「信仰によって義とされる」 ガラテヤ書二章一五ー二一節

 二章一五節からは、ペテロたちが福音の真理からはずれようとしているのをパウロは見てとって、「福音の真理」とは何かという話に移ってきます。

 そしてここから、福音の本論に入っていきます。ここのテキストの新共同訳のタイトルは、「すべての人は信仰によって義とされる」となっておりますが、この「義とされる」という言葉は、われわれにはなじみにくい言葉ではないかと思います。「義とされる」という言葉は日本語では使わないのではないかと思います。「義とされる」ということは、「正しいとされる」「是認される、よしとされる」という意味であります。

 問題は、何がよしとされるのかということであります。何が是認されるのか。何か正されるのか。

 われわれはイエス・キリストを信じても、ただちに義人になる、つまり立派な正しい人になっていくというのではないのです、正しい人間として認められるということではないのです。それでは何が正しいとされるのか。それは神との関係が正しいとされる、神との関係が正されるということであります。神に帰ることが赦されるということであります。
 今われわれは新共同訳聖書を用いておりますが、この訳のもうひとつ前の今日の訳の土台になっている訳が、共同訳となって新約聖書だけが出版されたことがあります。もう現在は恐らく売っていないと思います。その共同訳では、「義」というところ、「神の義」というところの「義」を、大変大胆に訳しております。
こういうふうに訳しているのです。「すべての人は信仰によって義とされる」というところを、「信仰者すべてが入って行ける神との正しい関係」と訳されているのです。つまり、新共同訳や口語訳が「神の義」と訳しているところを「神との正しい関係」と訳しているのです。
 これはやはり意訳しすぎるということで、今日のように、原語に基づいて「神の義」と、そのまま訳されているわけです。
 しかし内容から言うと、この共同訳の「信仰者が入っていける神との正しい関係」という意味が正しいのです。義と言う言葉は、難しい言い方をすると、関係概念の言葉だということであります。つまり、義という言葉は、それだけが独立して使われる言葉ではなく、なんかとの関係のなかで使われる言葉だということであります。つまり、神との関係がイエス・キリストの十字架の贖いによって確立した、あるいは回復したのだということであります。

 ですから、われわれは神によって義とされても、別にいきなり義人になったり、正しい人になったり、立派な人間になったり、聖人のような人間になったわけではないのです。クリスチャンになる前と、なったあとでは、われわれの人間性などはある意味では少しも変わらないのです。

「義とされる」ということは、われわれが立派になるということではなく、「神との関係が正される」「神との関係が回復した」ということであります。

一六節には、「律法の実行によっては、だれ一人として義されないからです」とあります。これは単にわれわれ人間は律法を完全に守れないから罪人だというのとは違うのです。さらにいえず、律法をただ字面だけでなく、それをもっと深めて、その内容を深めて、律法をまもっても義とされない、救われないということなのです。
 つまり、「殺すな」という律法があって、イエスが指摘したように、それは単に現実に人を殺すなということではなく、それは兄弟に対して怒ったり、馬鹿者よばわりするな」という意味をもっているのだと受け止めて、人を怒ったり、馬鹿者よばわりしたことはない、だから自分は律法を守っているといっても、義とされないという意味なのです。そういう人が実際にいるかどうかは別として、ときどき、そういう人は確かにいるのですね、しかしそれでもその人はそれでは救われない、義とされないということなのです。

 しかしパウロが人間は律法を完全に守れない、だから律法の実行にによってはだれ一人として義とされないといったのは、そういうことではなく、われわれは律法を守れるば守るほど、自分の義を立てようとして、自分を誇りだしてしまう、そうしては律法を守れない人を探し出しては裁き始める、律法を守ろうとすればするほど、自分の中の自我が顔を出してきて、神に従う事よりも、自分の正しさを主張することにやっきになっている、それは本当の意味での神が欲しておられる律法に従おうとしていないということであります。われわれは律法の中の善を欲すれば、欲するこど悪をなしてしまうというジレンマに陥るということであります。

 そういう意味で、われわれの中にそういう自我、自己主張がある限り、神の律法を守れないということであります。
そういうわれわれが救われるためには、神の前に徹底的に自分の自我が打ち砕かれて、もう自分の力ではこの自分の自我をなくすなんてことはできない、神様がこの自我を打ち砕いてください、許してください、この自我の強い自分をあるがままに受け入れ、赦して導いてください、と祈れるようになって、その神の恵みを信じて、われわれは救われるのだ、神との関係が回復されるのだということであります。われわれが神様の前に自分の我を主張しなくなって始めて、神との関係は正される、回復するのだということであります。

 これはわれわれ人間の親子の関係、夫婦の関係を考えてみても、子供が自分の正しさばかり主張していたら、親子の関係は成り立たないと思います。親はちっともうれしくないし、子供を愛せないと思います。子供が自分の正しさを主張するのをやめて、もっと親を信頼するようになったときに、親子の関係は成立すると思うのです。それは夫婦の関係でも同じことで、お互いに自分の正しさばかり主張しあっていたら、夫婦の関係はぎくしゃくするだけだと思います。

 さきほど、新共同訳の前の共同訳では、「神の義」というところを「信仰者すべての人が入っていける神との正しい関係」と訳していると紹介しましたが、ここで是非考えて欲しいことは、「正しい関係」というように考えるとまた間違いが起こるのではないかということであります。
 「正しい関係」というよりは、「関係が正される」ということのほうがいいと思うのです。われわれは「正しい関係」なんて言い出しますと、またわれわれは自分の心のありかたとか、自分の姿勢を問題にしだすからであります。

 放蕩息子のたとえていえば、放蕩息子の兄の姿勢であります。これはファリサイ派の人々や律法学者のことをイエスはたとえているわけですが、彼らは神との関係を正しい関係をもっていると自負していたわけです。
 放蕩息子の兄は、弟と違ってきちんと父親のいいつけを守って、労働をしていた、仕事をしていた、そして弟のように父親から離れようとはしなかった。正しい関係をまもっていたと思っているわけです。だから放蕩に身を持ち崩して困って帰ってきた弟を父親が喜んでもてなすと、怒ってしまって家に入ろうとしないのです。
 兄は父親にこういうのです。「わたしは何年もお父さんに仕えている。いいつけに背いたことは一度もない。それなのに、わたしが友達と宴会をするための子山羊一匹すらくれなかったではないですか」というのです。この兄は実際は父親に対してそんな要求をしたことはないのです。それを求めたら、父親は喜んで子山羊をくれた筈なのです。なぜかといいますと、父親はこういっているからであります。
 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と言っているのです。「わたしのものは全部お前のものだ」といっているのです。

放蕩息子の兄は、自分は父親と正しい関係に立っている、だからもっともっと父親は自分に報いてもいいはずだと考えていた。つまり、それは言ってみれば、
ギブアンドテイクの関係、これだけのことをしたのだから、これだけのお返しを要求するという商業取引の関係でしかないということであります。
 
 それに対して、父親は、「子よ、お前はわたし一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」というのです。それが父と子の正しい関係なのだということなのです。つまり、問題は「一緒にいる」ということが一番大切なのだということなのです。商業取引の関係ではないということであります。だからこの父親にとって、弟が放蕩に身を持ち崩した息子であっても自分のところに帰って来た、そして今一緒にいる、もうそれだけでうれしいのです。
 それは「正しい関係」なんかどうでもいいのです。「関係が正された、回復した」、それだけでうれしいのです。関係の中に「正しい関係」ということを持ち出すと、それはもうたいがいぎくしゃくしてくるのではないかと思います。

 たとえば、親子の関係の中に、あるいは、夫婦の関係に「正しい関係」ということをもちだしたら、その関係は大変お行儀のよい、冷たい関係になっていくのではないか。

 あの放蕩息子の兄は、父親の関係でいえば、正しい関係であったかもしれません。しかし、それは決して愛の関係ではなかったと思います。本当に彼は父親に甘えたことがあるだろうか。父親に信頼していたかということであります。

 親は自分の子供に対して、「正しい関係」など求めているだろうか。親が子供に求めているのは、「関係」そのものであって、そこに「正しい」ということは本当はちっとも求めていないのではないか。もっと甘えて欲しい、もって信頼して欲しい、もっと愛して欲しいと望んでいるのであって、なにも子供に対して、正しい関係など求めてはいないのではないかと思うのです。

 夫婦の間で、「正しい関係」を持ち出したら、その夫婦関係は必ず破綻するのではないか。冷たいものになっていくのではないか。それはもちろん、相手の人格とか自由を無視していいというのではないのです。しかし夫婦の関係がギブアンドテイクという商取引のようになってしまっていたら、それはもはや愛の関係ではなくなってしまうのではないか。

 われわれが考えなくてはならないことは、「正しい関係」ではなく、「関係が正される」ことなのではないかということなのです。つまり、関係が継続していくということ、交わりが続いていくということなのです。交わりがつづいていくためには、信頼が必要だということであります。つまり、愛という信頼が必要だということなのであります。

 信仰義認とは、「信仰によって、全ての人がはいっていける神との正しい関係」ではなく、つまり、「正しい関係」ではなく、「信仰によって、全ての人がはいっていける神との関係が正される」ということ、「関係が正される」ということであります。

 そうしてもうひとつ今日考えておきたいことは、一六節の言葉です。「けれども、人は律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義とされることを知って、わたしたちもキリスト信じました」というところですが、ここでは、「知って」ということと、「信じました」ということが切り離されて書かれていることなのです。
 「知る」ということと、「信じる」ということとは、やはり違うということなのです。

 これは私自身の経験ですが、前にもお話ししたことがあると思いますが、わたしが律法主義的キリスト教に陥って、神の愛というものがどうしてもわからないときに、橋本ナホという牧師に出会って、「あなたは律法主義だ。それは聖書の信仰ではない、それはキリスト教ではない」といわれてからも、それでもずっと神の愛がわからなかったのです。
 知識としては、信仰義認ということはわかった、われわれが救われるのは、善い行いをしたからではなく、ただ神の恵みを信じる信仰によって救われるのだということはよく分かった、それでもわたしは神の愛を自分のものにすることができずに、先生はそういうけれども、本当にはやはり、少しでも善い行いができるようにならなければ行けないのではないか、救われないのではないかという思いを断ち切ることは出来なかったのです。
 知識として知ってはいても、信じることはできなかった、信じようとしなかったのです。そうした状態が一年かそれ以上続いたのです。

 そうしてとうとう橋本牧師から見放されたような気がして、自分からキリスト教を捨てたのです、こんなに熱心にキリスト教を求めても神の愛がわからないのだから、もう自分はキリスト教に縁がなかったのだろうと思って、礼拝にゆくことをやめ、聖書を読むことをやめ、祈ることをやめてしまったのです。そういう時に、コリント第二の手紙の一二章の言葉「わたしの恵みはあなたに対して十分に注がれている、わたしの力はお前の弱いところに現れる」という聖書の言葉がわたしを捉えたわけです、そのときにわたしはこの神を信じることができたのです。そうして自分から解放されたのです。

 ですから、ただ知るというだけでは駄目で、信じることに至らないと駄目だということであります。そしてこの場合の信じるということは、自分が熱心にお祈りをしたとか、敬虔深くなったとか、信心深いとか、そういうこちら側の態度とか意識とかではなく、まったく神の恵みに対する信頼なのです。

 わたしの場合でしたらこちらが神を見放したときに、神のほうがわたしを捉えてくださったということ、そういう神を信じるということなのです。

 パウロの言葉に、「われわれが神を知っているのに、いや神に知られているのに」と言う言葉がありますが、自分が神を知るとか、自分が神を熱心に信じるとか、そういう自分が、自分が、ということではなく、神のほうでこの自分を知ってくださっている、そしてこの神に委ねてみる、そういう一種の賭けをして、神に自分を預けてみる、そういう決断をする、あるいはそういう決断をさせられるということ、それが信じるということであります。そうでないと、われわれはいつまでたっても救われない、神の恵みがわからないということであります。
 
 わたしは大人になるまで自転車にのれませんでした。自転車は、ペダルさえこいでいれば、倒れないのだということは知識としてはしっていたのです、わかっていたのです。しかしわたしはそれを信じられなかった。だから、自分の足を地上から離すことができなかったからです。自分の足を地上から離して、自分のからだを自転車のペダルにあずけてしまわない限り、自転車には乗れないのです。信じるということはそういうことだと思います。

 しかし大人になればなるほど、われわれは用心深くなって、自分の自信にこだわって、足を離せなくなってしまうのではないかと思います。
 しかしここでさらに大事なことは、われわれは二輪車に乗れるようになるためには、子供だったならば、大概はじめは、後ろから親が支えてくれて、子供がたおれそうになったら、転ばないように支えてくれる、そういう練習を積み重ねて
ああ、自分の体をこの自転車に預けてもいいのだなということがわかってくるということなのです。
 自分の力だけでは、なかなか自転車に乗れるようにはならないということなのです。自分の力、自分のペダルを踏む力だけではなかなか自転車には乗れるようにはならないということであります。誰かの助けを必要とする、誰かの支えを必要とするということであります。

 それが聖霊の導き、神の導きということであります。それはわれわれの信仰の力なんてものではないのです。われわれの信心深さとか、敬虔深さとか、祈りの力とか、そんなものではないのです。
 「信仰によって義とされる」という時の「信仰」は、そんなわれわれの信心深さなんかではないということです。相手に対する信頼の深さであります。

 われわれは自転車に乗れるようになりますと、確かにもう人の支えを必要としなくなります。しかし、それはその時でも、自分のペダルの漕ぐ力ではなく、自転車というものの構造の働きがわれわれを倒れないように、前に走らせてくれるのであって、自分の力ではないということであります。

「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされることを知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである」ということであります。
 信じるということは、やはり最後のところでは、信じさせられる、聖霊の働きがなくてはならない、上からの強い働きかけがあって信じさせられるようになるということではないかと思います。必ずそういう働きかけが上から与えられる、それを信じなくてはならないと思います。