「福音から逸脱する」

 ガラテヤ書一章一ー一○節

 先週の説教では、このガラテヤ書は律法主義との戦いの手紙だということを申しました。先週の説教で、わたしが言い残したことがあります。時間がながくなると思って、言い残したのですが、それはわれわれ日本人にとっての律法主義の問題はなにかということなてのです。われわれ日本人のクリスチャンが陥りやすい律法主義とはなにかということなのです。今日は始めにそのことについて考えておきたいと思います。二つのことを考えておきたいのです。

 わざによって救われるのではなく、自分の行いによって救われるのではなく、ただ神の恵みによって救われるのだということは、われわれはよくわかると思います。それはわれわれ日本人のクリスチャンは、それほど自信家が多くはないからであります。みなある意味では謙遜だからであります。われわれは、先週の説教でとりあげたイエスの話しにでてくる、ファリサイ派の人と徴税人の話しでいいますと、われわれは自分はファリサイ派の人間ではなく、徴税人のほうだとみな考えるのではないかと思います。そしてそれがもっとも信仰的になるということなのだと考えていないかということなのです。

 われわれ日本人でクリスチャンになる人は真面目な人が多いのではないかと思います。誠実な人が多いのではないかと思います。少なくとも表面的には謙遜な人が多いのではないかと思います。

 ですから、ユダヤ人のように、あるいはファリサイ派の人々のように自信に満ちた人はいないと思うのです。「自分は週に二度断食しており、十分の一の献金を捧げています。自分は立派なクリスチャンです」などという人はいないとおもうのです。それよりも、あの徴税人のように、目を天に向けようともしないで、「罪人のわたしをおゆるし下さい」とうつむいてしまう人がおおいのではないかと思います。

 そしてそのようにして、うなだれている人間が信仰義認に生きている人だとわれわれは考えてしまっていないかということなのです。信仰義認に生きるとは、そのようにうなだれてしまうということではないのです。

 そのように「罪人のわたしをおゆるしください」と神の前にうなだれている人間が、神によって義とされる、その福音を聞く、そうしてそのうなだれている顔を神に向かってあげる、神に頭を上げて生きる、その喜びのなかで生きる、そのときに神の恵みを信じている生きるということがいえるのであって、うなだれたままの姿では、決して信仰義認の生き方をしていることにはならないということであります。
ところが、真面目な一見誠実なわれわれ日本人のクリスチャンは、いつもいつも教会のなかで、特に教会のなかでは、自分は信仰がない、行いがひとつもできていない、だから駄目な信仰者だとばかり言っていないか。教会ではいつも自分の罪深さをいうことが信仰の証のようになっていないかということなのです。教会では罪の告白ごっこが流行していないか、わたしは善い行いができない、だから駄目な信仰者です、不信仰者ですということが、クリスチャンの口癖になっていないか。

 もしそうであるならば、これでは、われわれ律法主義から解放されたとはいえないのであって、いぜんとしてわれわれ律法を守るという方向で救いを求めているだけで、ただそれに達していない自分を嘆いて、うなだれているだけなのだということなのです。それでは依然として本当はファリサイ派の人々の生き方になりたいのであって、自分はそうなれないと嘆いているだけだからであります。
 
 われわれ日本人が律法主義の問題を考えるときに、われわれは自分がファリサイ派の人間になる事を警戒するよりは、自分が徴税人のようにうなだれたままの人間になることを注意しなくはならないと思います。

 大切なことは、「義とされて家に帰ったのは、この人であった」という主イエスの言葉を信じること、信じて、もう神から離れ遠く離れて立つのではなく、神に近づいていき、神に赦された者として生きるということなのであります。

 もうひとつわれわれ日本人のクリスチャンの場合、律法主義の問題で考えておきたいことは、われわれ日本人のクリスチャンは真面目な人が多いので、努力ということを非常に大切にする。努力しない人間は嫌われる。そうしたわれわれの体質から、われわれはあのユダヤ人や、ファリサイの人々のように、自分は立派な行いをしていると威張ったり、自慢したりするクリスチャンは恐らくひとりもいないと思うのですが、しかしせめて律法を守るように努力しないと救われないのではないかと思っていないかということなのです。
 
 わたしはこのことを、行為義認主義というになぞらえて、努力義認主義といっているのですが、われわれ日本人は、この努力義認主義から完全に解放されているだろうかということなのです。行為義認主義を主張するほどに、傲慢ではないけれど、しかしせめて努力はしなくてはならないという努力義認主義に陥るという悪しき誠実さに固着していないかということなのです。

 信仰生活に努力などいらないなどということではないのです。わたしがいいたいことは、救われるためにという一点にしぼっての話しなのです。救われるためには、せめて努力は必要なのではないかと考えていないかということなてのです。もしそう考えているとするならば、それは結局は行為義認主義と同じ方向を目指していることになるということなのです。

 信仰によって義とされる、信仰によって救われるということは、ただ神の恵みを信じて救われるのです。われわれ人間のほうは、空の手、手を空っぽにして、神に差しだすということが大切なのです。神の恵みによって救われるということは、ただ神の恵みだけを信じるということなのであって、こちら側の人間的なものはいっさい放棄してしまうということが大切なのであります。

 われわれ日本人の好きな言葉に、「天はみずから助くる者を助ける」という言葉があります。神様は自分が努力して、なんとか救われようとする者を天は助けてくれるのだという意味だと思いますが、信仰義認ということはそういうことではないのです。その言葉をあえて用いるとするならば、天が助けてくださのだから、自分でも努力しようということなのです。

 われわれはこの律法主義の問題を考える時に、一つ誤解しているところがあると思います。それは、神様がわれわれ人間に律法を与えたときに、神様は一○○点をとる人間を期待しておられたと考えていないだろうか。しかし人間は一○○点を取ってくるものは誰ひとりとしていない、それで仕方ないので、神様のほうでもう諦めて、譲歩して、もう人間を憐れんで、恵みによって救うことにしたんだ、行為義認から信仰義認には、そういう神様のほうで方向転換があったのだと誤解していないかということなのです。

 われわれがもしそのように考えていたとするならば、われわれは恵みによって救われながら、その神様に答えて一生懸命に努力して良い点をとろうと努力することにななるのではないかと思います。

 しかしそうではないのです。神様のほうでは始めから恵みによって人間を救おうと考えておられたのです。そのことをパウロは言っているわけです。アブラハムが義とされたのは、行いからか、それとも信仰によってかと問うわけです。律法があたえられる前に神さまは、アブラハムをただ恵みを信じる信仰によって義しているではないかと言っているわけです。
 
 神は行為義認から信仰義認に方向転換したのではないのです。神様は旧約聖書の始めから信仰義認を求めておられたのだと、われわれは考えておかなくてはならないと思います。

 救われるための努力ではなく、救われたあと、努力して、自分をうちたたいてて、自分の執拗な自己主張を否定し、そして自分の無力の故にうなだれてしまう自分を叱咤激励して、神に向かって頭をあげるという努力、神の愛に応えていこうという努力が大切なのです。信仰生活に努力は必要ないということではないのです。
 
 しかしわれわれ日本人は努力という言葉が好きですから、ただ神の恵みのみを信じて救われるという信仰義認を自分のものとするためには、一度もう思い切ってすべての努力を放棄してしまう必要があるのではないかとさえわたしは思います。
 よく泳げない人という人がおりますが、それは一生懸命自分の力で泳ごうとするから水に浮かべないのであって、いっさいの力を抜いてしまう、そうすると不思議に体は水のなかで浮いているのです。
 
 信仰義認ということを自分のものにするためには、いちど大の字になって、寝転がってしまう、そういう自分を神様が救ってくださるのだと信じてみる必要があるのではいないかと思うのです。こういうと誤解を招くかもしれませんが、そのくらい大胆に自分の力を抜いてしまうということが大切だと思います。

 さて、ガラテヤの信徒の手紙に入りたいと思いますが、パウロは一節から五節までで手紙の挨拶をすますと、ただちに嘆きの言葉と、呪いの言葉を書くのであります。六節からです。「キリストの恵みへと招いてくださったかたから、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と嘆きます。そして「ほかの福音といっても、もう一つの別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているに過ぎないのです」と叱責の言葉を述べるのであります。そんな人は「呪われよ」というのです。

 これは具体的にはどういうことかといいますと、ある人々がガラテヤ教会に来て、異邦人でクリスチャンになった者にも、割礼を受けさせなくてならないということを言いだしていることであります。割礼とはなにかといいますと、これは新共同訳聖書の終わりのほうに付録として「用語解説」というのがのっておりますが、そこでの説明では「割礼とは、男子の性器の包皮を切り取ること、これは古代オリエントの諸民族の風習」と説明されております。割礼というのは、イスラエル人だけのものではなかったようですが、これはイスラエル人にとっては、特別のもので、自分たちは特別に神によって選ばれた民だということの徴として、割礼をほどこしたのであります。それはイスラエル人にとっては、自分達は選ばれた民だという誇りとなったのであります。彼らは割礼を受けていない異邦人を軽蔑したのであります。
 それを異邦人でクリスチャンになった者にも、施そうしたのであります。割礼を受けないと、救われたことにはならないと言い出したのです。その救いは完全なものにはならないと言い出したのです。
 
 彼らはもちろんキリストの伝道者で、キリストの恵みを宣べ伝えようとしていることには変わりはないのです。しかし彼らはキリストの恵みの福音に律法的なものもって救いを補完しようとするのであります。

 三章の二節に「あなたがたに一つだけ確かめたいことがある。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからか。それとも、福音を聞いて信じたからか。あなたがたはそれほど物わかりが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのか」といっておりますが、われわれが救われたのは、ただキリストの恵みを信じる信仰によって救われた、それはこういうことです。われわれ霊に救われ、霊によって始めた、それなのに、それだけでは不十分だから、割礼を受けなくてはその救いは完全なものにはならないと、肉によって補完しようとするということであります。

 彼らはもちろんユダヤ教の人たちではないのです。ユダヤ教、つまりイエスを十字架へと追いやった律法学者、ファリサイ派の人々ではないのです。クリスチャンなのです。大変真面目な、決してでたらめないいかげんなクリスチャンでもないのです。むしろ真面目な伝道者なのです。しかし、彼らはただ福音を信じていればいいというパウロの説く福音に、それだけではだめで、福音によって救われたからには、それに応えるためには、律法を守るということによって、それを仕上げなければならない、完成させなくてはならないと主張している人々なのです。

それはユダヤ人キリスト者で、エルサレム教会の重鎮なのです。彼らはキリストによってすくわれながら、まだまだユダヤ教の尾ひれをひきずっているのです。ユダヤ教から完全に脱却していないのです。

 今パウロが激しく戦い、呪っているのは、そういう人々に対してなのです。キリスト教と真っ向から対立しているユダヤ教の人々を呪っているわけではないのです。キリスト教の伝道者に対して呪っているのです。

 パウロは「こんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようといていることにあきれ果てている」といっていますが、「こんなにも早く」というのは、パウロがガラテヤの教会を形成してから、時間的にどれたけ経過したかわかりませんが、そういう時間的な意味での「こんなにも早く」ということではなくて、「こんなにも簡単に」「こんなにもたやすく」、福音から離れてしまうのかということだろうと思います。

 つまり、ただ福音を信じる、つまり、ただ一方的に与えられる神の恵みだけをただ信じる、こちら側には、人間側には、なにひとつわざを付け加えることはない、また付け加えてはいけない、われわれ人間側のできること、しなくてはならないことは、ただ空の手を差し出す、自分の手を空っぽにすることなのだという福音、、これを信仰義認といいますけれど、この福音を信じていくということは、どんなに難しいことかということであります。

 だからわれわれは福音の上に、なにか少しでも自分のわざ、自分の行いとか、つまりは自分の功績をその上にそえたいのだということであります。そのようにして自分の救いというものを確保しておきたい、自分が救われる根拠をただ神様の恵みのみに預けてしまうということに不安なのです。そのひとつに割礼を加えようとしたのであります。

 八節でパウロはこういいます。「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせるようとするならば、呪われるがよい」といっております。

 ここではパウロはパウロが宣べ伝えた福音に反する人々の中に、「たとえわたしたち自身であれ」といっていることは面白いと思います。「ただ神の恵みを信じて救われる」という信仰義認の福音は、うっかりしたらそれを宣べ伝えいたパウロ自身もまたそこから脱落してしまう可能性があるということを示しているということではないかと思います。パウロ自身も福音から脱落してしまう危険性を常にもっているということであります。
 それほど、ただ神の恵みのを信じるということ、それを信じ続けるということがどんなに難しいかということであります。

 そして次に「天使であれ、呪われよ」といいます。これも面白い表現であります。「サタン」ではなく、「天使であれ」というのです。つまり一見善人に見える天使のような人、真面目な大変真面目な信仰的に見える天使のような人々が、実は律法的なもので福音を仕上げようとするということではないかと思います。
 真面目な人ほど律法的になりがちなのです。

 ここでパウロが「呪われよ」と、激しく攻撃しているところだけをみますと、パウロはなんと偏狭な人間か、なとん傲慢な、自分の考えを絶対化する伝道者かと思われるかもしれませんが、パウロは他の手紙をみますとそれほど自分を絶対化はしておりません、ここでこんなにも激しい言葉を使っているのは、パウロにとっては、どうしても激しく闘わなくてならないものだったからであります。
 それは一見、天使が宣べ伝えるように見える福音なのです。大変真面目な福音にみえるからです。あるいは、大変真面目な人々、大変信仰的な人々をよろこばすように見える福音なのです。

 それは福音を律法によって仕上げようとする行き方、福音を律法を守るということによって完成させ、補完させようとする教えなのです。それは霊によって始められたものを肉によっと補完しようとすることであります。

 それは決して福音を排除しようとするのではないのです、そうではなくて、福音を尊重しながら、福音のうえに律法をのせようとすることなのです。つまり、福音か、律法か、福音を信じるか、それとも律法を守っている自分を信じるかという、福音か律法かというパウロの宣教の仕方ではなく、福音と律法という宣教の仕方、この「福音と律法」という「と」の問題なのです。
パウロが激しく闘っているのは、「福音か律法か」ということなのです。

 一○節でパウロはこういいます。「こんなことを言って、今わたしは人に取り入れようといるのか。それとも、神に取り入ろうといるのか。あるいは、なんとかして人の気に入ろうとあくせくしているのか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではない」。

 これは前の句とどう関係するのでしょうか。これはこういうことではないかと思います。つまり、福音だけではなく、その上に律法的なものを付け加える、たとえば、ここでは割礼を受けるということですが、今日のわれわれの問題にすれば、クリスチャンになったからには、禁酒禁煙を守らなければならいというようなことをいう、それは大変人に気にいるような教えかただということはないかと思います。それは特に真面目な人にはわかりやすい福音の説きかたなのです。

パウロは、「もし、今なお人の気に入ろうしているならは」といっています。「今なお」ということは、パウロは以前は人の気にいろうとしてユダヤ教の伝道者として走っていたということであります。つまり、律法主義的な行き方を説くということは、人の気にいるような教えだったということであります。

 律法を守って真面目な生活をしないと救われない、それは大変人の気にいるような教えだったということであります。

 わたしがあまりにも、教会の説教で、律法主義的な真面目な信仰を非難しておりましたら、あるとき、ある人がわたしの説教を聞いて、ああ、真面目になってもいいのですね、といわれて、びっくりしたことがありした。

 何か真面目な生活をしていると救われないのだ、とわたしが言っているように聞こえたようなのです。そういうことではないのです。救いと言うことに関して、なのです。救いに関して、われわれが救われるかどうかは、われわれの真面目さによるのではないということなのです。なにも救われるためには、不真面目になれといっているわけではないのです。

 われわれは罪人だ、どんなにわれわれが善い行いをしようとしても、善い行いなどできない、善行つもうとすればするほど、自分の自我が押し出され、他人を裁き、他人を軽蔑し、ただ自分中心の生き方になっていく、われわれは本当に罪人だ、だからわれわれはキリストの赦しの福音をただ信じることによってしか救われないのだという福音、これはなかなか人の気にいるようなものではなかったということであります。

 律法主義的な生き方のほうがよほど、人々の気に入るような生き方だし、また容易な生き方なのであります。

  それに対して、ただ神の恵みのみを信じて生きるという福音を信じる生き方は、少なくとも一度は、いや何度でも、自分が打ち砕かれなくてはならない、自分を空っぽにしなくてはならない、といいましても、われわれは自分の力では到底自分を打ち砕くことも自分を空にする、自分を無にするなんてはことはできないのですから、それすらも神様にしていただかなくてはならないのですが、そのためにそうした自分をすべて神様に委ねてしまう、ある意味では、神の前で無責任になって、もうわたしは責任はとれません、赦してくださいと言わなくてはならない、これはやはり、難しいことだということであります。 

 わたしはよく言ってきたのですが、われわれはあまりにも責任をなんでもとろうとしすぎていないか。われわれはもう少し無責任ならなくてはならないのではないか、少なくとも、救いに関して、神様に責任をとっていただく以外にないのであります。神様に責任を預けなくてはならないのであります。