「自分の義を求めようとして」 ローマ書九章三○ー十章四節


 パウロは、ローマの信徒への手紙の九章から十一章にかけて、自分の同胞の民、イスラエルの民、それはもともとは神によって選ばれた民なのですが、その神によって選ばれた民が、いまイエス・キリストを信じようとしない、受け入れようとしない、いったい自分の同胞の民は救われるのかという問題を論じようとしているのであります。 

 その問題を論じようとするときに、パウロはそもそもわれわれが神によって救われるとはどういうことか、そのことから論じようとするのであります。われわれが救われるということは、すべて神の意志にかかっている。その神の意志というのは、神の自由な意志にかかっているということなのだというのです。それは極端にいえば、誰が救われ、誰が救われないかは、すべて神の自由な意志にかかっている。それに対して、われわれ人間はなんの文句も不平も言えないのだ、ただただ神の自由な意志にかかっている、そのことを受け入れることができるときに、われわれは救われ、そのことが受け入れられないときに、われわれは神による救いというものがどうしてもわからなくなるのだというのです。

 しかも、その神の自由な選びの意志というのは、人間の暴君のように勝手気ままに横暴に振る舞う自由な意志ではなく、神はその自由な意志をもって、すべての人を憐れもうとする、怒りの器として滅びることになっている器をも忍耐して忍耐して、寛大な憐れみの心をもってその器に栄光を与えようとする憐れみの器として用いようとするのだというのです。神はどんな人間をも神の自由な憐れみの選びによって救おうとなさっているのだというのであります。

われわれが救われるかどうかは、その神の自由な恵みの意志を受け入れるかどうか、それを信じるかどうかにかかっているのだというのです。

 パウロはそのことをまず論じてきたのであります。そしてそれはパウロがこの手紙の一章から八章にかけてずっと論じてきたことなのであります。われわれが救われるのは、われわれの善行などという、人間の行いではない、わざではない、ただこの自由な神の恵みを信じる信仰によるのだと一章から八章にかけてずっと語ってきたことなのであります。

 九章三○節からこういうのです。「では、どういうことになるのですか。義をもとめなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからだ。彼らはつまずきの石に躓いたのだ、というのです。

 そうして旧約聖書のイザヤ書の言葉を引用いたします。
「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの石を置く。それを信じる者は、失望することがない」と書いてある通りだというのです。

 これはイザヤ書の原文とは違っているのです。イザヤ書二八章一六節なのですが、こうなっているのです。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信じる者は慌てることはない」となっているのです。

 パウロが引用したイザヤ書のほうには、「つまずきの石」とか「妨げの石」ということはひとつも記されていないのです。ただ同じイザヤ書の八章の一四節に「主は聖所にとっては、つまずきの石、イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩」という言葉があり、パウロはそれをここに転用しているのです。

 「主は聖所にとっては、つまずきの石、妨げの岩」というのはどういうことかといいますと、「主」というのは、主なる神ということであって、神様はイスラエルの人にとっては、つまずきの石、妨げの岩だということなのです。神様によつて選ばれ、神様を一生懸命に信じようとしているイスラエルの人々にとって、皮肉なことに、神様という存在は、かえって、妨げの岩、つまずきの石になっているというのです。神様なんかいないほうがいいというのです。

 このことをいう前に預言者イザヤはこういっているのです。
「万軍の主をのみ、聖なるかたとせよ。あなたがたが畏るべきかたは主。御前におののくべきかたは主」といっているのです。その「主」が、その主なる神さまが今、あなたがたにとっては、邪魔になって、妨げの岩になっている、つまずきの石になっているというのです。

 当時のイスラエルの指導者たちは、アッシリアから攻められて、右往左往し、隣国に助けを求めようとしているのです。その指導者に向かって、預言者イザヤは「人間を頼らないで、ただ神のみを頼りなさい、神のみにひれ伏して、その神のみを信頼していればいいのだ」と言っているのです。

 そして預言者イザヤは、二八章のところでは、この神様のみを信じて、信頼していれば、慌てることはないのだ、それはイスラエルの歴史を通して、長い経験を通して試みを経た真理なのだ、それは貴い堅く据えられ礎なのだ、と預言者イザヤは言っているのです。

 パウロはそのイザヤ書の二つの箇所を結びあわせて、ただ主なる神のみを信頼すること、信じること、信じる者はあわてることはないという貴い石なのに、それが今イスラエルの人にとって、つまずきの石、妨げの岩になってしまっいるというのです。

 つまり、イスラエルの人は、神を信頼するよりは、自分たちの行いを頼ろうとした、信仰よりも、自分たちの行いを頼ろうとした、信仰によってではなく、行いによって神の義を追い求め、その義に達せられるようなるとに思ったからだというのです。

 イスラエルの人にとっては、信仰よりも、自分の行いのほうを頼りにしたのです。それは結局は、神様は妨げになったということなのであります。その岩につまずいてしまったということなのであります。

 「信じる者は失望することはない」というのです。これはイザヤ書の原文では、「信じる者はあわてることない」ということです。このほうがわれわれにとっては、わかりやすいのではないでしょうか。

 「信じる者はあわてることはない」ということは、あのイエスと弟子達が同じ舟にのっていて、突風にみまわれたときに、弟子達はあわてふためいたときに、イエスはその舟のなかで眠っておられたという記事を思い起こさせます。弟子達はその舟のなかであわてふためいて、「主よ、助けてください。おぼれそうです」といって、イエスを起こしますと、イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者よ」といって、叱られたのであります。

 われわれは嵐が吹き荒れているときに、イエスのように泰然自若と眠っていることなんかできそうもないのです。あわてふためいてしまいます。しかしイエスは「信じる者はあわてることない」といって、われわれを叱ったのです。イエスさまが一緒に舟のなかにいるのに、神様がいるのに、われわれはその神さまに信頼しきれないで、あわてふためいてしまっているのです。

 「信じる者はあわてることはない」という真実、「信じる者は失望することはない」という真実、これを本当に自分のものにするということは、難しいことだと思います。つまり、自分を頼らないで、神のみを頼るということは本当に難しいことなのであります。

 イスラエルの人はその信仰に躓いたのだとパウロはいうのであります。

 イスラエルの人はなぜ躓いたのかとパウロは続いて述べるのであります。
一○章一節からこういいます。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものでありません」というのです。

 問題は宗教的熱心さ、信仰の熱心さであります。それがわれわれを躓かせてしまう。われわれを正しい信仰に導くための妨げになってしまうのだというのです。

 これはパウロ自身のことでもあるのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙のなかで、自分自身のことについてこう述べているのです。「あなたがたはわたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを知っている。わたしは徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていた。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じころの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていた」と告白しているのです。

 旧約聖書に出てまいります預言者エリヤもまた熱心な預言者でした。当時の王アハブが偶像礼拝に走って、真実の神ヤーハウェを宣べ伝えていた預言者をことごとく迫害し殺していって、エリヤひとりだけその難を逃れて、神の山といわれるホレブにつき、その洞穴に入り、夜を過ごしていたときであります。

 そのとき「エリヤよ、ここで何をしているのか」という主の言葉があった。その時エリヤはこういうのです。「わたしは万軍の神、主に熱情を傾けて仕えてきました。ところがイスラエルの人々はあなたとの契約を捨てて、祭壇を破壊し、預言者達を剣にかけて殺したのです。わたしひとりだけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています」と、訴えたのです。

 自分はひたすら熱心に、熱情的にあなたに神に仕えてきた、そしてただわたし一人だけが残ったと訴えるのです。

 すると主は、「そこを出て、山の中で主の前に立て」といわれた。預言者エリヤは山の中に入り、主の言葉を待った。激しい風が起こり、その激しい風の中から主の声が聞こえてくるのだろうと思った。しかし風の中に主はおられなかった。そのあと、地震が起こった。その激しい地震のなかでも主の声は聞こえ来なかった。そのあと、火が起こった、そこにも主はおられなかった。そのあとに静かなささやくような声が聞こえたというのです。

 そしてそのささやくような主の言葉は、預言者エリヤにこう語るのであります。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところがイスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたしひとりだけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっているのです」と、息せき切って神に訴えのです。

 そのとき、主はなんとエリヤに語られたか。「ニムシの子イエフに油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子、エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。わたしは偶像バアルにひざをかがめず、これに口づけしなかった者七千人をイスラエルに残す」といわるのであります。

 「わたしは、わたしだけは、熱心にあなたに仕えてきて、そういう預言者はもうこのイスラエルにはただわした一人しか残されていない。そのわたしもまた命をねらわれているのです」と預言者エリヤは神に訴えたのです。
 それに対して、神は「お前はもう預言者を引退して、エリシャを預言者として油を注げ」といわれるのです。そして神は「まだバアルにひざをかがめないでいる真の信仰者を七千人残しているのだ」とエリヤを諭したのであります。

 主なる神は、預言者エリヤの宗教的熱心さ、信仰の熱心さを諫めたのであります。それは預言者として邪魔になると言われるのです。

 宗教的熱心さ、信仰的熱心さは、宗教的野心になりかねないのであります。

 信仰的熱心さは、信仰にとっては、邪魔になるのであります。自分自身のことになりますが、わたしは青山学院の中等部に入って、キリスト教にふれましたが、それいらい本当に熱心に求道生活を送ったのです。恐らく聖日礼拝を一度も休んだことはなかったのではないかと思います。しかしどうしても神の愛というものがわからなかったのです。大学生になっても、洗礼をうけられませんでした。しかし友人達はみな洗礼を受けました。わたしもあせりまして、大学の二年のときでしたが、洗礼を受けたのです。しかしその洗礼式のときに、牧師から洗礼の水のついた手を頭に受けたとき、つくづく自分は神を信じていないと思ったのです。

 洗礼を受けてから、前にもまして、熱心に信仰を求めていきましたが、どうしても神の愛がわからなくて、とうとうもうこんなに求めてもキリスト教の救いというものが自分にはわからないのだから、もうキリスト教と縁を切ろうと思って、教会にいくことも、聖書もよむことも、祈ることもすべて捨ててしまったのです。

 そういう日々が二月くらいつづいたときに、ある夜に聖書の言葉がわたしの心に響いてきて、それはパウロが神から聞いた言葉だったのですが、「わたしの恵みはお前の弱いところに注がれる」という意味の言葉だったのですが、その言葉がわたしを打って、わたしはそのときにはじめて、神の愛というものがわかったのであります。

信仰というのは、自分が神様を必死になって、熱心に神を捕まえようとすることではない、神様のほうで自分をつかまえてくださり、神がこの弱い、罪あるこのわたしを赦し、愛してくださることを信じ、受け入れることなのだと、わかったのであります。

 求道生活の熱心さは、わたしにとっては、信仰の妨げになっていたのであります。

 イスラエルの人々がもっていた熱心さ、その宗教的熱心さは、正しい知識によるものではないというのです。三節で、「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」というのです。ここは口語訳のほうがはっきりしてくると思います。口語訳では「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからだ」となっています。

 つまり、新共同訳では「自分の義を求めようとして」というところを、口語訳では「自分の義を立てようとして」となっていて、この訳のほうが事柄がはっきりしてくると思います。

 われわれは自分の行いによって救われようとする時は、われわれはなにかにつけて、自分の義を立てようと努めるのです。そのことからは逃れられないのです。われわれは人を愛するということでさえ、そこに自分の義を求めようとしてしまうのであります。人を愛するときすら、ひそかに自分の義を、自分の立派さを示そうとしてしてまうのであります。

 主イエスのなさったたとえ話にこういうのがあります。「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに語ったという話であります。
 彼はこう祈るのだというのです。「神よ、わたしはほかの人のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、またこの取税人のような人間でないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」と堂々と誇らしげに神に祈ったというのです。
これはまさに神の義に従うのではなく、自分の義をただ立てようとすることであります。
 これが典型的なイスラエルの人の祈りになってしまったのであります。
 
 われわれが行いによって救いを獲得しようとする限りは、そのジレンマから逃れることはできないのであります。

 確かに、自分のことを極力誇ろうとしない、自分のことを絶対に主張しようとしないで、ある意味で謙遜の限りを尽くして、自分の人生を生きた人もいるかもしれません。しかしその人が死んだとき、みんなその人をほめそやすのではないでしょうか。死んだあと、その人の記念文集などが出版されたら、その記念文集の中身は、みなその人の人柄を讃える文章で終始したということがあるのではないか。
 それは考えてみれば、本人にはなんの責任もないのかもしれませんが、また本人はそのようなつもりはないのかもしれませんが、結局はその人は自分を否定するということで、結局は自分を主張していたのではないかと思わざるを得ないのです。

 われわれ人間は、自分をあからさまに主張することによって、自分の義を立てようとしますが、またわれわれは自分を否定することによって、一生懸命にけなげにも自分を否定することによっても、また結局は自分の義を立てようとしているのだというジレンマからは逃れられないのではないかと思うのです。

 律法がある限り、われわれ人間はその律法本来の目的からねじ曲げられて、それはわれわれが自分の義を立てる道具になってしまったのであります。

 「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」とパウロはいうのです。ここも口語訳のほうがわかりやすいと思い増す。口語訳ではこうなっています。
「キリストはすべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである」。目標というギリシャ語は、終わりという意味もあるのです。

今は受難節に入っておりますが、主イエスは、あの十字架のうえで、息を引き取られるときに、最後に、「 父よ、わたしの霊を御手に委ねます」といって、息を引き取られたのであります。あのゲッセマネの園で、「自分を十字架につけないでください」と、必死に祈り、しかし、最後のところでは、「あなたのみこころのままになさってください」と、神にご自分のすべてを委ねたのであります。「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、絶叫しましたが、しかし最後には、すべてを父なる神に委ねてその生涯を終えられたのであります。

 それがキリストは律法の終わりになったということであります。神を信頼し、すべてを神に委ねて、神の義に従って、ご自分の生涯を終えられたのであります。それが信頼ということであります、それが信じるということであります。そのようにして「信じる者すべてに義をもたらす道を示してくださった」のであります。

 主イエスは、「幼子のようにならなくては、神の国に入れない、つまり救われない」といわれました。幼子も確かに自分を主張するのです。親にほめられようともするのです。しかしあの幼子の自己主張をみて、誰もいやらしいとは思わないのです。それは、その幼児の自己主張は、その幼子の親に対する絶対的に信頼の姿勢にくらべたら、実にほほえましいものだからであります。

 最後のところでは、すべてを神に委ねる、神にお任せする、そのような幼子になって、われわれは死ぬことができるのであります。そう考えてみれば、われわれが行いによってではなく、信仰によって救われるのだとということを本当にわかるのは、自分が死ぬときではないかと思うほどであります。

 しかしわれわれはそのような時が与えられ、そのように信頼できる神さまを知らされ、信じさせられていることを、今心から感謝したいと思うのであります。