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「ぼくが神学校に行ったわけ」

「腕力」

 ぼくは物心ついてから、腕力を使ってのケンカをしたことがないと思う。別に身体が人よりも脆弱だったということでもなかったと思う。運動は得意だったし、病気もしていない。腕力がなかったわけではないと思う。ただ心が人よりもひ弱かったのではないかと思う。
 小学校三年で、親もとを離れて集団疎開に行っていた時、友達と将棋をしていて、こちらが確実に勝ちを収めることになった時、相手が「待った」をかけた。ぼくは「いやだ」と言った。すると、相手は口惜しさのあまりだろう、いきなりなぐりかかってきた。その時、ぼくはあやまったのである。なぐられるくらいなら、こちらからあやまったほうが得だ、将棋なんか負けてもかまわないという計算を一瞬のうちにしたのである。

 それほど暴力がこわかった。それは自分の全存在を抹殺してしまうものとして、自分の人生にたちはだかるものであった。そしてその時、自分は非常に卑怯な人間だと痛感した。勝負の勝ち負けという正義よりは、自分がなぐられるのはいやだという感情、それを避けるためならば、自分は正義などというものをあっさりと捨て去るに違いないと思って、自分が情けなく、その日一日屈辱感で過ごしたことを思い出す。
 
 その時の自分に対するみじめさと屈辱感は、その後のぼくの生き方に大きな影響を与えたのではないかと思う。二度とこうしたみじめさは味わいたくないという思いが、自分の中に正義感を人一倍育てような気がする。そして一方では、この自分の抱いている正義感は、暴力の前にあっさりとひっこめられてしまうに違いないという確信もあった。この二つの感情の落差が、ぼくを屈折した人間にしていったような気がする。

 ぼくが四年生になった夏、戦争が終わった。民主主義の時代になった。学校教育ががらっと変わって、質実剛健式の体罰による教育はなくなった。すべては「言葉」で通じあえる教育がなされた。言葉による「論理的正しさ」がすべての事を解決できると信じられた。それはぼくにとって大変ありがたかった。

 小学校時代ただ一度先生になぐられたことがあった。殴られたというと大げさだが、びんたをくらった。それはぼくがクラスの副級長をしていた時、音楽の授業が騒がしくて、まだ未熟な女の先生が困り果てて、泣き出した。その時、受け持ちの先生がきて、みんなをしかり、「お前は何をしていたのか」と、責任を問われて、びんたされたのである。しかしそれはぼくにはあまり傷として残っていない。むしろ当然の責任として受け止めたような気がする。それによってその先生を嫌うようにはならなかったからである。

 その頃は、民主主義が絶対だった。それをみな信じていた。それが破れたのは、ぼくにとっては、皇居前広場での血のメーデー事件だった。多数決による民主主義というものが絶対に正しいと信じていた自分にとって、多数決原理というものが、必ずしも正しいとは言えない、多数決原理は正義が勝つというよりは、数が勝つという原理だ、結局は権力者が勝つのだということをその事件を通して知った。少数者の意見とか権利というものが、そしてその少数者はいつも弱者であって、その人たちの権利がいつも虐げられたものでしかないことを知った。そしてその少数者が最後のところで自分の権利を主張する手段は、結局は、力によるしかない、暴力によるしかない、そしてそれに対する権力者もまた、警察力という力によって押さえ込むしかないことを知ったのである。

そのニュースを、タンスの上にのっていたラジオで聞いていて、身体が何かふるえだしたことを思い出す。それはぼくにとって社会の出来事が始めてなにがしかの影響を与えたという事件だった。それまでは、ぼくはただ自分の内面のことに関心をよせていて、自分のことで一杯だったのである。
 
結局、最後のところで勝利するのは、力なのか。腕力なのか。暴力なのか。言葉は無力なのか。言葉による論理的正しさは無力なのか。確かに、言葉はずるがしこくふるまう。そして言葉でいいふくめられた者は、その言葉による欺瞞性をくつがえすためには、暴力しかないのだろう。そのやむにやまれぬ暴力沙汰の言い分はよくわかる。それだけに言葉の無力と、言葉の欺瞞性もよくわかる。言葉が絶対だとは思わない。しかしそれでも真理を主張する手段として言葉による以外にないのではないか。

ぼくは暴力とか腕力には、本能的に、少し大げさにいえば、存在的な不安を感じる。しかしそれに対抗するめに、柔道や空手などで鍛えるということはしなかった。スポーツは好きだし、不得手ではない。しかし格闘技は好きでないし、やらなかった。やはり、勝つ自信がなかったのだろう。柔道をやったことはないが、もしやるとしたら、自分の得意のわざは寝技ではないかと確実に思っている。寝技のことは本当はいよく知らないが、はたでみる限りは、自分は寝技でいくだろうなと思うのである。相手に倒される前に、こちらのほうで痛くないように先に倒れて、それから相手と闘う、そういう闘いかたをするのではないかと思う。それは何か自分の生き方そのものをあらわしているように思えてならない。正攻法ではなく、寝技である。いかにも卑怯な方法である。

 倒れる怖さ、それを逃れるために少しでもその衝撃を和らげようとして、こちらが先に倒れてしまう。それはものを見る時の悲観的に見える傾向にも現れる。受験などでも、合格することを考えるよりも、落ちることをまず考えて、落ちた時の落胆に備えようとする。それはいわば寝技的手法である。

 中学に入って、眼鏡をかけるようになって、更に腕力によるケンカを恐れることに拍車をかけた。眼鏡をかけたことのない人にはわからないだろうが、眼鏡を吹き飛ばされたら、もう自分の存在それ自体があやうくさせられるくらい、眼鏡をとばされるということは眼鏡をかけている人にとっては致命傷なのである。

 ともかく、ぼくは自分に腕力をつける、体力を鍛えるという方向で、暴力に対抗しようとは思わなかった。「言葉」によって、「論理的正しさ」によって、「思想」によって、自分を強くしようとした。しかしそれによって、権力とか、暴力に対抗できる自信はひとつもなかった。従って、その頃は、自分の思想的信念で権力に対抗し、権力に屈しないで、殉教の死を遂げた人に関心をもち、あこがれた。しかし一方では、自分にはそういう生き方、死に方はとうていできないことは知っていた。単なる思想とか、論理的正しさでは、暴力に対抗できないことも知っていた。

 この問題は、本当は「腕力」とか「暴力」の問題よりは、もっと本質的なことなのかも知れない。つまり、自分に腕力がないから、他人の腕力とか暴力を恐れるというのではなく、腕力以前の問題として、自分の存在そのものに不安を感じているから、自分の存在を直接おびかす腕力に恐怖を感じていたのかもしれない。問題は、腕力の強い弱いではなく、心の問題、魂の問題なのかもしれない。

 それにしても、もしぼくが柔道でも小さい時やっていて、腕力に対するコンプレックスがなければ、もっと違った人生を送っていただろうなと思う。腕力に自信がないことが、自分の人生を大きく変えていたのではないかと思う。
 


「集団疎開」

 昭和一九年になって、東京や大阪の都会が空襲を受けるようになったので、都会の小学校では、地方に、集団で、つまり学校ごとに疎開が行われるようになった。小学校の三年生から六年生まで、田舎に縁故者がなく、田舎に逃げられない児童を集めて、学校ごとに移動するのである。先生もろともである。これは強制ではなかっただろう。だから、中にはどうしても東京に残る児童もいたのではないかと思う。都会の小学校(当時は国民少学校と言っていた)が、全く空っぽになったわけではないと思う。
 ぼくは集団疎開に参加できる最少年齢で参加した。六年生の兄と五年生の姉も一緒だったと思う。「思う」などと、曖昧な言葉を使うのは、姉は確かに一緒だったが、兄が一緒という記憶はあまりないのである。兄は六年生だったから、翌年の三月には、もう東京に引き上げてしまったからかも知れない。兄弟といえども、集団生活では親しくするとか、かばってもらうということはなかった。

 集団疎開で身に沁みて味わったことは、絶対的に自分をかばってくれる人が誰もいないということだった。親を離れて、小学校三年生の子がひとりで生きていかなくてはならなかったのである。
 行く先は山梨の塩山だった。新宿駅のホームでは、泣いていたのは親たちばかりで、ぼくたち子供はみな遠足にいくような気分ではしゃいでいた。宿泊場所は、温泉街の旅館で、いくつかの旅館に分散した。五軒ぐらいの旅館だったろうか。ぼくが割り当てられた旅館は「井筒屋旅館」だった。兄弟は一緒である。階下が女性で、二階が男性という割り当てだった。各部屋に上級生下級生を一緒にして、四、五人だったろうか。上級生が兄貴になって、下級生の面倒を見るということなのである。

 集団疎開で一番つらかったことはなんだったか。ひもじいことでも、親が恋しいことでもなかった。今のボスは誰か、誰におべっかわ使ったら自分の安全を守れるかということに、自分の全神経を集中させるということだった。空腹の問題ではなかった。人間関係の問題だった。ひもじいといえば、勿論ひもじいのである。しかし自分がやせていて小食だったせいか、食べ物のことでそれほどつらかったという思い出はあまりない。それよりは、嫌いな食べ物を無理に食べさせられるほうがつらかった。梅干しは嫌いだったし、よくみんなが道ばたに生えていた「のびる」を取ってきて、食卓で食べることになったが、ぼくにはとうしても食べられなかった。好き嫌いがまだ言えるほど、決定的にひもじくなかったということだったのだろう。

 もちろん、始終お腹をすかしていた。そういう疎開児童が可哀想だというので、年に二、三回、農家の「およばれ」があった。その時には、たらふくさつまいもを食べさせてくれるのである。班ごとに別れて、農家に呼ばれていく。先生も一緒だったりした時は、それは楽しかった。ご馳走を出してくれる家の人とのやりとりはすべて先生がやってくれるので、こちらはただ食べることに専念すればよかったからである。

 ある時、「およばれ」が班ごとではなく、一軒に一人と割り当てられた。ぼくが割り当てられた農家の家の主婦は無口な人だった。何も言わない。ふかしたおいもを出してくれるのである。そして畑に行ってしまう。こちらは、一人で黙々と食べる。それは子供心にも屈辱だった。とてもつらかった。こんなにまでして、ご馳走なんか食いたくないという思いで帰り道を歩いたのを思い出す。
 「およばれ」でお腹が一杯になって、みんなが身動きもできないでいる時、いつもは恐い先生が「おい、走ってお腹をすかそう」と呼びかけて、その先生を先頭にして、マラソンをしたことを思い出す。それも何か恥ずかしい思いで、今思い出すのである。きっとその時、子供心にも何か浅ましい気がしていたのではないか。
 
 子供のぼくにとってつらかったことは、お腹かがすいたことではない。人間関係のことだった。誰がボスかを見極めることに神経をすりへらして、毎日を送っていた。その頃は、もちろんボスという言葉は使われていない。なんといっていたか思いだせない。大将と言っていたのか。やはりボスという言い方が一番適切なような気がする。そのボスは大体は腕力が強く、勉強がよくできる上級生がなった。ひとたび、その旅館でのボスが確立すると、他の者は絶対服従だった。どうしたら彼のご機嫌をとれるか、そのことばかり考えて暮らしていかなくてはならなかった。

毎日毎日、昼も夜も一日中がそういうことで神経を張りつめて生活していなくてはならないのである。それは小学校三年生にとっては過酷なことだった。学校生活というものは、大なり小なりそういうものはつきものであるかも知れない。しかし集団疎開の生活は、学校から帰ってきてもそういう生活が続くということだったのである。

 ある日、それまで絶対的な権力を握っていたボスが先生に呼ばれて、権力を剥奪されて、みんなの前であやまったことがあった。彼はもともと何の実力もないのに、一夜にして、ある日突然ボスになった人間だった。なぜ彼がそのような権力を得たのかと、誰もが驚いた。しかしボスの力学といものは、不思議なもので、いったん何かの拍子にボスになったしまうと、絶対的な存在になったしまう。その実力のない彼に下級生であるぼくたちはいろいろな捧げ物をした。家から送ってきた少し甘みのある薬とか、おもちゃとかである。
 その日、涙を流してボスの座を降りた彼から、自分達の捧げ物を返してもらった。ああ、権力の座というものはこのようにして変遷していくものだと思ったものである。しかし、もう次の日からは、誰がボスになるのかということで、小学校三年のぼくは神経を使っていたのである。

 時々、疎開児の中から脱走者が出た。親恋しさに、東京に無賃で帰ろうとして駅でつかまったりした。時には、脱走者探して山狩りが行われた。町の消防団の人や、先生たち、上級生たちが総出で、夜、山に探しにいった。下級生のぼくは、布団の中で不安な一夜を過ごした。早く見つかればいいという気持と、見つからないで、うまく東京に帰れたらいいのにと思ったりしていた。

 ある時、山梨の奥地に「らい」の病院があるという噂がながれたことがあった。今日では、「らい」についての理解は全く変わり、それは治療できるものとして理解されるようになり、もはや「らい」という言葉は死語になり、ハンセン氏病という名前に変わったが、その頃はらいは業病としてもっとも恐れられていた病だった。(その偏見の時代に少年が感じたまま記すことをお許し願いたい。)らいは初めは手や足の間に赤い斑点ができるんだと噂された。みんなは自分たちの手や足の指の間を真剣になって見つめた。お風呂に入った時は、お互いのからだを見つめ合ったりして、「お前はらいだ」と言い合った。

 寝床の中で、自分がらいになった時のことを想像した。自分はらいになった。みんなから離れて、人里離れた奥地に隔離されなくてはならないのだ。みんなには、さよならも言えずに、ひとりでとぼとぼと歩いて行かなくてはならないのだ。そのように想像することは心地よかった。自分は世界一不幸な人間になったのだ。もう誰もが自分のことを同情してくれなくてはらない。そういう資格と権利を自分はもったのである。みんな誰もが自分に同情してくれる。憐れんでくれる。ああ、これでようやく、自分は安心して人の同情をかい、思う存分人に甘えられる。それは甘酸っぱい心地よい想像だった。それはぼくひとりがそのような感傷にひたったのではないだろう。なぜなら、仲間から「お前はらいだ」といわれて、みな深刻になって、そんなことはないと懸命に否定しながら、その反面では、みな何かうれしそうな顔をしていたからである。それほどその時、ぼくたち子供はみな、人に甘えることに飢えていたのである。甘えられれば、どんな悲惨な目にあってもいいと思っていたのである。

 親を直接恋した記憶はあまりない。しかしそういう間接的な形で、親に切実に恋していたのである。

 ある時、甲府が大空襲に見舞われた。夜、旅館の窓から甲府のほうの空が赤ずんでいたのをみんなで見た。しかし、ぼくには何か遠いことのように思われた。それほど、その疎開の生活では、自分ひとりで生きることに一杯で、ただ自分ひとりの内面の問題にかかわっていて、外部の出来事に関心をよせることができなかったのである。
 
 昭和二十年の八月一二日に突然父が姉とぼくを引き取りにきた。東京では、集団疎開児が栄養失調になっているという噂がひろがっていたらしい。それで母親たちか軽井沢の親戚の知人のとろこに疎開してたので、その縁故疎開に切り替えるために、引き取りにきたのである。それれは、ある日、突然なんの前ぶれもなく、やってきた。その時は夏休みの宿題ができなくて、もうにっちもさっちもいなくなっていて、悩んでいた時だった。それが何もかも一気に解決してしまったのである。
 

 
「あやまらなかったこと」

 事件はささいな事から始まった。小学校の五年か六年生の頃だったかと思う。友達といつものように目黒川の川辺で、ゴムで作ったパチンコに小さい石をはさんで、川に浮かんでいるガラス瓶などを撃って遊んでいた。そのうち何かの弾みで、パチンコで撃った小石が対岸の家のガラス戸に当たって割れるような音がした。百メートルは離れている対岸の家である。すくその家から人が出てきて、こちらに向かって何かをしきりに訴え始めた。声は聞こえなかった。手振りや動作で、怒っていることが分かった。ぼくが撃ったパチンコの石が当たったのか、友達のそれが当たったのかは判然としない。ともかく、自分たちが撃った石がその家のガラスを割ってしまったことだけはわかった。

 ぼくたちは聞こえないことをいいことにして、何をいっているのかわからないふりをした。今思えば、すぐ逃げてしまえばよさそうなのに、そうしないで、そこにとどまって知らん顔をし続けた。恐らく、逃げるよりは、何を言っているかわからないという態度を堅持する事によって、その場をやり過ごせると思ったのだろう。その時に一緒にいた友達がそこにいたのかどうか、どうも記憶が確かではない。おそらく、彼は何かの用事ですぐ近くの自分の家に引っ込んでいたのではないかと思う。その友達と二人だったならば、すぐ逃げ出しただろうし、あるいは、もっと単純にあやまっていただろうから。

 ともかく、相手は、こちらの無視の姿勢に、業を煮やし、家に引き込んだ。それで一件落着かと思い、ほっとした気持ちになった。しばらくして、一人の男が血相を変えてやって来た。「お前がやったのだろう」と言って、ぼくの腕を掴まえた。なにしろ、ぼくの手にはパチンコがあったのだから、逃れようがなかった。その時に、友達はもうそこにはいなかったことは確かである。ぼく一人が腕を掴まえられて連れていかれた。橋を渡って対岸の家までゆくのだから、かなりの時間がかかった。その間、なんと言ってあやまったかか、もう記憶にない。ただ太鼓橋を渡る時、「このパチンコ捨てますから、許してください」とあやまったことだけは記憶にある。相手はむろん承知しなかった。あとで分かったことだが、その人はそのガラスを割られた家の番頭さんのような人で、その家の主人ではなかった。その家は、お味噌の製造をしている家だった。「主人がものすごく怒っているから、このパチンコは証拠品だから捨ててはならない」と言った。その家に着いてみると、店の大きなガラスが割れていた。主人がすぐでてきたので、「すみませんでした」とあやまった。主人は「名前と住所を言え」と言 った。ぼくは黙っていた。言わなかった。ただ、すみませんでした、と繰り返すことだけをした。主人はますます怒って、「名前と住所を言え」と迫った。しかし言わなかった。

 なぜ言わなかったのか。親に迷惑がかかると思ったからだけではないだろう。親に知られるのが嫌だったことは確かだ。ぼくの親はそれほど恐い親でもないし、むしろ優しいほうだったろう。このガラスを弁償できないほど貧しかったわけでもない。ただ、そのガラスは店の大きな一枚ガラスで、弁償となったら、かなりの額になるということはすぐわかった。

 なぜ「名前と住所」を言わなかったのか。最初に素直に言えばよかった。最初にいいそびれてしまったということもあるかもしれない。しかし、店の主人が、名前と住所を言えば、許してやるとさいさい言っても、ぼくは言おうとしなかった。主人は「子供のくせになんという強情な奴だ」と言って、怒った。名前と住所を言うまでは、帰さないといって、店の奥に引っ込んでしまった。ぼくはそこに一時間か二時間立ち続けていた。その間に、家の女の子が見に来たりしていた。ぼくはこのへんで涙をみせたりしたほうがいいだろうと思って、涙をみせたりもしてみた。そして立ち続けた。主人がでてきて、「そんな所に立っていられたら、店の邪魔だ、もう帰れ」と言った。「お前のような奴は、大きくなったらろくな人間にはならない」とも言われたような気がする。そしてその家を出た。途中、目黒川にかかっている太鼓橋に来た時、手にもっていたパチンコを川に投げ捨てた。

 この出来事は、ぼくに傷を与えた。この事件そのものよりも、この出来事を通して自分がとった態度が自分自身を深く傷つけた。素直にあやまって、ガラスを弁償したり自分の親に叱られたりして、自分がつぐなわなくてならない負い目よりも、はるかに深い負い目を負うことになった。なぜ、名前と住所を言わなかったのか。恐らくこの程度のことで、相手は自分を警察に連れていことはあるまいと言う読みがあったのだろう。なにしろ、こちらは子供なのだから。

 そういう計算とともに、この事を人に知られたくない、特に家族の者に知られたくないという強い気持ちが働いていた。もしこれが人に知られたら、家族に知られたら、家族はずっと生活を共にするわけであるから、その罪は絶えず知られていることになる。だから特に家族にたげは知られたくないという思いが強く働いていたのではないか。

それは自分の罪を自分の中に閉じこめておこう、自分の中に閉じこめておきさえすれば、後でそのことで自分自身がどんなに悩み、傷ついたとしても、問題は自分のなかだけで解消していまうに違いない。時間というものが処理してしまうだろうという計算があったのでないか。これが、人に、特に家族の者に知られたら、罪は客観的なものになってしまって、容易に消すことができないものになってしまう。罪は自分の心の内部にとどまってしまっている限りは、どうにでもなると高をくくっていたのではないかとも思う。小学生にそんな計算があったのかと言われるかもしれないが、子供を馬鹿にしてならない。その位の知恵はみなもっているものである。
 罪は人に知られて客観的なものになった時、罪は始めて罪となる。そうなっては困ると思ったのではないか。

 パチンコを太鼓橋に捨てたことで、もう一つのことを思いだした。これも五年生か六年生の時、ただ一度だけ万引きをしたことがあった。目黒不動の近くの子供のオモチャ屋で、その店先から針金でできたピストルを一つ盗んだ。家から目黒不動までは歩いて二、三十分はあったと思う。そういう遠い店を選んでいる。万一見つかった時のことを考えたに違いない。確か、下見もしている筈である。たかが針金のピストルである。自分の小遣いで十分買えた筈である。なぜ万引きしたのか。スリルである。盗む時のスリル、理由はそれだけだった。そしてそれは成功した。

 帰り道、太鼓橋を渡る時、その盗んだピストルを川に投げ込んだ。自責の念にかられてである。人に知られないならば、罪は罪にならないという計算のもとに行ったに違いない。そして事が終わってから、そのように考えた自分に嫌気がさして、盗んだピストルを川に投げ込んだのである。

 ぼくには小さい時から、罪は自分の内部の問題で処理してしまっておけば、それはなんとでもなるという、罪に対して高をくくったところがあった。まず罪を犯した時、それを人に知られないようにする。自分の中に閉じこめて外部に出ないようにする。そうしてから、ゆっくりと深刻にその罪について悩んであげる。それはまさに悩んで「あげる」のである。そして罪に対する罰を自分にくだして、罪を処理してしまう。そういうところがあった。そのような罪の反省は結局は遊びにすぎない。

 聖書にこのような言葉がある。「わたしが自分の罪をいいあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなはわたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇三二篇)。ここでいう「あなた」「主」というのは神のことである。
 ここでは、客観的な存在である神に対して自分の罪を告白することによって、罪を自分の中の主観的な遊びから解放することができているのである。

 もし、あの時、素直に自分の名前を言い、住所を言って、あるいは、ガラス代を弁償していたらどうだったろうか。その事件のことはもうすぐ忘れていたに違いない。それを言わないで、罪を自分の内部に閉じこめておいたばっかりに、四十年経っても、このことを鮮明に覚えているのである。罪は自分の内部に閉じこめて、自分で処理しようとしても処理しきれないものをもっているのではないか。罪は結局は誰かに赦してもらう以外にないのである。

 ぼくは一方では、小さいときから、罪は自分の内部に閉じこめきめるものでないことに気がつかされていた。小さい時からいつのまにか、自分の脳裏に植え付けられてきた地獄の観念というか、存在があったからである。地獄の存在が大きくたちはだかっていて、罪を自分の心のなかの主観的なものに閉じこめさせなかった。地獄の存在がある限り、(ぼくにとってはそのころ、地獄は神話ではなく、リアルな存在だった)、罪は自分の中に閉じこめ切れなかったのである。だから、それ以来ぼくは罪に悩まなくてすむように、あやまらなくてすむような人生を歩もうとして、良い子になっていった。

 その事件が起きてから、数日後のことである。弟から「川向こうの店のガラスを割ったんだって」と言われた。「そんなことはしていない」と否定すると、その店の女の子が弟の同級生で、そう言っているというのである。



「親友U君」

 家族の者や、まわりの人々は、Uをぼくの親友と思っていただろう。しかし、ぼくにとってUは、ある時には軽蔑する対象であり、ある時には尊敬する友であり、ある時は、憎悪の相手であり、しばらく会わないと、無性に会いたくなる友であった。

 ぼくは彼から今あるすべてを貰っていると言っていいくらいなのである。彼といつから友達になったのか、あまり記憶にない。家が近かったので、学校の集団登校がきっかけだったかも知れない。小学校の四年生ぐらいだったろうか。あの頃は、子供が友達を呼び出すのは、玄関からではなく、塀の外から、大きな声で「なになにくーん」と名前を呼ぶのが習わしだった。これは声の小さいぼくにとっては苦手だった。苦痛だった。夏の間、戸や窓が開け放たれている時はまだよかったが、冬、戸や窓がぴったりと閉じられている時など、どんなに大きな声で呼んでも、相手に聞こえず、すごすごと帰ってきたことが何度もあった。そのようにして、彼を呼び出して、毎日のように遊んだ。何をして遊んだか。小さい路地でスポンジボールという、とてもよく弾むボールで、三角ベースをやったり、将棋をしたり、メンコをしたり、ビー玉遊びをしたりした。

 しかし、六年になり、中学生になると、そういう遊びよりは、しゃべることが中心になった。しゃべるというよりは、議論であった。
 夕飯を食べたあと、彼と毎日のように散歩に出かけた。山手線の目黒の駅から五反田までの坂道を歩きながら議論した。「幸福とは何か」「真理とは何か」とか、そういう抽象的な観念的なテーマで議論した。それはただ相手をやりこめるための議論で、あらゆる屁理屈を使って相手を言い負かすのである。それを延々と一時間、二時間続けた。議論に負けると、ぼくはもう不機嫌になって一言も口をきかなくなった。そしてしばしばそのあと、何日も会おうとしなかった。絶交した。しかし二週間もすると、たまらなく彼がなつかしくなって、また会いにいった。絶交状態をたたきつけるのは、いつもぼくのほうだった。

 彼とは、ともかくよく歩いた。一時間でも二時間でも、歩きながら議論した。この彼との議論がぼくを理屈っぽい人間にした。論理的正しさで相手を打ち負かそうとした。また逆に、相手の論理的正しさをともかく受け入れようとした。くやしさで口もきかくなるのであるが、感情的にはどうしても負けを認めたくないのであるが、しかし論理的に相手が正しい時には、論理には従おうとして、こちらは不機嫌になることによって、一切口を閉ざすことによって、こちらが負けたことをあらわした。そういう時に、彼から「君は卑怯だ」とよく言われた。それは確かに卑怯だろうけれど、論理に負ける口惜しさで、本当に口がきけなくなったのである。それほど論理的に負けるということはくやしくて、また論理の正しさの前には頭を垂れた。
 
 散歩といえば、ポチを連れて散歩に行くのがぼくの役目だった。ポチはもともとは隣の家の中国人の飼い犬だったのであるが、あまり面倒をみないために、わが家で餌などをあげてかわいがっていたので、わが家のほうになついていた。ある時、その飼い主がその犬を車に乗せて、品川まで捨てにいったという。ところが翌日朝早く、犬は帰ってきていた。朝、台所の戸を母があけると、ポチはうれしそうに尻尾をふって母を待っていたというのである。なにしろ品川まで車で捨てていったのに、道を覚えていて帰ってきたこにわが家では驚嘆もし、感激もした。しかも飼い主の家にではなく、わが家に来て、朝、母を待っていたというので、隣の家と交渉して、わが家で正式に飼うことにしたのである。名前も一番平凡な「ポチ」にした。そして鎖を買ってきて、つけた。鎖をつけて街を歩くポチは照れくさそうだった。

 ポチはもちろん雑種だったけれど、顔はどこか愛嬌があった。無芸大食で、自分が気に入らないければお手もしないし、父が山などにいって、普段と違う服装で帰ってくると、飼い主に吠えつくありさまである。散歩に行ってよその犬と行き交い、相手が自分より強うそうだと、からだを小さくして通り過ぎようとするところがいかにも可愛らしかった。時々、鎖を放していると、母などの買い物について来て、店でいたずらをした。店の油揚げをくわえたり、ある時には店の前に積んであった白菜に気持ちよさそうに、しゃあーとオシッコをしてしまったそうである。さいわい店の人が気がつかなかったので、母はそのままにして帰ってきてしまったというのである。母がいうには、「なあに肥料のやりかたが前後しただけだ」ということで、みんなで笑った。ポチは忠犬ハチ公など、血統書付きの名犬と違って、人間に媚びることなく犬らし生きていた犬だった。

 Uは頭がすばらしくよかった。中学は慶応を受けて合格し、そのまま慶応大学を卒業した。中学三年の時だったか、何かのレポートで、デカルトの「方法論序説」とかいう本について書き、本人がいうには、先生から誉められたといって見せてくれた。
 彼の家には親戚の大学生が下宿していて、彼は知識的には早熟であった。しかし心は単純で、子供ぽっく、ナイーブだった。ぼくのほうがずっと妙に大人びて、屈折していて、ひねくれていた。
 
 彼の父は、その頃まだ戦地から帰ってきていなかった。お母さんが内職のような仕事をしていた。そのお母さんという人が、昔看護婦をやっていたということもあって、ひらけた人だった。女だてらに、タバコをたしなんでいた。実にさばさばしていた人で、子供を自由に育てていた。父親不在という事が、彼をのびのびと育てさせていたのかも知れない。

 その父親が突然帰ってきた。それまで何の連絡もないままに、数年音信不通のまま、突然くたびれた軍服を来て、それ以上にくたびれた様子で、ある時、突然庭から入ってきたという。翌日、彼らからの話を聞くとそのように帰ってきたというのである。彼はその事をとまどいながら、悲しそうな顔をして話した。

 父親不在の生活から、突然得体の知れない男性が現れたのである。その父親というのが、お母さんと違って、無口で愛想がなく暗い感じの人だったから、彼にとってどんなに大変だったろうと思う。なにしろ、それまで一度として、彼から父親の話を聞いたことはなかったのだから、彼の心の中には父は不在だったはずである。それは彼が中学生になってからの出来事だったのではないかと思う。父親のいない間、彼の家の経済はどうなっていたのか。

 彼の家のぼくの家よりよほど裕福だった。彼の小遣いも豊かだった。彼の家には、その頃には珍しく、ピアノもあったし、彼はいたずらにピアノを器用に弾いたりしていた。ぼくも彼の影響を受けて音楽が好きになったのである。

 彼からは文学も学んだ。アンドレ・ジイドとか、トルストイとか、ドストエフスキィーは、彼からではなく、自分で発見したのだと思うが。ともかく日本の作家のものでも、外国のものでも、たいてい彼から吹き込まれて、読み始めた。彼はぼくよりも一段も二段もうわてだった。恋いにおいても早熟だった。小学生の恋いであるから、今から思えばたわないものであっただろうが、当人たちにとっては真剣そのものだった。恋する仕方も違っていた。こちらはいつも片思いをよしとするのに対して、彼はおおっぴらで、相思相愛を選んだ。というよりは、彼の方から積極的に自分の意志をあらわにして、そのようにし向けたのである。そういう彼のやりかたが好きでなかった。そして彼の恋愛の対象は長続きせず、変わっていった。そういう彼をぼくは軽蔑しながら、彼の恋いの話を聞くのは好きだった。
 
 中学になって学校が違ってから、少しづつ疎遠になっていった。それでも夏休みとか、長い休みになると、お互いに退屈するようになると、つきあいが復活した。

 高校に入ってからだと思うが、突然彼が訪ねて来て、今度洗礼を受けることにしたと報告した。なんでもルーテル教会のシスターと親しくなって、こんど洗礼を受けることにしたというのである。これは衝撃だった。先を越されたと思ったのである。彼にはこちらが何をしてもかなわなかった。しかしキリスト教に関しては、こちらが上だと思っていた。なにしろこちらは、ミッション・スクールの青山学院だし、授業に聖書の時間があるし、毎日曜教会に通い、真剣な求道生活を送っていたからである。しかし洗礼を受ける勇気がなく、洗礼を延ばし延ばしにしていた。それなのに彼の方が先に洗礼を受けることにしたというのだから、これで何もかも先を越されたという思いで、口惜しかった。その時期は洗礼こそ受けてはいなかったが、自分ではキリスト教を信じていたつもりだったので、彼の洗礼を喜んであげないわけにはいかなかった。複雑な気持ちだった。

 しばらくして、彼が訪ねて来て、洗礼を受けることを父親から反対されて、洗礼を受けるなら勘当だといわれたと、涙をながしながら、どうしようかと相談しに来た。母親はどう言ってるのかと聞くと、お前の好きなようにしろと言っているという。結局、そのシスターとの話し合いで、洗礼は親には黙って受けるということになった。しかし親に隠れて日曜日、教会にいくということは難しかったらしく、そのうち、彼から信仰の話は聞かなくなった。

 大学に入ってからだったと思うが、あるいはまた高校生の時だったかも知れない、これも突然訪ねてきて、砂川町基地闘争に連日座り込みに行っていると、誇らしげに報告しにきた。「お前何をぼんやりしているのか」といわんばかりの口ぶりだった。ぼくはもうその頃には彼の熱しやすく冷めやすい性格を知っていたので、どうせ今度の行動も付け焼き刃に過ぎないことを見抜いてはいた。しかし基地闘争に参加できない、いやしようとしない自分の行動力のなさには胸が痛んだ。

 大学に入ってからは、時々思い出したように会う程度だった。彼は大学を卒業すると、銀行に就職した。はじめは、下町の支店だった。一度彼が宿直の時、もう一人の友達と遊びに行ったことがある。今はどうなっているか知らないが、その時は彼一人で宿直していた。誰もいない構内を自慢げに案内した。外部の者にこんなことをしていいものか、第一いかに信用できる友達とはいえ、宿直室に泊まらせていいものかと、思ったものである。興味津々で銀行を見てまわりながら、なんと軽薄な男だろうと思ってもいたのである。その時には始めて「カッパ巻き」なるものを知った。寿司の出前を取ってくれたのである。「カッパ」だけだと、といいながら、大きな丸盆に入った「カッパ巻き」を三人で食べた。まさか、「カッパ巻き」だけというのもおかしなものだから、あるいは「鉄火巻き」も一緒だったかもしれない。しかし彼は申し訳なさそうに「カッパ」だけだけど、言っていたのを今だに鮮明に覚えている。以前武田鉄也の演じるCMがあって、若い頃は「カッパ」から食ったものだなぁーというセリフがあって、この時のことを鮮明に思いだすのである。なにしろ、あのキュウリを巻いた海苔巻 きを食べたのも始めてだし、それが「カッパ」だという名前であることも始めて聞いたのである。そういえば、始めて銀座の「天国」に入って天丼を食べたのも、彼に誘われてだった。彼は早熟だった。それにしても、あの「カッパ」は、わさびが利いておいしかった。

 彼のほうではどう思っていたかはわからないが、ぼくのほうでは中学に入ってからは、意識的に自覚的に、彼から離れていった。どうしも彼を好きになれなかったのである。何が嫌いだったのか。彼がライバルだったということではない。そういう面も多少はあったかもしれないが、なにしろすべて彼に先を越されていたのだから、そういう面もあったけれど、それが理由ではない。
 投稿の文芸誌に詩が載せられたのも彼のほうであった。ぼくの方はただ小説の真似事を投稿し、名前だけが「佳作」として載っただけだった。

 雑誌に載った彼の詩は「鎮魂曲」という題の詩で、その正確な文章は忘れてしまったが、その内容は「鎮魂曲は死んだ人を慰めるための音楽ではなく、生き残った人を慰めるための音楽である」という主旨のごく短い二、三行の詩だった。それは詩というようなものではなく、ただ思いつきの言葉にすぎない。それでも彼は有頂天になっていて、彼の母は息子が詩人にになるんだと言っているが、息子に文才があるのでしょうかね、と半ば冗談、半ば本気でぼくに聞いたものである。彼がいかに自慢していたかがわかる。母親はともかく、彼は本当に詩人になるつもりだったかも知れない。 

 そういう彼のなんとも言えない軽薄さ、やすっぽさが好きになれなかったのである。しかし、今思うと、なんと楽天的なお人好しで、愛すべき人間だったかと思うのであるが、その頃はそのように思う余裕はなく、ただ彼を嫌悪し、軽蔑し、また愛したである。

 こういう人間には決してなるまいと彼とつきあいながら、心に誓っていた。若い頃の友人とか、あるいは親というのは、みなある意味では反面教師なのではないか。こうはなりたくないと、相手を鏡にして成長するのではないか。こちらがまだ幼く、成長期で、しっかりと自立した人格をもっていない時期は、自分の前にいる親とか、友人はすべて、反面教師的役割を演じ、それこそ「愛はすべてを奪う」というように、相手のすべてのものを奪って、こちらが成長していくのではないか。まだ成長していない自立していない人格は、すべて自己中心的に行動し、そうしては相手のなかに自分の嫌な面を見て、相手から離れていくのではないか。

 ぼくはクラス会とか同窓会が嫌いである。出席するのが恥ずかしい。自分の過去をなつかしむ気になれない。過去はすべて自分の悪戦苦闘してきた醜い抜け殻みたいなもので、それを見たくないのである。ぼくはそれぞれの時期を懸命に生きてきた。それは悪戦苦闘としかいいようのない生き方だった。だからそれを見たくない。特に小学生、中学生時代は思い出したくない。高校に入ってから、今までの自分を自覚的に断ち切ったので、高校のクラス会ならば、あるいは行ってもいいとは思うが、それでも参加したことはない。

 その小学生時代の同期会の通知が、東京に来てから、毎年来るようになった。ぼくはどうしても行く気にならなかった。第一、先生に会うのが嫌だった。戦時中は軍国主義の教育をしてきて、一夜あけて民主主義の教育に切り替えた教師には会いたくはなかった。ただなつかしいという気持ちで会う気にはなれなかった。

 ところが数年前に、その同期会の通知を受けた後、突然Uから直接電話を受けて、是非出席するようにという事だった。それではというので、土曜だったので、一次会からは無理だけど、二次会ならば出席すると約束した。二次会に残る連中は少なくなるだろうし、先生も帰っているに違いないと思ったからである。

 四十年ぶりだったのではないか。なつかしい連中が沢山いた。そのなんともいえないなつかしい思い、ああ、みんなはこれを味わいたくて同窓会をあんなに好むのかと思ったほどである。Uは少しも変わっていなかった。多少頭が禿かかっていたが、あの昔の人の良さはそのままだった。 五千円の会費を黙って払ってくれていた。それに気づいて、あわてて彼に返したけれど。

その彼がガンに冒されて、もう病院からも見放され、自宅で療養するように言われたというのである。ある人からそのことを聞かされた。そういえば、いつも来る年賀状をもらっていないことが気にはなっていた。見舞いに行こうかとも思ったが、なんとなくゆきづらく、見舞いの葉書を出した。返事がすぐ来た。「残念ながら闘病生活を余儀なくされていますが、一日でも長く生きることが自分に課せられた責務として、頑張っています。多くの友人達から励ましをいただいて、身にしみています」ということが淡々と書かれていて、もう覚悟ができているようだった。ここでも先を越された思いがした。

 クリスマスの前に、豊沢教会の関英晴牧師から電話をいただいた。関牧師は彼とは大学で一緒だったという。彼が病に倒れてから、献身的に信仰に導いて、彼の信仰は復活したという。自分はまだ聖餐式の執行の資格がないから、来て聖餐式をやってもらえないかということだった。いい機会が与えられたと思ってクリスマスの前の週に彼の家に出かけた。彼は思いのほか元気だった。しかし、気力は充実していたが、げっそりとやせていた。みずから病院から自宅療養に切り替えて、点滴をことわり、少しでも食事で体力をつけようとしているということであった。

 大学時代に彼が作った合唱グループの友達が多数この集まりに参加してくれていた。みなクリスチャンだった。大学時代に彼が導いた人もいたそうである。良い友達に囲まれていた。久しぶりで、おかあさんともお会いした。何十年ぶりだった。おかあさんは熱心な仏教徒で毎日息子の回復を願って写経しているとのことだった。しかし彼は自分の葬式はキリスト教でやると決めていて、おかあさんはそのために彼の家の菩提寺にかけあって、葬儀はキリスト教でして、四十九日が過ぎたら、戒名をつけてお墓に埋葬することを承知してもらったということであった。自分の息子の埋葬のことを交渉しにいくのはつらかったと言っていた。しかし気丈なおかあさんだった。

 彼はすっかり優しくなっていた。といってもぼくは高校生の時以来の彼のことをよく知らないのだから、前からそうだったのかもしれないが。死を覚悟して、静かにそれを受け入れている様子は優しさに満ちていいた。見事だった。医者からは、この一月三日が限度だと宣告されているといっていた。

 一月八日の朝、医者のほぼ予告通りの期日に彼は亡くなった。最後まで付き添っていた関牧師の話によると、四日に入院して、とうとう八日の朝、最後まで意識をはっきさせて、家族のひとりひとりにお別れの言葉を言って息を引き取ったそうだ。最後まで痛み止めのモルヒネをうつことを延ばしてもらっていたそうである。自宅療養に切り替えてからは、すぐ尊厳死協会に入っているのである。彼のどこにそんな強靱な意志力があったのかと驚かされた。しかし彼は本当に良い奥さんと気丈なおかあさん、家族に囲まれ、そしてよい友人に恵まれていた。

 関牧師から、告別式の説教をしてくれと頼まれて、大変ありがたかったし、うれしかった。小学生時代の親友の葬儀の式辞を述べることになるとは思いもしなかった。



「自己に正直に生きる」

 中学生を終え高校生になるまでの春休みだったと思う。ある朝、新聞を読んでいて「自己に正直に生きるということは、十字架を負うことぐらいに困難なことである」という意味の見出しの文に心引きつけられた。それはアルベール・カミュという作家へのインタビューに答えての言葉だった。そのカミュが日本に来ていたのか、あるいは、パリでのインタビューなのか、覚えていない。ともかく、その見出しの言葉はぼくを引きつけた。 

 中学は青山学院を受験した。家がクリスチャンだったわけではない。兄が青山学院に行っていたという理由からだった。なぜ兄をミッション・スクールに入れたのか聞いたことはない。キリスト教は終戦後ブームになったけれど、兄が入った時は、昭和二十年の四月であるから、それとは関係ない筈だ。父の兄が沖縄で医者をやっていて、熱心なクリスチャンで、特に奥さんの方は教会でオルガニストを勤めていた。そんな関係があったのかもしれない。

 ぼくが受験する頃は、キリスト教系の学校はどこも難しく、小学校の先生からは、お前は無理だといわれていた。入れたのは、兄がすでに青山に入っていたからだという理由だったのだろう。当時はそうした家族関係を学校のほうでは重んじていた。また終戦後の混乱時でお金で入学できたという子もかなりいたようである。それを推定させるような成績の子もいた。もうその頃は、青山学院は裕福な子の学校になっていた。お坊ちゃん、お嬢さんの学校になっていた。それはぼくの家庭環境からいえば、身分不相応だった。そのために中学生時代はずいぶんつらい思いをした。別にいじめにあったわけではないが、いじめにあほわないように、仲間はずれにならないように神経を使って学校生活をしていた。普段の学校生活ではそれほどでもなかったが、旅行とか、そういう特別の行事の時がいやだった。グループを組んで行動する時に、どうしたら仲間はずれにならないかと、そればかりに神経をすりへらしていた。

 中学生時代のあだ名は「おじいちゃん」だった。どこか醒めたところのある少年だったのだろう。ともかくはつらつとしたところのない少年だった。何か人の気をひくことを言って笑わせるピエロ的な役割を時々果たしていた。修学旅行の汽車の中で悪い仲間にだまされて、あんこの代わりにポマード入りの「最中」を食べさせられたりした。普段つきあいのない連中から「最中」をもらったという僥倖にあって、それを断りたくないという卑下した気持ちからそれを受け取り、口に入れてしまったのである。みんなから囃し立てられて笑われた。もちろん、口惜しかった。しかし彼に抗議はしなかった。彼はクラスの「わる」だったし、暴力的な人間だったからである。その口惜しさは、表には現れず、うちにこもっていった。

 そういう中学時代には楽しい思い出はひとつもない。楽しかったのは、毎日行われる礼拝だけだったかも知れない。それも先生の話を聞くというよりは、感傷的な讃美歌を歌えることが楽しかったのではないか。それによって慰められたのである。ピエロになるのに疲れていた。仲間のご機嫌を伺いながら生きることに疲れていた。高校生になる時がいいチャンスになると思っていた。もうそういう生活はやめようと考えていたのである。

 そういう時に、あの言葉にぶつかったのである。「自己に正直に生きることはやさしいようでいて、大変難しい事だ。それは社会的な常識や慣習に背を向けることになるかもしれない。それはわがままに生きることではない。なにもかも自分の責任で生きることなのだから、大変な覚悟と勇気がいることなのであって、それはおのれの十字架を負って生きていくほどに難しいことなのである」という主旨のことが語られていた。

カミュの小説「異邦人」では、その主人公ムルーソーは何の理由もなく、ただ太陽の日ざしが強かったという理由だけで、アルジェリア人を殺してしまうのであるが、いっさい自分のことは弁明せず、死刑に処せられる。その処刑の日の朝、神父が面接に来て、告解をさせようとするのであるが、彼はそれを拒否する。自分は神なんか信じていないのだから、神父に会わないというのである。また彼は自分の母親が死んだ時、その死顔をも見ることを拒否する。死んだ人の顔は醜いから、たとえ母のそれでも、死顔は見たくないという。そのために彼はまわりの者から非難を受ける。そういう小説だった。それは世間の常識に真っ向から対立し、ただ自分に正直に生きようとして生きる、そしてその結果受けなくてならない社会からの非難や迫害には耐える覚悟をもって生きる。そういう小説、カミュの思想をそのまま小説にしたような小説に感銘を受けた。
 
 自分に正直に生きる、これだと思った。そのめたにみんなから仲間外れになってもいいではないか、もう一人で生きよう、孤独に徹して生きようと思った。そういう覚悟ができると気持ちがさばさばした。

 高等部に入ると、外部からの受験して入ってくる生徒もいて、中等部とは雰囲気が一変していた。中等部の甘い家族的な雰囲気はまったくなく、中等部から持ち上がった仲間はまるで都立高校みたいだと不満を言い合っていた。先生たちはぼくたちを大人扱いしてくれた。ぼくは最初はとまどったけれど、その雰囲気はありがたかった。もう前の友達とはいっさい縁を切った。おおげさにいえば、孤独に徹した。媚びを売ってまでして友達を作るまいとした。そしてその結果、逆に良い友達が沢山できた。いまだにつきあっている友達はみな、この高等部時代の友達である。

 決心とか、誓いなどというものがどんなに頼りないものかは、身に沁みて知っているが、しかしその時の決断はほんものだった。ある人の言葉で大変気にいっている言葉にこういうのがある。「われわれは決断するというと、『こう決めた』ということだと思いがちだけど、決断というものは、自分の中になにかが生まれることだ。何かができてくることだ。そしてそれを豊かに育てていくことだ。そしてそれを清めることだ。そのようにしてそれを本当に実現することだ。決断というのは、手をたたいてぱっと決めるようなことではない」。

 この時の決断は、そのような決断だったのだと思う。自分に正直に生きよう。自分の本当にしたいことをして生きよう。そのためにどんなに人から軽蔑されたり、仲間外れになってもかまわないではないかという思いは、その時のきまぐれの、あるいは、逃避的に考えたことではなく、ぼくの中に長い間じっとあたためてきたことだった。そしてそれを実現しようとしたのだった。

 ぼくは挨拶というのがとても苦手だった。苦手なんていうものではなく、恐怖ですらあった。自分の家にお客さんが来た時、それも叔父とか、義兄とか一緒に食事することになる客がきた時、自分の部屋から出て行って、「こんにちは」とか「こんばんは」とうまく挨拶ができなかった。すぐ相手がこちらに気がついてくれればいいけれど、みんなしゃべっていて、こちらの声が小さいために「こんばんは」という挨拶が聞こえない場合が多い。そういう時のばつの悪さがたまらなく嫌なのである。だからお客が来るということがあらかじめわかっている時は、できるだけみんなと一緒にいて、自分ひとりだけで挨拶に出ていくはめにならないように神経をとがらせていた。こちらは子供なんだから、挨拶などにこだわらないで、ごく自然にみんなの中に入っていはげいいじゃないかと思われるかも知れないが、挨拶抜きで客と交わるのは何か世間の掟に反するし、そんな事をしたら客になんと非常識な礼儀知らずと非難されるのがこわかった。

 人にほめられていたい、少なくとも人には無視されたくないという思いが強かったのである。そのためには友達には媚びるし、必要以上に礼儀作法にこだわって、人によく思われたいと思った。それがかえって挨拶をぎこちなくさせ、挨拶のタイミングのとりかたを失敗させていた。子供の時から、そういうことに神経をすりへらしていのたである。そのために、もういっそのこと孤独に徹しようという思いは、子供の頃から考え続けていたのである。もう人の思惑をあまり考えないで、人に認めてもらおうなどとあまり考えないで、自分が本当にしたい事をしていこうという思いは、子供の時からあったのである。人に認めてもらおうなどと考えないで、自分が本当にしたい事をしていこうという思いは、子供の時から、自分の中に育っていたのである。自分に正直に生きようという決断はぼくの中にすでに早くから生まれていたのである。

 自分に正直に生きようということが、人に媚びるのをやめるという決意のあらわれとして出るのは、本当は消極的な面である。積極的な意味は、自分が本当にしたいことをしよう、自分の内部から聞こえて来る声を大切にして生きようということである。その頃は、実存哲学とか実存主義が流行していた。高校生のぼくにそれがどれだけ正しく理解できていたかわからないが、しかしその哲学を自分勝手に「真理は必ずしも客観的なものとはいえない、普遍妥当的なものであるとは限らない。自分がこれが真理だと思ったものが真理だ。真理は主体的なものである」というような言葉を聞きかじって、自分に正直に生きる道を選んでいった。

 それはぼくを主観性の強い人間にしていった。その頃は歴史とか、社会とかに関わろうとしなかった。ただ自分の中だけですべては展開すると思っていたからである。

 孤独にされることを一番恐れている人間が、孤独に徹して生きようと覚悟を決められた背後は、やりはどこかに神の支えを信じていたからかも知れない。高校に入ってからは、青山学院教会に通った。それまでは中等部の講堂で中等部だけを対象した礼拝が日曜日に行われていた。記憶が確かではないが、中等部の途中から、学校が日曜日、教会の真似事をするとのはよくないということで、それが中止になり、青山学院教会に行くようになったのかもしれない。その頃はパイプオルガンは珍しく、日本橋の三越と芸大と、この青山学院教会のチャペルぐらいだったのではないか。パイプオルガンを聴くのはとても楽しみだった。高校生になると、特に男では教会にいくのは少数だった。しかしそれも、自分に正直に生きる道をゆくのだという決断が、躊躇なく教会に行かせた。
 
 自分に正直に生きるという方向と、キリスト教を求める方向とは、本当は全く正反対の方向なのかも知れない。なぜならば信仰に生きるということは、自己を信じるのではなく、神を信じて生きることだからである。しかしぼくはそのことに気づかず、真剣に神を求めようとしていた。方向が違っていたから、真剣に求めるほど、信仰がわからなくなっていた。自分に正直に生きることに行き詰まるまで、信仰とういうものがわからなかったのである。しかし、その「自分」はそんなに強くない「自分」だったので、自分に正直に誠実に生きることによって、はっきりと自分の頼りなさに気づくという効果はあった。自分に正直に生きようとして、自分というものを徐々に突き崩していたのである。



「神を求めて」

 求道生活とは、こちらが神を求めていく生活のことであるが、神はこちらが求めて得られるものではない。だから、求道生活する人は、真剣にその道を歩めば歩むほど、神にもっとも近づいていくようでいて、神からもっとも遠い道に一生懸命歩んでいくことになる。ぼくはそういう道を歩き始めていた。

 中等部の礼拝の話、聖書の時間の先生の話は、みな道徳的なものだったような気がする。あるいは、話し手がそうだったのではなく、聞くぼくがそのように聞いたのかも知れない。聖書の話を聞いて、すぐ心に響いたのは、マタイ福音書の「山上の説教」のいくつかの聖句だった。「心の清い者は幸いである」「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるのなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である」という言葉だった。地獄の存在をぼくは信じていた。地獄の存在を、それがどんな神話的なものだといって否定しようとも、否定しきれなかった。
 
 ぼくにとって、それらの聖書の言葉はぼくを震えおののかせた。そしてなんとかして清らかな人間になって神を見ようとした。なんとか道徳的になって地獄に堕ちまいとした。その頃キリスト教が道徳的だったのか、あるいは、学校という教育方法がどうしても道徳的だから、そうなったのか、あるいは青山学院の教派であるメソジストがそうだったから、そうなったのかはわからないが、ともかく信仰的になることは、なによりも道徳的になることだと思っていた。 

自分の通っていた教会の説教で、ある時、天国にいくかどうかは、われわれがこの世で何人の人を伝道したかによって決まるのだと言われて、暗い気持ちで礼拝から帰ってきたことを覚えている。ほとんどの説教がそういう説教、伝道しなくてはならない、清い生活をしなければならないという説教だったのではないか。だから礼拝に幾たびに自分の汚れとだらしなさを指摘されて、暗い気持ちで帰ってきた。それならば、なぜ熱心に教会に通っていたのかと言われれば、努力すれば、自分も清くなれると思っていたからである。そしてはやはり、礼拝において深く慰められるものがあったのだろう。それは讃美歌の甘い響きだったろうし、その歌詞にある神の愛の優しさだったのだろう。あるいは、その道徳的説教のなかからも福音的な響きを聞き取っていたのかもしれない。

 「心の清い者は神を見る」という聖句に心ひかれたと書いたが、そして人は若い時は誰でも一度はこの聖書の言葉に心ひかれる時があると思うが、それは「神を見る」というところにひかれるのではなく、「心の清い」というところにひかれるのではないか。自分がなんとかして心の清い人間になりたいと思ったのである。神を見たいということではなく、自分が心清い人間になりたいのである。そしてそれは自分が地獄に落とされたくないために自分の心を清くしたいという思いだったのである。少し極端にいうと、そこには「神を見たい」とか、「神にお会いしたい」という願いはひとつもなく、ただ自分が地獄に落とされたくないということのために、自分が清くなりたい、立派な人間になりたいということでしかないのである。それは「神を求めて」の求道生活ではなく、「自分の義、自分の正しさ」を求めての求道生活にすぎなかったのである。聖書の言葉に、ある熱心な信仰者グループを批判して、「わたしは彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと務め、神の義に従わなかったか らである」という言葉があるが、そういう方向で求道生活をしていたのである。

 もう一つぼくがキリスト教にひかれた点は、殉教者としてのイエスの姿だった。その頃のぼくにとって、イエスの十字架は自分の罪をあがない、ゆるしてくださる十字架ではなく、正義のための殉教者としての十字架であった。キリスト教の中にある正義感、自分を犠牲にして人を愛するために生きるという姿勢にひかれていた。シュバイツァーの生き方にひかれた。しかもそれも「人のために」犠牲になることに心ひかれたのではなく、「自分が」犠牲になっていく姿を求めて、そういう生き方に憧れたにすぎなかった。
 すべては「自分」を中心にしてまわった。どこまでも「自分の義、自分の正しさ」を求めて、自分を中心にしてまわった。それはイエスが鋭く批判し、パウロが厳しく批判した「律法主義的(律法を守ることによって、良い行いをすることによって、救いを自分の力で獲得しようとする信仰のありかた)」な生き方であった。
 
  そしてそのような律法主義は、日本人の場合には、聖書にあるようなユダヤ人の自信に満ちた、自分の義を主張し、自分の立派さを誇るものとしてあらわれるのでなく、そういう立派な義に達し得ない劣等感として現れた。それはある意味では罪責感といえるかも知れない。ここで、「ある意味で」と書いたのは、ぼくの場合、そして多くの日本人の場合もそうかも知れないが、ぼくにとっての罪とは、神との関係の、神に対する罪責感ではなく、ただ自分の「汚れ」としての罪責感だからである。神はどうでもいいのである。人はどうでもいいのである。ただ自分が清ければいいのである。

 自分の汚れ、自分の過ち、それが罪意識であった。それがいかに滑稽な罪責感であるか。当時新聞の連載漫画に横山隆一の「フクちゃん」という四コマ漫画があった。その中でフクちゃんの妹のキヨちゃんが道路に水撒きをしていて、その水が前を通っていた紳士にかかってしまった。紳士がかんかんに怒ると、キヨちゃんはそばにあったバケツの水を自分がぶってしまうのである。それを紳士が当惑気味に見ている。そういう漫画だった。キヨちゃんが水をかぶっても、その水をかけられた紳士に対しては何の償いにもならないのである。罪は他者とのかかわりのなかでの罪である。他人を傷つけることが罪の筈である。そうであるなら、その傷つけた人に謝り、許しを乞い、洋服にかかった水をふき取るとかするのが罪の償いというものである。しかし、罪というものを自分の汚れとか自分の過ちとしてしか考えようとしない者は、このキヨちゃんと同じような事をしようとしているのである。

 なぜそんなに自己にこだわったのだろうか。自分が弱かったからだろう。その自分を固定し、支えてくれる人を求めていたのだろう。もはや親では頼りにならなかった。女性に求めても、それに耐えるれる女性がいる筈はなかった。自分を超えた大きな絶対的な存在者にそれを求めていた。神にそれを求めていた。しかし、神に出会う前に、不幸なことにぼくは地獄の観念に囚われていた。悪いことをした人間は地獄に落とされるという観念に囚われていた。神の救い受けるためには少しでも手土産としての「自分の義」が必要だと思い込んでいたのである。人が救われるのは、律法の行いによると思っていた。少なくもその完全な義に向かっての「努力」は必要だと考えていた。

 地獄の観念は人を律法主義にする。この律法主義から解放されるためには、強力な愛が必要なのであるが、律法主義の穴に入り込んでしまった人間は、どこまでも「自己」から一歩も抜け出そうとせず、自分の上に、自分の周りに、目を向けようとしないから、自分に注がれている愛に気づかないのである。

 そういうかたくなな自己をわずかながらこわしてくれるものは、情緒的な音楽だった。高校の時だったか、ラクアー伝道隊という音楽をともなうキリスト教の伝道隊が来て、青山学院の講堂で集会が開かれた。人の心をとろけさすようなマリンバの響きに魅せられた。そして美しい外人の婦人が美しい讃美歌を独唱する。「うたわでやあるべき、すくわれし身のさち、たたえでやあるべき、みすくいのかしこさ」の歌詞に情緒的に救われる思いがしたものである。

 集会の最後には、今キリストを信じる人、信じたいと決心した人は前に出てくださいと決心を促された。どんなに出たかったかわからない。しかし出られなかった。みんなの前で、前に出るのが恥ずかしかったし、そんなに簡単に決心してたまるものかという思いもあった。

 自分の決心の頼りなさを知っているが故に、決心というものが好きでなかった。決心して何か決定的に神に捕らわれるてしまうのがこわかった。自分が納得した上で神を信じかった。そのように救われたかった。あくまで、中心は「自分の」納得だった。高校時代の友人はほとんど宗教部に属していた。しかしあれほど熱心に教会に通っていながら、どうしそも宗教部には入ろうとしなかった。神に捕らわれるてしまうのが恐ろしかったのである。そういう意味では、いつも信仰に対して斜めに構えるところがあった。ある一定の距離をおいて起きたかった。いざという時にはすぐ逃げ出せる距離を。

 高校になってからだと思うが、一番上の姉が子宮外妊娠で突然死んだ。二番目の姉がその姉のところに遊びにいって帰ってきて、「何かおなかが痛いといっているから、ちょっと様子をみにいったほうがいいのじゃないか」ということで、急遽両親がその嫁ぎ先に行った。その日のうちに亡くなってしまった。ちょうど日曜日ということもあって、医者がなかなか来てくれなくて、手遅れになってしまったということである。姉の急病を知らされながら床についていたので、なんとなく姉の死の予感というか、予想はしていた。夜中に家の中が騒がしくなって、起こされて、姉の突然の死を知らされた。そのとき、まず第一に心に浮かんだことは、葬式のことだった。いや、それよりも、姉の死体を前にして、どういう態度をとるべきかということだった。姉の死体を前にして、はたして泣けるだろうか。涙がでるだろうか。なんといって挨拶したらいいのだろうか。そういうことばかりだった。姉の死を実感できないということもあって、姉の死を聞いてもひとつも涙はでないのである。朝が明けて、兄弟たちと姉の嫁ぎ先に行った。いやだった。心配だった。泣けるだろうか。姉の死そのものを悲しむこと ができないで、それに対する自分の態度にこだわっている自分に激しい嫌悪も感じていた。

 そして姉の死体を見た。その時、全く自分の予想を裏切って、涙が身体の底からあふれ出て声を出して泣いた。その姉とは年齢も離れていて、学校の教師もやっていたということもあって、やかましいところもあったが、よくぼくたちの面倒もみてくれて、姉が好きだった。その姉はもうここにはいない。生きていないという事実がぼくを圧倒した悲しみに導いた。その客観的な事実はぼくの小賢しい自意識過剰を粉砕してしまった。自分も心から泣けるのだという事実を知ってうれしかった。自分の計算と予想が木っ端みじんにこわされてうれしかった。

 ものを言う時には、すべて一度頭の中で十分考えてから口に出していた。笑うときにも冗談を言うときにも、すべて計算していた。すべては自分で計算し、予想し、防備をがっちり構えてから、行動し、言葉にしていた。そういう自分を、姉の死という客観的な事実がうち砕いてくれた。

 音楽という情緒と、事実という客観的な出来事が、観念の中だけで生きようといている自分を打ち崩してくれた。単なる言葉や教理や思想ではだめだった。

 高等部時代は、結局は、キリスト教の周りをぐるぐる回るだけで終わった。友人には宗教部の連中が多かった。その仲間と信仰の議論を熱心にした。理屈をこねるのはいつもぼくだった。みんなは忍耐強く聞き役に回ってくれた。しかしどんなに誘われても宗教部には入らなかったし、宗教部の主催する修養会にも参加しなかった。行きたい気持ちは山ほどあった。しかし恐かった。宗教的な回心が恐かった。一方では回心したいのである。しかし一方では回心すると何かとんでもないことが起こるのではないか。第一、律法的な束縛が起こるのではないか。自分の理性的な納得を置き去りにして、宗教的な回心が情緒的に起きてしまのではないか。それが恐ろしかったのである。

 橋本ナホ牧師との出会いは、高校を卒業して、大学に入ってからだった。高等部の宗教部の卒業生で「ぶどうの会」という会がつくられていて、夏休みに観音崎で修養会が開かれ、それに参加したのである。修養会なるものに初めて参加した。その時にどうしてそんな気持ちになったのかわからない。相当な決心がいった筈である。

 第一日目のプログラムが終わった後、部屋に入ろうとした時に、橋本先生がぼくに声をかけて来た。「あなたを見ていると、可哀想で仕方ない」というのが第一声だった。それはその日の会で、ぼくがいろいろとキリスト教に対する疑問とか、自分の問題を投げかけていて、それに対する言葉だった。「あなたの考えは律法主義だ」というのである。「人が救われるのは、私達の道徳的な立派な行いではなく、信仰によるのだ。神の愛を信じる信仰によるのだ。キリストはあるがままのわたしを救ってくださるのだ。あなたはキリスト教を誤解している」というのである。そう言って、ぼくに議論を吹きかけて、熱ぽっく話してくれた。それはぼくにとっては初めて聞くことばかりだった。全く新しいキリスト教だった。中学から高校へと、六年間キリスト教を学んでいながら、どうしてそういうキリスト教を聞いてこなかったのだろう。それはもちろん先生や牧師の責任ではないだろう。それはもっぱら聞き手の、ぼくの問題だろう。人は先入観とか固定観念に囚われていると、人の話をどんなに誤解して聞いてしまっているかということである。

 それは部屋の前の広場での話し合いだった。そばに何人かの人がいたと思うが、話はぼくと先生との間だでなされた。それは自分がそれまで考えたこともなかったキリスト教だった。あるがままの自分でいいのだ、という福音の恵みは有り難かった。自分の目から鱗が落ちたような気がした。一時間近くその広場で話していたのではないかと思う。「それではお休みなさい」と言った後、先生は一目散にトイレに走っていった。そして誰もいなくなった広場の向こうに、月に照らされた海が光って、そして黒く静かに波打っているのが見えた。

 それから橋本牧師とのつきあいが始まった。友人のひとりとたびたび先生の家を訪問した。ひとりで人の家を訪問するのは苦手だった。いや勇気がなかった。先生はいつも快く迎えてくれ、ぼくの屁理屈を忍耐強く聞いてくれた。
 大学の二年になってから、クリスマスに青山学院教会で洗礼を受けた。それは自分にはっきりと確信ができたためではなかった。周りの者から、信仰は決断が大事なので、頭の中ばかりで考えていても始まらないといわれていたし、もう求道生活も長かったし、この辺でという気持ちがあったのではないかと思う。そして橋本先生に喜んで貰おうという迎合的な気持ちもあったのだろう。洗礼を受ける決心をしてからのまず最初の大きな行動はその事を親に告げることだった。先生に報告したり、友人に言ったりすることは、特別の構えは必要でなかったが、しかし家族に言う時は相当な覚悟が必要だった。時をみはからって、洗礼を受けたいことを話したら、あっさりと喜んでくれた。両親ともクリスチャンではなかったが、父の兄夫婦が熱心なクリスチャンだったせいもあったからかも知れない。あるいは、ぼくの性格の弱さを見抜いていて、信仰をもつことを喜んでくれたのかも知れない。

 洗礼式はなんの感動も起こらなかった。何か劇的なことが起こるのではないかと期待していたが、何も起こらなかった。洗礼盤の中の水に浸した牧師の手を、頭に感じながら、「ああ、自分は今確実に神を信じていない」と思った。その事を洗礼式を通して、否応なく、はっきりと自分にわかったのである。そのあと開かれた受洗者のお祝いの席で、ぼくひとりだけ少しひねくれた感想を述べていた。「これからは神を信じている自分ではなく、神を信じられない自分を正直に見つめていきたい」などという意味の事を言っていた。

 その時から前にも増して暗い絶望的な求道生活が始まった。洗礼を受けたということでキリスト教に対して、斜めに、少し距離をおいてという立場に立つことが、もうぼくには許されなかった。キリスト教の本を真剣に読んだ。高倉徳太郎の「福音的基督教」,北森嘉蔵の「神の痛みの神学」、内村鑑三の著作を読んだ。橋本先生がキリスト教を論理的に把握しておかなくてはならないということで、「ぶどうの会」の仲間に呼びかけて、哲学研究会なるものをこしらえ、東京神学大学の宮本武之助先生の研究室に出かけて、ヤスパースの「哲学十二講」を学んだりした。そこで実存哲学なるものを学んだ。

 やがて、友人の後を追って、橋本牧師の牧会している教会の礼拝に出席するようになった。橋本牧師の説教は聖書の講解が中心で、初めはとっつきにくかった。しかし次第にその説教が聞けるようになった。その説教は福音的だった。「わたしたちが救われるのは行いによるのではなく、信仰による」「わたしが強く立派『だから』救われるのでなはく、わたしが弱く立派でない『にも拘わらず』救われるのだから、わたしたちはいつもこの『にも拘わらず』の論理で生きていなければならない」「弱い時にこそ強い」「弱さにも拘わらず強い」という福音を語っていた。そうした事はみな頭では理解できた。しかし身体でわかっていなかった。自分を支配していたのは、相変わらず律法主義的な生き方であった。そこから離れることはどうしてもできなかった。

 先生からは「あなたは観念的だ。自転車に乗るためには、両足を地面から離すという賭けが必要であるように、神を信じるためには、自分にしがみつく事を捨てて、自分の全存在を信仰にかけなくてはならない。あなたは頭ばかりで考え、賭けようとしない」「泳ぐためには、どんなに頭の中で考えていても駄目なので、思い切って海に飛び込んでみないと、泳ぎを覚えることはできない」というような事を始終言われていた。しかしぼくは海に飛び込む勇気はなく、実際に自転車にも乗れないでいた。

 地獄がこわかった。だからどうしても、あるがままのこのぼくを受け入れて愛してくれる神の愛を信じ切れないで、その愛に自分を賭けてみることができないで、あくまで自分の行いを頼りにしようとしていた。自分の行いのみじめな事は骨の髄までわかっていながらである。信じるということができなかった。信じて、自分の足を地上から離してしまうことが恐ろしかった。

 暑い季節だった。橋本先生から手紙をもらった。「あなたはどうして観念的なのか。そんな同じ所をぐるぐる堂々めぐりしても何にもなりません」という内容の手紙だった。その最後に「暑い折り、からだに気をつけてください」と結ばれていた。その最後の言葉をぼくはどう勘違いしたのか、暑い折り、頭を冷やしなさいという意味にとって、カアッとなった。先生に見捨てられたと思ったのである。それならば、こちらからも先生を見捨ててしまおう、もうキリスト教と縁を切ろう、捨てよう、こんなにまで求めても、結局神がわからないのなら、もう自分はキリスト教に縁がなかったのだと思った。そしてそのよにう決断した。

 その決断は具体的な行動が伴った。日曜日に教会にゆくことをやめた。これは家の者に変に思われた。それまで日曜日に一度も休んだことがなかったからである。それは、いわば、ぼくが初めて身体を張って行った決断だった。聖書を読むことも、祈ることもきっぱりとやめた。生まれて初めて自由を味わった。解放感を味わった。なんでもしていいんだ、なんでもできるんだ、もう地獄なんかこわくないと思った。矢でも鉄砲でも飛んでこいという気持ちで気分が高揚していた。

 その時になって初めて律法というものがぼくをどんなに束縛していたかということが分かった。これからどんな悪いことでもできると思った。これから自分自身の足で歩くのだと思った。

 ひと月くらいそういう状態が続いた。問題は、その肝心の自分の足だった。その自分の足自体はひとつも強くなっていないのである。今まではまがりなりにも、キリスト教が支えであった。それを今自分から外してしまった。これからは自分ひとりで生きていかなくてならない。大学を卒業して、はたして就職きるんだろうか。一人前の大人としてやっていけるのだろうかという不安が自分の前に立ちふさがった。キリスト教から外された裸になった自分の弱さを真っ正面から見つめさせられた。

 そういうことをあれこれ考え始めて、寝付かれない日々が続くようになった。
 そんなある夜、眠れないまま、布団の中にいた時、「わが恵み、汝に足れり。わが力は弱きうちに全うせらるればなり」と言うコリント人への第二の手紙一二章九節の言葉が響いた。それは橋本牧師が説教でしばしば引用している聖句だった。「ああ、そうか、神の恵みはこのままの自分に注がれているんだ、だから自分はひとつも強くなったり、立派になる必要はないんだ、このままでいいんだ」と、その聖書の言葉は自分に語りかけて来た。「わが恵み汝に足れり」というところを、ぼくはその「足れり」を「垂れり」と誤解して、神の恵みが自分のところに垂直にまっすぐ注がれるように実感した。すぐ寝床から抜けだして、長い間見もしなかった聖書を取り出して、その箇所を開けたりした。しかし、その一方でこの感激はきっと一夜明けたら、しらけてしまうのではないかと予感していた。一度捨てたキリスト教になんで再びおめおめと今更しがみつこうとするのか、というささやきが自分のなかで聞こえていたのである。

 そして予感どおり、翌朝目を覚ますと、その感激は失せ、しらけきった思いになった。前にも増して、暗い気持ちに追い込まれた。そしてその夜、再び眠れないまま寝床にいた時、同じようにのあ聖書の言葉が自分をとらえていた。そしてこの思いはきっと翌日目が覚めても変わらないだろうなという静かな確信があって、今まで味わったことのない平安に包まれて休むことができた。翌朝目をさましても変わらなかった。
 
 その時に始めて、自分に対する執着心から解放されていた。もう自分を自分で守ろうという思い、守らなくてはならないという防衛本能から解放されていた。このままでいいんだという神の確かな肯定は、ぼくを自己から解放してくれた。地獄の恐怖からも解放してくれていた。それまでぼくは自分を憎んでいた。神を愛するということは、自分を憎むことだというマルチン・ルターの言葉がぼくを捕らえていた。だから一生懸命自分を憎んでいた。自分で自分を受け入れられないということは、ぼくをゆがんだ人間にしていた。自分を卑屈にしていた。自分で自分を憎みきれる筈はなかった。だから非常に不自然な生き方をしていたことになる。しかしその時、自分の弱さを自分で肯定し、受け入れることができた。自分をそのあるがままに愛してくださる神がこの自分を肯定し、受け入れてくださっているならば、どうして自分が自分を憎む必要があるだろうかという気持ちになったのである。このままの、あるがままの自分を愛していこうと思った、自分が可愛らしくすらなった。その時は「十字架の愛」とか、「罪の赦し」とかという言葉は、表には現れてこなかったが、内容はそれを示していた。

 こちらが神を求めることをすっかり放棄してしまった時に、神のほうでこちらに降りてきてくださった。その事実がぼくの信仰を確かなものにしてくれた。もう自分の不信仰を気にしなくてすんだからである。自分の意識とか自分の自覚に信仰の確かさを求めなくなったからである。

 自分が変わると世界が変わった。なにもかにも美しく、愛らしく見えた。すべてを肯定したい気持ちになった。すべてに素直になれた。空の色まで変わって見えた。

 その日さっそく橋本牧師にこの事を報告しにいった。ひとりで橋本牧師の家を訪問するのは、はじめてであった。先生はおられたが、ちょうど来客中で、明日もう一度来てほしいといわれた。以前のぼくだったならば、もうそれだけでがっくり来ているところだったけれど、そんなことはひとつも気にならなかった。かえって一日間があくのは、自分のこの思いが本物かどうかを確かめるためには幸いしたとさえ思った。そして翌日もう一度先生を訪ねて、報告した。これからまた礼拝に出ますということと、信仰のことが多少分かってきたということを報告しただけにとどめておいた。



「ぼくが神学校に行ったわけ」

 ぼくは大学を卒業すると、関東学院六浦の中高等学校の英語の先生になった。これは橋本ナホ牧師の教え子が、関東学院で英語の教師をしていたので、その先生の推薦によるものだった。中学の三年を受け持った。あるクラスに英語の発音が抜群にうまい生徒がいた。本当に英語的かどうかはわからないが、ともかく英語らしく響くのである。教師のぼくよりもはるかに英語らしく聞こえた。たちまちぼくは劣等感にとらわれた。生徒から英語教師としての信用を失うことになったのである。
 
 ぼくは中学は青山学院だった。終戦後すぐということで、どこでも英語教育に熱を入れようとしていた時期だった。そんな中で青山は特別に英語に力を入れていた。外人教師が英語の授業を週に一、二度受け持った。それは会話主体の授業だった。これがぼくには皆目わからなかった。その外人の英語がなにを言っているのかわからなかった。ぼくの耳が受け付けなかった。ぼくは食物でも知識でも、文化でも、自分に納得できないもの、これは安全だというもの以外は受けつけないところがあった。腸が弱いという体質的なところからきているのかもしれない。外から入ってくるものに対して警戒心が強かった。だから意味不明の外人の話す英語は全く受けつけようとしなかった。英語はまったくわからなかった。ただ丸暗記を強いられる勉強は苦手だった。中学時代は文化系の科目よりは、理科系の科目のほうが好きだったし、得意だった。小説はよく読んではいたが、数学は好きだったし、中学時代に限っては得意でもあった。時間さえかければ、解けない問題はないと自負していた。これは高校に入ってからは、無惨にも崩れてしまたっが。  

 ともかく、中等部時代の英語は悲惨だった。高等部に入って、確か夏休みだったのではないかと思う、これではだめだと思って、自分で英語の文法書を買って来て、勉強をし始めた。そのときに、初めて英語といものが一気にわかったような気がした。その文法書をひとりで系統的に学んでから飛躍的に英語がわかりだした。高等部の英語の授業も、中等部とはがらっと変わって、教師達も大人というか、受験校的というか、自分の体質にあっていた。

 ぼくの英語はそのように「考える英語」だった。読むための英語だった。発音なんて全く無視していた。会話はまったくわからなかった。しゃべれないというよりは、聞けないのである。耳が拒否反応を起こして受けつけない。ただ文学をやりたいということで、英米文学科に入った。青山にはその当時文学科にはその科しかなかったからである。別に英米文学をやりたかったわけではない。本当はドストエフスキィーをしたかった。英米文学というのは大人の文学というか、ぼくには面白いものではなかった。大学でも発音に関しては、何度も恥をかかされた。そんなありさまで英語教師になったのである。
 
 そんな教師に英語を教えられるほうも悲惨だったろう。ぼくと同期に就職した化学の先生は、国際キリスト教大学を出ていた。そこでは授業は英語だったと聞いている。ぼくよりもはるかに英語はできるのである。ある時、教師になって二年目になっていたが、「boy」の発音は「ボーイ」ではなく、「ボイ」ではないかと言われて、あわてて辞書を引いてみると、確かに「ボイ」にだった。二年目になって、中学の一年生の担任を持たされて、これは楽しかった。しかし英語を教えるというこに関しては、まったく絶望的であった。英会話教室に行こうかと考えたこともあるが、金も暇もなかった。

 学校はキリスト教主義の学校だったので、毎日礼拝があった。礼拝の説教は、聖書科の先生が受け持ったが、年に何回かは、クリスチャンの教師が説教をもたされた。正味十分ぐらいの説教である。当時は、マイクもない状態で、千人くらいの生徒に話をしなければならなかったのである。これは苦にならなかった。むしろどんな話をしようかと考えることは楽しかった。初めて説教にあたったときには、終わったあと、わざわざ校長があいさつに来た。これは英語の教師としての欠陥が少しはカバーできるかと思った。しかし、教師という職業はそんな甘いものではない。英語を教えることはまったく自信はなかったし、楽しくなかった。なんの光明も見いだせないでいた。

 そんななかで教会にいくことだけが楽しみになっていた。週末には、自分の目黒の実家に帰って、そこから教会に出席した。下宿を妙蓮寺に変えてからは、木曜日の聖書研究・祈祷会にも欠かさず出席した。教師になってからの初めての下宿は、学校の裏門を出ると歩いて一分という酒屋の二階だった。これには参った。学校と生活との切り替えができなかった。それで半年で妙蓮寺に変えた。初任給が手取で九千八百円だったのではないかと思う。そして妙蓮寺の下宿は三畳一間で夕食賄いつきで、確か六千円ぐらいだったのではないかと思う。下宿を東横線の妙蓮寺に変えたのは、学校と教会との中間距離を考えた上でのことだった。

 祈祷会の聖書研究会では、橋本牧師は信徒に聖書の箇所を与えて、その研究とか感想を発表させていた。それがとても面白かった。聖書を参考書なしに、自分の目で読め、というのが牧師の主張で、それによって聖書が自分のものになっていった。聖書というものがこんなに面白いものかと思った。英語教師に自信を失っていたぼくは、聖書の勉強に自分の生き甲斐を感じていた。そのころ橋本牧師の先生の渡辺善太の「聖書論」全三巻という分厚い本が出ていて、それを授業がすむと、大学の図書館にこもって読みふけっていた。英語の勉強よりも聖書の勉強のほうが面白かったし、関心があったのである。高校生を対象にした礼拝の説教に当たった時には、全く面識のない高校生が二人連れだって、妙蓮寺の下宿までわざわざ尋ねて来て、びっくりさせられたこともあった。確か説教でその頃流行していたカミュの「異邦人」なんかをとりあげて、実存主義の話をしたためだったのではないかと思う。

 夏休みだったと思う。橋本牧師から、あなたに話があるというので、夜伺った。話は、神学校に行く気はないかということだった。こんなことは人に勧めることではないけれど、ということで話は始まったのではないかと思う。それはぼくにとっては、考えてもいなかったことだった。神学校にいくということは、牧師になるということだ。牧師には特別の人がなることだと思っていた。

 高校時代の友人にYがいた。彼は牧師の息子だった。大学受験に失敗して、確かにその当時は難関中の難関、東京外語大学を受けての浪人中だった。その年の夏休み、彼から志賀高原からだったか、絵葉書をもらった。文面は忘れたが、一身上の決心をして、今、高原に来ている。兄と一緒に高原にテントを張って、この葉書を書いている。夜空は満天の星が見える。そんな簡単な内容だった。ぼくはその葉書をもらって、胸騒ぎを覚えた。彼が何か重大な決心をして、ぼくらとは違う別世界に行ってしまうのではないかと感じたのである。彼が外語大の受験を止めて、神学校に行く決心をしたのではないかと予感したのである。

 そのころのぼくにとっては、人が神学校に行き、牧師になるということは、まるで修道院にでも入るかのように、自分たちとは別世界の人間になるような感じをもっていたのである。彼はそれまで自分たちとはちっとも変わらない普通の人間で、ぼくはとても好きだった。その彼を友人として失うことになるのではないかと不安を感じたのである。それですぐ折り返しに、重大決心とは何かと問い詰めるような手紙を書いた。彼からの返事は、神学校に行くことに決めたということだった。そのことがどうして君にそのんな衝撃を与えてしまことなのかと、とまどうような事が書いてあった。

 その頃のぼくにとって、人が牧師になるということ、そのために神学校にいくということは、それくらい大きな決心をすること、そういう決心をしたら、志賀高原にでも行ってテントを張って夜の満天の星に感激するということをしにいかなくてならないと思っていたのである。そのぼくが神学校に行くというこは、考えてもいなかったのである。

 橋本牧師は、あなたを見ていると、英語の教師よりも、聖書の勉強のほうが興味を覚えているようだし、熱心なようだし、ということだった。

 ぼくは最初は驚いたが、すぐぱっと道が開けたような気がした。自分が牧師になるとか、そのために神学校に行くか行かないかということよりも、今まで英語の教師としてのお先真っ暗という思いで、暗澹としていたとき、英語の教師以外の道があるんだという思いがして、ぱあっと自分の目の前が開けたのである。そして心の底から喜びがわいた。牧師になるんだということではなく、英語教師が辞められるという喜びが全身を貫いた。それほど、その頃、英語教師としての自分の将来に行き詰まっていたのである。

 もちろん、牧師になる決心などはできなかった。ただ聖書の勉強はしたかった。学費はもう親から出して貰うことはできない。奨学金とアルバイトで、寮生活をすれば、なんとかなりそうだった。その夜は、橋本牧師からの話を聞いただけで帰った。牧師になるなんてことは、今までは考えてもみなかったことが、自分にも考えることが許されるということだけはわかった。

 次の日曜日に牧師に会った時には、まるでそんな話はなかったかのように、その事には一言もふれてこなかった。なにかはぐらかされる思いだった。しかし自分の気持ちはもう神学校にいくことに傾いていた。ともかくこれで英語教師をやめらるという思いで一杯だった。英語教師を辞めるにはこの道しかないという思いだった。
 
 牧師になるということで、ぼくがすぐ考えたことは、殉教に耐えられるかということだった。その覚悟があるかということだ。人は笑うかもしれないが、ぼくにとって牧師になるということは、そういう決心をすることだった。自分にはとうていそういう勇気はなかった。この問題は、イエスが弟子達に語った言葉「彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべき事は、その時授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である」という言葉が、克服させてくれた。

 次に問題になったのは、自分には召命感がないということだった。牧師になろうとする人は、何か神秘的なとまではいかなくても、しっかりとした天からの声を聞くものだと思っていた。友人のように、どういう経験かはしらないが、志賀高原にテントでも張って、夜空の満天の星を見に行くくらいの経験をしなくてはならないと思っていたのであるが、自分にはそれがない。ただ、英語教師を辞めたい一心で神学校に行こうとしているのではないか、という気持が強かったのである。それでも、もう気持が後戻りできないでいた。

 牧師からその話を聞いて、どのくらい経ったか忘れたが、まだ夏休みが終わらない時だったことは覚えている。神学校に行こうと思うという決心を牧師に話した。その日まで、牧師のほうではことさらその話題はさけているようだった。そんな事をぼくに話したことは後悔したのではないかと思う。あとで、聞いたことであるが、牧師の先生である渡辺善太からそんな事は人に勧めることではない、牧師になるという決心はただ本人がすべきことで、人に勧めることではないと、叱られたということである。

 橋本牧師に神学校に行こうと思うという話をした後、Yに会いに行った。彼はもう東京神学大学の大学院に進んでいた。神学大学の寮に訪ねて、このことを話したとき、彼は賛成も反対もしなかった。こういうことは、神の召命にかかっていることで、人がどうこういうべきでない問題ではないという信念が彼にはあった。そういう意味では彼は根っからの正統主義者だった。こちらとしたら、もう少し積極的に喜んでくれるのではないかと期待して会いに行ったのだが、それはぼくの甘えであった。

 召命感の問題は、神学校の入試の時の面接で、当然問われる問題だった。橋本牧師は、神学大学の学長に会いにいき、はっきりとした召命感がなくてもいいかと聞いてくれていた。桑田学長は、そんな召命感なんてものはあまり問題ではないと言ったそうである。召命感は結局は主観的なもので、それ自体はその本人の思い込みということがあるからだということである。

 夏休みが終わって、学校が始まった。もうまるで世界が変わっていた。ぼくを関東学院の教師に世話してくれた先生は、すでに橋本牧師から聞かされていて、先生も熱心なクリスチャンということもあって、神学校にいくことを喜んでくれた。校長にも報告し、了解してもらった。両親に告げた時、クリスチャンでない父には、反対されると思っていたのに、拍子抜けするくらいに、むしろ喜んでくれた。勉強を続けることを感心してくれた。
 
 青山学院の大学を卒業しているので、東京神学大学は三年編入ということになった。試験は科目は、聖書、世界史、英語、ドイツ語だった。歴史が一番苦手だったので、一応の勉強をした。学校は相変わらずだったが、それでも、あと半年だと思うと気が楽になった。クラス担任の生徒には、学年の終わりの終業式まで黙っていた。

 ぼくが神学校にいったわけは、神様から直接牧師になれという啓示を受けたからではない。また自分で牧師になろうとすすんで決心したわけでもない。牧師から勧められて、何よりも英語教師に行き詰まっていたから、それからの脱出のための神学校ゆきだったのである。そんな曖昧な、人間的な事情で、献身(この言葉はなんとぼくにふさわしくない言葉だろう)してよかったのかわからない。本当は献身などというものは、牧師になるのが嫌で、苦しくて、しかし神に促されていかざるを得ないという道をたどるのではないかと思うが、僕の場合には、繰り返すようだが、英語教師が苦しくて、その十字架を負いきれないで、むしろ逃れるようにして、楽をする道として神学校を選んだわけである。いきなり、牧師になるのだったら、躊躇したかも知れない。

 もう一度自分の好きな、打ち込める勉強を見いだして本当にうれしかった。特に一度社会に出てから、もう一度学校に入るというのはなんとも楽しいものなのである。

 献身とか、牧師になるということは、自分の十字架を負うという覚悟が必要だと思っていたのだが、ぼくにはそういう覚悟はなかった。だから、今でも「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」という聖書の箇所にくると、そこをすうーと避けて読みたくなるのである。十字架は、結局は、自分で負うのではなく、負わされるのだから、それまでは逃げて逃げて、逃げまくってやろうと考えているのである。
 
 ここまで書いてきて、気がついたことであるが、英語の会話ができないという英語教師は教師として致命的な欠陥をもっているように、自ら進んで十字架を担おうとしない牧師も牧師として致命的な欠陥をもった牧師になっているのではないかということである。これでは、「三つ子の魂、百まで」ということではないか。英語の会話ができない英語教師に英語を習う生徒が悲惨だったように、このような欠陥牧師に指導される信徒はもっと悲惨なのかもしれない。

 しかし預言者の中にも、神に課せられた使命に耐えきれないで、神から逃げ出したヨナだっているではないか。そして結局はヨナさんも預言者として神に用いられたのだから、いいとしなくてはならないのかしれない。ほかの道が苦しくて、逃れるようにして牧師になった牧師がひとりくらいいてもいいかも知れない。十字架とか苦しい道をなるべく歩みたくないという信徒の気持ちがわかる牧師が一人くらいいてもいいのではいなかとと、少し開き直っている。十字架は負うのではなく、負わされるのだから。