「クリスマスの光」 ヨハネによる福音書一章一ー一八節

 ヨハネによる福音書では、クリスマスの出来事をこのように記しております。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 言葉は肉となって私達の間に宿った、それがクリスマスの出来事だったというのであります。その前のところでは、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。万物は言葉によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」と記されております。
 
 なぜ言葉は肉となったのでしょうか。なぜ、言葉のままではいけなかったのでしょうか。
言葉は肉となったということは、神は御子イエス・キリストをこの世にうまれさせたということであります。

 御子イエス・キリストがこの世にいらしたことをこのように考えてみたらどうでしょうか。
田舎から大学生活のために都会に来て下宿生活している子供に、親は子供の要求どおりに現金封筒でお金を送っていたのです。しかし、あるとき、それまでは現金封筒でお金を送っていた親が、突然下宿を訪れた、それがクリスマスという出来事なのではないかと考えてみたらどうでしょうか。

子供はいきなり、親が下宿に来て喜んだろうか、子供に取っては親が直接下宿にくるのは、迷惑なことではないか。子供にとっては、自分の要求に応えて、現金封筒でお金だけを送ってきてくれたほうがよほど都合がよかったのではないか。いきなり親が自分の下宿にきたら、自分のだらしない生活がそのまま親に知れてしまって大変あわてるのではないか。それは大変迷惑なことなのではないか。

 従って、御子イエス・キリストがこの世にいらしたということは、それほど諸手をあげて歓迎できことではなかったのではないかということなのです。

 現に聖書の記事をみますと、クリスマスは人々にはなんの関心も示さず、異邦人の東から来た博士達だけが関心を示しただけだった。しかもユダヤ人であるヘロデ王は、その博士たちから将来「ユダヤ人の王として生まれるメシア」はどこで生まれたのかと聞くと、彼はそのメシアを抹殺してしまうことにやっきになって、とうとうイエスが生まれたというベツレヘムの二歳以下の男の子をことごとく殺してしまったというのです。
 ヨハネによる福音書でも、一一節をみますと、「彼は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」と記すのであります。

 クリスマスの出来事は、人々の関心を引かなかったし、歓迎されなかったし、メシアとしてイエスが誕生したのだと知った人々は、そのメシアを抹殺しようとしたのであります。

 われわれにとっては、本当のところは、現金封筒で現金だけを送ってくれたほうがよほどうれしいし、都合が良かったのです。

 しかし神様はそうはお考えにならなかった。どうしても御子イエス・キリストを人としてこの世に送りださなくては人間を救えないと思われたのであります。

 言葉は言葉のままでは人を救えないということがわかって、御子をわれわれと同じ肉の姿をとってわれわれの間に誕生させる必要があったのであります。

 それはこの言葉には、もともとそのうちに命があったからであります。この言葉は普通の哲学的真理とか、教理とか、単なる文字としての律法とか、と言う文字に閉じこめることはできなくて、この言葉のなかには躍動する霊の命そのものが潜んでいたから、どうしてもこの言葉は肉となってほとばしり出て、私達の間に宿ったのであります。

 中村雄二郎という哲学者がおりますが、そのかたが「臨床の知」という本を出して、哲学に一つの新しい道を開きました。臨床という字は、臨床医の臨床、知というのは知識の知です。「臨床の知」といのうは、もともと医学上の言葉なのでしょうが、臨床医という呼び名があります。つまり実際に患者と会って治療に当たるお医者さんのことを臨床医というわけです。

それに対して、直接患者に会わないで、医学上の原理を研究する医者、研究室にこもって顕微鏡を見たり、生物の実験をしたりして、病気のことを研究する医者もいるわけです。それに対して、実際に患者に会って、その現場で病気のことをいろいろと研究するのを臨床医というわけですが、哲学の原理にもこの臨床の原理、臨床の知識ということ、臨床の知ということが必要ではないかと、中村雄二郎という哲学者は提唱したのであります。

 それはどういうことかといいますと、それまでは哲学とか学問というのは、客観的なものだけが真理だと考えていた。実験くりかえし、客観的に同じ結果がでるということが証明されたものだけが真理だと考えていた。そこでは、自分というもの、そういう主観的なものを入れてはいけない、真理というものはあくまで客観的なもので、誰がみても真理だと言えるものだけが真理だと考えて来たのであります。

 それに対して、必ずしも、そういう客観的なものだけが果たして真理だろうかと疑問を投げたわけです。自分というものをどこかにおいて、世界を見ても、本当に世界を見たことになるだろうかという考えなのです。

 このことをわたしは心理療法家の河合隼雄さんの本を読んで知らされたのですが、河合隼雄はユング派の心理学を学んで、日本に帰ってきたのですが、はじめはそれは学問としなかなか認められなかったというのです。ユング派の心理学は夢分析というのが主流で、そんなものは科学的でないというので、学問として認められなかった。だから河合隼雄も初めはなかなかそれを学問として主張できなかったというのです。しかし彼が夢分析をしたり、箱庭療法などをして、カウンセラーを受けにきた患者を治療していくということをして、実際にその病が治っていくという実績を積み重ねて、ようやく学問して認められるようになった。

 そういうときに中村雄二郎が「臨床の知」ということを言い出して、河合隼雄は、わが意を得たりと思って、彼はこの中村雄二郎という哲学者と交流をもつようになったというのです。

 河合隼雄は実際の患者に接して、ひとりひとりの患者とじかに接触して、一緒に思い悩んだりして治療に当たっているわけです。人間はひとりひとり違う、精神の病をもつている人はみなそれぞれ違う、それを一律に取り扱うことなんかできない、いわば現場が大事なわけです。そしてその現場は、カウンセラーである河合隼雄自身も、その中に入り込んで一緒に苦しみ悩まないと、答えは見えてこないというのです。なにかの実験を重ねて、一律に原因と結果を求められるようなものとは違うというのです。

 河合隼雄はその中村雄二郎の「臨床の知」ということを説明して、こういうことをいうのです。
 世界ということを考える場合に、近代科学の考えかたをすると、観察する人は、世界の外にいる。わたしが世界の外からみているという状況である。たとえば、人間というのは、他人に親切に、他人の事を考えて生きれば、皆な仲良くなるではないか、だからお互いに仲良くしなくてはいけません、といったら、カッコいいように思うけれど、自分のことを考えたらそんことは簡単に言えない。自分のことを考えたらそんな偉そうなことはいえない。「みんなで他人の事を考えてください。私は考えずにいますから」ということになる。そのようにカッコいいことを言う人が多い。教師とか宗教家かと、自分のことを忘れる才能をもっている人がそうだ。「皆さん」とかはいうけれど、そこには自分が入っていない。そして「こうしなさい」「ああしなさい」というから、「あなたはどうなのか」というと、答えに窮してしまうというのです。

 そのときに自分も入れたら、「なかなか人に親切ができないし、やめようと思っても酒をのんでいるし、いつも真実を語るつもりでも嘘はついているし、これはどうなんだろう」と、そういう自分も世界のなかに入れ込んで、世界をどうみるかというのが「臨床の知」ということだというのです。

 言葉が肉となって、私達の間に宿ったというのは、いわばそういうことではないか。神は人間の世界を、われわれ人間の生きている世界を、外からみているだけではだめだ、それでは人間の問題は見えてこない、人間を救えない、人間の生きている世界にみずから肉をとって入り込んで、この世界に生きてみないと人間の問題は解決できない、そうお考えになって、神は御子をこの世に派遣したということではないか。

 本当は神さまはもともと、われわれの世界の外に立っていて、外からわれわれの世界を眺めて、ああしろ、こうしろ、と指示したりするというようなかたではないのです。もともとはこの神の言葉には、「言葉の内に命があった」というのですから、この言葉には、普通の哲学的真理とかとは違って、その内に命そのものが入り込んでいたのであります。神の言葉は決して単に客観的な真理なのではなく、この言葉には命があったのです。そしてこの命が人間を照らす光だったのです。

 単なる客観的な真理が人間を救う光ではないのです。この言葉のなかに潜められている命が人間を救う光なのであります。

 ヨハネによる福音書には、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と述べられているところがあります。命が光りをもち、命がわれわれ人間を照らすというのです。

この聖書の言葉は、どういう箇所で言われているかといいますと、ヨハネによる福音書の八章一二節にあります。そしてその八章一二節の前のところには、姦淫を犯した女が律法学者やファリサイ派の人々に捕まえられて、イエスのところに連れられて来たという記事のすぐあとにおかれているのです。

 その記事はどういうことかといいますと、イエスが神殿で教えていますと、民衆が皆イエスの話を熱心に聞いていたのです。そこへ姦淫の現場を捕らえられた女が律法学者やファリサイ派の人々につれられてきました。そして彼らはイエスに「先生、この女は姦通をしているときに捕まえられました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じているが、あなたはどうお考えですか」と聞くのであります。

 イエスは何も答えず、指で地面に何かを書き始められた。しかし彼らはさらにしつこく問いつづけた。それでイエスは身を起こして言われた。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」といわれた。そしてまた身をかがめて地面に何か書き続けたというのです。
 するとこれを聞いていた人々は、年寄りから始まって、一人また一人と、立ち去ってしまったというのです。

 この状況を考えますと、それまで神殿にきてイエスの話を熱心に恐らく共感をもって聞いていた人々は、律法学者たちが姦淫をした女を連れてきて、こういう女は石で打ち殺しましょう、とイエスに問い詰めたときに、それまでイエスと共に座っていた彼らは一斉に立ち上がって、この女を見下ろし、この女に石を投げつけようとしたに違いないと思います。

 この時イエスが神殿でどんな話をなさっていたかはかわりませんが、イエスのことですから、恐らく神の愛について話し、そして人を愛しなさい、敵をも愛しなさい、罪を赦しなさいと、人々に説いていたのではないかと思います。そして人々もそのイエスの語る言葉に共感をもっと聞いていたのではないか。

 ところが自分たちの目の前に現に罪を犯した女をみると、たちまちそのイエスの言葉はどこかにやってしまって、彼らは裁く側にまわろうとしたのであります。

 そうでなければ、イエスから「あなたがたのうちで罪を犯したことのない者がまずこの女に石をなげつけるがよい」と聞いて、そこを立ち去る必要はないからであります。これを聞いて立ち去ったということは、彼らもまたこの女を上から見下ろし、見下して、裁こうとしていたということであります。
 
 この女と自分たちとは違う世界にいると思っていたのであります。しかしイエスだけは違っていた。イエスだけはこの女と共に座って、この女と同じ世界の中にご自分をおいて、罪の問題を考えようとしていたのであります。イエスだけはまさに「臨床の知」を実践しておられたということであります。
 
 ヨハネによる福音書がその冒頭に、「言葉が肉となってわたしたちの間に宿った」ということは、この時のイエスの様子が一番よく現しているのではないか。この姦淫を犯した女の間にイエスが来てくださったということ、それが「言葉が肉となった」ということであります。
 イエスはわれわれ人間の罪の問題を外からではなく、自分もその中に入って、内側から解決しようとなさったということであります。

 それをふまえて、ヨハネによる福音書は、すぐそのあと「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」といわれたのであります。

 ここで、イエスから「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げつけるがよい」といわれて、人々がとった行動は大変面白いと思います。人々は年寄りからはじめて、一人また一人と立ち去っていったというのです。この「一人また一人」というところが大切だと思うのです。みんな一斉に集団で立ち去ったのではないのです。一人また一人と立ち去ったというのです。

  この時人々はみな一人一人が、深く深く自分の罪を思ったということです。つまり、この女と同じ世界の中に立ったということであります。自分だけは違う世界にいるなどとはもはや思えなくなったということであります。人々もまたいわば、「臨床の知」という立場に立ったということであります。

 そしてここから本当のわれわれの歩みが始まるのだということであります。
「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光をもつ」とイエスはいうのです。この「わたしに従う者は、暗闇の中を歩まず」という、わたしに従う者、イエスに従う者とは、この時、イエスの言葉を聞き、この女に石を投げつけなかった人、「ああ、自分はこの女に石を投げる資格などはない、自分もこの女と同じ弱さをもち、同じ罪人の一人なのだ」と思って、この場を立ち去った人々のことではないかと思います。
もちろん、自分の罪を知り、ただこの場を立ち去っただけでは、イエスに従ったことにはならないとは、思います。しかし少なくもいえることは、そこから、つまり自分の罪を知ることから、イエスに従うということが始まるのだということなのです。

 そしてそのイエスの言葉に従うとして、この女に石を投げつけようとしなかった人々は、決して明るい気持で、すがすがしい気持でこの場を去ったわけではないと思います。むしろ、自分たちの罪を思い知らされて、暗い気持ちで、それこそ自分自身の暗闇の中へと立ち去ったのではないかと思います。

 ヨハネ福音書は「光は暗闇の中に輝いている」というのです。しかし、そのあと聖書は「暗闇は光を理解しなかった」記しています。しかし、自分が本当に暗闇の中にいる、自分は罪人だと知った人は、この光を求め、この光を理解したと思います。自分の暗闇を知っている者は、光を切実に求めます、そして光をみることができます。

光は暗闇のなかに輝いているのです。暗闇がなくなったわけではないのです。イエス・キリストは、太陽のような光として来て、暗闇を一掃しようとしたわけではないのです。いわば、その光はローソクの光のように暗闇のなかに輝いているのです。

 イエス・キリストという光は、律法学者のように自分自身が罪人であることはひとつも考えようとしないで、罪を犯した人間をみつけては、裁き、排除し、この世から暗闇をなくそうとしたのではないのです。イエス・キリストは、ご自分も罪人のひとりとして、罪を犯した女と共にうずくまり、その罪のどうしようもなさをよく知り、そうした上で、「わたしもお前を罰しない」、「あなたの罪を赦す」と宣言し、そうして、「今後は罪を犯さないように、罪と戦うように」と、励ましてくださる、そのような光、それはクリスマスの日にわれわれがともすローソクの光として、この世に来てくださったのであります。

 クリスマスの日、この世の暗闇のなかで、いや、自分自身の闇の中で、この光をみつめて行きたいと思います。