「放蕩息子のたとえ」 ルカ福音書一五章一一ー三二節


イエスがなさった「放蕩息子のたとえ」は、こういう状況のなかで語られたたとえ話であります。

 徴税人や、罪人がイエスから話を聞こうとして、集まってきたのであります。その様子をみて、ファリサイ派の人や律法学者たちは、イエスに対して、「この人は罪人たちを迎えて食事をしている」と非難したのであります。

 当時はそうした人々と交わること、まして食事を共にするなどということは、穢れたことで、とんでもないことだと考えられていたようなのであります。

 それを受けて主イエスは、三つのたとえ話をしました。一つは百匹の羊をもっている人がそのうちの一匹を見失ったならば、その羊を探し求めるために、九十九匹を野原に残してまでして、その見失った一匹を探し求めるという話、そして、二つ目は、ある女が十枚の銀貨のうち、一枚をなくした。そのなくした銀貨を見つけるという話、そして最後に、二人の息子をもっている父親が、そのうちの下の息子が自分のもらうべき財産の分け前をもらい、父親のところを出ていって放蕩三昧にふけり、財産を使い果たし、最後には、食べるものにも困って、父親のところに帰ったら、食物にありつけるだろうと思って帰ったところ、父親はそれを喜んで迎えたという話であります。

 失ったものをもう一度見つけたときの喜びを語るのであります。つまり、主イエスにとっては、徴税人にせよ、罪人は、神様からすれば、見失われたもので、その人達と一緒に食事して交わるということは、一度見失ったものをもう一度とりもどすということで、こんなにうれしいことはないではないか、どうしてこの喜びがお前達にはわからないのかと、主イエスは、ファリサイ派の人や律法学者たちに語るのであります。

 ここは悔い改めをテーマにしたところであります。放蕩息子のたとえは、ルカによる福音書だけにある話で、ルカによる福音書は人間の悔い改めについてとくに強調する福音書であるといってもいいかもしれません。

 マタイとマルコ福音書では、「わたしがきたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、単に「罪人を招くためである」といっているところを、ルカによる福音書には、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と、「悔い改めさせるため」という言葉を付け加えているのであります。

 ルカによる福音書は、悔い改めを強調しているといってもいいと思います。そして悔い改めるということは、これはわれわれ人間の行為であります。それならば、当然、悔い改めたという行為をした人間の思い、感情、つまり喜びが語られてもいい筈であります。それなのに、この悔い改めを語るルカによる福音書の一五章の箇所には、悔い改めた人間の側の喜びについては一つも語られていないで、悔い改めた者に対する神の側の大きな喜びだけ語っていることはとても不思議であります。

 七節にはこう書かれています。「言っておくが、このように、悔い改める人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と、喜びは、「天にある」、つまり神にあると、記されているのです。また一○節には、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と、語られているのであります。

 もちろん、この二つのたとえ話では、一つは羊の話だし、一つは銀貨の話ですから、そのものに喜びの感情に言及がないのは当然であります。しかし放蕩息子の話は、人間であります。当然そこでは、放蕩息子の喜びが語られてもよさそうであります。自分が放蕩して父親のもとに帰ってきたのに、それを父親はなんの文句もいわずに、一つも叱らないで、迎えたくれた、その喜び、その放蕩息子の喜びについて語ってもよさそうなものであります。
 しかし、そこには、放蕩息子の喜びについて、一言も語ろうとしていないのであります。ただ父親の喜びだけが語られているのであります。
 
 それに対して、放蕩息子のほうの心情についてはなにも語らないのに、兄のほうの気持ちは、実にリアルに語るのであります。さんざん自分勝手なことをして困り果てて帰ってきた弟を喜んで迎えている父親に対しての兄の大変な不満、いや怒りをあらわに語るのであります。この兄の姿に対して、弟のほうの心情については、なにも語ろうとしない、主イエスの話し方は不思議であります。

 ここには、悔い改めた者の喜びよりは、悔い改めた者を見いだした時の神の喜びだけを語り、天における喜びがどんなに大きいかを語るのであります。

 それは、われわれにもあるいは、少しわかることであるかもしれません。自分の子供がなにか悪いことをして、それに気づき、悔い改めたときに、それは悔い改めた子供本人よりも、それを知った親の喜びはもっと大きいということは、われわれにもわかると思います。

 今度ここをおらためて読み直して、発見したことが一つあります。それは四節の言葉であります。こう記されております。「あなたがたの中に百匹の羊をもっている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」というところです。

 ここでは「見失った」と訳されているのであります。口語訳では、「いなくなった一匹」となっているのです。原語を見ますと、新共同訳のほうが正しいようです。英語でも、LOSEという言葉がつかわれております。口語訳の「いなくなった」という場合は、自分の責任でいなくなる、迷子になるわけです。しかし「見失う」「失う」というのは、羊飼いの責任であります。羊飼いが自分の管理が悪くて、見失ってしまったということであります。

 放蕩息子の場合は、息子が、自分の責任で、自分のほうから財産を受け取り、父親のもと離れてさんざん放蕩に身をもちくずしたのであります。新共同訳でも、二四節をみますと「この息子は死んでいたのに、生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と訳されているのであります。口語訳と同じであります。ここで「いなくなった」という言葉は、四節の「見失う」という字と同じ言葉が使われているのですが、さすがに羊と違って人間の場合には、「見失う」という訳は使えないで、「いなくなった」と、新共同訳も訳しているのであります。

 放蕩息子はもう明らかに、自分の責任で、自分の意志で、父親のもと離れ、いなくなったからであります。羊のように、決して、羊飼いが見失ったのではないからであります。

 しかし、原語をみますと、ここでも同じ字が使われているということは、イエスのたとえでは、父親はあくまで自分の責任で、この息子を見失ってしまったのだと責任を感じているということなのです。その息子がもう一度見つけることができたという喜びについて語られているということであります。

 われわれが罪を犯すときには、自分の意志で、自分の責任で罪を犯し、神の元を離れようとするのであります。しかし、神は、われわれが罪を犯して神のもとを離れるのを、父なる神はご自分の責任としてとらえ、「ああ、自分は彼を見失ってしまったのだ、なぜもっと彼を自分の愛の庇護のもとにとどめておかなったのか」と嘆いておられるということであります。

 だから、迷える羊を見いだしたときの喜びは、大きいのであります。放蕩息子が帰ってきて、それを見いだしたときにの喜びは大きいのであります。
 
 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。大きな喜びが天にある」というのであります。

 さて、放蕩息子のたとえ話は、ある人に息子がふたりいて、弟のほうが生前贈与をしてくれといい、父親はそれに応じて、財産をわけてあげたというところから話が始まります。

 弟はその財産でさんざん放蕩し、財産をなくしてしまい、おまけに飢饉がやってきて、食べるものに困った。最後には豚のえささえ、食べることができなくなった。それで彼は思った。「彼はわれに返り、『父のところには、大勢の雇い人がいて、食べるものもたくさんあるに違いない。ここを去って父の所に帰ろう。そしてこういおう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言って、食物にありつこうと思った』」というのです。

 そうして父親のもとに帰った。ところが父親はまだ遠く離れていたのに、父親の方から先に、息子を見つけて、憐れに思い、父親のほうから走り寄って、首を抱き、接吻した。
 父親の方からまだ遠く離れていたのに、息子を見つけたということは、父親は毎日、夕方になると息子が帰ってくるのを待っていたということであります。ある人がここを説明して、「この父親は、この子が悔い改めて帰ってくるのを今か今かと待っていたのだ。自分の気持ちに負けて、子供を取り扱う父親ではない。これはわたしたちのようにだらしない人間にとってはまことにありがたい」といっているのであります。

 父親は息子のほうから自分の罪に気づき、自分のところに帰ってくるのを待っていた。父親は自分の情愛に負けて、息子が放蕩三昧に陥っているところにまで出かけることはしなかったというのであります。息子が帰ってくるのをじっと、忍耐強く待っていたというのであります。「自分の気持ちに負けて、子供を取り扱う父親ではない」ということであります。

しかし、この息子はこのとき、本当に悔い改めたのでしょうか。彼はただ父親のもとに帰ったら、食物にありつけると思ったのです。だから、もう息子として帰ることはできない、雇い人の一人として扱ってもらってでもいいから、食物にありつきたいと思っただけなのです。これはある意味で取引であります。
 これが本当の意味での悔い改めとは到底いえないと思います。

 放蕩息子に、本当の悔い改めが起こるのは、この息子が、父親のほうから駆け寄り、叱りもせず、抱きかかえ、接吻してくれた時であります。彼はもうこのとき、自分が食物にありつくために用意した、あの取引の言葉、「雇い人の一人にしてください」という言葉は吐いていないのです。もう吐く必要はなかったし、もう吐けなかったのです。

 彼はその父親の慈愛に触れたときに、こういうのです。「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」というのです。もう「雇い人のひとりとして」とは言わないのです。言えなかったのです。このとき、彼に本当の悔い改めが起こったのであります。

 パウロの言葉に「神の憐れみが悔い改めに導くこともしらないで」という言葉がありますが、まさにこの父親の慈愛が彼を真の悔い改めに導いたのであります。

 しかし、それでもたとえ、父親のもとに帰ったら、食物にありつきたいという
思いが起こり、父親のもとに帰ろうとした、そのように方向転換をしたということでいえば、やはりこれは悔い改めの始まりであったということは間違いのないことであります。悔い改めるということは、後悔とは違い、ただ自分の過ちを認めることではなく、自分に向かっている思いを神に思いを向けるという方向を転換することだからであります。

 そしてそのようにして、われわれが神に目を向けたときに、神の慈愛に触れて、本当の悔い改めに導かれるのであります。

 問題は、兄の姿であります。このイエスの放蕩息子のたとえは、放蕩息子が主題ではなく、この兄のことを語ろうとしたたとえであります。それはなぜかといいますと、イエスが徴税人や罪人と一緒に食事をしているときに、ファリサイ派の人や律法学者たちがそれを非難したところから語られたたとえだからであります。

 徴税人や罪人たちが、イエスと一緒に食事をしている、神の子であるイエスと一緒に食事をしている、それはまさに神と共にいるということ、神のもとに立ち返ったということは、それはまさに悔い改めているということではないか。ファリサイ派の人たち、律法学者よ、それをどうして一緒に喜べないで、わたしを非難するのかということを語ろうとするたとえだからであります。

 一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある、どうして、あなたがたは、天使たちと一緒になって、喜べないのかということであります。

 パウロが「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」、それが人を愛することではないかといいましたが、われわれは泣く人と共に泣くことは容易にできるかもしれません、しかし、喜ぶ人と共に喜ぶ、本当に心の底からその人と共に喜ぶということがどんなに難しいかということであります。そして本当は、喜ぶ人と共に心から喜ぶことのできない人が、泣く人と共に、本当に泣くなんてこともできる筈はないと思います。

 放蕩息子の兄は、父親が、放蕩して帰ってきた弟をなにも叱りもせず、最大のふるまいで彼を歓迎している様子をみて、怒って、家のなかに入ろうとしなかったというのであります。
 
 それで父親は出てきて兄をなだめた。すると兄はこういうのです。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに一度も背いたことはありません。それなのに、わたしが友達と宴会するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところがあの息子が娼婦どもと一緒にあなたの身代を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」、これはいったいどういうことなのですか、というのであります。

 すると父親は、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と答えたというのであります。

 この兄のいいぶんは、われわれにはよくわかります。「自分はあなたに一生懸命仕えてきた。あなたのいいつけに背いたことは一度もない。それなのにそれに見合った報酬はもらっていない。それなのにこの弟は」といういいぶんは、よくわかります。

 それに対する父親の答え、「お前はわたしといつも一緒だったではないか。わたしのものは全部お前のものなのだ」というのです。

 兄のいいぶんは、いってみれば、「ギブ」アンド「テイク」の関係、つまり、与えたらそれに見合った報酬があってしかるべきだという考え、これはいってみれば、商取引の関係であります。これは愛の関係ではないのです。

 父親の言った言葉、「お前はいつもわたしと一緒にいたではないか。わたしのものは全部お前のものではないか」というのは、父親とこの兄との関係を「ギブ」アンド「テイク」の関係ではないものと考えているということであります。わたしのものは全部お前のものではないか、と父親はいっているのです。つまり父親のほうでは、この兄との関係を愛の関係として捉えているということであります。
 兄のほうは、父親と一緒にいながら、そのことにひとつも喜びを感じていなかったということが、ここで暴露されてしまったということであります。

 われわれの人間関係、親子の関係、夫婦の関係も、その大部分は、「ギブ」アンド「テイク」の関係で成り立っているかも知れません。たとえば、親が死んで遺産相続のことが問題になったときに、親の介護を献身的にした子供に、あるいは、その奥さんにたくさんの遺産が相続されることにわれわれはひとつも不満はないと思うのです。

われわれの人間関係は、その多くの場合、「ギブ」アンド「テイク」の関係でなりたっていると思います。
 愛は応答という性格をもっているわけですから、こちらが愛したら、それに応じて愛の見返りを求めることは必ずしも間違っているわけではないと思います。

 父親は、兄が家に怒って家に入ってこないのをみて、父親のほうから兄のほうに出て行って、なだめたというのです。おもしろいのは、「なだめた」と聖書は記しているということです。父親はその兄の態度に頭から怒ったのではなく、「なだめた」というのです。ということは、父親はこの兄の気持ちを頭から退けたのでないということです。「お前の言い分もわかる」ということであります。

 しかし、それだけでいいのか、ということであります。われわれの人間関係が「ギブ」アンド「テイク」の関係だけでいいのか、ということであります。それを超えたところに、愛があるのではないかということであります。

 そういう愛が根底にあるからこそ、あの「ギブ」アンド「テイク」の関係も、単なる商取引をこえた、もっとゆるやかな「ギブ」アンド「テイク」の関係になるのではないか。もっと温かい「ギブ」アンド「テイク」の関係になるのではないかということであります。

 律法主義というのは、われわれが神様に対して、これだけのことをしましたから、これだけあなたの律法を守ったから、あなたはわたしを愛してくれる筈です、あなたはわたしを愛さなくてはならないのです、という生き方であります。それは商取引なのです。それは決して愛の関係ではないのです。

 この「放蕩息子のたとえ」は、ファリサイ派の人達、律法学者たちが、イエスが徴税人や罪人達と一緒に食事し、交わるのを不快に思ったところから語られたものであります。つまり、それらの人々が神によって救われている、その喜びに共に預かれない、喜ぶ者と共に喜べないファリサイ派の人の人達に対して語られのであります。

 われわれが自分のわざを誇り、それを頼りにして、救われようとし、それを生き甲斐にして生きようとするとき、われわれは喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣けない人生を送ってしまうということではないか。喜ぶとしても、ただ一人だけで喜ぶ、ただ一人でほくそ笑むくらいの喜びしか味わえないのであります。それだけの喜びしか味会うことができないとすれば、それはなんと空しい人生ではないかと思うのであります。