「人間の才覚と神のご計画」 創世記十二章一○ー二○節
ローマ書8章二六ー三○節
 
 アブラハムは神からカナンの地を示されて「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と言われます。アブラハムはそこで主のために祭壇を築いた。そこで定住するのかと思いましたら、なぜかベテルの東の山に移り、それからネゲブの地に移るのであります。カナンの地を与えると神から言われても、そこにはカナン人が住んでいるところなのです。すぐそこで定住というわけではいかなかったのかも知れません。そしてそのネゲブの地で、飢饉があったので、エジプトに行きます。そこでアブラハムは大変奇妙なというか、破廉恥なというか行動に出るのであります。

 アブラハムには妻サライがいます。そのサライにこういいます。「わたしはあなたが美しい女であることを知っている。それでエジプト人があなたを見る時、これは彼の妻であると言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」と言ったのです。

 要するにこれは、妻サライが美しい女であったために、エジプトの王がサライを手に入れるために、アブラハムを殺してしまうかも知れない。しかし、もしサライが自分の妹だということになれば、妻サライはエジプトの王に奪われるかもしれないけれど、自分の命までは奪われることはないだろうということであります。

 実に虫のいい話であります。自分の命が助かるためならば、自分の妻がどうなろうとかまわないというのです。このたぐいの話は創世記のなかで三度出てまいります。同じ出来事が資料として三度使われたのか、あるいはこうしたことは当時の男性中心の社会では日常的なことだったのかも知れません。

 アブラハムは自分の命を救うために、自分の妻を妹として偽って、難を逃れようとしたというのであります。

 当時の考えでは、妻の貞操が奪われるということはそれほど大したことではなく、それは人間の命に比べたらどうってことはないということなのかも知れません。
 しかしこのアブラハムの行動が卑劣な行動であり、神の約束の成就を危機に陥れるものであることは、その結果が神がおとりになったことで明らかであります。

 エジプトの王はこのアブラハムの言葉を信じて、サライを自分の家に召し入れ、アブラハムも丁重にもてなすのであります。ところが主なる神はこのことの故に、激しい疫病をエジプトの王パロとその家に下したというのです。それでパロはアブラハムを呼んで非難して、アブラハムとサライをそこから去らせたというのであります。
 
 アブラハムの取った行動は神の激しい怒りを引き起こし、神は裁くのであります。しかし奇妙なことにアブラハムにその罰がくだるのではなく、いわばなんの罪もないエジプトの王とその家に疫病という罰がくだったというのであります。

 エジプトの王が自分と自分の家のものが疫病に襲われた理由がサライを自分の妻にしようとしたことなのだと、どうしてわかったのかということは、いっさい記されていないのであります。そしてまたエジプトの王パロがこの主なる神の不当な介入と裁きになんの不平も述べていないのも何か不可解であります。

 この不可解な神の介入と神の理不尽な裁きは、われわれの常識的な神に対する考えを打ち砕くものではないかと思います。われわれの信じる神はわれわれ人間の常識とか、われわれ人間の道徳とか、われわれ人間の理性とかを越えているかたなのであります。われわれはそういう本当に恐ろしい神の前に立たされるのであります。

 この事を考える前に、アブラハムの取った行動を少し考えてみたいと思います。アブラハムは自分の命を保つために、自分の妻サライを犠牲にしようとしたのであります。

 われわれが生きるということ、われわれが生き延びるということは、このようにして、なんらかの形で人を犠牲にして生きているのではないか。アブラハムほど露骨ではないかも知れない。アブラハムほど卑劣ではないかも知れない。アブラハムほど意識的、自覚的ではないかも知れませんが、われわれが生きるということは、このようにしてなんらかの意味で人を犠牲にして生きざるを得ないということではないかと思います。

 それが危機に遭遇した時に露わになるのであります。それはこちらから、おまえが犠牲になってくれというか、それとも相手がそう申し出てくれるか、あるいは相手がそのように申し出るように巧みに卑劣にもっていくかはともかく、われわれが生きるということ、われわれが生き延びるということは、誰かを犠牲にして生きているのではないかということなのであります。

 そしてこのアブラハムの行動は、すぐその前に、アブラハムは神から「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」といわれたばかりであります。カナンの土地を示され、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」と、言われたばかりの後であります。

 そのすぐ後で、アブラハムはまるでその神の約束を忘れたかのように、あるいは、その神の約束を信じないで、自分で自分の命を保とうとして策略をねったということなのであります。

 しかも今妻サライをエジプトの王に差し出したら、もう自分たちの間に子供はできなくなるのであります。子孫はなくなるのであります。少なくともサライとの間の子孫はなくなるのであります。いわばここでアブラハムは神の約束と神のご計画を全く無視し、それを自ら壊そうとしているのであります。

 この記事のあとも、アブラハムは「子供が与えられる」という神の約束を信じられないで、人間的な、この世的な工作、つまり自分のいわば妾に子供を産ませて、跡を継がせようとして、神からひどくしかられるところが出て参ります。

 われわれの信仰というものが、いかに頼りないものであり、右往左往してしまうものであるかがわかるのであります。そうしてはわれわれは自分の才覚を用いてなんとか自分の命を生きのばそうとする。その結果はどうか。その結果は結局は誰かを犠牲にして生き延びようとすることになるのではないか。
 
 人間の才覚は結局はきわめて自己中心的なものであるということであります。そして自己中心的であるということは、意図的であれ、無意識であれ、誰かを犠牲にして自分の命を保つということなのであります。自己中心的に生きるということは、裏を返すと、誰かを犠牲にして自分が生き延びるということなのであります。
 アブラハムは神を信じ切れなかった。自分の才覚で、自分中心の才覚で、自分の妻を犠牲にて、この危機を逃れようとした。

 パウロは、「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」と言っております。神の怒りはアブラハムの不信心と不義に対して天から啓示されるのであります。

 しかしその神の怒りはどのようにして啓示されたのでしょうか。実に不可解なことに、その神の怒りと神の裁きはアブラハム本人にではなく、エジプトの王パロとその家のものに下るのであります。王パロとその家の者に疫病がくだったのであります。これは実に不可解なこと不思議なことであります。

 しかし聖書はしばしばそのような事を告げるのではないでしょうか。イスラエルの王ダビデは自分の部下の奥さんを奪い、その部下を卑劣な手段で殺したという罪を犯しました。王様ならば、それくらいのことはどうということはないと高をくくっていたのであります。しかし神はそれを許さなかった。罰をくだした。しかしそのとき、神は、罪を犯したダビデ本人に何か痛い思いをさせたのではなく、ダビデが愛するその子供を病気にし、その子供の命を奪うのであります。

神はアブラハムを罰するとき、アブラハム本人になにか痛い思いをさせる、アブラハム本人に疫病をおくったのではなく、エジプトの王とその家にものに疫病をくだしたのであります。

 神の怒り、神の裁きが天から啓示される時、それはわれわれ人間の常識と予想をはるかに越えて、示されるのであります。それはわれわれの常識を越えて、まさに天から啓示されるからであります。

 罪を犯した本人が苦しめられて、罰せられるのではなく、その罪を犯した者の一番愛する者が苦しみを受ける、犠牲になる、それによってその罪が裁かれるのであります。そして結局はそのようにして、神はわれわれに罰をくだすのではなく、われわれの罪を赦すのであります。それが神の不思議な裁きなのであります。 

 この事件では、アブラハムが罰せられるのではなく、エジプトの王が罰せられるのであります。そしてこの場合は、エジプトの王はアブラハムにとっては、ダビデの場合とは違って、愛する者というわけではありませんが、しかし何の罪もないエジプトの王が災難を受けるのであります。理不尽と言えば理不尽であります。

 しかしわれわれの人生にはしばしばそういうことがあるのではないか。というよりも、われわれが生きるということは、誰かになんらかの意味で犠牲になってもらって生きざるを得ないということではないかということなのであります。

 われわれが生きるということ、われわれが生き延びるということは、われわれが誰かを犠牲にてし生き延びようとするだけでなく、だれかがこのわたしのために自ら犠牲になってくれて、われわれは生き延びるのではないかということなのであります。 

 アブラハムが自分の才覚だけで、自分の命を生き延びさせようとした時に、自分の妻を犠牲にした。

 神は今それと同じことをなさって、アブラハムを助けたのであります。アブラハムは自分の妻を犠牲にした。神はエジプトの王を犠牲にした。神はアブラハムを罰しないで、アブラハムに災難をくださないで、なんの罪もないエジプトの王に災難を注ぎ、王を犠牲にして妻サライを助け出し、そうしてアブラハムを救い出そうとしているのであります。

 われわれ人間の才覚は人を犠牲にして自分が生き延びようとするのであります。そして神が今アブラハムに示したことも、エジプトの王を犠牲にして、彼と妻サライを救いだしたのであります。

 それはある意味では、人間の才覚が考え出すことも、神がお考えになることも変わりはないということであります。
 
 ただ問題はわれわれ人間の才覚から、その事をしようとするときに、それはわれわれ人間の自己中心性がそうさせるわけで、アブラハムがそうしたように妻を妹と偽って王に差し出しても、平然としているのです。われわれは自分の自己中心性からそのようにして平然としているのです。

 それに対して、神がなさる時には、平然として、それをするのでなはないのです。われわれが生きるということは、そのようにして何らかの形で人の犠牲のお陰でわれわれは生きることができることをわれわれに自覚させ、その痛みをしっかりと自覚させて、そのようにしてわれわれの罪をしっかりと認めさせて、そして犠牲になった者に対する感謝を覚えさせるのであります。

 われわれが生きるということは、人を犠牲にして生きるという宿命、それを宿命と言っていいかどうかわかりませんが、人間の定めと言ったほうがいいかも知れませんが、われわれが生きるということは、人を犠牲にして生きざるを得ないという定め、それは特に、自分を愛してくれている人の犠牲によってわれわれは始めて生きることができるのです。神がそれをなさる時は、そのことをわれわれにはっきりと自覚させてわれわれを生かそうとするということであります。

 そのことが決定的にわれわれに示されたのが、キリストの十字架であります。神はその独り子イエス・キリストをお与えたなったほどにわれわれを愛してくださったのであります。それは独り子イエスを十字架で犠牲にしてであります。そのようにしてまでして、われわれを愛してくださったということであります。

 パウロは、神の怒りは不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して天から啓示される、といいます。その神の怒りはどこにあらわれたか、それは最終的には、キリストの十字架において啓示されたのであります。
 神の真理をはばもうとする、不信心と不義を行う人間にではなく、ご自分のひとり子、神の一番愛するひとり子、イエス・キリストに神の怒りはくだされて、神の子であるイエス・キリストがその神の怒りをご自身が一身に背負ってくださって、われわれに罪の赦しと神の愛を示してくださったのであります。

 われわれが生きるということは、繰り返すようですが、誰かの犠牲のお陰なのです。それをわれわれが自分のエゴをむき出してしてそれを行うか、あるいはできるだけ自分のエゴをむき出しにしないで、隠しながらそうするかの違いはあるかも知れませんが、しかし他の人の犠牲の上にわれわれの生は成り立っているという事実は変わりないのではないかと思います。

 大切なことは、そのことに気づこうともしないで、平然として生きようとするか、それともその事に気づき、その自分の罪に気づき、悔い、謙遜になり、自分の犠牲になってくださったイエス・キリスト、そして具体的にあの人ことの人に感謝しつつ生きるか、の違いであります。

 そしてこの違いは大きいと思います。なぜなら、もしわれわれがその事に気づいていれば、われわれもまた他の人を助けるためにある時には進んで犠牲になろうとするからであります。この人のために犠牲になることもいとわないという覚悟をもてるからであります。

 ここの聖書の箇所には、妻サライの心の中身はなにひとつ記されておりません。サライはこの夫のことを軽蔑したのだろうか、もうこの夫にあいそをつかして、絶望してエジプトの王宮に入ったのだろうか。その事はなにひとつ記されておりません。そのあと、このサライは再び夫のアブラハムのところに帰っているところをみますと、この夫の身勝手な行動を妻サライは赦しているのかもしれません。

 さきほど、新約聖書の箇所としてローマ人の手紙の八章のところを読んでいただきました。今日注目していただきたいのは、二八節の「神は神を愛する者たち、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということをわたしたちは知っている」というところであります。
 
 この聖句は、しばしば「神様を信じていれば、最後になにもかも万事がうまく行くように神さまは導いてくださるのだ」ときわめて御利益的に受け取られてしまいかねないところであります。

 しかし、この句の前には、「霊は神の御心に従って、聖なる者たちのためにとりなしてくださる」という言葉があるのです。聖霊がわれわれのために取りなしてくださるときに、われわれをただ御利益的信仰に導くはずはないのです。神のみもこころに従ってとりなしてくださるのであります。

 これは神が神を愛する者たちを万事を益になるように導く時に、その背後には、霊の執り成しがある、つまりキリストの執り成しがある、イエス・キリストの十字架のとりなしがあるということなのです。

 それはわれわれが万事が益となる背後には、われわれにとって、われわれの愛する者のなんらかの犠牲があって、すべてが救われていくということなのだということであります。

 アブラハムの場合には、なんの罪もないエジプトの王とその家の者が犠牲を強いられているということをわれわれに示している。われわれにとって万事が益となるように導かれる背後に、あのイエス・キリストの十字架の死という大いなる犠牲があるということであります。 

 この言葉は決してわれわれを御利益信仰に導くようなありがたい神の約束ではなく、われわれの人生が万事が益となるという背後には、このようにして神の子の大きな犠牲があり、そして具体的にもあの人この人の犠牲があるのだということを、「わたしたちは知っている」ということ、知らなくてならないということであります。