「愛には偽りがあってはならない」ローマ書一二章九ー二一節


 パウロはキリスト者の倫理について語るときに、まず第一にとりあげたことは、「慎み深く生きなさい」ということ、謙遜になりなさいということでした。そして次に取り上げることが、愛ということでした。

 九節からみますと、「愛には偽りがあってはならない」と語りだすのであります。ある人がいうには、パウロは前に、コリントの信徒への手紙の第一の十三章で、いわゆる「愛の賛歌」について語り、どんなに預言する力があり、あるいは全財産をほどこしても、もし愛がなければすべては空しい、もっとも大いなるものは愛であると語っていた。しかしそれから数年かあるいは数十年を経て、このローマの信徒への手紙のなかで、愛について語るときに、まず「愛には偽りがあってはならない」と、非常に消極的に見える言い方をしている、これは前のように堂々とした言い方ではないかもしれないが、人間の愛の弱さを示すことによって、かえって深く愛について教えている、なぜなら、愛の最大の弱さは、偽りに陥りやすいことだからだ、といってるのであります。

 聖書の順番からいうと、「ローマの信徒への手紙」が最初におかれて、そのあと「コリントの信徒への手紙の一と二」がおかれていますが、書かれた順は「ローマの信徒への手紙」のほうが後に書かれているのです。

 そのことを考えてみますと、コリントの信徒へ書いた手紙のなかの、愛の賛歌を書いたパウロ、それを書いてから、このローマの信徒への手紙を書くまでの間に、パウロが愛のことでなにがあったのかはわかりませんが、その間に愛についてのすばらしい経験を味わったというよりは、愛についての苦い経験をしたと推察することもできると思います。それがこの手紙のなかで、まず愛について語りだすときに、「愛には偽りがあってはならない」と、語り出さざるを得なかったということは、われわれにとっても考えさせられることであります。

 愛の最大の弱さは偽りに陥ることだというのです。どんなに、その人を愛していても、愛そうとしても、自分の身を守るために、その人を裏切ってしまうという偽りの愛に陥ってしまうことがあるということであります。

 ペテロは、主イエスをこよなく愛していたのであります。イエスが自分が捕らえられ、殺されるだろうと弟子達に語ったときに、ペテロは「たといあなたと一緒に死ななければならなくなっても、あなたを知らないなどとは決していいません」とペテロは誓ったにもかかわらず、イエスが捕らえられたときに、自分の身に危険が迫ると「その人のことはなにも知らない」と、イエスを裏切ってしまったのであります。ペテロは偽りの愛に陥ってしまったのであります。

 しかし、主イエスは、その自分を裏切ったペテロを決して見捨てなかった。復活の主イエスは、そのペテロに対して、「お前はわたしを愛するか」と、三度にわたって問いかけたのであります。ペテロはもうこの時には、堂々と「はい、わたしはあなたを愛します」とは答えることはできませんでしたが、それでも「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えているのであります。

 主イエスはペテロに対して、もう一度あの偽りの愛から脱却して、真実の愛に立ち直させてくださっているのであります。主イエスはそのペテロに対して、お前も、最後にはゆきたくないところに、他の人に連れられて、そして死ぬことになるだろうといわれたのであります。自分の身を守るために偽りの愛に陥るのではなく、人のために自分の命をも捨てる愛に生きることになるだろうと言われたのであります。

 愛が偽りの愛になってしまうのは、やはり最後のところでは、自分の身を守ってしまう、自分を捨てられないからであります。自己愛から抜け出せないからであります。その自己愛から抜け出すためには、どうしても、自分の命を捨てて十字架についてまで、われわれを愛してくださった主イエスキリストの十字架の愛を受け、それを信じないと、偽りの愛からぬけだすことはできないのであります。

 アウガスチヌスが、「人間は本当の愛に飢えているので、偽りの愛さえ人をとらえるものなのだ」といっているそうであります。この言葉を紹介した人は「われわれは見え透いたお世辞とわかっていても、われわれは人の好意に弱いのだ。みんな愛に飢えているからだ」といっているのであります。

 このごろはやりのことでいえば、「振り込み詐欺」があります。それはまさに人の愛につけ込んで、人をだましてお金を奪いとる手口であります。孫に対する愛、あるいは、息子に対する愛が、困っている孫、息子をなんとかしてあげようとして、お金を振り込んでしまうのであります。だまされてしまうのであります。

 いってみれば、孫に対する愛、あるいは、息子に対する愛を利用して、助けてくれと偽りの愛をもちだして、お金を引き出すのであります。これはまさにアウガスチヌスがいっているように、人は本当の愛に飢えているので、偽りの愛にだまされてしまうということではないかと思います。

 そうしたニュースをきくたびに、なんでそんなに愚かにだまされてしまうのかと思うのです。しかし、ときどき、そうしたニュースをみていて思うのですけれど、自分は絶対にだまされないぞといばっている人よりは、簡単にだまされてしまう人のほうが人間として上等なのではないかとおもってしまうのです。

 自分は偽りの愛なんかには絶対にだまされないのだと威張っているひとは、そもそも愛そのものも信用しようとしない冷たい人間かもしれないなと思ってしまうのであります。それよりは、偽りの愛にだまされて、なんとかしてあげようとしている人のほうがずっと心の温かい人なのかも知れないと思ってしまうのです。

 もちろん、振り込み詐欺に引っかかる人は、愚かな人であります。しかし振り込み詐欺は論外としても、生涯絶対にだまされなかった人よりは、少しはだまされた経験をもつ人間になるほうがずっといい人生を歩んでいるのではないかと思うのです。

 神様はわれわれ人間の愛になんどもなんどもだまされ、裏切られても、なお神様の方では真実の愛を貫き通して、われわれを愛してくださったのではないでしょうか。

 神は、われわれの偽りの愛に対して、預言者ホセアを通して「イスラエルよ、どうしてあなたを捨てることができようか。わたしの心はわたしのうちに変わり、わたしの憐れみはことごとくもえ起こっている、わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びイスラエルを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことはしない」といわているのであります。

 偽りの愛からわれわれが脱却できるのは、この神の真実の愛にふれることによってであります。

 そのあとパウロはこう続けます。「悪を憎み、善から離れず」。ここは口語訳では「悪は憎み退け、善には親しみ結び」となっています。この口語訳のほうが原文に忠実であります。

 ある説教者がここのところで面白いことをいっています。「悪は憎み退け」というもともとの字は、「恐れて逃げる、恐れて身を避ける」という字が使われているというのです。英語訳をみますと、シュリンクという字です。「尻込みする」という意味です。悪と断固として戦うというよりは、恐れて身を避け、逃げることが勧められているのだというのです。ここでいわれていることは、パウロがどんなにわれわれ人間の弱さ、われわれクリスチャンの弱さを踏まえて、キリスト者の倫理について語っているということであります。

 自分は悪になんか負けない、だから、堂々と悪と戦うのだなどとはいわないのです。われわれも暴力団の人をみたら、なるべく関わらないように、退くのではないでしょうか。それが悪を憎むということなのです。それは悪というものの恐ろしさ、そしてわれわれ人間の弱さを本当によく知ってる人の薦めの言葉であります。

 そのあとの「善から離れず」、口語訳でいえば「善には親しく結び」というところも、その人はおもしろく説明しております。この字は、しがみつくという意味だ、糊で張り付くという字が使われているのだ、善と手を結ぶ程度ではだめだ、のりではりつられるように離れないようになることだ。もしも、悪に引きずられたら、皮がはがされ、肉がちぎれるほどに結びついている、ということなのだと説明しているのであります。

 そのあと「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と勧めます。「兄弟愛」という言葉は、パウロがよく使います、ひとつの特別の字がつかわれています。フィラデルフィアという言葉です。アメリカの州の名前になっておりますが、これは教会員同志の愛という意味をもっているようです。

 ペテロの第二の手紙の一章の七節には「信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」という言葉があります。つまり、ここでは、兄弟愛と愛とを区別して使われているのです。どれだけ厳密に違う言葉なのかはわかりませんが、「兄弟愛には愛を加えなさい」というときの「愛」はアガペーという字がつかわれておりますから、あるいは、敵をも愛する愛という意味があるのかもしれません。兄弟愛だけでは、どうにもならないときもあるわけで、そのときには、やはり敵をも愛する愛、もっと激しい自己犠牲的な愛が必要なときもあるということであります。

しかし、ここでは、パウロは「兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と勧めていて、これもある意味では堂々とした倫理というよりも、われわれ人間の弱さを見据えての勧めの言葉を語るのであります。これなら誰にでもできるようなことを勧めているのであります。

 十一節からは、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」と勧めます。ある意味では、当たり前のことが勧められているといってもいいかもしれません。

 「たゆまず祈りなさい」というところは、口語訳では「常に祈りなさい」となっております。この常に祈るということで、その説教者人が説明していて、こういっているのです。「これはそのことに専念するということである、それは絶え間なく祈っているというよりは、いつでも祈ることのできる用意があるということだ」といっているのであります。

 つまり、「たゆまず祈る」「常に祈る」というのは、四六時中祈り三昧に浸るというよりは、常に祈る用意がある、といわれたほうがわれわれには納得がいくのではないかと思います。

 二時間も三時間も祈りに集中するひとがおりますが、また修養会などで、そういう祈りに集中する時間が設けられる場合がありますが、わたしは正直にいって、二時間も三時間も祈り続けることなんて到底できないのです。教会員には、寝る前に、教会員の名前を全部あげて、その人のために祈るという人がいて、いかにもそういう人のことを祈り人だともてはやされますが、そんな風な祈りが本当に祈るということなのだろうか。

 われわれはご飯を食べるときには、食べることに集中して食べますし、たとえば、会社員は仕事をするときには、その仕事に集中すべきであって、そのときには、語弊をまねくかもしれませんが、神様のことは考えないと思います。考えなくていいことだと思います。

 常に祈る、たゆまず祈るということは、四六時中祈り三昧にふけるということではないと思います。いつも祈りの姿勢をもって生きているということであります。それは道を歩きながらもしていることですし、なにも目をつぶって、手を合わせることが祈ることではないと思います。常に、神様に目を向けて生活する、つまり、自分の限界をわきまえ、神様からの助けをこいねがいながら、謙虚に生きるということではないかと思います。

 そしてそのようにして、生きる姿勢が祈るということだと思いますが、そのためには、われわれは、一日のうちに、食事の前とか、あるいは寝る前とか、やはり手を合わせて祈るという時間と形をもつ、そういう時間と形式をセッティングするということは大切だと思います。形式というのは、常に大切であります。
 
 少しとびますが、最後に、一五節の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」という所を考えたいと思います。

 これは愛するということの一番深い愛し方だと思うのです。ある人が言っているそうです。「喜ぶ人と共に喜ぶ、悲しむ人と共に悲しむというのは、相手が一番深い自分になっている時に、その人と交わることだ」と、いっているそうです。
 
 自分がうれしいときに、一緒に喜んでくれる人がいる、自分が悲しいときに、一緒に悲しんでくれる人がいたら、こんなにありがたいことはないし、こんなに励まされることはないと思います。そのときには、本当に自分のことを思い、心配してくれ、自分のことを愛してくれている人がいると思えるからであります。

 自分が一番深い自分になっているときに、その自分によりそってくれる人がいるということは、こんなに慰められ、励まされることはないと思うのです。しかし「喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しむ」これはどんなに難しいことか。

 前にもお話したことがあると思いますが、わたしの友人の牧師が確か三歳になったばかりの娘さんを隣の家に遊びにいって、その庭の池にはまって、死なせてしまったという経験をした人がおります。
 そのときに、近所の牧師仲間がきて、自分も同じように子供を亡くした経験があるから、あなたの悲しみはよくわかる、一緒に祈りましょう、一緒に賛美歌を歌いましょうと言いに来た牧師がいたというのです。そのとき、彼はそれがとてもわずらわしかったというのです。

 そのとき、彼はこう思ったとわたしに話してくれました。「自分は娘を死なせたという悲しい経験をしてわかったことは、同じ悲しい経験をしたからといって、人の悲しみがよくわかるなんていうことは、到底言えないのだということだ」といったのです。

 悲しむ者と共に悲しむなんてことは、到底できないことだということを、自分自身が悲しい経験をしてみてはじめてわかったというのです。悲しみはみなそれぞれに悲しいのであって、人の悲しみなどわかることができるものではないというのです。

 主イエスが十字架を前にして、ゲッセマネの園で、自分は本当に十字架で殺されねばならないのかと苦しみ、そのことを父なる神に祈り、「これは本当にあなたの御心なのですか。できることなら、自分を十字架にかけないでください」と、必死に祈っていたときに、天使が現れて、イエスを力づけた、とルカによる福音書は記しております。

 そのときに、天使は、苦しみ、悩み抜いているイエスをどのように力づけたのかは記されていないのです。ただ天使がイエスを力づけたあと、イエスはいよいよ切に祈り、汗が血の滴りのように地面に落ちたと、記されているのであります。天使がきても、イエスの苦しみ、イエスの悩み、イエスの悲しみはひとつも軽減されなかったのです。ますますイエスは苦しみ、そしてますます、イエスは切に祈ったというのです。天使は恐らく、イエスに何も言わずに、あるいは、何も言えずに、ただそのかたわらにいただけかもしれないと思います。

 われわれも本当に悲しんでいる人の前にいたときに、その人を本当に愛しているならば、言葉ではなにも励ますことはできないし、できなくなると思うのです。ただその人がその悲しみのなかで、神に切に祈り、神様から慰められることを祈るいがいに、なにもできないのではないかと思うのです。

 その悲しんでいる人、苦しんでいる人の傍らに共にいてあげる、それが「泣いている人と共に泣く」ということなのではないか。それが深い自分になっているその人の深さの前に立って、自分もまた深い自分になって、その人の悲しみを共にするということなのではないかと思います。