「自由と愛」 ガラテヤ書五章一三ー一五節

 「兄弟たち、あなたがたは自由を得るために召しだされたのです」とあります。「召し出された」というのは、「救われた」ということです。われわれが救われたのは自由を得るためだというのです。このところで竹森満佐一がこういっております。
 
 「われわれは救われて、今は自由になった。何でもしたいことができるのであると考えているだろうか。救われたことがそのように全く自由で、好き勝手なこともできるとは思ってもみないのではないか。救われたからといって、自分の好きな生活をしていいわけではない。ただ、ここに言われているように、そんな自由な気持になれたかどうかということである。救われたのだから、今よりはよい生活をしようと考えることは正しいことだろう。しかし、それが悪いことをする生活の動機にもなれるか、というような自由さを味わっているか、ということである」というのであります。

 自由ということは、悪いことでもできる自由があるということであります。なんでもできるということであります。すべてのことが許されているということであります。そういう自由をわれわれは与えられたのだということであります。そういう自由を得るために、われわれは召し出され、救われたのだというのです。
そういう自由をわれわれは味わっているだろうかというのです。

 われわれはそれほどに自由というものを切実に求めているかどうかであります。もっと幸福になりたいとか、もっと人格的に立派になりたいとか、強くなりたいとかは思うかもしれませんが、それほどに自由というものを切実に求めているかどうがであります。救われるということが、自分が自由を与えられ事だと考えているか、救われるとは自由になることだと考えているかどうかであります。

 普通、宗教について考えられていることは、宗教を信じると自由が束縛されることなのではないかと思われているのではないかと思います。だからそんな息ぐるしいものには入りたくないと考えるのではないか。自由を求めるために、宗教を求める人は恐らくいないと思うのです。

 しかしパウロはここで、自由を得るためにわれわれは救われたのだというのです。いわば自由を得るために宗教を求めたのだということであります。そしてキリストはこの自由を与えてくれるために、われわれを解放してくれたのだというのです。これは考えみれば、不思議なこと、ある意味では驚くべきことではないかと思います。「自由を得るためにわれわれは召されたのだ」とパウロはいうのです。

 パウロがここでさらにこの自由についてこういうのです。「この自由を肉に罪を犯させる機会とせずに」というのです。ここは口語訳では「肉の働く機会とせずに」となっておりますが、こちらのほうが原文に忠実な訳です、原文には、「罪を犯させる」という言葉はないのです。、それはともかく、この自由、キリストによって与えられた自由は、罪を犯すこともできる自由なのだということを前提としているということです。それほどに自由である、どんな悪いことでもできることが許されている自由なのだということです。だけれども、それを肉の働く機会、罪を犯させる機会にさせるな、それを自分の自由意志でそうしなさいといっているのです。

 なぜパウロはわざわざそんなことを言うのか。それはキリストによって与えられた自由を失わせないためであります。その自由を肉の働く機会に放置してしまうと、そのせっかくキリストから与えられた自由を失ってしまうからであります。なぜなら、われわれは肉に罪を犯させる機会に自分を委ねたら、たちまちわれわれは罪の奴隷になってしまって自由を失ってしまうからであります。

 「肉に罪を犯させる機会にするな」という訳は、ある意味で、意訳なのですが、大変示唆にとんだ意訳であります。つまりわれわれは放っておいたら、たちまちずるずると肉に罪を犯させてしまう機会に自分を追い込んでしまうからであります。

パウロは一九節から「肉の働きは明かです」といって、それは「姦淫、わいせつ、好色、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔」と列挙していきます。そして霊の結びの実は「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」とあげていきます。

 このところで、鈴木正久が面白いことをいっております。
 一九節から二一節にあげられている、「好色」から始まって「泥酔」のすべては、はっきりと決心して行うというようなものではない。祈りをもって決心して好色になるとか、人をそねむことにするとかということはない。反対にこれらの「肉の働き」は、畑の雑草のように、わたしたちの心が油断しているとき、不決断であるとき、芽を出し、生い茂ってくるものだ。つまり、ずるずるべったりにそうなる。

しかし「愛をもって仕える」ことは、まさにその反対である。ずるずるべったりに愛をもって仕えるということは起こりえない。他の人を心から愛し、これに仕えるということは、いつも決心を要する、まったく祈りをもって決断しなければできない、といっているのです。
 
 そして「真実の自由とは、ずるずるべったりにわけのわからないことをやることではなく、真に自分の行くべき道を行くこと、なにをするかについて決心し、決断することだ」といっているのであります。

 一九節からのところは、この次の説教で学びたいと思いますけれど、ここで鈴木正久が、前にもご紹介したと思いますが、「自由とは主体性である。主体的であるとは、正しく決断できることだ」といっているのです。つまり自由とはずるずるべったりに生きないということだといっているのです。

 水は低きに流れる、といわれます。水は放っておいたら、低いほうへ、低いほうへと流れていくのです。われわれも放っておいたら、自分の欲望のままにずるずると安易に低いほうへ、低いほうへとおちていくのです。

 それが「この自由を肉に罪を犯させる機会にするな、肉が働く機会にするな」ということであります。この自由を低いほうへ、低いほうへとながれていくのを阻止しなさいというのです。
 もしわれわれが自分の欲望のままに生きていたら、それは結局は、自分の欲望に振り回され、自分の我が儘さにふりまわされ、われわれは自分の欲望の奴隷になり、つまり、罪の奴隷になってしまって、せっかくキリストによって与えられた自由を失ってしまうのであります。

 ただ問題は鈴木正久が、「自由とは主体性である、主体的であるとは正しく決断できることだ」と言っておりますが、そういわれても、果たしてわれわれはそれほど主体的に生きられるかということ、いつもいつも正しい決断をしていけるか、低きに流れる水を自分の力で阻止できるかということであります。

 それでパウロは、一六節から、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはない」というのです。

 自分の欲望のままに、自分の欲望に従って歩むのではなく、霊に従って歩みなさいというのです。そういわれれば、なんだ、また誰かに従うのか、服従することになるのかとがっかりするかもしれません。また自由でなくなるのかと思うかも知れません。

 しかし、聖書は「主の霊のあるところには自由がある」といっているのであります。これについてはこの次の説教で学びたいと思いますが、ここで前にも紹介したと思いますが、鈴木正久の言葉を思いだしていただきたいと思います。
 「冬寒い時に、自分が大いに肥って、鯨のように皮下脂肪を厚くし、熊のように毛むじゃらになって、寒さを防ごうとはしないだろう。だれもそんなことはしない、オーバーを着る。キリストを外套のように着るのだ」と言っているのです。
 
 自分の弱さを皮下脂肪を厚くし守ろうとするのではない、そんなことをしたら身動きができなくなって、不自由になるだけであります。それとは逆にますます自分の体をスリムにして、身軽になって、自分のもっている意地だとか誇りだとかを捨てて身軽になって、キリストという霊のオーバーを身につけるということであります。そうするとわれわれは自由に決断できるようになるということであります。自分の誇りから解放されるだけでも、われわれは自分から解放され、自己中心性から解放されて、自由になるのではないかと思います。誇り高いわれわれです、その誇りを捨てられたら、どんなに身軽になるかわからないと思うのです。

 そしてパウロはその自由を「肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」というのです。
 われわれはせっかく自分の誇りとか、意地とか、自己中心性というもの、要するに、自分から解放されたのだから、その解放された自分を生かす方向で生きなさい、それには、「愛によって互いに仕える」生き方をすることが一番その自由を発揮できるということなのです。自己中心的な生き方から解放されるためには、愛をもって互いに仕えるという生き方をすることが、一番確実な生き方なのです。

そしてそれがあの律法の中心である「隣人を自分のように愛しなさい」ということであり、それは律法を全うすることなのだというのです。

 ここでは、隣人を自分のように愛するということを、つまり愛というものをなにか悲壮な崇高な自己犠牲的な愛として、とりあげるのではなく、「愛をもって互いに仕える」ということで示そうとしているところが大事だと思います。

 それはまず「仕える」ことなのです。つまり自分を主張しないで、自分に対するこだわりを捨てて、他者を重んじ、他者に仕える、謙遜になって、他者に仕えるということです。そうすることによって自分から解放される、それが愛するということなのだということであります。

 そして、それはただ一方的に自分が愛する立場に立つ、いつもいつも自分が愛する立場に立ち続けるということではなく、「互いに」ということなのですから、自分もまた人から愛をもって仕えて貰うのです。自分は愛される必要なんかないなどと思わないことです。自分もまた人からの世話を、介護を受けなくてはならないのです。喜んで人からの奉仕を受けるのです、受けなくては生きていけないです。

われわれはしばしばキリスト教の愛は、自己犠牲の愛であって、いつもいつも人を愛する立場にたつことだけを考えるべきで、自分が愛されることなど考えるなと思われているかもしれません。しかしそれは大変誤った考えで、大変傲慢な考えではないか。そんな傲慢な態度で人を愛そうとするから、クリスチャンは煙たがられ、嫌がれるのではないか。

 ヨハネによる福音書には、主イエスのいわれた言葉として、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあって、人のために自分の命を捨てることがキリスト教の愛だとしばしばいわれるのであります。

 しかしこの主イエスの言葉は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という言葉があって、それに続いて、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉が続き、その結びの言葉は、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と結ばれるのであります。

 つまり、目的は、互いに愛し合うことなのです。しかしその互いに愛し合うためには、あるときには、自分の命を捨てる覚悟がなければ、そして実際にそういう行為にでることがなければ、互いに愛しあうことはできないということなのです。

自己犠牲そのものが目的とされる愛は、大変ゆがんだ愛です、大変傲慢な愛です。神ご自身がどんなに心をつくし、思いをつくし、力をつくして、ご自分が愛されることを望んでおられたかということを考えみればわかることです。

 主イエスもまた弟子達から、人々からどんなに愛を受け、愛されることを切実に求めたのです。

 大切なことは、互いに愛し合うことです。そのためには自分の利益だけを考えていたら、互いに愛し合うことはできないのです。ある時には自分の命を捨てる覚悟がなければ人を愛せないことは確かなのです。

 ここでは、「敵のために命を捨てる」ということではないのです、「友のために命を捨てる」ということなのです。「友のために」ということは、その友のために命を捨てることによって、やがてその友と再び交わりを回復し、やがてその友からも命を捨てて愛されることを予想できるのです、そのようにして、「互いに愛し合う、互いに交わる」ことが大事だというのです。

 もちろん「敵のために命を捨てる」ことも大切です。しかしそれはあくまで非常時のことです。特殊な場面です。それは瞬間的なことであります。しかし「友のために命を捨てて愛する」ということは、継続的なことです、ずっとのちのちまで、その人と友人関係を保ち、互いに愛し合う関係に持続していくことなのです。そしてこれは敵のために命を捨てることよりも、よほど難しいことであります。よほど忍耐のいることであります。

 「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」というのです。「自分を愛するように」と、いうことです。自分を愛することが出来ない人は、人を愛することもできないと思います。

 人を愛するということは、その人の長所だけを愛するのではないと思います。人の長所は裏を返すと短所になります。たとえば、真面目な人は、裏を返すと融通がきかない、お堅いという短所になるかもしれません。だらしないという短所は、裏を返すと、ゆったりしている、おおらかであるという、人をほっとさせる長所になります。

人を愛するということは、その人のあるがままを受け入れ、赦すということです。その裏を返すと短所になる短所を、教育して直そうとしないことです。妻は夫を教育しないことです。夫は妻を教育しないことです。その短所もまるごと、赦し、受け入れることです。それが「仕える」という愛であります。
 
 愛するということは、人を教育することではないのです。
 そのようにして生きるときに、「互いにかみ合い、共食いしてる」というような生き方、自分を主張しあって結局は滅んでいく生き方から脱することができるのではないでしょうか。

 救われるということは、自由を与えられるということなのです。それはなによりも自分に対するこだわり、あの自己中心性というしぶとい罪からの解放、罪からの自由を与えられたということなのであります。自分の正しさを主張するために律法を守るという律法主義からの解放だったのであります。

クリスチャンは真面目だけれど、豊かだろうかとある人の痛烈な言葉がありますけれど、われわれはキリストによって与えられた自由をもっと豊にもっと深く生かしていきたいと思うのであります。