「十字架のつまずき」 ガラテヤ書五章七ー一五節

今日は七節から学びますが、「あなたかだは、よく走ってきたのに、いったい誰が邪魔をして真理に従わないようにさせたのか」と、始まります。これはパウロがガラテヤ教会の人々に割礼を強いる人々を非難しているところであります。まだまだユダヤ教的なものを引きずって、福音を信じ、福音だけを信じる人々を惑わそうとしている人々を非難しだします。 今までは、そのようにして惑わされたガラテヤの信徒に対して語ってきたのに対して、今度はガラテヤの信徒たちを惑わすユダヤ人を真っ向から非難しだすのであります。

 「あなたがたを惑わす者は、だれであろうと裁きを受ける」と、恐ろしいことをいうのです。一二節では、パウロはもっとえげつないことまでいいます。「あなたがたをかき乱す者は、いっそのこと自ら去勢してしまえ」とまでいうのです。ここは原文をみますと、性器を切り取ってしまえと書かれております。日本語の聖書は、さすがにそのまま訳することができないで、上品に訳しております。割礼というのは、男性の性器の包皮に傷をつけることなので、いっそのこと、その性器そのものを切り取ってしまえ、ということであります。パウロがいかに頭にきているかということであります。

 その前の一一節のところで、パウロはこう言っています。「兄弟たち、このわたしが、今なお迫害を受けているのはなぜか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」というのです。

 パウロは自分の先輩ともいうべきエルサレム教会のお偉方に対して、割礼は必要ない、割礼の有無は問題ではない、大切なのは、ただ神の恵みだけを信じる信仰だと言ってきて、今さまざな迫害を受けてきたのです。その迫害はもちろんユダヤ教を信じるユダヤ人からの迫害でもありますし、またその影響を引きずっているユダヤ教的キリスト者からの迫害でもあります。

 そしてもしここで、割礼を認め、やはり救われたあとは、割礼を受けなくてはならない、律法的なもので福音を補完させ、完成させなくてはならない、ということをいっていたら、十字架のつまずきはないだろうというのです。

 つまり、十字架はつまずきだとパウロはいうのです。福音を信じるということは、十字架でつまずくことなのだというのです。福音を信じるということは、十字架を信じるということなのです。しかし、その十字架を信じるということは、そうやすやすと気分よく信じられるものではないということなのです。十字架を信じることは、自分自身が非常に傷つくことなのです。だからそれは受け入れ難いことなのです、信じたくないものなのです、それはわれわれをつまずかせることなのです。

 パウロはコリントの手紙では、「十字架の言葉は、信じようとしないものには、愚かに見えるものだ」といいます。なぜかというと、それは神の子であるイエス・キリストが、無力にも十字架で人の手によって殺されてしまうということだからであります。神の子がそんな屈辱にあう、それが救いに導くことなのであります。それを信じることですから、これは人には愚かに見えるわけです。

 しかし神はこの世の知恵を愚かにさせるためにそうなさったのだというのです。世は自分の知恵で神を知ることはできないというのです。そしてそれは神の知恵にかなっている、神は宣教という愚かさによって信じる者を救おうとなさったのだというのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める、しかし自分は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かにみえるかも知れない、しかし自分はこの愚かに見え、人を躓かせる十字架を宣べ伝えるというのです。

 福音といいもの、十字架はユダヤ人にはつまずきだというのです。

 十字架を宣べ伝える福音の宣教というのは、もうそのなかにはじめから人をつまずせる要素をもっているというのです。ですから、福音を宣べ伝えるためには、そうやすやすと大衆伝道などできないということです。だれでもがすぐ飛びつくような仕方で、キリスト教を宣べ伝えることはできないというのです。

 パウロはローマの信徒の手紙では、なぜイスラエル人、つまりユダヤ人は、福音を信じられないか、という問題をとりあげているところで、彼らは、信仰によって救いを得ようとしたのではなく、自分たちの行いによって救いを得ようとしたからだと論じ、そのして彼らはつまずきの石につまずいたのだと書いております。

 十字架はそれを信じようとする者にとって、なぜつまずきなのでしょうか。それは十字架を信じるということは、われわれから徹底的に自分の誇りというものを取り去るからであります。

 パウロがこの十字架の福音を語るときに、つまりわれわれが救われるのは自分の業ではない、自分の立派な行いによるのではない、ただキリストの恵みを信じる信仰によるのだと語るるときに、パウロがいつも問題にするのは、人間の誇りということでした。

 たとえば、そのことを論じているローマの信徒への手紙の三章のところで、われは自分の行いによっては救われない、ただ一方的に示されたキリストの贖いの恵みを信じる信仰によって救われるのだと論じたあと、いきなり、「では、人の誇りはどこにあるのか」と問うのです。それまでパウロは「誇り」という言葉はひとつも使っていないのです、それまでは誇りなどということは全然問題にしていないのです。

 しかし、ここでいきなり、「では、人の誇りはどこにあるのか」と言いだすのです、そしてすぐ「それは取り除かれました」といい、どんな法則によって、人間の誇りは取り除かれたのかというと、それは「行いの法則によってではなく、信仰の法則によってだ。われわれが義とされるのは律法の行いによるものではなく、信仰によるのだ」と展開していくのであります。

 それは、さきほど引用しましたコリントの信徒への手紙で、十字架は人をつまずかせるものだというところも、その結びの言葉は、「神は知恵のある者には恥じをかかせるため、世の無学な者を選び、また、地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げている者を選ばれたのである。それは誰一人、神の前で誇ることがないようにするためだ」というのです。そしてその結びの言葉は、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるではないかといって、結ぶのであります。

 十字架がつまずきであるというひとつの理由は、十字架はわれわれからいっさいの誇りを取り去ってしまうからであります。われわれは誇りという者を取り去られるということは耐えられないのです。だから十字架を信じたくないのです。

 われわれは誇りというものがないと生きていけないのです。誇りを失った人間くらいつきあいずらい人はいないと思います。自尊心を失った人間は、およそ向上心もないでしょうし、努力もしないでしょうし、道徳心も失っている人が多いのではないでしょうか。

 「武士は食わねど高楊枝」ということわざがありますが、武士は食べるものがなくて飢えていても、食べたふりをして楊枝をくわえているという意味だと思いますが、それは武士の誇りの高さをやゆっているというか、あるいは評価している言葉であります。われわれ日本人は多少そうした武士気質というものがあって、日本人の質を高めているという面があると思います。

 しかしまた誇り高い人ほどつきあいづらい人はいないと思います。自己主張がやたらに激しすぎるからであります。自尊心のやたら強い人は、すぐ人を裁きたがるのであります。そしてまた少し批判されますと、すぐひねくれたりして、逆襲してくるのであります。

 誇りくらいやっかいなものはないかもしれません。それは無くては困るし、ありすぎても困るのであります。

パウロという人は、ユダヤ教徒として生きていたときには、誇り高い人だったと思います。ですから、神の子であるといいながら、救い主であるといいながら、十字架でみじめに殺されていくようなイエスをとうてい救い主だとは信じることができなかったと思います。そうして自分の信じる道をつっぱしっていって、自分とは違うクリスチャンを裁いていったのであります。

 そういう誇り高きパウロがキリストに出会って、徹底的にその誇りがうちのめされたのであります。使徒言行録によれば、パウロはキリストに出会ったときに、目が見えなくなったというのです。そしてアナニヤという人に導かれて目があけられたというのです。

このときパウロは、神の前で、自分の傲慢な誇りが打ち砕かれて、どんなにか謙遜にさせられたかわからないと思います。またそれだけではなく、彼はアナニヤという一人の人間の世話を受けて、目が開かれたのです。彼はただ神の前だけでもなく、人の前でも謙遜にさせられたのであります。

 わたしはよく自分の教会にいた神学生に口をすっぱくしていったことは、神の前で謙遜になるということは、具体的に人の前でも謙遜になれなくてならない、牧師は教会員の前でも本当に謙遜にならなくてはならないといってきたのであります。

 わたしは自分が牧会をしてきて、自分で作った言葉のなかで気に入っている言葉があるのですが、それは「自分ひとりが謙遜になれたら、なにもかもうまくいく、しかし自分ひとりが謙遜になれなかったから、なにもかもうまくいかない」という言葉であります。これは自分の牧会の経験の中で自戒をこめた実感なのです。

 パウロはわれわれが十字架によって救われるということは、徹底的に自分から誇りが取り去られることだというのです。「では人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」ということであります。口語訳では、「どこにわたしたちの誇りはあるか。全くない」と訳されております。

 誇りによって生きている人間、誇り高い人は、十字架による救いに躓いてしまうのであります。ここに躓かないと救われないのです。

 それではわれわれクリスチャンは一切の誇りを失って、自尊心を失い、ふぬけのような人間として生きるということなのでしょうか。パウロはそうではないというのです。「誇る者は主を誇れ」というのです。われわれは自分を誇っていくことに生き甲斐を見いだすのではなく、わたしのために命を捨ててまでして愛してくれた主イエス・キリストを誇って生きていくです。「誇る者は主を誇れ」であります。

 そしてパウロは、淫らな生活をして、自堕落な生活をして、自分に対する誇りというものを失っている若者に対してこういうのです。「あなたがたの体は神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがはもはや自分自身のものではない。あなたがたは代価を払って買い取られたのだ」と言って、自分に対して威厳をもて、自尊心をもてというのです。

 よく聞くことですが、自殺をしようとして思いとどまる人は、自分を愛してくれた親のことを思いだして、自殺を思いとどまるこがあると聞きます。

 こんな自分でも自分のために命を投げ出して、愛しておられるかたがいる、そのことを知ってわれわれは自分を大事にし、自分を誇れるようになるのであります。

 十字架はつまずきであるということは、自分を誇ることができなくなるということであります。それはわれわれにとってはとても厳しいことなのであります。それは言葉を換えていえば、十字架は自分を否定するところから始まるということであります。十字架の救いにあずかるためには、自分が自分が、と自分を主張する、そういう自分を否定させられるということだからであります。

 われわれにとって自分を否定させられる、否定するということはつらいことです。それは容易にできることではないと思うのです。しかし福音を信じるためには、どうしても自分を否定しないといけないのです。

 しかし、自分を否定するということは本当に難しいことだと思います。第一自分を否定するなんてことは、自分自身でできるかということです。自分を自分で否定する究極の姿は、自殺するということだと思います。われわれはそんなことは到底できないのです。

 第一、自殺するということは、本人は自分は自分で自分を殺すことができるのだと思ってそうするのかもしれませんが、しかし、主イエスはどんな人の生死も神の許しがなければできないことだといっているのです。どんな小さな名もない雀の一羽ですら、父なる神の許しがなければ地に落ちることはない、つまり死ぬことはないといっているのですから、どんな人の死にも神の許しがなければあり得ないということであります。
 ですから自殺に失敗する人はいくらでもいるわけであります。自殺ですら、神の許しがなければできないことなのです。

 つまり、自分で自分を否定するということは、本当はわれわれ人間にとって不可能だということです。自分を超えたかたによって否定してもらう以外に、われわれは自分を否定することはできないということです。自殺してしまった人の背後には、その本人は知らないかもしれませんが、神の許しがあったということであります。お前はそんなに苦しいのか、そんなに死にたいのか、それならば、死なせてあげようという神の許しがなければ、自殺もできなかったということであります。

 わたしの若い時によく聞かされたことは、十字架とは自我を殺すことだといわれたものであります。十字架とは自分を否定することだといわれものであります。そのように言われて、わたしは一生懸命、自分で自分を否定しようと致しました。しかし自分で自分を否定するということは、もともとできないことをすることですから、それをしようとする人は、必ず、過剰な姿で自分を否定しようとするのではないかと思うのです。

 ヨハネによる福音書にこういう言葉があります。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で、自分を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」というのです。

 つまり平たくいえば、自分を憎まなければ、救われないということであります。自分を憎むということは、自分を否定することです。この言葉をそのまま真面目にうけとめて、一生懸命われわれが自分を憎んでいったらどうなるでしょうか。真剣に自分を否定していったらどうなるでしょうか。
 そういう人が自分のまわりにいたらどうでしょうか。おそらくそういう人はいつもいつも暗い顔して、今にも自殺でもするのでなはいかと周囲を心配させるのではないかと思うのです。

 つまり、われわれが自分で自分を憎むとか、自分で自分を否定しようとするときには、もともと自分ではできないことをしようとすることで、いつも不自然になことになると思うのです。いわばいつも極端に病的に、過剰に自分を否定しようとすることになるのではないかと思うのです。

 われわれは自分で自分を正しく否定するなんてことはできないことなのです。大事なことは、自分で自分を否定することではないのです。他のだれかによって、自分を超えたかたによって自分を否定して貰うことです。

 パウロはある箇所で、「わたしは自分で自分を裁かない。わたしを裁くかたは主である。だから先走りして自分で自分を裁いてはいけない」といっているところがあります。クリスチャンはあまりにも自分で自分を裁きすぎていないでしょうか。先走りして裁いていないでしょうか。

 福音を信じるということは、もう自分で自分を救うことはできない、もう自分で自分を否定できない、もう自分で自分の罪を処理できません、どうかこの自分を助けてください、あなたがこのわたしの罪を解決してくださいと、神にこの自分の惨めさを自分の罪を解決してくださいと、神に委ねることであります。

 そのようにして、ただ神の恵みだけを信じて救われておりながら、それだけではだめだ、割礼を受けなくてはならない、律法的なわざで、われわれの善行を積んで、この救いを補完しなくてはならない、完成させなくてはならないと言い出すと、またそこに自分が、自分が、という、自己中心性が顔を出してくるのであります。割礼を受けないと救いは完成しないといいだすのは、神の一方的な恵みの業を信じ切っていないということなのです。

 自分を否定するということは、自分で自分を否定することではなくて、いわばわれわれが幼子のようになることであります。主イエスは、幼子のようにならなければ、天国にはいけないといわれたのです。

 幼子は自分で自分を否定しようなどとはみじんも思いません。しかし幼子はもう本能的に、つまり本質的に、自分の力をなにひとつ主張しないで、自分の力を信じないで、母親に全てを委ねきって、すやすやと寝ているのです。親を信頼するという形において、自分を否定しているのです。自分を否定しいると言う言い方が奇異に聞こえるならば、少なくも自己を主張していないということであります。
 だからイエスは、幼子のようにならなければ、天国に入れないといわれたのです。それが自分を憎まなければ救われないということなのです。

 そして神様によって自分が否定されるということは、神によってわれわれがが赦され、生かされるということであります。神様はわれわれを否定しっぱなしにしないで、われわれを生かしてくださるという方向で、われわれを否定してくださるのであります。

 われわれは自分で自分を否定しようとするときには、過剰に病的に自分を否定する方向に走ってしまいます。しかし、神様がわれわれを否定するときには、あくまで、われわれを生かすために、われわれを否定してくださるのです。そのままではだめだ、こういう生き方をしなさいと否定してくださるのです。

 われわれはそのようにして、自己から解放され、自己中心性から解き放たれて、自由にされたのです。その自由さのなかで、新しく生きる道を与えられたのです。

 パウロは、一三節で、「あなたがたは自由を得るために召し出されたのだ」というのです。そしてこうして与えられた自由こそ、われわれは人を愛することへと向かわせるのだというのです。なぜなら、もうわれわれは自己中心性から解放されたからであります。

 あの病的に、過剰に、一生懸命自分で自分を否定することに躍起になっている人からは、愛は生まれないと思います。そんなに暗い人から愛を受けるなんてことはできないと思うのです。

 神によって自分が赦され、神によって自分が愛されている、そのような自分をあらためて、自分でも自分を受け入れ、自分でもこのどうしようもない自分を慈しみ、愛することができるようになった時に、われわれはあの病的な自己中心性から解放されて、隣人もまた愛することができるようになるということであります。自分を自分で受け入れ、自分を正しく愛することの出来ない人は、人を正しく愛することもできないのであります。