「神からの義を受けて」    三章二−九節

 以前、南さおりというアイドル歌手かおりましたが、その人がもう歌手をやめると発表した時に、今まで貰ってきたトロフィーとか、歌う時着用していたきらびやかな衣装が、すべてがらくたに見えて来たと言ったそうであります。それを聞いていて、ある人が「ああ、この人が歌手を止めるというのは本物だなあ」と思ったというのです。つまり、多くの歌手が一度は歌手生活を止める、引退すると公表しながら、しばらくすると復帰するということが幾度もあったわけです。そうした中で、南さおりのこの引退の決意は本物だな、と思ったというのであります。

 そのように、何かを捨てる、今までの生活を全く変えてしまうということは、今までの価値観を変えられてしまうということなのです。今まで自分にとって名誉だ、誇りだと思っていたものが、まるでがらくたのように感じられるというように、価値観が全く変えられるという事であります。

 ところが、いつだったか忘れましたが、確か数年前だったと思いますが、その南さおりが歌手活動を再開すると言う記事を読んで、あぜんとしたのを思いだしますが、何かを捨てるということがどんなに難しいかと、改めて思ったものであります。

 今パウロは、今まで自分を支えて来た律法、その律法を守るという事においては落ち度がなかったと豪語し、それを生きがいとしてきた律法を、ちりあくたのように思ったというのであります。がらくたのように思ったというのです。それらのものを損と思うようになったというのです。それらのものが要らなくなったというだけでなく、それらのものが損になった、自分が生きるにあたって、邪魔になったというのですから、いかにパウロの中に価値の転換が起こったかという事であります。

 それはどうして起こったのか。それは、キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさの故に、と言うのです。

 それはパウロが今までこれが生きがいと思っていたもの、これが価値があると思っていたものよりも、もっともっと大きな絶大な価値が現れてきたからであります。そしてそれだけでなく、その価値は、今までの価値観とは全く性格を異にするものだった、まるで方向が違う価値観だったという事であります。

 今までは、自分が一生懸命奮励努力して、自分が自分の手でかち取るという価値、かち取らなくてはならないという価値観だった。自分で獲得したもの、獲物と言うか、勝利品というか、それを神に誇らしげに差し出した。つまり自分は律法を完全に守ってきました、そしてこんなに自分は立派な人間になりました、こんなに清い人間になりました、こんなに強い人間になりましたと、自分の努力でかち取ったものを自分の手に一杯にして、神様に誇らしげに差し出していた生き方だった。

 それを変えてしまう。イエス・キリストが与えてくれた価値観は、それとは全く性格を異にするものだったのであります。それは自分の手を、自分が獲得したもので一杯にするのではなく、それらのものを全て捨ててしまって、自分の手を空っぽにするということだったのです。

 神様から恵みをいただくために自分の手を空っぽにするということなのです。それは、神様の方で与えてくれる正しさなのですから、その神様の与えてくれるものを受けとめるためには、自分の手を空っぽにしなくてはならないのです。

 九節をみますとこうパウロは言っているのです。「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義なのだ」というのであります。

 信仰には確かに努力が必要です。しかしそれは自分が栄養分を取って肥っていく努力ではなく、自分をスリムにしていく努力であります。自分が自分がという自分という自我を捨てていく努力であります。

そして大事なことは、その自分を捨てるということすら、自分が歯を食いしばって自分が捨てていくという努力とは違うのです。そうではなくて、一切を神様に委ねて、自分から力を抜いて、ぽかんと水の上に浮かぶようにするための努力であります。

 今までの価値観と多少違う価値観を見いだして、今までの生活を変えてみてもそれはあまり今までの生き方を変えたことにならないのではないでしょうか。

 たとえば、今までの歌手生活に行き詰まりを感じたから、いい人を見つけ結婚生活に入るために、歌手を引退するという場合だったならば、どうでしょうか。結婚生活をしてみても、あまりそこに生きがいを見いだせなくて、結婚してみても、退屈だった、あまり面白くない人だったという事になったら、さっさと、また歌手復帰宣言でもすることになるのではないでしょうか。
 
 そうした事がなにもいけないというのではなく、われわれはわれわれの日常生活の生き方は、大なり小なり、自分が何かを獲得して生き甲斐を見いだしたい、そういうところに、価値をみようとしているのではないか。それがわるいわけではないのです。われわれの日常生活の喜びは、みなそういうことにあるので、それがわるいわけではないし、それがなかったら、退屈な生活になると思います。

 ただ、われわれがキリストによって与えられた価値の転換というものが、それと同じような事であったならば困るということです。それはパウロがいっている価値の転換とは違うだろうという事であります。

 たとえば、自分がなんとかして救われたいと一生懸命努力してきたあの「富める青年」のことを考えてみてください。

 彼は金持ちだったのです。そして律法をも忠実に守っている、いわば道徳的にも立派な生活をしてきたのです。その彼がイエスのところに、「永遠の命を受け継ぐつためには何をすればよいでしょうか」と尋ねに来たというのです。

 彼はお金にも満足できなかった。そして道徳的にも立派な生活をしてきて、それでも自分は完全に救われているのだろうか、不安に思っていた。それでイエスのところに来たのです。「完全に救われるためには何をしたらよいでしょうか」と訊ねた。富の上に、そして律法を守るという道徳生活の上に、さらになにか宗教的な悟りを得たいと思って、イエスのところに来たのではないかと思います。

 するとイエスは、「あなたのもっているものをすべて捨てて、わたしに従ってきなさい」と言ったのであります。
 彼はそれを聞くと、悲しそうにして帰っていったというのです。

この世で成功した人、お金もある、あるいは権力ももつことができている、その人が最後に求めるものは、名誉だと言われます。それは無報酬で、ただ心の満足だけがえられるという名誉であります。人は最期には、そういう精神的なもの、あるいは、宗教的なものを求め始めるのだといわれます。

 その青年はそれをイエスに求めにきたのです。ところがイエスが言われた事は、そうした積み重ねを全て捨ててしまいなさい、ということだったのです。
イエスは、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」といわれました。

 もしその青年がそのイエスの言葉を守って、自分の全財産を売り払い、貧しい人々に施しても、彼が自分は貧しい人々に施した、というところに自負を覚えるならば、イエスは、「まだ欠けているものがある」と言われたのではないかと思います。
 パウロがいっておりますように、「全財産を貧しい人々のために捨てても、もし愛がなければいっさいは無益だ」ということであります。

 イエスが「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通ほうがやさしい」といわれた時に、弟子達はびっくりして、そんなことなら、いったいだれが救われるだろうか、互いにつぶやいたというのです。そのとき、イエスは「人間にできることではないが、神にはできる、神はなんでもできるからである」といわれたのであります。

 救われるためには、ただ神様に救っていただく以外にないのだということであります。
 
 それは富だけを捨てなさいという事ではなく、自分に何かを積み重ねていく生活、自分を肥らせていく生活を捨てて、神様に救っていただきなさいということです。それはもう全く価値の方向が違っていたのであります。

 ですから、われわれが律法主義から解放されて、「律法による自分の義」を求める生き方を止めて、それを捨てて、その代わりに、信仰による自分の清さを求めようとするならば、それは根本的にはその価値観は変わっていないのです。それではだめなのです。つまり良い行いをするという道徳主義はだめなので、行いではなく、心、精神が大事なので、信仰によって自分の魂を清くするという方向で救いを求めたり、価値の転換をはかろうとしても、それは方向が同じだということであります。

 「自分の」という方向は一つも変わっていないので、それはパウロが言う価値の転換にはならないだろうと思います。

 キリスト教の用語に、神学上の用語に、義認と聖化という言葉があります。義認というのは、神様から一方的にキリストの十字架を通して、義と認められたという事です。聖化というのは、聖という字に、化けるという化という字が加わって、聖化というのですが、聖化というのは、義と認められた者は聖とならなくてはならない、聖なる者を目指して清い生活をしなくてはならないという教え、それをよく聖化と言われております。

 しかしこの聖化という事は、大変誤解を与えかねない教義であります。義認というのは神から一方的に受ける賜ものであるのに対して、聖化は、今度は義とされた者は宗教的な精進をして聖くならなければならないと考えてしまうからです。

 そうしましたら、神から義とされるという所は、「神からの義を受けて」と、受け身の姿勢をせっかく取らされたのに、この聖化になると、とたんにこちら側の精進ということになってしまって、またあのおぞましい自分の聖を追い求めるという方向に価値観が移ってしまうという事になってしまうのであります。

 ですから、カール・バルトという神学者は、聖化ということは義認ということに含まれていることなのだ、義認ということ、義とされるという事が聖化されるということなのだというのであります。

 パウロは、コリント人への手紙のなかで、「あなたがたは主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」(第一コリント六章コー節)と言っているのです。

 ここにははっきりと「きよめられ」と、聖化ということも、受け身で表現され、そしてそのあと、義とされた、というのですから、聖化ということを、義認のなかに含めていると考えているのです。聖化と義認とは同じこととしてパウロは考えているのではないかと思います。

ここで、聖化の問題をとりあげるつもりはないのですが、ただ聖書には確かに清くなりなさいという勧めがあるので、やはり聖化ということは大切ではないかと思われるかたがいると思います。しかし聖書で、いわゆる聖化ということを問題にするとき、若い青年が遊女におぼれそうになったときに、そんな欲望に捕らわれて自分を破滅させてはいけない、あなたがたは清くなければならないというのです。

 つまり、そこでいわれている聖化とは、なにか山のなかの修道院にでもこもって、禁欲生活をして自分を清くする、そんなことが勧められているのではないということなのです。現実の悪の誘惑を逃れなさいということで、清くなれと勧められているのであります。

聖化というのは、われわれの信仰生活の目標なんかではない。われわれは聖人になることを目標してはならない。そんなつまらないことを目標とすべきではないのです。

 パウロにとっての価値の転換は、自分は「律法の義については落ち度がないものだ」というように、律法を忠実に守るということを極限まで追求していった時に、そんなことは本当にくだらないことだと気づいて、価値の転換が起こったのではないのです。つまり、自分が自分の努力の空しさに気がついて、なにかを悟ったのではないのです。

 そうではなく、律法を守って自分を誇っていた時に、そこに突然、キリストが現れたのです。「わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他のいっさいを損と思うようになった」と言う事であります。

 使徒言行録では、パウロはクリスチャンを迫害しようとして息をはずませてダマスコを歩いていたときに、パウロはキリストにお会いしたんだと記されています。

 それ以前にもパウロは本当は自分の義について思い悩んでいたという事も、あるいはあったかもしれません。そうした事が下地になっていたのかも知れません。そういう事が心の奥深くにあったのかも知れません。

 しかしパウロの自覚からすれば、やはり、突然キリストが現れて、キリストを知ることのあまりのすばらしさを知って、その律法による自分の義を追求する事の空しさを知ったのであります。
 だから、パウロはそれらの価値がいらないというだけではなく、損と思うようになったのです。それは邪魔になった。それほどに徹底して「律法による自分の義の追求」の価値の空しさを知ったのです。

 ただ、いらないというのではないのです。「いらない」というだけならば、そんなものはなくたって生きていけるという、まだ自負のようなものが感じられますが、それらのものを損と思うようになったということは、それは邪魔になったということで、そんなものがあったらもう自分は生きていけないということなのです。

 それにしても確かに、パウロが「律法の義について落ち度がなかった」という程に、律法を守って、そういう生活をした人が、その空しさについてわれわれに語ってくれるのは、われわれにとっては説得力のあることであります。パウロが律法的にいいかげんで、ぐうたらな生活をしていて、律法的な生き方は損だとわれに諭してくれても、それはあまり説得的ではないと思います。

 パウロでも宗教改革者のマルチン・ルターでも、そうした律法を守ることに苦労して、その空しさを知った人がいてくれる事は有り難いことであります。

 パウロは九節でこう言っています。「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」

 キリストのうちに自分を見いだすと言う事を、竹森満佐一が説明しています。

 「ガラテヤ人への手紙に、『キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである』という言葉がある。キリストの洗礼を受けた者は、キリストを着せられたのだというのだ。キリストを着せられているならば、中身はなんであろうと、それはもう外からみればわからないのだ。外からみれば、この人はキリストだとしか見えないのだ。もちろんわれわれが、キリストみたいな立派な人間に見えるということではない。ただ、神の前に出た時に、キリストがわれわれにしてくださったことだけが神の目には見えるので、われわれのつまらない失敗の多い生活などは、キリストの陰にかくされているということだ。」

 建て前と本音という言葉がありますが、われわれはともすると、本音の方が大事で、建て前というものは、偽善的なものだと思いがちですが、しかし建て前というのは、確かに偽善的なものが一杯あると思いますが、しかしその人の建て前というものは大事にしてあげないといけないのではないかと思います。

 その人が自分の醜いところを一生懸命に隠して、よく見せようとしているその人の必死さというの、それは建前にみえるかもしれませんが、しかしその必死な建前を見てあげないといけないのではないかと思うのです。

 そうしないで、その建て前は偽物で、というようにして、その建て前から本音を見つけよう見つけようとして、その人の裏側ばかり見ようとすることは、そうしているこちら側の意地の悪さ、こちら側の品性の悪さを露呈するようなものではないかと思います。

 クリスチャンであるわれわれは、キリストと言う着物をすっぽりと着ている、かぶせられているいるもので、それがいわばわれわれの建て前なのです。その建て前をひきはがされたら、その中身は醜いものが一杯つまっているのです。それは見て貰っては困るのです。

 せめて、教会のなかだけでも、教会の交わりのなかだけでも、その人の建て前を信用して、すぐその建て前をひきはがして本音を探りだそうする、そういう人間の見方を避けたいと思います。

 われわれはみな懸命にキリストという建て前を着ようとしているのです。そして自分の恥の部分を覆い隠そうとしているのです。神はわれわれの上にかぶさっているキリストだけを見てくださろうとしているというのです。キリストがわれわれにしてくださったことだけを神は見ようとしていてくださるというのです。

 それならば、われわれもその人が必死に隠そうとしている本音など見ようとしないで、必死に見せようとしているけなげな信仰を見ていきたいと思うのです。