「恐れからの偽善」 ガラテヤ書二章十一ー一四節

 今日からアドベント、待降節に入ります。主イエス、神の御子の誕生を告げる天使たちは、マリアに対しても、羊飼いたちに対しても、「恐れるな」と告げたのであります。

 マリアのところにいきなり現れた天使は「おめでとう。恵まれたかた、主があなたと共におられる」と告げます。マリアはいったいこれは何のことだろうと考えこみますと、天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなは身ごもって男の子を産む。その子をイエスとなさげなさい」と告げるのであります。」 
羊飼いたちが夜羊の群れの番をしていたときに、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした。羊飼い達は非常に恐れました。そのとき天使はいいました。
「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大いなる喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるメシアである。」と告げるのであります。

 クリスマスの第一のメッセージは、「恐れるな」ということであります。

 われわれは色々なことで恐れを感じることがあります。子供の頃は幽霊を恐れたり、お化けを恐れたりします。あるいは、悪魔を恐れるかも知れません。また年を取ってくればね死を恐れます。そうした幽霊を恐れたり、お化けを恐れたり、悪魔を恐れたりすることは、ある意味では滑稽なことかもしれませんが、しかしそうしたある意味での超越的なものを恐れるということは、非科学的な迷信を生むかもしれませんが、しかしまたある意味では、われわれに超越的な存在を感じさせるもので、われわれに信仰を目覚めさせるかもしれないと思います。

 宗教改革者のマルチン・ルターは、ある時、友人と野原を歩いていて、突然雷雨に襲われて、雷の恐ろしさのあまり、「神様、助けてください。助けてくださいますならば、自分は修道院に入って神様に仕えます」と思わず口ばしって、それから修道院に入ったということであります。
 恐怖心というものは、われわれを信仰に目覚めさせるものであります。死というものも、ある意味では、われわれ人間には、どうにも処理できないもので、何か超越的な力のようなものを感じるわけで、死を前にして、やはりわれわれは信仰に目覚めるのであります。

 しかし、われわれが日常生活で感じる恐れは、そうした超越的なものに恐れを感じるときよりも、われわれが一番恐れるのは、人間ではないかと思います。われわれが一番恐れるのは、人間ではないか。しかもそれはごく身近にいる人であります。舅であるかもしれない、姑であるかもしれない。いや、夫であるかも知れない、妻であるかも知れない、子供であるかも知れない、先生であるかも知れない、会社の上司であるかもしれない。われわれが日常生活において一番恐れるのは、人間ではないかと思うのです。そうして、そのときに、われわれは大変卑怯な人間になる、偽善的な人間になるのではないか。

 超越的なものに対して恐れを感じるときには、それは神の存在を感じさせられたり、生産的なものを生み出すかもしれませんが、人間を恐れる時には、何一つわれわれに生産的なものをうみださないのではないか。ただわれわれを卑怯な人間にしたり、偽善的な人間にしたりするだけではないか。

 それは超越的なものに恐れを感じるときには、われわれはただひれ伏すだけですけれど、人間に対して恐れを抱くときには、われわれはなんとかその恐れを回避できるのではないかと考えて、自分でなんとかしようと思うからであります。
 そういう時に、恐れは偽善を生み出すのであります。

 今日のテーマは「恐れからの偽善」ということであります。

 今日学ぼうとしております、聖書の箇所は、パウロが第一回の教会会議ともいうべきエルサレム教会の会議からアンティオキアに帰ってからのことであります。どの程度日にちが経過したかわかりませんが、ケファ、つまりペテロたちがアンティオキア教会にやってきたのです。おそらく異邦人伝道の成果を見にきたのかもしれません。何日か滞在していたようであります。
するとしばらくして、エルサレム教会から当時ペテロと同じように柱と目されていた主イエスの弟ヤコブから送られてきた人々がアンティオキア教会にやってきました。この人たちもおそらくパウロたちの活動を視察にきたのかもしれません。

 このヤコブから遣わされた人々が来たときに、ペテロの態度が一変したというのです。ペテロはそれまでは、異邦人たちと自由に親しく食事も共にして交わっていたのに、エルサレム教会からヤコブのもとから人々からくると、異邦人と食事を共にしなくなったというのです。

 ユダヤ教徒のユダヤ人たちは、異邦人とは食事を共にしませんでした。それは当時のユダヤ人たち、つまりユダヤ教徒たちには、厳しい律法があって、食べていい食物と食べてはいけない食物、つまり汚れた食物があったので、異邦人と一緒に食事をすると、その汚れた食物も食べることにもなりかねないので、異邦人と食事を共にすること自体が汚れることになると考えられていたようなのです。

 それでイエスがしばしば異邦人や罪人たちと平気で食事を共にしているのをみて、律法学者やファリサイ派の人々は激怒したのであります。
 しかしキリスト者になったユダヤ人たちは当然そうしたユダヤ教の律法からは自由になった筈なのであります。

 ペテロはエルサレム教会からの人が来るまでは、パウロと共に異邦人と食事をしていたというのです。これは使徒言行録の一○章には、ペテロが幻を見たという記事があって、その夢のような幻を経験して、神が創られものに、清い食物も汚れた食物もない、すべては清いのだ、だから異邦人を差別してはいけない、異邦人にも福音を伝えなさい」という啓示を受けているのです。ですから、ペテロは異邦人と平気で食事を共にすることができたのです。

 ペテロはアンティオキアに来たときには、異邦人と一緒に食事をしていたのです。それなのにエルサレムからヤコブの関係者がくると、割礼を受けている者たちを恐れて尻込みをして、異邦人と一緒に食事をしなくなったというのです。そして、そればかりでなく、ほかのユダヤ人たちもペテロと一緒にこのような心にもないことを行い、パウロがあんなに信頼していたバルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれていったというのです。

 それでパウロは大先輩であるペテロに面と向かって非難し、怒った。

 エルサレム教会は、最初はペテロが中心になっていたようであります。しかしそれがいつのまにか、ペテロよりも、主イエスの肉親である弟ヤコブがどうも中心になっていったようなのです。そしてこのヤコブはペテロほどには、福音というものがわかっていなかったようです。まだまだユダヤ教の律法主義を払拭していなかったようなのです。

 使徒言行録の一五章をみますと、あの会議の終わりにヤコブがこうパウロたちに勧告するのです。「神に立ち帰る異邦人を悩ませてならない」といいます。つまり異邦人に割礼をうけさせなくもよいというこです。そのあとこう付け加えているのです。「ただ偶像に備えて汚れた肉と、淫らな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」といったのです。これは明らかにユダヤ教の律法主義のなごりであります。そしてことはペテロが見た幻、主イエスから与えられた幻とは違うものであります。

 パウロは「ほかのユダヤ人も、ケファ、と一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれた」と書いております。 口語訳は、この「心にもないこと」というところと、「見せかけの行い」というところを、「偽善の行為」と訳しております。
 
 偽善的に振る舞うということは、見た目だけ善を装うとする時であります。 新共同訳は、これを偽善と訳することをしないで、「心にもないこと」とか「みせかけの行い」と訳したのは、もとの言葉に忠実に訳したということもありますが、ここでは別に善を装うとか、そういうことではないからではないかと思います。たとえば、主イエスが偽善者として非難した時は、彼らは施しをする時には、ラッパを吹き鳴らして、自分達は慈善をこれからする、良いことをするのだとみせかけてする、そのように自分を善人のようにふるまう、本当はただ自分を立派な人間に見せたいだけなのに、善人のように装う人間について、偽善者よ、といって非難しているわけです。

 しかし、ここでは、ペテロたちは別に善人を装うとしたり、善を装うとして、異邦人たちと食事を共にしなくなったというのではないのです。ただペテロの本心からいえば、異邦人と共に食事することは、福音的なことで、神がよしとしていることなのだとわかっていながら、ただあのヤコブを恐れて、異邦人と食事を共にすることをやめるようになって、退いていったというのです。
 自分の本心とは違うということをしたということで、ある意味では、偽善的行為になるということであります。

 われわれが偽善的になる時、われわれが心にもないことをする時というのは、恐れから始まるのではないかと思います。何を恐れるのかといいますと、人間を恐れるときに、われわれは自分を偽り、自分の本心を偽り、心にもないことをするようになるのではないかと思います。

 われわれは幽霊を恐れたり、悪魔を恐れても、偽善的になることはありませんが、われわれは人を恐れ出すと偽善的になっていくのであります。それはなぜかと言いますと、幽霊とか悪魔とかは、ある意味では超越的な存在で、われわれ人間にはどうにも処理できないものですから、ただ恐れおののくだけですが、人間に対しては、われわれはなんとか処理できる思える、なんとかごまかせるのではないかと思うから、自分の本心を偽っても、相手にはわからないだろうと思うから、自分を偽れるのでなはいかと思うのです。

 主イエスは、あるときに、弟子達に人間を恐れるなといわれました。それはこれから福音を宣べ伝えようとするときに、必ず迫害に会うだろう、しかし人を恐れてはならないといわれたのです。

 マタイによる福音書の一○章の二六節からのところです。「人々を恐れるな。覆われているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない」、つまり真理というのは、いつかかならず勝利するのだからいつも真実である福音を宣べ伝えよといわれるのです。そして、こういわれました。
「体を殺しても、魂を殺すことのてぎない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるかたを恐れよ。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたかだの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな、あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている」と言われるのです。

 これはルカによる福音書では、「恐るべき者がだれであるか教えよう。殺したあとでさらに、地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れよ」と、なっております。
 
 主イエスは、人間を、人を恐れるなというのです。そして神を恐れなさいというのです。この神はわれわれの体だけでなく、われわれの魂までも地獄で滅ぼす権威をもったかたなのだから、そのかたを恐れよ、といのうです。しかし主イエスは、そのあと、不思議なことに、「恐れよ」といっておきながら、すぐ「恐れるな」といわれるのです。神は本当に恐ろしいかただけれど、この恐ろしいかたを信じて行動するときに、人間をおそれなくて済むようになるし、不思議なことに、この神様すら恐れなくてすむようになる、だから恐れるな、といわれるのです。

 なぜなら、この神さまは、われわれの魂を地獄で滅ぼす権威をお持ちのかたでありながら、その権威を行使しないで、つまり裁くことにその力を用いないで、われわれを救うことにおもちいになるからだというのです。あの価値のない雀の一羽すら、その死にかかわっておられる、そのありきたりの雀の生き死にもかかわっておられる、ましてわれわれ人間については、いうまでもないではないかというのです。
 
われわれの髪の毛一本一本までも数え尽くして、つまり、われわれの弱さ、醜さのすべてを知り尽くしておられて、それでもわれわれを救おうとなさっておられる、それだから恐れることはないというのです。

 われわれの髪の毛一本一本を数え尽くしておられるというのです。われわれのすべてをお見通しだというのです。それならば、われわれはこのかたの前で、自分を装う必要はもうない、そんなことをしても仕方ないということであります。このかたの前に立つならば、われわれもう一切の偽善から解放されるではないかというのです。われわれは人を恐れなくなると、一切の偽善から解放されるということであります。

 人を恐れ出すと、われわれはどうしても偽善的になって、自分の心にもないことをするようになるのでないかと思います。そして人を恐れないようにするためには、神を恐れなくてはならないと思います。そして、それはただ神を恐れるのではなく、ただ、神はわたしのすべてをおみとおしておられる恐いかただというのではなく、この神はすべてを見通して、しかも救ってくださるかただと知って、信じて、このかたを恐れていく、その時に一切の恐れから解放されるということであります。そして偽善的なことから解放されるということであります。

 パウロは、ペテロ達が心にもない偽善的な行為に出て、福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないを見たとき、みんなの前でペテロに向かってこう言った。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のような生活をすることを強要するのか」。

 これは生活態度を変えるなということであります。「あなたがたはクリスチャンとして割礼はなくてもいいという信念をもって生きている筈だ。もうキリストによって自由にされて、清い食物とか汚れた食物とかという区別や差別から解放され生活をしている筈だ。異邦人と一緒に食事しても汚れたことにはならないという態度で生きていたのに、どうしてそれを今更変えてしまうのか」ということであります。
 
 れわれはこのパウロの言葉を読んだときに、すぐ思い出すパウロの言葉があるのではないかと思います。それはコリントの信徒の手紙の第一の九章一九節からの言葉です。「わたしは誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になった。できるだけ多くの人を得るためだ。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためだ。律法に支配されている者に対しては、わたし自身は律法に支配されていないのだが、律法に支配されている人のようになった。律法に支配されている人を得るためだ」といっているのです。
 ここではパウロは人に対して、生活態度を変えているといっているのです。自分自身は律法に支配されていないが、ある時には律法に支配されているようにふるまったというのです。

 現に使徒言行録をみますと、あの一五章のすぐそのあとに、ギリシャ人を父とする、つまり異邦人であるテモテに、割礼を受けさせて、伝道旅行につれていったというのです。そこでは、はっきりと、「ユダヤ人の手前」そうしたというのです。

 このパウロのやりかたは、ペテロを非難したこの時とはずいぶん違うような印象を受けるのであります。しかしわれわれこれを読むときに、その違いはすぐ分かると思います。ベロが態度を変えたのは、自分の保身のためであり、パウロが態度を変えたのは、愛のため、人を福音に導くためだからであります。

ある禅のお坊さんの言葉を思い出します。「嘘の方便ということがある。しかしその方便としての嘘にも真実がなければならない」といったというのです。われわれはやむを得ず、嘘をつかなくてならないこともあると思います。しかしその方便としての嘘、手段としての嘘にも真実がなければならないというのです。われわれは自分の子供に対して、いくらでも嘘をつかなくてはならいことがあると思います。しかしその時には、その嘘には子供のためという真実があって、はじめてその嘘は正しく用いられるのであります。

 われわれはそのように、人のために、愛のために、相手を傷つけたくないために、われわれは嘘をつくことがあります。しかし、その嘘には、やはり本当に相手のためにという真実がなければならないということであります。

 いや、必ずしも相手のためにというきれい事ではなくて、自分のために、自分の保身のために、ぎりぎりのところで嘘をつかなくてはならないときもあると思います。しかし、その嘘にも一片の真実があればいいと思うのです、ぎりぎりの嘘ということもあると思います。ぎりぎりのところで、自分を守らなくてならないためにという嘘もあると思います。そういう嘘にはやはり一片の真実があると思います。

 パウロはその後こういうてのです。「弱い人に対しては、弱い人のようになった。弱い人を得るためだ。すべての人に対してすべてのようになった。なんとかして何人かでも救いたいからだ。福音のためならば、わたしはどんなことでもする。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためだ」というのです。

 このところで鈴木正久が巧みに説明しております。「同じ自動車のハンドルを右にまわすにしても、山道で道が右回りの角で右にまわすのと、左折すべきところで、うっかり右にまわすのでは大違いだ。真実の行動は、ただ外形だけでは決して正否は決められない。時と場合である。そして正しい行為、それはあの信頼、信仰から出る自由な行動である。まちがった行為、それはあの恐れ、不信仰から発する曖昧な行為だ。このことをパウロは『すべて信仰によらないことは、罪である』と要約している」といっているのであります。

 パウロはこのガラテヤ書では、そのあと、一五節から、もうペテロがどうした、バルナバがどうした、ということをまるで忘れて、「わたしは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のように罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされことを知っている」という、ガラテヤ書の中心主題に移っていくのであります。

 われわれとしたら、このあと、ペテロはどうしたか、この後、バルナバとパウロの関係はどうなったのかと知りたいところであります。しかしもうパウロはいっさいそんな人間的ないわば、ゴシップ的なワイドショウ的な関心はいっさい興味をしめさないで、信仰の本質論に入っていってしまうのであります。