「キリストが私のうちに生きて」 ガラテヤ書二章一五ー二一節

 前の説教で、「信仰によって義とされる」ということは、新共同訳聖書の前の訳では、「信仰によって義とされる」というところを「すべての人が入っていける神との正しい関係」と訳されている、とお話しました。神の義というのは、神との正しい関係という意味だとお話したのであります。救われるということは、神との正しい関係に入ることだということなのであります。

 そしてそれはさらにいえば、「神との正しい関係」というよりは、「神との関係が正される」ということなのだとお話をしたと思います。これは今度改めて説教をするに当たって、わたしの新しい発見でありました。

 そのことをまず今日はもう一度繰り返して覚えておいて欲しいと思うのです。大事なことは「神との正しい関係」ではなく、「神との関係が正されることだ」というこなのです。関係の中に「正しさ」を持ち込むと必ずその関係はぎくしゃくすることになるということなのです。関係そのものまで壊してしまうということなのです。

 そのことをよく語っている一つの詩を思いだしまして、今日はまずその詩を紹介したいと思います。それはもうみなさまもよくご存知の詩ではないかと思いますが、それは吉野弘さんの「祝婚歌」という詩です。これは結婚式の披露宴のなかのスピーチでよく紹介される詩なのですが、少し長いので、後半の部分は省略します。

「二人が睦まじくいるためには、愚かでいるほうがいい。立派すぎないほうがいい。立派すぎることは、長持ちしないことだと気づいているほうがいい。完璧をめざさないほうがいい。完璧なんて不自然なことだとうそぶいているほうがいい。二人のうちどちらかがふざけているほうがいい。互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうかあとで疑わしくなるほうがいい。正しいことをいうときは、少し控えめにするほうがいい。正しいことを言うこときには、相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい。立派でありたいとか、正しくありたいとかいう無理な緊張には、色目を使わず、ゆったり、ゆたかに、光を浴びているほうがいい。・・・」

 「正しいことをいうときは、少し控えめにするほうがいい。正しいことを言うときには、相手を傷つきやすいものだと気づいたほうがいい」というのであります。「立派でありたいとか、正しくありたいとかいう無理な緊張」というところも面白いところであります。

 われわれの正しさ、人間の正しさというのは、神の正しさとは違って、いつも自分の正しさであって、自分の正しさの主張ではないかと思うのです。だから、正しさを主張するときには、必ず人を傷つけ、いたずらに肩を張り、緊張してしまうのではないかと思います。

 それに対して、神の正しさとは、愛の正しさであります。人を赦す正しさであります。ローマ書の中心テーマは、「神の義は福音の中に啓示された」ということであります。つまり、神の正しさは、福音の中に、つまり、罪の赦しという福音の中に啓示された、愛のなかに啓示されたということであります。

 われわれ人間が「正しい関係」を求めようとするとき、そこには、必ず自己の正しさを主張しようとする魂胆がひそんでいることに気がつかなくてはならないと思うのです。
ですから、大事なことは「正しい関係」を目指すのではなく、いつも「関係を正していく」ことを求めなくてならないと思います。関係を正していくために一番必要なのは、愛でしょう、そしてそれはなによりも忍耐という愛、謙遜な愛であります。

 今日は一七節からのところを学びたいのですが、この一七節から一八節のところは、議論がユダヤ人キリスト者、律法主義的なものをまだまだ引きずっているユダヤ人キリスト者との議論なので、われわれとはあまり関係のない議論なので、ここは今日は省略したいと思います。

 そしてパウロは再び、一九節から信仰義認の本論にもどっていくのであります。一九節「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのだ」というのであります。

 律法に死ぬとか、律法に対して死ぬ、ということはどういうことでしょうか。それは「神に生きる、神に対して生きる」ということと対照的に書かれておりますから、こういうことだと思います。
 「神に生きる」というのは、神のもとで生きるとか、神によって生かされる、ということですから、律法に死ぬ、というのは、もう律法的なものによって支配されない、そういう生き方をしないということであります。

 具体的にいえば、悪いことをしたら、死んだあと、地獄にいくぞ、というようなおどされかたをして、生きることをしないということであります。もう律法的なものでおどされるような生き方からは脱却した、そういう生き方に対しては死んだ、そういう生き方はやめたということであります。

 そういいますと、イエスご自身が、「情欲をいだいて女を見るな。もし右の目がそうした罪を犯すならば、それを抜き出して捨てよ。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ込まれないほうがあなたにとって益である」といわれたではないか、そういう言葉があるではないかといわれるかもしれません。
 わたしなどは、最初にキリスト教を教えられたときに、そういう聖書ばかり読まされて、地獄に落とされるという恐怖感に脅かされて育ったような気がします。

 しかしこの言葉は、律法主義者たちが律法の字面だけを守って、たとえば律法の「姦淫するな」という字面だけを守って、自分は姦淫していないから律法をまもっているし、だから救われると思い高ぶっている、そういう奢り高ぶっている律法主義者たちを厳しく批判するために、イエスがいわれた言葉であります。

 その前のところでは、ユダヤ人たちは、律法の言葉「殺すな」という律法をとりあげて、自分たちは人を殺したことがない、だから律法を守っているのだと、いって誇っている、それに対してイエスは、律法が「殺すな」ということで言おうとしていることは、ただ殺さなければいいということではなく、兄弟に対して怒るな、ばかというな、ということまでも含んだ言葉なのだといわれているのであります。

 ですから、自分は姦淫という罪を犯していないと自分を誇っているユダヤ人に対して、お前達は「情欲をいだ
いて女を見る時があるではないか、それは姦淫と同じ罪を犯しているのだ」ということをいうための言葉であります。ただ、人を脅して、お前達は地獄行きだというための言葉ではないのです。

 聖書の言葉を、その前後関係の文脈から離れて読むことは、危険であります。
イエスの言葉も、必ずどういう状況で、誰を相手に対していわれたかということを離れて読むと、読み間違えます。

 イエスは、そのように情欲をいだいて女をみてしまうわれわれのために、十字架について死んでくださったのであります。第一、イエスは、ヨハネ福音書の八章にあるように、姦淫を犯した女に対して、「わたしもあなたを罰しない、今後は罪を犯さないように」と言われたであります。イエスはその人に対して、お前は地獄行きだといわなかったのです。イエスは、罪を犯している者は、地獄に堕ちるとおどすために来られたのではないのです。罪を犯してしまうわれわれを赦し、救うためにこの世に来られたのであります。

 われわれは聖書を読むときに、イエスの生涯の終わりまで、その全体をみすえて、読まなくてはならないのであります。言葉をかえていえば、イエスの十字架から聖書を読まなくてはならないということであります。

 そしてここで考えていただきたいことは、律法に死んだものは、今度は神に生きるものになる、と言われているところであります。つまり律法の支配のもとから脱却したものは、今度は、神の支配のもとで生きるということであります。

 律法のわざを守ることによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるという信仰義認を考えるときに、律法と対比されるのが、信仰であると考えがちなのですが、たしかにそうなのですが、その「信仰」の内容が問題なのです。その「信仰」は、われわれの信心深さというような心のありかたではないということなのです。
 つまり、律法という行為、行いに対して、信仰というわれわれの心のありかたが対比されていると考えることは間違いであります。

 つまり、律法によってではなく、いわゆる自分の信心によって救われるのだ、ということではないということなのです。

 つまり、律法に対比されるのは、われわれの信仰ではなく、神なのです、あるいはイエス・キリストなのです。自分の信仰ではないのです。

 前の説教で、信仰による救いを説明するために、自転車に乗ることをたとえでお話をしました。自転車に乗るためには、倒れるかもしれないけれど、ともかく自分の足を地面から離さないと、地面から自分の足を離して見るという冒険、賭けをしないと、自転車は乗れないという話をしました。

 つまり自分の足を頼りにするのでなはく、自転車はこいでいれば、たとえ二輪車でも倒れないのだと信じてみることが大事だといいました。そういいますと、やはり大事なのは、自分が一生懸命に漕ぐと言うことが大事だということになって、救われるためには、信仰が大事だということになってしまうと、これは誤解をまねくことになると思うのです。そういう自分の「信じる力」が重大なのだと考えてもらっては困るのです。

 自転車が倒れないのは、自分のこぐ足の力ではないのです。自転車の優れた構造であります。あるいは慣性という宇宙の法則といったらいいかもしれません。

 われわれが救われるのは、律法のわざを守るというわれわれの行いではないのです。しかし、そうかといって、われわれの信心、心のもち方、宗教的な敬虔深い信仰心、熱心な祈り、そうしたものでもないのです。もしそう考えるならば、その信仰もまたわれわれのひとつのわざになってしまうことになりかねないのであります。信仰という自分のわざによって救われるということになりかねないのであります。

 そうではなく、イエス・キリストの恵みによってわれわれは救われたのであります。ですから、信仰によって救われる、といったときに、すぐただちに、恵みによって救われると、一気にいわなんてはならないのであります。パウロはローマの信徒への手紙の四章一六節では、これは口語訳ですけれど、「すべては信仰によるのであって」といった後、それに続けて、「それは恵みによるのであって」とただちに言い換えているのであります。

 一九節をみますと、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」とあります。ここはわかりなくいところかも知れません。
 「神に生きるために、律法に死んだ」というところはわかりますが、「律法によって」というところがよくわからないのです。これはある訳では「律法が殺した」と訳しているそうです。われわれを活かす筈の律法が、われわれを殺した、その場合の「殺した」というのは、「われわれを絶望に追いやった」というような意味にとったほうがいいと思います。律法はわれわれを絶望に追い込むのです。

 もう律法によってはわれわれは罪の自覚が生じるだけだということであります。パウロは、ローマ書の七章で書いておりますように、一生懸命律法を守ろうとすればするほど、自分に絶望して、「わたしはなんと惨めな人間なのだろうか。死に定められたこの体を誰が救ってくれるだろうか」と嘆くようになっているのであります。

 律法を守ることによる絶望が、われわれを神に目を向けさせるということであります。そしてわれわれはキリストと共に十字架につけられるのであります。それはわれわれの「自分が自分が」というあの自我の主張が、十字架につけられるということであります。

 「わたしはキリストと共に十字架につけられています」というところは、この言葉自体はなにかわれわれを大変悲愴な思いにさせられるところではないかと思います。あるいは、キリスト者の生き方は殉教を目指さなくてはいけない、禁欲主義的に生きなくてはいけないかのようにおもさせられるところであります。

 しかしここはそういうことではなく、自分の自我がキリストの十字架によって殺されたということであります。その都度、その都度、殺されていくということであります。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」、だから自分は殉教の死も辞さないのだなどといいだしますと、われわれまだまだ自分の自我から解放されていない、自分の自我を十字架につけて死なせていないのであります。
 そのあと、パウロは「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしの内におられる」というのです。
 「生きているのはわたしではない、キリストがわたしのうちに生きているのだ」などといわれると、なにかわれわれが神秘的になって、恍惚状態になって、熱にうかされるようにして、ただキリストに導かれるのだと想像するかもしれませんが、ここではそんなことを言っているのではないのです。

 なぜなら、パウロはすぐそのあと、「わたしが今、肉において生きているのは」と言い出すからであります。われわれは相変わらず、この世であの自我に支配されかねない肉において生きているのです。ですから、救われたわれわれは神秘的になったり、恍惚状態になって生きることではないということがわかります。

 パウロはこういいます。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものだ」と述べるのであります。
 もう律法の命令とかおどしとか、律法の支配によって生きるのではなく、わたしのために十字架についてくださった神の子に対する信仰によって、キリストの愛の支配のもとで、キリストの導きを信じて生きるということであります。

 このことを鈴木正久が巧みな比喩でこう述べております。これは山登りにたとえられる。軽装で山に近づいた人が、そびえ立つ山のそばへ近寄ったときに、思い返して引き返しガイドをたのみ、装備を整え直して登山するようなものだ。律法の厳しい姿をみたときに手軽に「わたしはそれを守ります」となどと言わないで、律法に背を向けてそれから離れる。そして神が与えてくれたガイドであるキリストのところへ行った。そうしてキリストというガイドに導かれて山に登るのだと説明しているのであります。

 そして鈴木正久は続けてこういいます。「それはキリストの十字架が力強くパウロに迫ったから、つまり、『わたしはキリスト共に十字架につけられ』たからこそ、律法の山に一人で登ろうとする暴挙を止められ、十字架によって装備をやり直させられたということだ。このキリストに出会う以前は、無謀な登山家みたいなものだったのだ」と説明するのであります。
 大変わかりやすいたとえだと思います。

 しかしこの比喩でひとつわたしが気になることがあります。それは「そびえ立つ山のそばへ近寄ったとき、思い返して」とか、「律法の厳しい姿をみたとき」とか、という表現であります。こういうところは、鈴木正久のなかにある一種のヒロイズムというか、理想主義的ロマンチシズムが感じられて、それは少し違うのではないかと思うのです。

 つまり、神が与えてくださった律法は、本当はそびえたつ厳しい山でもなく、われわれが守るのが大変難しい厳しい要求といったものでもないということなのです。もともと神が与え下さった律法は、われわれが幼子のごとく謙遜でありさえすれば、だれでもが守れるもの、従うことのできるもので、それは決して英雄主義的な気分で守ろうとするものではないと思うのです。

 それは詩編のなかにも出てまいりますように、神が与えてくださった律法はもともとは、本当に甘い蜜のようなものなのです。それは幼子でも、どんな学のない庶民でも守ることができるものとして、神は与えてくださった筈です。われわれが神の前に謙遜でありさえすれば、誰でも守れるものなのです。それを厳しいそびえ立つ山にしてしまったのは、律法学者であり、ファリサイ派の人々であります。

 つまり律法というのは、本当ははじめから神と共に守るものであったのです。神というガイドがなければ守ることもできないし、守ってはいけないものだったのてす。それをわれわれは忘れて、自分ひとりで登ろうとした。そしてそれはいつのまにか、高い困難な山に登ってそれを競い合うものにしてしまったのであります。
 もともと律法はキリストというガイドを必要とするものだったのであります。

「キリストがわたしのうちに生きて」、そうして「わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によって」、律法は守るべきものだったのであります。

だからわれわれは「神の恵み」を無にして、律法を守ってはいけなかったのです。そのことがキリストの十字架を知った時にわれわれは改めて知らされたのであります。

律法というものは、律法を守れた時には、律法を守れましたと神様に報告しにいき、律法を守れなかったときには、守れませんでした、どうかお許しください、どうぞ私に力を与えてください、とますます神に祈り、神のところにいくためのもの、それが律法なのです。ところが、われわれは律法を守れるといっては、自分を誇り、律法を守れない時には、神から背を向け、うなだれて、次第次第に神から遠ざかっていこうとしたのであります。
 それでは神の恵みを無にすることになるのであります。神の恵みを信じていない生き方になってしまうのであります。

 「わたしは神の恵みを無にしない。もし人が神の恵みのお陰ではなく、律法の
お陰で義とされると考えるならば、「キリストの死は無意味になってしまう」とパウロはいうのであります。