「わたしたちの本国は天にあり」3章17−21節


 時々といいますか、始終といったほうがいいかもしれませんが、以前吉祥寺教会の牧師でありました竹森満佐一牧師の言葉を紹介しておりますが、その竹森満佐一牧師がガンになりまして、自分が説教できなくな
ったときに、副牧師に説教させていたのであります。 

 あるとき、その副牧師が入院している竹森満佐一を見舞いにいって、自分のような神学校を出たばかりの者が先生の代わりに説教するなんてことはできない、誰か他の牧師を呼んで説教をしてもらってください、と頼みましたら、竹森満佐一は説教は下手でもいい、ただ十字架だけを語っていればいいんだと言って、代わりの先生を頼もうとしなかったということです。

 これは竹森満佐一の信仰の生涯を要約するようなエピソードではないかと思います。それは竹森満佐一牧師はそのすべての説教集を読んでみますと、この十字架のことに集中しようとしているからであります。

 その十字架のことが、今日与えられております聖書の箇所であります。 パウロは「なんども言ってきたし、今また涙ながらにいいますが、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いのです」というのであります。

 パウロはその前のところでは、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と言っているのです。傲慢と誤解されかねないことを言っているのです。しかしそれは決してパウロが自分が信仰の模範生で、偉い人間だから自分の真似をしなさいということでないという事がここに来てはっきりしてくるのです。

 一八節をみますと、「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからだ」というのです。つまりパウロが自分にならう者になって欲しいというのは、パウロが十字架を信じて、十字架に従って歩いている、そういう自分にならって欲しいと言いたいのだという事がここで明らかにされるのであります。

 ここで「十字架に敵対して歩いている者が多い」というのは、既にクリスチャンになっている教会の中の人のことであります。キリスト教を迫害している教会の外部の人のことではないのです。そういう人はもちろん沢山いたでしょうが、そういう人について、パウロは「今また涙を流して語る」というような事は言わないのです。

 教会の中にいて、信仰をもっていると言っている人々、しかもキリストの十字架によって救われた人のことであります。それなのに、今はそのキリストの十字架に敵対して歩んでいる、だからパウロは泣けてくると言うのです。悲しいと言うのです。どうしてそうなってしまったのかと嘆くのであります。

 彼らはどのようにして十字架に敵対しているのでしょうか。彼らもクリスチャンですから、十字架なんかいらないと言っているのではないのです。キリストの十字架によって自分たちは救われたのだという事は言っているのです。口では十字架の大切さを言っているかも知れない。

 しかし彼らの実際の生活はどうなのかと言うことなのです。自分たちは確かに十字架によって救われた、しかし救われたからには、われわれも割礼を受けなくてはならない、律法を守らなくてはならないと言い出すのです。十字架による救いだけでは、不十分で、やはりわれわれの良い業で補強しないと救われないんだといいだしているのです。

 彼らはクリスチャンですから、口では十字架の事を言うのです。しかし実際の生活では、十字架を重んじていないのです。つまりは、それはパウロに言わせれば十字架に敵対し、十字架を軽蔑しているのです。

 われわれはどうでしょうか。われわれは確かに自分の良い業なんかは主張する人はひとりもいないだろうと思います。自分の行いによって救いをかち取るんだというような傲慢な人は、この教会には一人もいないと思います。

 しかし、キリストの十字架という救いがありながら、それでもわたしみたいな人間はだめだ、救われないんだ、救われていないんだと言う人は、そう口には出さなくても、そう思っている人は多いのではないでしょうか。それではキリストの十字架を重んじていない事になるのです。

 竹森満佐一はここでの説教でこう言っております。「この人たちは律法によって自分は救われるので、律法が自分の生活に大事だと思っているのだ。自分はキリストによって救われているはずなのに、まだ自分の行いがだめだから自分は救われないと思ったり、あるいは自分の行いがいいから救われているので、キリストの救いもありかたいが、それは半分ぐらいで、あとの半分ぐらいは自分の行いのよさで救われていると考えている人たちだ。

 そうすると、これは十字架を完全に受け入れていないのだから、十字架を軽蔑していることになる。われわれがいつも陥る信仰の病は、自分はキリストによって救われたと信じて信仰生活していながら、しかし自分はまだ十分でない、何故なら自分は信者らしい行いができないから、だめだ、自分には愛が足りないから、まだ救われないと思ったり、自分は正しいことのために戦う力がないから、救われないと思ということだ。

 それはやはりキリストの十字架だけで救われていると思っていないことで、十字架に敵対していることで、十字架を軽蔑しているので、十字架の力を完全には認めていないということである」と竹森満佐一はいうのです。

 ここでパウロが言っている十字架というのは、自分が担わなくてはならない十字架ではなく、自分がキリストによって担われた十字架であります。

 われわれは十字架と聞きますと、すぐイエスのいわれたこのような言葉を思い浮かべるのではないでしょうか。
 「自分を捨て、自分の十字架をとってわたしに従ってきなさい」というイエスの言葉わ思い浮かべるのではないでしょうか。

 しかしそのようにイエスから言われた弟子達は誰ひとり自分の十字架を担うことはできなかったのです。イエス・キリストと共に十字架を担って死ぬことができた人は一人もいないのです。

 イエスはただひとりですべての人の罪を担って十字架で死んでいったのです。そしてそのようにして、キリストの十字架に担われ、罪の赦しを知った弟子が、今度は自分の十字架を負うことができるようになったのであります。

 われわれが十字架ということで、まず、すぐ思い浮かべなければならない事は、自分が担うべき十字架のことではなく、自分がキリストによって担われた十字架です。

主イエスが「自分を捨て、自分の十字架をとってわたしに従ってきなさい」といわれたのは、いつでも、自分を捨てる用意と覚悟をもって、いつでも自分の十字架を担う用意と覚悟をもって、わたしに従ってきなさいということではないかと思います。
十字架を負うということは、どこかに自分が担うべき十字架はないかとうろうろ探し回って、苦労してみるというようなことではないのです。

いつでも、十字架を担わなくてならなくなったときに、いつでも自分の十字架を担いますという用意と覚悟をしておくということであります。

 十字架というのは、自分でこれが自分の十字架だと思って担うようなものでないのです。十字架というのは、他の人によって担わされるものであります。つまりは、それは神がわれわれに担わせるものであります。自分がこれが自分の十字架だと思って担おうとする十字架というのは、いつでも、どこか自分にとって都合のいい十字架であり、自分にとってかっこいい十字架でしかないのではないかと思います。

 ペテロが復活のイエスにお会いして、「お前はわたしを愛するか」と問われ、そしてペテロが「はい、愛します」と答えたあと、主イエスは、ペテロにこういわれたのです。「お前は若いときは自分に帯びをしめて自分のゆきたいところに行っていた。しかし年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯びをしめられて、行きたくないところに連れていかれる」といわれたのであります。

 「他の人に帯びをしめられて、ゆきたくないところに連れていかれる」というのであります。自分勝手にこれが自分の担うべき十字架だといって、英雄のような気持ちになって、担うようなものではないということであります。

 他の人に負わされるのです、自分の置かれている環境からどうしても自分が負わなくてはならないという労苦であります。それは家族の介護ということであるかもしれません。他人からみれば、それが十字架なのかといわれてしまうようなものかもしれません。しかしそれは本人にとっては十字架なのです。

 その他の人によって負わされる十字架を逃げまどうのではなく、最後にはよし、これを担っていこうと自分でその十字架を担っていこうとすること、これが「自分の十字架をとって」イエスに従うということであります。

 他の人が、といいましたが、それはその背後には、神様がということであります。神が負わせようとなさるのです。その他の人が負わせ、神が負わせようとする十字架を、自分の十字架として負うということであります。そういう用意と覚悟をして、イエスに従って生きていくということであります。

 それは神様がこのわたしに負わせようとしている十字架ですから、それはわたしが負うことのできる十字架であります。自分が負える十字架であります。神様はわたしをつぶしてしまうような十字架など負わせようとはなさらないのであります。

 介護の重荷などは、どんなに自分ひとりで負うとしても追い切るものではないのです。他の人の助けを必要とするし、公の助けを必要とするのです。
 自分ひとりで歯を食いしばって、英雄のように十字架を負う必要はひとつもないのです。

 竹森満佐一もここの箇所の説教でこういっています。「キリストの十字架は、他の人のために苦しむという話しではないのです。もしその程度のことであるならば、何も神の独り子、主イエス・キリストが十字架につく必要など少しもないのです。他人のために苦しみなさいというような話は、この世にいくらでもあるからです。十字架が立てられた本当の目的は人の罪が赦されるということであり、その罪が赦されるということは人間の生活の一部分ではなくて、人間の生生活の全部だということを聖書は言っているのてある」。

 キリストの十字架に敵対して歩いている人というのは、繰り返すようですが、キリストの十字架を信じている人を迫害している人のことではなく、キリストの十字架によって救われていながら、そして口では十字架の事をいいながら、実際の生活においては、少しもキリストの十字架の赦しを信じようとしないで、まだ依然として自分の行いの足りなさを嘆き、キリストの十字架の恵みに信頼しきろうとしない人々のことなのです。

 パウロは、ガラテヤ人への手紙では、「もしある人があなたがたの受け入れた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきだ」といっております。

 それに対してここでは、十字架に敵対している人のことを考えると、涙がでてくるというのです。「呪われるべきだ」という激しい言葉から、「涙を流して」という言葉に変わっているという事は、パウロの人間的な成長を示しているのかも知れません。

 あるいは、ガラテヤの信徒への手紙で問題になっている敵が、外部からの敵で、この手紙で問題になっている人々が教会の内部の人であるという違いから出ているのかも知れません。そのために「呪い」という言葉から「涙」という言葉になったのかもしれません。

 十字架を重んじない、そして結局は十字架を軽蔑している人に対して、パウロは呪ったり、涙を流したりして、なんとかして人々が十字架の福音を信じてもらいたいと願っているのです。

 パウロは今キリストの十字架に敵対している人の事を考えると、涙を流さざるを得ないと言っております。それはガラテヤ人への手紙にあるように、呪わるべきだという表現に比べるとずいぶんおだやかな表現ですが、しかしその後は手厳しいことを言っております。

 「彼らの行き着くところは、滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」
 「彼らは腹を神とする」というのは、彼らも結局は自分の欲を神として拝んでいるということです。

 その欲というのは、ただ肉欲という言葉て表現されるような欲のことではなく、自分の良い業とか、人間的な業績とか、立派さとか、そういう自分の行いによって救いを確保しようとしたり、そうできないことで、うなだれるような生き方のことであります。
 そしてパウロは「しかし、わたしたちの本国は天にあります」といいます。
 これは口語訳では、「わたしたちの国籍は天にある」となっています。

 この言葉はよく知られた言葉であります。そしてこの言葉はよく教会の墓地の墓石に書かれる場合が多いのです。その場合には、われわれが死んでからいくのは、天にあるので、だからわれわれの国籍は天にあるという意味で書かれるのではないかと思います。それは、あのヘプル人の手紙にあるような、私達が死んでからいく天にあるふるさとというような意味で考えられております。

しかしパウロがここでいっている意味はそうではないかのです。ですから新共同訳のように「わたしたちの本国は天にあります」のほうが良い訳だと思います。

 これはわれわれが死んでからいく、天国のことではなく、そこから救い主イエス・キリストが来て下さる本国のことです。

 いわば、本籍地みたいなものです。われわれは自分の存在を証明する時に、どんな場所に住んでいても、いちいち本籍地のある役所から証明を取り寄せなくてはならないのです。それと同じように、われわれの存在を証明してくれる所は、われわれの救い主イエス・キリストがおられる天にあるというのです。

 イエス・キリストは天におられて、そこからわれわれのところに来てくださり、そしてその時にわれわれの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じからだに変えてくださるのだというのであります。

 われわれを本当に生かしてくださるのは、天にあるのです。われわれは救われたといいながら、この地上に生きている限り、依然として卑しいからだのままだし、相変わらず貧しい信仰生活しかできていないけれど、しかし、最後の時に、天からイエス・キリストが来て下さって、われわれの救いを完成させてくださるのだ、われわれはわれわれの救いの根拠と確かさを天にもっているんだ、だから本当に安心なんだという事です。

 だから、どんなに現実が惨めでもこの望みによって救われるんだという事であります。われわれの救いというものが、イエス・キリストの十字架という過去の出来事において確かな根拠を与えられており、それだけでなく、将来においても、その救いがイエス・キリストが天から来てくださって完成して下さるという望みによっても救われているという救いなのだという事はありかたいことであります。

 われわれの救いというものが、すでにイエス・キリストの十字架においてなされた過去の出来事に根拠がおかれ、それだけではなく、将来、終末のときに天から来てくださるイエス・キリストを望むという、望みにおいて救われているという事は本当にありかたいことです。現実の自分をみれば、救われたといっても依然として卑しいからだであるからであります。

 われわれの本国は天にあるのです。わが本籍地は天に登録されているのであります。