないのです。

 パウロは「この希望によって救われるている」というのです。しかもパウロは「霊により」というのです。自分の力とか、自分の信仰の確信とか、そんなものではないのです。「霊により」、つまり「神の力を受けて」ということです。それが「信仰に基づいて切に待ち望む」という言葉につながっていくのであります。ここにも律法主義的な救いとの違いが示されております。

 最後にパウロはこういいます。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」といいます。新共同訳では「愛の実践の伴う信仰」と、訳しておりますが、口語訳では「尊いのは、愛によって働く信仰」となっています。

 ここは原文では、まず「信仰」という言葉があって、そのあとに「愛を通して働く」という説明文がついております。ですから、この「愛」というのを「神の愛」という意味に解釈する人もおります。つまり、信仰、それは神の愛によって働く信仰こそが大切だというように読もうとするのであります。

 ともかく「愛の実践を伴う信仰」という新共同訳の訳し方は何か、信仰が愛の行いと同じになってしまって、愛の実践の伴わない信仰では、本当の信仰ではないということになってしまって、信仰までもひとつのわざ、人間の行いになってしまって誤解を招く訳し方であります。
 新共同訳は、カトリックとの共同の訳なので、ここはどうもカトリック的な主張が通ったところだといわれております。
信仰ということを、愛の実践ということで限定してはいけないと思います。

 ここはまず「信仰」が第一なのであります。そしてその信仰は愛を生み出す信仰なのだということであります。なぜなら、信仰というのは、なによりも自分という自我から解放されることだからであります。

 それはザアカイのことを考えてみればわかることです。自分は一方的に神の赦しを受け、神の恵みによって救われた、そのように救いを受け取る人は、自分から解放される。自分が後生大事にしていたものを手放すことができる。自分の財産にしがみつくことから解放され、そして他者にも目を向けることができるようになる、それが愛であります。愛を生み出さないような信仰は、信仰ではないのです。

 自由だ、自由だといっても、その自分の与えられた自由にしがみつくのではなく、いつでも、他者のために進んで、自分の自由を放棄できるほどに自由でなければ、本当に自由になったとはいえないのであります。