「自分の正しさではなく」ピリピ3章1−9節


 パウロは「最後に、わたしの兄弟だちよ。主にあって喜びなさい」といいます。このピリピ人への手紙は「喜びの手紙」と言われているのであります。それはこの手紙の中で、喜びなさい、喜ぼう、という言葉が何回となく出てくるからです。

 ここで、パウロは「喜びなさい」というのですが、考えてみれば、喜びというのは、「喜びなさい」と命令されるようなことなのでしょうか。喜びというものは、喜びなさいと、人から命令されて、はい、それでは喜びましょう、といって喜べるものかどうかであります。

 喜びというのは、自分の心の中から自然にわきあがってくるようにして喜ぶのであって、命令されて、喜ぶものではないと思うのです。

 つまり、喜びというのは、本来は受け身のもので、あるうれしい事があって、それに対して喜ぶというものだと思うのです。自分の希望している学校に合格したとか、宝くじにあたったとか、自分のひいきのチームが勝ったとか、そういう喜べる状況というものがあって、自分の意志とかかわりなく、そういう事が起こって、喜びがわいてくる、そういうのが喜びというものではないかと思います。

 喜びというのは、もともとは自分の外部の状況によって喜ぶものであります。それなのに、ここではパウロは「喜びなさい」と命令するのです。更に、四章には「あなたがたは主にあって、いつも喜びなさい、繰り返していうが、喜びなさい」と言うのです。
 
 「いつも喜びなさい」というのです。「いつも」というのですから、どんな時にもという事ですから、ここで言われている「喜び」というものが自分の外部の出来事によって喜んだり、悲しんだりすることではなく、どんなに悲しい状況のなかにあっても、いつも、どんな時にも「喜びなさい」という事であります。

 われわれが考える喜びは、繰り返すようですが、自分の外部の出来事に一喜一憂するという、いわば感情的な喜怒哀楽の喜びです。しかし、ここでは、「いつも」というのですから、どんな状況の中にあっても、というのですから、これはただ感情的なことではなく、むしろ、われわれの意志の問題、決断の問題になるのではないかと思います。つまり、どんなに喜べない状況のなかに立たされても、よし、喜ぼう、と自分に言い聞かせて、喜ぼうと決断する、そして喜ぶ、そういう性質の喜びだということであります。

 なぜパウロはそんなことをいうのか。パウロはここで、ただ「喜びなさい」と言っているのではないのです。「主において、主にあって、喜びなさい」と言っているのです。

こここでは、喜ぶ原因が、自分の外界の出来事とか、あるいは自分のなかにある心の思いとかというのではなく、それとは違った視点というものが与えられているということであります。

 それは「主イエスにあって」ということであります。あるいは、主イエスにおいて示された神の恵みを信じることによって、喜ぶことができるではないかということであります。

 旧約聖書にヨブ記という物語がありますが、ヨブは突然、自分の息子娘を失い、また自分の全財産を失ってしまうのであります。そのとき、そういう悲惨な状況のなかにあって、ヨブはこういうのです。「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきなか」と言ったのです。
 ヨブはまったく喜べる状況のなかにいないときに、その悲しみをふっきって、「主の御名はほむべきかな」といったというのです。ここには、喜んだとは書かれてはおりませんが、しかし喜んだのだといってもいいと思います。

 ヨブはなぜそんなことができたのか。ヨブは悲しみの中で地に崩れおれておりました。しかしヨブは、その時、起き上がり、衣を裂き、髭をそり落とし、地にひれ伏して、拝して言った、と聖書は記しているのです。
 「そうだ、わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主なる神様は、わたしにすべてを与えてくださった、そうであるならば、その神様はまたわたしからすべてを取り去れるかただ、主のみ名はほむべきかな」と言ったのであります。

 聖書本文には、「そうだ」という言葉はありませんが、気持ちの上ではそういう気持ちが入っていると思います。これは喜びとは違うかも知れませんが、しかしここにはヨプが自分の悲しみを捨てて、絶対者なる神の前にひれ伏し、神を賛美したということであります。それは最大の喜びといってもいいと思います。

 「主にあって、いつも喜びなさい」というのは、何もいつも二コニコしていなさいという事ではないのです。そんなお人好しになれということではないし、そうなれるほど気楽な人生をわれわれは歩んでいるわけではないのです。

 深い悲しみの中にあって、しかしあの主イエス・キリストによって救われた事を思い起こすのです。そうしたら、「主は今まですべてのものを与えてくださった、そうであるならば、また、主はすべてを取り去り給う時がある」という事を思い起こし、主のみ名はほむべきかな、と神を賛美することができたということであります。

 それはむしろ悲しみが深ければ深いほど、そうしてもはや人間的な慰めではもうどうにもならない深い悲しみの中にある時、神様のことを思い起こし、深い喜びが与えられるのであります。

 われわれにとって、この日曜日ごとの聖日礼拝というものがとても大切だと思います。日曜日の礼拝に出ても、そこで語られる牧師の説教は、自分の今抱えている問題と全く違う聖書の話をしているかもしれません。牧師は直接自分の問題に何もふれくれないし、従って直接的な解決策なんかなにも示してくれないかもしれない。自分の問題と関係のない神様のお話をしているだけかもしれない。そして神様を讃える賛美歌が歌われる。

 そういうことがとても大切なのではないかと思うのです。われわれはあまりにも自分の問題にこだわりすぎていないか。自分の問題というのは、結局は自分の正しさということです。自分はなにひとつ悪いことはしてこなかったのに、どうしてこんな不幸な目に遭うのかとということかもしれない。

 そういう時に、礼拝ではまったく自分とは関係のない話がなされ、神様のことが語られ、神様への賛美が歌われる、それが大切なのではないか。

 ヨブは自分は正しい生活をしてきた。それなのにどうしてこんな不幸な目に遭うのかと神に必死に問うているのです。ヨブの友人は、お前は気がつかなかったかもしれないけれど、こういう不幸な目にあっているのは、やはりお前がなにか悪いことをしていたからだといって、たしなめるのです。しかしヨブは絶対にそんなことはないといって、あくまで自分の正しさを主張するのです。

 そのヨブに対して最後に神様が登場してくるのです。神様は嵐の中から現れるのです。神は、その嵐の中で、優しい言葉などかけてこないのです。ヨブをしかりつけるのです。「お前は神か。お前はこの天地が作られたときに、どこにいたのか。お前は神か」と叱りつけるのです。

 その時、ヨブは「自分は愚かでした」といって、神の前にひれ伏して、救われるのであります。ヨブはそういう不思議な救われかたをするのであります。

正しい人間になぜ不幸が訪れるのかというヨブの必死の問いに神様はなにひとつ答えてくれていないのです。
 しかしヨブは、「主は与え、主は取り去り給う。主の御名はほむぺきかな」といって、神を賛美し、喜ぶことができたのです。礼拝ということはこういうことなのです。

礼拝というのは、自分の正しさの問題から離れる場所であり、時なのです。自分に対するこだわりから解放される時なのです。そのためにわれわれはオルガンの音に耳を傾け、賛美歌を歌い、聖書の話に耳を傾けるのであります。

 今日学ぼうとしておりますフィリピの手紙は、このあと、パウロは二節から、「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい」とパウロはいい始めるのであります。喜びとはまったく関係のない話に移っていくのであります。
 しかし、これから始まるパウロの言葉は、やはりもう自分の正しさにこだわるなということであります。。

 ここでパウロが「あの犬どもを警戒しなさい」と、ある意味では口汚い言葉で言っている人は、すぐその後に「悪い働き人たちを警戒しなさい」といっておりますので、教会の中の指導者のことであることがわかります。

 パウロがいう「悪い働きをする人たち」はどういう人たちかといいますと、われわれが救われたのは、確かに主イエスの一方的な恵みによって救われたのだけれど、救われた後は、やはり律法をきちんとまもらなくてはいけない、異邦人で救われたものは、ユダヤ人と同じように割礼を受けなくてはならないと主張するのです。

 この問題はどういうことなのかといいますと、割礼などということは、われわれ日本人にとっては、ぴんとこない問題なので、難しい議論をいっさい省いて、何が問題にされているかということだけをとりあげますと、問題は、自分が救われたのは、「ただ神の恵みによってのみ救われる」というところに徹底しているかと言う事なのです。この「ただ」ということ、この「のみ」という、この「ただ神の恵みだけに立つ」というこの一つの地点だけに立っているかということなのです。

 われわれが救われるのは、ただ神の恵みによってのみ、という地点に立てるかどうかです。それに何も付け加えてはいけないという事です。それになにかを付け加えようとするという事は、救われた人間はやはり、割礼を受けなくてはならない、もっと立派な生活をしなくては、救われないのだと言い出すことになるわけです。

 誤解を招くといけないので、言っておきますが、われわれクリスチャンは立派な生活をしなくてもいいのだといっているのではないのです。そういうことではなく、われわれが救われたのは、そしてこれからもわれわれが救われる根拠は、自分の立派な生活のしかたにあるのかということなのです。そうではないだろう、
われわれは、ただ神の憐れみによって救われ、これからもずっと神の憐れみによつて救われるのだということなのです。

 それはわれわれがただ神の恵みに頼るという事をいつのまにかやめてしまって、自分は割礼を受けているという事、自分はクリスチャンらしい立派な生活をしているという事、そういう肉を頼みにし、自分の人間的なわざを誇りだしたら、とんでもないことになるということなのであります。

 パウロはそれに対して「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇りとして、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」というのです。

 そしてパウロは突然こう言い出します。「もとより、肉の頼みなら、わたしにもなくはない」といって、「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエル民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘプル人、律法の上ではパリサイ人、律法の義については非の打ち所のないものであった」と、自分の肉について、つまり人間的なことを誇りだすのです。

 そしてパウロは、かつては「律法の義については非の打ち所のないものであった」と豪語するのであります。だから当時のパウロは、律法にたいして、批判めいた事を言っているイエス・キリストをどうしても許すことができずに、かつては教会を迫害していたのであります。

 パウロはここでは「律法の義については非のうちどころのないものであった」と言っておりますが、ローマの信徒への手紙の七章では、「自分は善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない。わたしの欲する善はしないで、欲しない悪は、これを行っている」と言っているのです。つまり、そこでは律法を自分は守れなかったといっているのです。

 ここでは、自分がどんなに律法を守ろうとしても、律法を守れなかったというのです。そういう事を嘆くパウロと、この「律法の義について非のうちどころがないほどに、律法をまもってきた」というパウロとどろ違っているのでしょうか。

 パウロはキリストを知るまでは、イエス・キリストに救っていただくまでは、自分は律法を完全に守っているという誇りがあったのです、自分は絶対に正しいといって、そうしては教会を迫害していたのです。そうしては、律法を守れない人々を軽蔑し裁いていたのです。そして神に対して誇っていたのであります。

 このことを振り返って、パウロは救われてからはこういっているのです。「自分はあの時、確かに神に対して熱心であった、しかしその熱心さは深い知識によるものではなかった。なぜなら、自分は神の正しさを知らないで、ただ自分の正しさを立てるようとすることに努め、神の正しさに従わなかった」(ローマ書一○章二)と述懐しているのであります。

 律法を守れば守るほど、神の律法が一番禁じていた事、つまり自分を誇り、自分の正しさを主張するという方向に向かってしまっていた、そして神の律法が一番求めていること、神に頼り、ただ神のみを拝せよという所から遠ざかっていたということなのであります。

 だから、律法を守ろうとすればするほど、そして事実律法を守っていればいるほど、その実、内容的には神に与えられた律法を守っていなかったということであります。

 そしてパウロはキリストに出会って、こういうのです。口語訳でいいますが、「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストの故に損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストの故に、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それはわたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神の義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすためである」というのであります。

 パウロは「律法による自分の義ではなく」というのです。律法を守るということで追求する自分の正しさではなく、というのです。自分は今まで、ただ、自分の正しさを主張することしかしてこなかったというのであります。

 それに対してパウロはおもしろい言い方をして、そこから自分が抜け出した事を語るのであります。 「しかしわたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」というのです。

 つまり、律法的な生き方か、あるいはキリストを信じる生き方かを、損得の問題としてとらえているのです。これはパリサイ派だった時のパウロには考えられない表現ではないでしょうか。これは損得という、そんなご利益的、世俗的な問題ではないと思うのです。

 それこそ、それは正しいか正しくないかという観念の問題、思想上の問題、魂の問題で、もっと高尚な問題だと思うのです。しかし今パウロはそれを損得の問題としてとらえているのです。これはある意味では驚くべきことではないでしょうか。

 それは今パウロが人間的な誇りというものをどんなに捨てているかという事ではないでしょうか。それだけパウロが謙虚になっているという事ではないか。

 よく言われる事ですが、大阪人と東京人の違いであります。大阪の人の挨拶は「もうかりまっか」ということだそうです。ところが東京の人は、上州の人はどうかわかりませんが、そんなことは口がさけてもいわないし、言えないのではないかと思うのです。

 しかし、人間が生きるという事は、自分にとって何が得か損かということを選択しながら生きるということではないかと思います。それを避けて生きる事はできないことで、大阪の人はそれを正直に口に出しているということで、それだけ人間として正直で、謙虚だという事ではないか。

 救いの問題を損得の問題として考えるということは、いかにもご利益宗教で、「いやだ」と言う人がいるかも知れません。

 しかしわれわれ人間にとって、救われるかどうかという事は、明日生活できるかどうかというせっぱ詰まった問題で、それは本当は損得の問題なのです。自分か本当に生きていけるのかいけないのかというせっぱ詰まった問題なのです。そこまで信仰の問題を日常生活の切実な問題としてとらえないと、信仰の問題は正しくとらえられないのではないでしょうか。

 つまりわれわれは自分の正しさなんかでは、食っていけないのです、言葉は乱暴ですけれど、われわれは神に義とされて、神に赦されて始めて食って行けるのではないかと思います。

 われわれクリスチャンにとって、立派な生活をするとはどういうことか。それはいつもいつも、自分の正しさを主張することを捨てて、自分は一方的な神の恵みによって救われたのだ、一方的な神の赦しによって救われて、今ここに生きることができているのだということを信じて歩むということなのです。そのことがわたしを謙遜にし、そしてわたしが謙遜になったときに、われわれは初めて人を愛することができるようになれるのです。

 そしてそのとき、「主において喜ぼう」と、自分に言い聞かせることができるのではないかと思います。