「福音による自由」 ガラテヤ書二章一ー五節

 福音によって救われるというのは、ただ上から与えられる神の恵みによってのみ、それを信じてのみ、救われるということであります。
 先日の一○月三一日は、宗教改革記念日でしたが、それはマルチン・ルターが当時の教会に対して、われわれが救われるのは、聖書でパウロが述べているように、ただ神の恵みを信じる信仰によってのみ救われるのだという宣言文を公表したことから始まったのであります。われわれプロテスタント教会はその信仰に立っている教会であります。つまり、ルターは自分が所属していた教会に反抗して、プロテストして、プロテストというのは、反抗という意味です、プロテストして新しい教会を立てたのであります。

当時の教会は、もちろんキリスト教会ですから、自分たちが救われたのは、キリストの十字架の贖いによってであるという信仰に立っておりました。しかしそれだけでは、われわれの救いは完成しないのだ、神の恵みによってということの上に、自分の善行をつまなくては救われないのだといっていたのであります。

 ルターも修道院に入ったときには、大変真面目にその教会の教えを守ろうとして、修道士として励んでいたのであります。しかし、彼はパウロが苦しんだのと同じように、善行を積もうとすればするほど、自分は善行を積んでいるのだという、自分を誇る思いが募ってくる、そのことで深刻に悩んでいたのであります。

 教会は教会堂建設に取り組まなくてならないという時で、そのお金集めのために、免罪符を発行した。多額の献金をすれば、どんなに悪いことをしていても、罪は赦されて天国にいけるのだと教えて、多額の献金を集めた。

 そういう中でルターは聖書を読んでいて、福音を再発見したのであります。われわれが救われるのは、われわれの善行とか献金の大きさとか、そういうわれわれ人間のわざではない、そういうことでは救われない、人間は罪人なのであって、どんなによいわざをしようとしても、そのよいわざをしようというわれわれの動機のなかに、浅ましい自我が入り込んでしまっていて、自分を誇り、他人を差別し、軽蔑する心が入り込んでしまって、われわれはとうてい自分の行いによっては救われない。われわれはそういう人間なのだから、もうわれわれ人間のほうから救いの道を見いだすことはできない。そういうわれわれを救うのは、もはやわれわれ人間の側からではなく、自分を超えた上からの力による以外にない。そういうわれわれを一方的に救ってくださる神の恵みを信じる信仰によってしか救われないのだ、それが福音なのだということ、その福音をルターは再発見したのであります。パウロの信仰の原点に立ち返ったのであります。

 われわれの教会はその信仰に立っているのであります。

 今日学ぼうとしていますガラテヤの信徒への手紙の二章は、その問題と関わりのある問題であります。どういうことかといいますと、当時の教会のいわば大本山でありますエルサレム教会の重鎮たちが、異邦人で救われてクリスチャンになった人々にも、ユダヤ人が受けているように、割礼をうけなくては救われないと考えたようなのであります。
 当時のユダヤ人キリスト者たちは、異邦人でクリスチャンになって救われるということは、選民であるユダヤ人の仲間になることだと考えていたようなのであります。だからその徴として割礼を受けなくては、その救いは完成しないと考えたようなのであります。

 もちろん彼らは自分たちが救われたのは、キリストの十字架の恵みによってだということは信じているわけです。福音によって救われると信じていたのであります。しかしその上で、割礼を受けないとその救いは完成しない、完全ものにはならないと考えたようなのです。

 自分たちが救われたのは、「ただ」神の恵みを信じる信仰によってであるだということ、この「ただ」、というところに、に少し曖昧なところがあったようなのです。事実としては、彼らもただ神の恵みによって救われているのです。しかし彼らはまだユダヤ教の影響から完全に脱することができないで、割礼をうけなくては、と考えていたようなのです。そういう彼らの曖昧な考えにつけ込んで、さらにユダヤ教的な色彩の強い、パウロの言葉によれば、偽兄弟たちが、偽クリスチャンたちが異邦人でクリスチャンになった者も割礼を受けなくてはならないと主張したようなのであります。

 それにパウロは真っ向から反対するためにテトスをつれて、エルサレム教会に乗り込んだのであります。

 このことで鈴木正久が大変わかりやすい説明をしておりす。「問題はわたしの『救い』について、『わたしが』なすことが加味されるかどうかにある。乞食が誰かから恵まれた。その場合、彼が『これはもちろんあの人の恵みでもあるけれど、おれのすわりかた、声のだしかた、やっぱりこれはおれのやりかたがいいから恵みにあずかったのだ』と考えるとしたらどうか」と説明しているのであります。割礼をうけないとその救いは完成しないという考えはそういうことなのだと説明しております。

 本当に困っている人が、ただ憐れみをほどこしてくださったかたの憐れみによってのみ救われたと考えるか、それとも、多少はこちら側の態度にも理由があって、救われたのかと考えるかということであります。自分の態度がよかったから、憐れみを受けたのだと考えたとしたらどうか。この『プラス・アルファ』、つまり少しは自分の態度にも恵まれる理由があったのだと付け加えるということは、これは単なる付け加えではなく、神に対するわれわれ人間の関係そのものを質的に変えてしまうことになるのだというのです。

 そしてさらに続け鈴木正久はこういいます。「蛇は頭だけ入れば、あとは胴体全体が潜り込んでしまう」、だから、ただ神の恵みによってのみ、という信仰義認に、それに付け加えて、われわれの信仰的態度とか、真面目さとか敬虔深さとかという、われわれの態度も加味されるのだというプラス・アルファを付け加えたならば、福音全体を駄目にしてしまうのだと説明しております。

 だからパウロはここで異邦人に割礼を受けさせるべきだというユダヤ人キリスト者たちの考えをどうしても受け入れることができなかったのであります。

 使徒言行録の一五章には、この時の様子が書かれておりますが、そこでは、ペテロが立ち上がって次のように述べて決着がついたのであります。
 「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間で私をお選びなりました。それは異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、私たちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をしなかった。それなのに、なぜ、今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかったくびきをあの弟子達の首にかけて、神を試みるのか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのだが、これは、彼ら異邦人も同じことである」といったのです。するとみんなが黙ってしまったというのです。

 ペテロはここではっきりと、自分たちが救われたのは、ただ主イエスの恵みによってである、と言って、信仰の原点に立ったのであります。

 ある人が言っておりますが、「キリスト者とは、ただキリストのみにすがり、キリストのみに頼って生きている人だ」といっております。
世間の人々は、クリスチャンというのは、変な誤解があって、真面目な人だとか、敬虔深い人だとか考えているようですが、われわれクリスチャンはそんな言葉につり込まれる必要はないのです。われわれはただキリストのみに頼って生きている人間なのです。

 ドイツのナチに抵抗して、捕らえられ、危うく処刑される寸前のところで、連合軍によって解放された牧師たちがおりますが、その中のひとりのニーメラーという牧師がこういうことを言っているのです。
 「人はナチの迫害に耐えて、信仰を守り通した自分達のことを何か英雄のようにいうけれども、自分たちがそんな人間でないことは自分達自身が何よりも知っている。自分たちがどんなに信仰的にも人間的にも弱い者であったかということは、自分たちが何よりも知っている。自分達は一日たりとも、主イエス・キリストに頼らないでは生きのびることが出来なかった人間だ」と言っているのであります。
今日、われわれ日本人にとって、割礼の問題はあまりぴんとこないことではないかと思います。われわれクリスチャンにとって、今日割礼に当たるものは、洗礼であるかもしれないと思います。われわれはキリストの恵みによって救われる、それを信じて救われたという徴として、洗礼を受けるわけです。

 なぜ、洗礼という徴が必要なのか。洗礼というのは、福音に対して、なにかを付け加えるプラスアルファではないのです。つまり、洗礼を受けないと救われないというようなものではないのです。

 洗礼とは何かといいますと、それは、自分が救われたのは、ただ神の一方的な憐れみによって救われたのだ、神の恵みによって救われたのだ、このことを具体的に、目に見える形で、みんなの前で、つまり公に、客観的にあらわす徴なのであります。それは一度だけなされる客観的な徴なのです。
 つまり、一度洗礼をうけていれば、もう二度と洗礼を受ける必要はないのです、いや受けてはいけないのです。一度、ということが大切なのです。なぜなら、一度ということは、一回限りということで、つまり決定的だということ、それは取り消すことができないという徴なのです。それは公に告白するわけで、客観的な徴になるわけです。
 ただ自分の心のなかで信じていればいいといわれるかもしれませんが、自分の心のなかだけでは、いつでも撤回できてしまうものなのです。
 
 宗教改革者のマルチン・ルターが迫害にあったりして、自分の信仰が動揺したときに、いつも思ったことは、「わたしは洗礼を受けている」ということだったそうであります。
 それは、自分はただ一方的な神の憐れみによって救われている、それを告白し、確認した洗礼、それはどんなことがあってももう取り消されることはない、という原点に立ち返ったということであります。信仰が動揺したときに、いつもその原点に立ち返ったということであります。

 割礼というのは、男性の性に傷を付けることであります。一度傷をつけたら、それうはもう取り消されることはできないのです。ちょうど牛などつける焼き印のようなものであります。
 洗礼は、心の割礼といわれているように、一度受けたら、改めて二度受ける必要はないし、取り消されることはないのです。その後どんなに信仰的に動揺し、弱つても、立ち戻れる原点が与えられたということなのです。

 ですから、洗礼は何かクリスチャンであることの特権とかというようなものではないのです。もし特権というのであるとすれば、自分はただ神の恵みによって救われ、支えられている、そのことを自分は知っている、そういう「知る」という特権、それを「信じている」という特権を自分達は持っているということだけであります。

 三節からパウロはこういっております。「わたしと同行したテトスでさえ、ギリシャ人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らはわたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由をつけねらい、こっそりと入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは片時もそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした」。

 割礼を受けないとせっかくの救いは完成しない、いや救いそのものがなくなると主張する彼らは、いったいわれわれをなんの奴隷にしようとしているのでしょうか。ただ神の恵みによってのみ救われるのだという、信仰義認に立つときに、われわれはどういう意味で自由を与えられているかというであります。

 割礼を受けなくては救われないという考えに立つと、どうして自由でなくなるのか、何に対してわれわれは奴隷になるのかということであります。

 割礼を受けるということは、あのユダヤ人と同じ制服を着るということであったのかもしれません。それは選民であるという制服であります。

 制服というのは、大体いわゆる名門交がもつものではないかと思います。ですから、その制服を着て学校にいく、街を歩けるということは、一種の誇りになるのではないかと思います。われわれはその制服を着て、自分自身をひそかに誇りだすのではないかと思います。
 自分はよく勉強ができたから、この制服を着れる学校に入ることができたのだといって、自分を誇りだす、割礼を受けるということは、いわばそのように自分を誇り出すことになっていたのであります。選民性の誇りだったのです。ユダヤ人キリスト者たちが異邦人でクリスチャンになった人々にも割礼をうけないと、救いは完成しないといいだしたのは、もう一度われわれをあの選民性の誇りにつれもどそうとする誇りだったのであります。

 パウロが、割礼に反対したのは、ただ同じユダヤ人と同じ制服を着ることは不自由になるから、反対したのではないのです。割礼を受けないとその救いは完成しないという人の中に潜んでいる選民性の誇り、つまり、人間の誇り、それを敏感にパウロは感じ取って、その人間の誇りをいささかでも、頼りにして、救いを確かなものにしようとすることは、われわれを不自由にする、われわれは誇りというものの奴隷にしてしまう、だからパウロは反対したのであります。
 
 つまり、自分を誇らないと生きていけないということは、われわれが自分の誇りというものの奴隷になっているということなのです。割礼を受けないと、救いは完成しないという律法主義は、パウロがローマの信徒の手紙でいっておりますように、彼らは、神の義に服することをしないで、自分の義を主張しようとしているのだということであります。つまり、ただ神の恵みに服することをしないで、自分のわざを誇り、自分のわざに頼ろうとすることなのであります。

神の恵みによって救われたということは、もうそうしたつまらない、愚かな、自分を誇るということから解放されたということなのです。そういう自分の誇に縛られるという奴隷状態から解放されたということなのです。それがキリストによって与えられた自由ということであります。

 ですから、この自由は、ただ制服から解放された、がんじがらめの校則から解放されて自由になったということではないです。

 われわれは制服がないと、毎日何を着て学校にいこうかと迷ってしまうのではないでしょうか。わたしは幸か不幸か制服を着なくてならないという学校に行ったことがないので、本当のところはよくわかりませんが、制服があるということは、ある意味で楽なのではないかと思います。逆に制服がなくて、なにを着てもいいという自由が与えられてると、返って不自由になるのではないか。

 われわれは自由を与えられると、その自由をもてあまし、かえって不自由になるのではないか。それはなぜか。
 それはわれわれはただ自由を与えられても、自分自身から自由にされていないからであります。何をしても良いですよ、と言われても、われわれは自分のわがままさから解放されていなくては、自分の欲望から解放されていなければ、われわれはその与えられた自由をただ自分の欲望にふりまされて、結局は自分のわがままさの奴隷になり、自分の欲望の奴隷になるだけではないか。自分を誇り、それだけを自分の生き甲斐にするだけという、みすぼらしい生き方、自分の奴隷になるだけの生き方しかできないのではないか。

 神の恵みのみによって救われるということは、なによりも自分から解放される、自分の自我から解放されるということであります。自分を誇る必要はなくなったということであります。このあるがままの自分が赦されているということでありますから、もう自分を自分で飾る必要はなくなったということであります。

 そうはいっても、われわれは自分の日常生活において、多少は、というか、大いに自分をお化粧しないと生きていけなのが現実であります。自分を誇らないと生きていけないのです。いろんなことで自分を飾り、自分をお化粧しないと生きて行けないのです。それを根絶しようなんて、できることではないのです。

 その時に大事なことは、それを根絶しようなどと思わないことです。信仰の一番陥りやすいことは、完全主義なることであります。完璧主義になることであります。ある人がいっておりますが、われわれはしばしば神様よりも完全になろうとするということであります。信仰の世界においては完全主義になってはいけないのです。
 
 われわれは日常生活においては、女でも、男でも多少はお化粧しないと生きていけない、多少は自分に誇りがないと生きていけないのです。そういう時に、ああ、また自分は自分を誇ろうとしている、なんてなさけない奴だ、なんてかわいらしい奴だと、自分を受け入れてあげるということが大切なのではないかと思います。自分を完全に否定仕切ろうとしないことです。自分を絶対的に否定しないことです。
 クリスチャンはとかく、自分を自分で裁き過ぎるところがあるのてばないか。
パウロはあるところで、自分は自分で裁かない、自分は先走りして自分を裁かない、自分を裁くかたは神なのだといっているのです。
 神の恵みのみを信じて救われるということは、神が自分を最後的に裁いてくださるのだから、もう先走りして自分を自分で裁かない、自分を否定しない、自分をいじめないということであります。

 われわれはそのようにして、神の恵みによって、あの自分中心という狭いつまらない世界から解放されて、広いすがすがしい世界に解放されたのであります。
詩編の一一八編には、これは口語訳ですけれど、こう歌っています。「わたしが悩みの中から主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広いところに置かれた」。