「神の慈しみと厳しさ」 ローマ書十一章一一ー二四節


 パウロはイエス・キリストに出会って救われた。それでは自分の同胞の民であるイスラエルの民は、自分と同じように神によって選ばれた民なのに、どうしてイエス・キリストを受け入れ、信じようとしていないのか、自分の同胞の民は救われないのだろうかというのが、パウロの関心事であったし、パウロのとても深い心の痛みでもありました。

キリストによって与えられた救いは、自分一人だけ救われていればそれでいいと言うような救いではないのです。自分は救われた、そうしたらあの人はどうなるのか、自分の愛する人、自分の愛する家族、親族、同族の人はどうなるのかということがどうしても気になってくる救いなのであります。

 そのときに、人の救いを考えるときに、自分の救いについても正しく考えることができるようになるのではないかと思います。人の救いについて考えるときに、自分が今救われているといっているけれど、果たして自分は本当に正しく自分の救いについて理解しているかどうかが明らかにされていくというものであります。

 わたしは以前、松原教会に赴任してから、まずこのローマの信徒への手紙の講解説教を始めたのです。そしてわれわれが救われるのは、自分の行いではない、自分の信仰ですらない、自分がどれだけ熱心に教会に通っているとか、どれだけ教会に献金を捧げているとか、そういう自分の行い、自分の信仰をも含めた、自分の行いによって救われるのではないということを一生懸命に説教してきたのであります。ただ神の一方的な恵みによって救われるのだと述べてきたのです。

 そういうときに、あるときに、ある人から、先生の話を聞いていると、今まで自分が一生懸命に信仰生活を送り、教会生活をおくってきたことがばかばかしくなった、無意味だったのでしょうか、といわれたことがあります。それならば、死ぬ直前にあわてて洗礼を受けたほうが得ではないか、という意味のことを言われたことがあります。

 それは確かに愚かしい問いかもしれません、しかしそれは実は、誰でも口にはださないかもしれませんが、誰でも感じていることなのかもしれません。死ぬ間際に、病気になったときに、自分は求道生活をするようにしたいから、それまでは教会に縛られるのはいやだ、信仰に縛られるのがいやだ、もっと自分のしたい放題のことをしたいと思っている人は現にいると思います。

 主イエスがこういうたとえ話をなさいました。天国というところはこういうところだというのです。

 あるぶどう園の主人が労働者を雇った。朝の九時頃に一日一デナリオンの契約で雇った。そして十二時ごろ、また三時頃、ふさわしい賃金で雇った。そして夕方近く、五時頃になって、まだぶらぶらしている人がいたので、彼も雇った。

 そして賃金を支払う時がきて、主人はまず最後に雇った労働者たちに一デナリオンを支払った。そして最初に雇われた人の時になったときに、彼は当然自分はもっと多くの賃金をもらえるだろうと思っていたところ、同じように一デナリオンしかもらえなかった。それで彼は主人に文句をいった。「最後にきたこの連中は一時間しか働いていないのに、まる一日暑いなかを辛抱して働いたわれわれと同じ賃金とはなにごとか」と不平をいったというのです。

 すると主人はいった。「友よ、わたしはあなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの契約をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか。それともわたしの気前のよさを妬むのか」といったというのです。

 そうして主イエスは「このように、後の者は先になり、先に者は後になる」と言われたのであります。

 このイエスの話は、われわれが自分の救いについて考えるときに、本当に身に染みて考えさせるのでなはいかと思うのです。

 主人に文句をいった労働者の気持ちは痛いほどよく分かるのです。しかし、われわれが自分が救われたということを考えるときに、この最後の、たった一時間しか働かなかった者に与えた主人の気前よさ、「自分のものを自分がしたいようにしてはいけないのか」という神の恵みの自由さ、その気前よさ、その慈悲深さ、によって自分もまた救われたのだということに気がつかなくてはならないと思うのです。そのことに気づいて、神の前にへりくだる、そうでなければ、われわれは自分の救いについてとんでもない誤解をしているということになるのでなはいかと思うのです。

 パウロは、自分の同胞の民、イスラエルの救いについて考えていったときに、神は「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という神の恵みの深さ、神の恵みの自由さ、われわれ救いの根拠はすべて神の自由な恵みの主権にある、それは「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」というのです。その自由な神の恵みによって自分は救われたのたがら、今はキリストを受け入れていない同胞の民イスラエルの民も必ず神は救ってくださると論じていくのであります。

 パウロは、このローマの信徒への手紙のなかで三章の二一節からわれわれが救われるのは、律法を守るという行いによってではない、ただイエス・キリストの十字架の贖いによって救われるのだといったあと、すぐ問いかけたことは、「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれた」ということなのです。

 この問いかけは随分、唐突なのです。われわれが救われるということと、われわれの誇りとなんの関係があるのかと思うのです。しかし、キリスト・イエスによってわれわれ与えられた救いは、われわれからすべての誇りを粉砕し、取り除くものであったのであります。
 自分を誇ろうとする思い、それが、われわれを神の救いから遠ざけるものであったのです。自分を誇り、いつも神の義に服することをせず、自分の義を自分の正しさをなにかにつけて主張しようとすること、これがわれわれの罪なのです。

罪というのは、なにか嘘をつくとか、盗むとか、あるいは、人を傷つけたり、ついには、人を殺してしまうとか、ということの前に、その根底に、自分の正しさを主張しようとする、自分を誇ろうとする思い、ここにわれわれ人間の罪の根本があるのだというのが聖書がわれわれに教えるところなのであります。

 われわれが救われたのは、神の自由な恵みの選びによって救われたのであります。自由なということは、いっみれば、神の自分勝手、神の独断専行、神の横暴な自由な選びによって、といわれてもおかしくないことなのです。
 しかし、その自由なということは、神の恵みによる自由な選びということなのです。この神の自由な選びには、恵みということによって限定されている、そういう限定がある自由なのだということであります。
 
 パウロが神の自由な選びというとき、神は「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と、あくまで神の自由意志をいうのですが、不思議なことに、パウロは「神は自分が憐れもうと思う者を憐れむ」といったあと、すぐ続けて、「神は憎もうと思う者を憎む、滅ぼそうと思う者を滅ぼす」とは絶対にいわないのです。論理的には当然、そういう言葉がでてきてもよさそうなのですが、パウロはそれを持ち出さないのです。

 その代わりに「神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」というのです。「かたくなにしようとする者をかたくなにする」とはいいますが、決して「憎もうと思う者を憎むとか、滅ぼそうとする者を滅ぼす」とはいわないのです。

 また、パウロはこうもいうのです。「怒りの器として滅びることになっている者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば」というのです。

 神の自由な選び、それは論理的にいえば、神の独断、神の横暴さをも示すことができることなのですが、それは神の「恵み」とか、神の「慈悲」ということで神みずからご自分を制限されているということであります。

 われわれはそういう神の自由な恵みの選びによって救われたのです。この立場からわれわれは一歩もずれてはいけないのです。自分のあとから、夕方の五時ごろに雇われた人に一デナリオンを支払われたからといって、われわれは文句をいってはいけない、不平をいってはいけないのです。わたしにはそんなことをいえた義理はないのです。
 「自分のものを自分がしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか」というイエスの言葉をしっかりと聞いておかなくてはならないのです。

 パウロは十一章の一一節からこういいます。「ユダヤ人が躓いたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされ、そしてそれは彼らに妬みを起こさせるためだった。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、そして、彼らがみな救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことか」。

 ここの文章なんかは、クリスチャン以外の人がよんだら、もう屁理屈としか思えない理屈ではないかと思います。しかし、パウロは大真面目で、このことを言っているのです。それは自分の同胞の民がなんとしてでも救われてもらいたい、そして全世界の人々がこの救いにあずかってもらいたいというパウロの思いが込められている言葉であります。
 こんな屁理屈がとおるのは、われわれの救いがただ神の自由な恵みの選びによってだという確信があるからであります。

 そしてそのようにして、今度は向きをかえて、救われた異邦人に対して、パウロは自分が救われたことに「思い上がってははならない、むしろ、恐れなさい」と、厳しくいうのです。 

 接ぎ木の例をとりあけで、選民イスラエルと異邦人の関係を述べていくのであります。
 異邦人のクリスチャンは、神によって選ばれたイスラエルという土台の上に接ぎ木されたようなものなのだ。神によって選ばれた純粋なオリーブという木の土台に、野生であるオリーブの枝が接ぎ木されたようなものだというのです。

 異邦人クリスチャンは、いわば野生のオリーブの枝だというのです。そして、野生のオリーブの枝は、土台の根から豊かな養分を受け取っていきている、成長しているというのです。

 これは今日の植物学からいうと当てはまらないことであるかもしれません。本当は、枝の葉っぱから光りという養分を1杯受けて、それは土台である根にその養分を注いでいるからであります。

 しかしここでは、もちろんパウロは植物学のことをいっているのではなく、大事なのは土台であり、大事なのは根だといいたいわけです。だから、「あなたが根を支えているのではなく、根があなたかだを支えているのだ」というのです。だから、異邦人クリスチャンであるあなたがたは、今はまだキリストを受け入れていないイスラエルの民に対して誇ってはならないというのであります。

 「ユダヤ人は不信仰のために折り取られたが、あなたは信仰によって立っている。しかし思い上がってはならない」というのです。

 なぜか。それは異邦人であるあなたも、もし傲慢になって自分を誇り出すという不信仰に陥るとすれば、神はただちにお前達をばっさりと切り捨ててしまうからだというのです。
 「神は自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたも容赦されない」というのです。

 「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者に対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがある」というのです。ここは口語訳では、「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる」となっているのです。

 われわれはともすれば、神の慈愛は、神様のことをなかなか信じられない信仰の弱い者に向けられ、そして神の峻厳さは、自分は神を信じていると、おごり高ぶっている者に向けられると思うかもしれません。福音書に示されている主イエスの言動をみていたらそのことを想像するのではないかと思います。

 それに対してパウロはここでは、そんな甘いことはいわないのです。神の厳しさは、神の憐れみを信じようとしないものに下されるというのです。そして神の慈愛は、その神の慈愛にとどまろうとするものに向けられるというのであります。ここを読んでおりますと、パウロがなんとかして、あなたがたが神の慈愛にとどまって欲しいかとということを切に願っているかということが分かると思います。

 われわれ日本人は選民イスラエルからみれば、異邦人であります。異邦人のクリスチャンであります。そのことを思うときに、前にもふれましたが、異邦人のカナンの女の信仰を思いだしたいのです。

 異邦人の女、カナンの女が、自分の娘の病をなんとしていやして欲しいと主イエスに懇願したときに、主イエスは、自分は今は選民イスラエルの失われた羊のことで心が一杯なのだ、あなた方異邦人にかかわってはおれないのだと、冷たく突っぱねのです。それでも、女が「わたしの娘をいやしてください」とイエスにすがったときに、主イエスは再び、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけないだろう」と答えました。
 そのとき、女は「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言ったというのです。そして主イエスはこの女の信仰に感心され、「お前の信仰は立派だ」といわれて、その娘の病を癒されたというのであります。

 異邦人であるわれわれは、選民イスラエルという木の土台、その根っこに接ぎ木されて、そこからその養分を吸収して救われているのです。ですから、主イエスが今自分は選民イスラエルの救いのことでもう心が一杯なのだという、えこひいきにすら見える選民イスラエルに注がれるイエスの深い愛にひれ伏して、「主よ、あなたがイスラエルに注がれようとして愛は、本当にすばらしいことです、それはもう本当に納得しています、ごもっともです」と受け入れる、そうしたうえで、それでも、そのおこぼれでもいいですから、この異邦人のわたしにもあなたの愛をお裾分けしてください、という信仰をわれわれ異邦人はもたなくてはならないと思うのです。

 それは謙遜、へりくだりと、そしてあくまで神の慈愛にすがろうとする信仰であります。神の慈愛は、そこにとどまろうとするものに豊にそそがれるのだというのであります。