「柔和な心で」 ガラテヤ書六章一ー一○節

 「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に帰らせなさい。あなたがた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになる」と、パウロは勧めます。

 竹森満佐一がここのところで指摘しておりますが、ここには不思議なことに愛という言葉が一度も出てこないというのです。、すぐ前のところでは、律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされる、といっているのですから、ここで、「そのようにして律法を全うする」ということがいわれておりますから、当然ここでは「愛」と言う言葉がでてきてもよさそうなのに、パウロはここで愛と言う言葉を使おうとしないというのです。

 竹森満佐一は、それは愛と言う言葉はすばらしい言葉ではあるが、なんとなく魅力を失っていて、手あかがついているからではないかと、いうのです。

 今日では、確かに愛と言う言葉は、もう魅力をうしなっていて、手あかが付いていて、われわれはもう日常的には、愛と言う言葉はき恥ずかしくてつかえなくなっておりますが、パウロの時代でも、もうすでにそうだったのだろうかとちょっと疑問に思いますが、ともかくここでは愛という字は使われていないのです。その代わりに、一節では、「霊に導かれているあなたがたは柔和な心で」という言葉が使われております。

 ここは、罪を犯してしまった人に対して、どう対応したらよいか、どのようにしたら、正しい道に導くことができるか、と言う勧めであります。新共同訳では、「だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」と丁寧に訳されておりますが、原文を見ますと、「不注意にも」ということは別に書かれているわけではないのです。口語訳では、「もし誰かが罪過に陥っていたら」と訳されていて、罪過という字が原文では使われているのです。

 つまり、ここでの問題は、たとえば、連続殺人事件の犯人のような、そうしたいわば極悪な犯罪人のことではなく、われわれの日常生活でしばしば起こる、それこそ不注意に起こしてしまう罪についていわれているのです。

 そのように罪を犯してしまった人に対して、どう対処したらよいかということなのです。内容的には、愛の問題なのです。しかしここではパウロは愛と言う言葉を使わないで、「霊に導かれているあなたがたは」といい、「柔和な心で」というのです。

 そしてここで、竹森満佐一はこういうのです。「罪の問題を解決する人は、愛の人というよりも、霊の人でなければならない。霊の人とは、神の赦しを知っている人だからだ、みずから罪人であり、キリストの救いを受けた人、その人こそ御霊を受けることが出来る人だからだ」というのであります。

「霊の人」などといわれてしまうと、それはもう聖なる人、聖人の人のような人を想像するかもしれませんが、聖書で「霊の人」というときには、信仰をもった人ということで、それはつまり、神の赦しを知っている人という意味であります。

 罪を犯した人を正しい道に立ち帰らせるためには、どうしたらよいかということです。それには、なによりも、霊の人でなければならない、そして、「柔和な心で」というのです。

 ここでいう柔和とは、ただ優しいということではないようです。聖書で使われている柔和という言葉は、謙遜という意味をもっております。どういう意味で謙遜かというと、自分自身も罪を犯し得る者であることを認めて、へりくだるという意味で謙遜だということであります。

 パウロはすぐ続いて「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」といい、三節を見ますと、「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるならは、その人は自分自身を欺いている、各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対しては誇ることはできても、他人に対しては誇ることはできないだろう」といい、そして「めいめいが、自分の重荷を担うべきだ」といいます。

われわれは人の過ちを見つけると、その人に比べたら、自分をひとかどの者だと思いたくなって、人を見下げたくなるのであります。

 このことで鈴木正久が面白いことをいっております。「他の人が谷に落ちたからといって、自分が高い山の上に上ったわけではない。他人が間違いをしたからといって、自分がなにか善を行ったわけではない」といっているのであります。 

 要するここでいっていることは、人の罪を指摘し、その人を正しい道に導くためには、自分自身もまた同じ罪を犯し得る人間であることを認め、罪を犯した人を見下すようにして、自分は罪なんか犯したこともないし、これからも犯すことはないなどと不遜な態度で接するなということであります。
そういう態度こそ、「柔和で」ということなのだということであります。つまり、「柔和である」とは、ただ優しいというのではなく、罪を犯した人と同じ立場に立ちなさいということであります。

 主イエスが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの頸を負い、わたしに学びなさい」と言われたことを思い出します。
 ここでいわれている「疲れた者、重荷を負う者」とは、なによりも、罪を犯して嘆き悲しみ、疲れ、重荷を負っている人ということで、ここでいわれている重荷とは、なんらかの意味で罪の重荷であります。他人の罪のために負わされている重荷であるかも知れないし、自分自身の罪の重荷かもしれませんせが、ともかくここでいわれている重荷は、ただ生活の労苦という重荷ではなく、罪の重荷であります。その重荷を負っている人に対して、イエスが言われた言葉であります。

 そのときに、イエスは「わたしは柔和で謙遜であるから」、わたしのところに来なさいというのです。「わたしはお前と同じ立場に立つことができるから」といわうれるのです。だからお前の重荷を理解し、担ってあげることができるというのです。そのようにして休ませてあげられるというのです。

 もちろん、イエスはわれわれと同じように、罪を犯したというのではないのです。しかし、イエスはわれわれの罪をよく知っておられる、罪を犯してしまうわれわれの弱さをよく知っておられる、そしてそれを決して居丈高ではなく、われわれと同じ平面に立って、その罪の問題を考えてくれるということであります。

 同病相憐れむという言葉がありますが、病気の場合には、確かに病気を経験した人が、同じ病気になった人を慰めることができるということはあるかもしれません。しかし、罪の場合には、同じ罪を犯した人だから、相手の罪を赦したり、慰めたり、正しい道に導くことができるなんてことは絶対にないと思います。むしろ、始終罪を犯す人は、罪を犯した人に対して、ああ、あいつも罪を犯したぞ、と喜ぶだけではないかと思います。

 人の罪がよく分かり、その人が罪を犯してしまった弱さを理解できるということは、罪を犯すことにベタランの人ではなく、神によって、キリストによって一度本当に罪を赦された経験をした人であります。罪の赦しを知っている人であります。それが霊の人ということ、霊に導かれている人ということであります。

 さて、 罪を犯した人を正しい道に導くためには、何をしたらよいのでしょうか。それはなによりもその人に自分の罪を認めさせることであります。まずそこから始まるのではないでしょうか。罪を犯した人が本当に自分の犯した罪の重大性に気付いたら、もうそれだけで、罪の問題は解決できたということではないか。もうそれだけで、正しい道に導かれたということではないか。

 イスラエルの王ダビデは、自分の部下の妻、バテシバを奪い、妊娠させてしまい、その隠蔽工作のため、大変卑劣な手段で、その夫を戦場に送って、敵の手によって殺させてしまったという大罪を犯しました。ダビデは、それに対して、王の特権を利用して、知らん顔をしていました。王様ならば、その程度のことはなんでもないと思っていたのです。しかしそれが神の怒りに触れた。神は預言者ナタンをダビデに送るのであります。

 その時、ナタンはいきなりダビデにその罪を指摘して、糾弾するのではなく、何気ない茶飲み話のような話をいたします。「ある町にふたりの人がいた。ひとりは裕福な人で、多くの羊と牛をもっていた。ひとりは貧しい人でたった一頭の小羊しかもっていなかった。ある時、その裕福な人のところに客がきた。彼はその客をもてなすために、自分のもっている羊をほふり、料理するのを惜しみ、その貧しい者がもっている小羊を奪い、それを調理して、客にもてなした」という話しを、王にするのです。

 それを聞いてダビデ王は烈火のごとく怒り、「神は生きておられる。そんな奴はただちに死刑だ」というのです。そのとき、すかさず預言者ナタンは「あなたがその人です」と、告げるのです。そして預言者は、ダビデの犯した罪についてこんこんと諭すのであります。
 それを聞いてダビデ王は、「わたしは神様に罪を犯しました」と告白する。するとナタンもただちに「神もまたあなたの罪を赦します」と、告げるのであります。

 われわれは自分の罪については、鈍感だし、なかなか認めようとしないのですが、他人の罪については敏感だし、すぐわかるのです。そしておもしろがるのです。われわれがワイドショウを見ていて思うことはそのことであります。

 自分は安全地帯にいる時は、人の罪はすぐわかるのです、そしてけしかんらんといって、憤ってみせたり、おもしろがるのです。

 この時、ダビデもそうでした。そのとき、預言者ナタンは「まさにあなたがそうではありませんか」というのです。悲しいことに、われわれは罪を他人の罪としてみるときに、その罪が見えてくるのです。しかし自分の罪としては見えてこないのです。それほどわれわれは自分の罪については鈍感だということであります。

 この記事を読むときに、われわれが不思議に思うのは、ダビデが「わたしは神様に罪を犯しました」と、自分の罪を告白したときに、預言者はナタンは間髪をいれずに、あまりにもはやく、「神もまたあなたの罪を赦します」と告げたところではないかと思うのです。神がそのダビデの罪を簡単に赦してしまうということではないかと思うのです。

 もっとも、そのあと、ダビデの犯した罪に対する罰は、告げるのです。つまり、ダビデ自身は、死の罰は免れる、しかし生まれてくる子は死ぬ、という罰は告げられますが、ダビデ自身の罪はたたぢに赦されてしまうのは、何か不思議な気がするのであります。

 しかし考えてみれば、ダビデは自分の王の特権を捨てて、率直に自分の犯した罪を認めた、もうその時点が罪の問題は解決できたということではないか。罪の問題は、罪を犯した人が率直に素直に、心から自分の罪を知り、自分の罪を認める、そのことが一番大事なのではないか。そしてそのようにして、罪を犯したその人に自分の罪を認めさせるために、われわれは本当に苦労し、細心の配慮をするのではないか。 預言者ナタンは、王様であるダビデに罪を認めさせるために細心の注意をしたのであります。

 そのためには、こちらが居丈高になっていては、相手に罪を認めさせることは出来ないのです。従って、相手を悔い改めさせ、正しい道に導くことはできないのです。本当に柔和な心で、自分自身もまた同じように罪を犯し得る者であることを自覚して、しかしいつもわれわれは神の赦しの下にあることを信じながら、

罪を犯した者の重荷を担おうとしなければならないのではないかと思うのであります。それが「霊に導かれているあなたがたは」という事であり、口語訳でいいますと、「霊の人」なのであります。

五節に「めいめいが自分の重荷を担うべきです」といいます。ここでいう「重荷」とはなによりも、罪の重荷であります。つまり、罪の責任であります。

 二節では、「互いに重荷を担いなさい」といっていて、ここでは「めいめいが自分の重荷を担うべきだ」というのは、矛盾ではないかと思われるかもしれません。

 罪の重荷というのは、やはりとうてい自分ひとりでは背負いきれるものではなくて、他の人に負ってもらう必要があるし、罪を犯した相手からなによりも赦して頂く必要があります。他の人に重荷を負って頂く必要があります。罪の重荷とか、罪の責任というものを自分ひとりで担いきろうなどと思わないことです。

 しかしやはり最終的には、罪の重荷は自分が負わなくてならないことも確かなことではないでしょうか。そうでなければ、罪の重荷を他の人に負ってもらうこともできないと思います。

 六節では、「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」とパウロはいいます。これは普通は、ひらたくいえば、信徒は牧師の生活を支えなさいという勧告の言葉だと説明されます。しかし、なぜそんなことがここで唐突にでてくるのかという疑問が残ります。それである人は、これは単に経済的なこと、物質的なことではなく、もっと心の問題ではないかというのです。

 「めいめいが自分の重荷を担うべきです」という、その前の句を受けて、めいめいが単に物質的なものだけでなく、精神的なものも含めて、良いものを分け合うべきだという意味ではないかというのです。そのようにここを読んだら、前の句と結びつくというのであります。

 そしてパウロはいいます。「思い違いをしてはいけない。神は人から侮られることはない」というのです。今まで神の恵みを語ってきたパウロが、ここで突然「神は侮られるようなかたではない」と何か厳しいことをいうのであります。

 われわれに与えられた神の恵みは、そのひとり子イエスの十字架によって与えられた恵みであります。そういう重みをもった恵みであります。それならば、それを侮ることなどできるはずはないのであります。しかし、われわれはたえず、それを侮ってしまうところがあるということは恐ろしいことであります。

 「人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになる。自分の肉に蒔くものは、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取る」というのです。

 神の恵みを受けておりながら、そのことに鈍感で、依然として自分のことばかりしか考えようとしない「肉の人」は、自ら墓穴を掘ってしまうのであります。自らの滅びの穴を掘ってしまうのであります。神様が裁くというのではないのです。自分で自分を滅びに追いやり、自分で自分に裁きを招いているのであります。

 それに対して、霊に蒔く人、つまり神の恵みを信じて歩んでいる人は、霊から、つまり自分でということではなく、霊から、神様から永遠の命を与えられるということであります。

 だから、たゆまず善を行いましょう、飽きずに励んでいれば、時が来て実を刈り取ることになる、というのであります。ここは口語訳は「善を行うことにうみ疲れてはならない」となっています。良いことをしてうみ疲れてしまうのは、よいことをした結果がなかなか現れない、それが見えてこない時ではないかと思います。

 しかし「飽きずに励んでいれば、時が来て実を刈り取ることになる」というのです、神様がみていてくださるということであります。善を行うときにも、われわれは自分中心にして、考えていてはいけないということであります。もっと広い目と、長い目と、そして神様のことを思う深い目で、善を行っていかなくてはならないということであります。

 「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」とパウロは勧めます。「特に信仰によって家族になった人々、つまり教会の人々に対して、善を行おう」というのは、なにかとても狭い勧めの言葉ではないかと思うかも知れません。

 しかし、教会の中の交わりのなかで、本当の愛の交わりが出来ていなければ、どうしてわれわれは世間での愛の交わりができるでしょうか。教会のなかで、自分が教会のなかにおりながら、教会の悪口を言う人がおりますが、わたしはそういう人を見ると悲しくなります。あなたはどうなのか、あなたはどうして教会の中の人を赦してあげることができないのか、といいたくなるのであります。

 教会の中で真に罪の赦し合いができなければ、教会の外で人の罪を赦すことなど出来るはずはないと思います。