「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」ー復活日礼拝ー                         ルカ福音書二三章三二ー四三節
詩編一三九篇

今日はイースター、主イエスの復活を記念する日、そのことを覚えてわれわれは礼拝をしております。
 復活節の礼拝の喜びは、十字架で殺されたと思っていた主イエスが三日後によみがえった、生きておられた、そのことを喜び、祝う日であります。

 しかし、それは主イエス・キリストが神の子だったから、十字架で殺されても、神によってよみがえらせたのだ、そういう奇跡が起こったのだということをただ喜ぶ日ではないのです。

 わたしが復活日の礼拝を迎えるたびにいつも思い出す言葉があります。それは吉祥寺教会の牧師でありました竹森満佐一の復活についての説教のなかの一節であります。
「神は、キリストをよみがえらせて、知らん顔をしておられたのでなかった。神は、人間が、キリストの復活を信じて、救いにいたることをこそ、切に望んでおられたのだ」と言っているのです。

 「神はキリストをよみがえらせて、知らん顔をしておられたのではない」という表現は大変面白い言葉ですが、これはどういう意味かといいますと、神はキリストをよみがえらせて、キリストはすぐ天国に登ったのではないということであります。神はよみがえらせたキリストを四十日にわたって、その復活のからだを弟子達にあらわし、それを知らせ、そのことを信じさせて、人々を救いに導いたのだということであります。

それは言葉をかえていえば、イエス・キリストの復活という出来事は、イエス・キリストの一人勝ちではなかった、あるいは神の一人勝ちではなかったということ、それはわれわれ人間と一緒に、もっと正確にいえば、罪人のわれわれと一緒に勝利してくださったということなのであります。

 これも竹森満佐一の言葉ですが、こういっているのです。「復活は奇跡としてだけ、信ずべきものではないし、また、信じることもできない。復活は、十字架にかけられた主イエス・キリストの復活である。それは、主の恵みとともに、信ずべきもだ。キリストによる救いと無関係に、復活を正しく信じることはできない」といっているのです。
 「復活は主の恵みと共に信じなくてならない」というのです。

 つまり、復活には内容があるということなのです。今日は、その主の恵みと共に信じる復活とは何か、その復活の内容は何か、復活において示された主の恵みとはなにかを学びたいと思うのです。

 イエスと共に二人の犯罪人が十字架につけられました。その犯罪人のひとりは、「お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみよ」とイエスをののしりました。すると、もうひとりの犯罪人がこういって、彼をたしなめたというのです。
 「お前は神をもおそれないのか。同じ刑を受けているのに。われわれは自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、このかたは何も悪いことはしていない」とっいた。
 そうして彼は続けてイエスに向かって、こう訴えた。「イエスよ、あなたが、あなたの御国においでになるときには、わたしを思いだしてください」。

 彼は、もうひとりの犯罪人のように、「わたしを十字架から下ろしてください、わたしを救ってください」とか訴えないのです。自分の犯してきた罪を考えてみれば、そんなことはとうてい訴えることはできなかったのです。

 彼はただ「あなたが天国にいったときに、わたしのことを思いだしてください」と訴えただけです。「わたしを天国につれていってください」というのではないのです、「わたしのことを思い出してください」と訴えただけです。「わたしの罪を赦してくださいとまでは、求めません。しかし、せめてわたしのことを天において思い出してください」というのです。

 それに対して主イエスはなんといわれたか。「はっきり言っておくが、お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」といわれたのであります。

 「わたしのことを思い出してください」という言葉で思い出すのは、芥川龍之介が仏教の説話をもとに書いた「くもの糸」という話であります。

 生きているときにさんざん悪い事ばかりしたカンダタという人が死んでから地獄に堕とされた。あるとき、お釈迦様が天上からカンダタのことを思いだした、思い出したというのです。。彼が生きているときに、たった一つだけよいことをした。それは自分の目の前にいた一匹のくもを、ふだんだったら踏みつけて殺してしまうところをそのときは殺さなかった。
 お釈迦様はそのカンダタのことを思いだした。それでお釈迦様は、くもの細い糸を彼のところに下げた。カンダタはそのことに気づいてそのくもの糸をたよりにして、極楽にいこうとよじ登りはじめた。

 途中で自分がいた地獄の連中はどうしているだろうかと思って下をみたら、なんとその一本の細いくもの糸をたよってみんなもよじ登ろうとしている。それでカンダタは慌てて、「これはおれのただけに下げられた糸なのだ。お前達によじ登る権利などはない」といって、下からのぼってくる連中をけおとそうとするのであります。するとその反動でとうとうくもの糸はきれてしまい、カンダタはもとの地獄に落ちてしまった。それをお釈迦様は悲しそうな顔をして天上でみていた、という話であります。

お釈迦様は、地獄にいるカンダタのことを思いだしたのです。くもの糸を天上から地獄に垂らしたのであります。

 主イエスは、「わたしのことを思い出してください」といった犯罪人に対して、「お前は今日わたしと一緒に楽園、パラダイス、にいる」といわれたのです。

 「今日」「わたしと一緒に」というのですから、「今日わたしと一緒にお前をパラダイスに連れていく」ということであります。ただ天の高いところから下を見下ろして一本の細い糸を垂らしたというのではないのです。イエス自らこの犯罪人と一緒に連れ立って、パラダイスに行ってくださるというのであります。

 ここでは、イエスは「今日お前はわたしと一緒にパラダイスにいる」と言われたのです。「今日」と言われた。
 しかし、われわれが毎週告白する使徒信条では、「主はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したたまえり」と、告白しております。

 つまり、イエスが全能の父なる神の右に座したのは、つまりパラダイスにいったのは、死んでから、「陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り」とありますから、死んでからただちに、つまり、「今日」、すぐパラダイスにいったわけではないということになります。天、つまりパラダイスに昇ったのは、三日後だということになります。
これも、福音書をみますと、イエスは死んでから三日後によみがえり、ただちに天にのぼったのではなく、四十日間、イエスは復活の体を人々にあらわしてから、そのあと、天に登ったと記されているのです。

 ヨハネ福音書をみますと、復活したイエスをみて、マクダラのマリアがそのイエスにすがりつこうとしますと、イエスはそのマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上がっていないのだから」と言っているのです。

 そしてマルコによる福音書、ルカによる福音書、使徒言行録では、イエスは四十日にわたって使徒達に現れ、それから天に登られたと記されいるのであります。

 ですから、イエスは死んでから三日後に天に登ったのか、あるいは四十日後に天に登ったのかはよく分かりませんが、少なくともイエスは、十字架で息を引き取ってから、ただちに「今日」、楽園、パラダイスにいったわけではないことは確かであります。

 イエスは死んでからよみがえるまでの三日間、どこにいったのか、何をしていたのか。それはわれわれが告白する使徒信条によれば、「死んで葬られ、陰府にくだり」とありますから、三日間、陰府にいたということになります。それから三日後によみがえり、天に昇ったということになります。

 これは、ペテロの第一の手紙の三章の一八節からの言葉に基づいて告白されたのであります。そこではこう記されているのです。「キリストは肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教されました」と記されているのです。

 「捕らわれていた霊」というところは、口語訳では「獄に捕らわれている霊どものところに行き、宣べ伝えることをされた」と訳されていて、「獄」、つまり「地獄に捕らわれている霊ども」のところに行ってということであります。そしてペテロの手紙では、その「獄に捕らわれている霊ども」とは、ノアの洪水のときに、神に従わないで、獄に堕とされたものだと説明されております。

 つまり、端的にいって、あのカンダタのように、あるいは、犯罪人のように神に裁かれて地獄に堕とされている人々のところにまで、キリストは行って、福音を宣べ伝えたということであります。

 イエスは死んですぐパラダイスにいったのではなく、いったん陰府にくだり、その陰府にいる人々に福音を宣べ伝えた、そこでみんなをみなひきつれていったかどうかはわかりませんが、ともかく獄にいる人々にも福音を宣べ伝えて、三日目に、よみがえり、天に昇った、パラダイスに昇ったということであります。

 神の子であるわれわれの救い主、イエス・キリストは、われわれを救うために、われわれと同じ人間となり、この地上まで降りてきてくださったのです。そしてそれだけではなく、十字架で死んで、さらに陰府にまでずーと降っていって、その人達にも救いを宣べて、それから天に昇ったのであります。

イエスが「わたしのことを思いだしてください」と訴えた犯罪人にに対して、「お前は今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と、「今日」と言われたのは、イエスのこの人に対する、深い憐れみの言葉だったと思います。三日後とか、四十日後とか、そんな悠長なことではなく、「今日、お前はわたしと一緒にパラダイスにいる」といわれたのです。

 仏教説話におけるお釈迦様の話では、お釈迦様の慈悲は天上からくもの糸を下ろしたのです。しかし、福音書に示された神の愛は、ご自分の独り子をこの地上にまで降らせ、そればかりではなく、陰府にまで救い主が降りていって、一緒にパラダイスまで連れて行ったということであります。

 「くもの糸」の話は、一つの説話であり、いわばフイクションであります。虚構、作り話であります。それはわれわれにお釈迦様の慈悲を伝え、またカンダタという人間の浅ましさ、人間の罪をわれわれに伝えるための説話であります。

 それならば、この十字架の上での犯罪人とイエスとの対話はどうなのか。これが作り話でないと言い切れるかどうか。これもまたあるいはフイクションなのではないかといわれるかもしれまん。

 マルコとマタイ福音書にはイエスと一緒にふたりの強盗がひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられたと記されております。しかし、そこではルカに記されているようなイエスと犯罪人との対話はなにひとつ記されていないのであります。ただイエスと一緒にふたりの犯罪人が十字架につけられたと記されているだけであります。このことは、恐らく事実でしょう。

 ルカは、このマルコとマタイに記されているこの事実、ふたりの犯罪人が一緒に十字架につけられたという事実を、さらに、想像力を働かせて、このふたりの犯罪人がその十字架の上でイエスとこういうやりとりをしたのだと書いたのかもしれません。あるいは、ルカがそうしたというよりは、十字架の出来事を体験して、神の愛を深く深く知った人々がいつのまにかそういう話を作っていった、それをルカがここで取り上げたということかもしれません。

 実際問題として、十字架の上でそんなやりとりができたかどうか、またできとしても、そんなやりとりを他の人が聞いて書き留めることができただろうかと疑わしくなるかもしれません。

 問題はそれが事実かどうかということではなく、十字架によって示された恵みは、後の人々が、イエスの十字架によって救いを体験した後の人々が、十字架のうえで、犯罪人とイエスとの間にはきっとそういう対話があっただろうと想像力を働かせるものがあったということなのです。こういう記事をつくりだすほどに、それほどに十字架の恵みは深かった、強力であったということなのです。

 パウロは、このイエス・キリストの十字架の恵みについてこう語っているのです。口語訳「すべての人はみな罪を犯したために神の栄光をうけられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされたのである。神はこのキリストを立てて、その血による信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった」と語るのであります。

 「価なしに」です。「無償で」ということです、「ただ」でということです。
仏教の説話では、カンダタが生涯でただいちど良いことをした。踏みつけてしまえば踏みつけて殺してしまってもよかった蜘蛛を助けてあげた、それをお釈迦様が思い出して、天上からくもの糸を地獄まで下ろしたのに対して、十字架で示された神の恵みは、たった一度の善行を根拠にして、救いの手を差し伸べたというようなものではなく、そんなものはいっさいなく、「価なしに」、われわれ人間側のよきわざなどをいっさい根拠にしないで、われわれにはなんの勲もなく、ただただ神の一方的な憐れみによってわれわれは救われたのだということなのです。

 われわれ人間側からは「価なしに」でありますが、しかし、神の側からは、莫大な代価を払ってであります。イエスは十字架において、われわれの罪を担って、われわれが受けなくてはならない償いという代価を支払ってくださって、われわれの罪を贖ってくださって、われわれにほうには、「価なしに」に、われわれを救ってくださったというのであります。

 カンダタが生涯でただ一度、良いことをした、くもを踏みつけなかった、そんなものは彼が極楽にいく資格とか権利なんかには到底なれないものです。カンダタのところにくもの糸がつり下ろされたのは、お釈迦様の一方的な慈悲によるもの、憐れみによるものなのです。しかし受け取る人間のほうでは、これは自分がくもを踏みつけなかったからだと、自分のわざを誇りだす、そうしては、そのくもの糸をたよりに一緒に極楽にいこうとする地獄の仲間を蹴り落とそうとすることになるのであります。われわれは自分のわざにこだわり、自分のわざを誇りだすときに、必ずこのような浅ましい競争が起こるのであります。

 パウロは、われわれは神の一方的な恵みによって、神の憐れみによって救われたのだといったあと、すぐ続けて、「するとどこにわたしたちの誇りがあるのか。全くない」と断言するのであります。新共同訳では、「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれた」と記されております。

 われわれは救いを得ようとするときに、少しでもその救いの根拠とか資格を自分のなかに取っておきたいのです。自分の目の前にいる蜘蛛をそのときたまたま踏みつけないで、憐れんで殺さなかった、そんな理由にもならない理由をつけて、自分が救われるのは、このことにあったのだと思ったりする。少しでも、自分を誇りたくなるのです。
 
 しかし、パウロは、「どこに私達の誇りはあるか、全くない」というのです。

 イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人のひとりは、イエスに悪態をつく仲間に対して、「お前は神をもおそれないのか。同じ刑罰を受けているのに。われわれは自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ」といっているのです。彼はもう自分の罪について弁解したり、言い逃れしようとはしないです。

 イエスは彼に対して、「はっきりいっておく、お前はきょうわたしと一緒に楽園にいる」と言われた。「はっきりいっておく」というのは、「アーメン」という言葉です、「まことにまことに」という重みのある言葉です。「きょう」というのです、三日後に、とかそんな悠長なことはいわない、「きょう」というのです。そして「わたしと一緒に」というのです。自分は天上にいってそこからくもの糸でもおろしてあげるというのではないのです。イエス自ら一緒につれていってくださる、というのです。

詩編一三九篇は、「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」という言葉で始まる詩編であります。主なる神は、わたしの座るのも立つのも知っているというのです。だからその神からあるときには、逃げだそうとしても、逃げ出せないというのです。そしてその神から逃げだそうとして、「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」と歌われているのであります。

 陰府に逃げていっても、主なる神はその陰府にまで、そこにいますというのです。

 主なる神は、天の上から細い細いくもの糸を陰府に、地獄に垂らしてわれわれを救おうとしたのてはないのです。カンダタのようにちょうと浅ましい思いを抱いて、仲間を蹴落とそうとするとたちまち切れてしまうような細い細い蜘蛛の糸ではなくて、神の独り子、イエス・キリストをその陰府にまで下ろしてくださって、われわれを救うとなさったのです。
 ですから、救われたわれわれは、こちらの態度如何によっては、糸は切れてしまうのではないかともう恐れる必要はないし、もう神経質になる必要はないのです。

 われわれは救われたからといっても、いつだってあのカンダタのような浅ましい思いをもってしまうことはいくらでもあるのです。しかし、もう心配する必要はないのです。ある人が言っておりましたが、救われるということは、もう自分のことを顧みなくなることだ、ただ神を見上げて生きることだといっております。

 もう自分のことを先走りして裁く必要はないのです。必要ならば、神が裁いてくださるのです。ときとぎクリスチャンは、真面目なクリスチャンほど神経質に自分の罪に、自分の至らなさに悩む人がおりますが、もうそんな必要はひとつもないのです。そうした意味で、もう自分を顧みる必要はないのです。

 わたしはここで仏教の救いは、細いくもの糸のようなものだといいたいのではないのです。あのカンダタの話は、一つの説話です。

 わたしは大きな寺院にいって、大きな仏像を見るのは、好きです。そうして牧師でありながら、その仏像の前で大きな安らぎをおぼえてしまいます。この安らぎはなんなのだろうかと時々考えてしまいます。
それは、キリスト教とか仏教とかを超えて、自分を超えた、人間を超えた大きな慈悲というものに包まれる安らぎではないかと思います。

 主イエスは、主イエスご自身が死んで葬られて、陰府にまでくだっていってくださったのであります。そうして復活し、天に登られたのであります。これが主イエスの復活の内容であります。この主の恵みと共に、主の復活を信じたいと思います。