「神の愛が示された」 ローマ書五章一ー十一節 ホセア書十一章八ー九節

先ほど、読んでいただきましたホセア書は、預言者ホセアの個人的な結婚生活を背景にして預言した預言書といわれております。いろいろな解釈があるようですが、簡単にいいますと、ホセアという預言者は北イスラエルの預言者で、その結婚生活は悲劇的なものだったのです。一章の冒頭の言葉に「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」と命ぜられ、そしてさらに、その姦淫を犯してホセアのもとを去った妻をもう一度、赦して受け入れよと命じられて、再婚した預言者であります。

それは主なる神が自分が愛し、選んだ民、イスラエルが自分に背き、自分を欺き、他の神々を拝み、他の神々と姦淫を犯している、しかし、今自分はその自分を裏切ったイスラエルを赦そうとしているからだというのです。
お前はお前を裏切った姦淫を犯した妻をもう一度つれもどし、愛せよ、そうしてわたしの苦しみを共に味わい、このことをイスラエルの人々に預言せよと言われるのであります。

 さきほど読んでいただきました聖書の箇所は、預言者ホセアを通して神が語った言葉であります。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか」という言葉で始まります。エフライムとは北イスラエルのことであります。
 そうしてこういうです。「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしはもはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」というのです。

 ここは口語訳ではこうなっています。「わたしの心はわたしのうちに変り、わたしの憐れみはことごとくもえ起こっている。わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたのうちにいる聖なる者だからである。わたしは滅ぼすために臨むことをしない。」

 神が心変わりするということは、ふさわしくないということで、新共同訳では「わたしは激しく心を動かされ」と訳していますが、口語訳は「わたしの心はわたしのうちに変わり」と訳しているのです。

「わたしはお前達のうちにあって神であって、人間ではない、お前達のうちにいる聖なる者だから」、わたしはわたしのうちにふつふつと燃えたぎっている背信のイスラエルに対する激しい怒りを抑えて、その怒りを変えて、もう背信のイスラエルをどこまでも愛することに決めた」というのであります。聖なる神だからそれができるのだというのです。

われわれ人間には、自分が愛していた女が自分を裏切って自分のもとを去っていった時に、愛を憎しみに変えることはあると思います。しかし、その女を赦し、もう一度自分のもとに連れ戻すために、憎みを愛に変えるなんてことは到底できることではないと思います。

 「わたしの心はわたしのうちに変わり」、憎しみから愛に、裁きから赦しに、心変わりできるのは、神だからであります。「わたしは人ではなく、お前のうちにいる聖なるものだから」であります。

 よく言われることですけれど、旧約聖書の神は義なる神、裁きの神で、大変怖い神様で、新約聖書の神は優しい愛の神だといわれますが、それは旧約聖書を読んだことのない人の発言で、旧約聖書の神は決して義なる神一辺倒ではなく、その神の義はこんなにも深い愛をうちにもっている神なのであります。 
 旧約聖書は、神様を大胆に人間的な比喩をもって語るところがありますから、このホセア書に見られるように、新約聖書では表現できないほどの激しい深い神の愛を語るのであります。

 パウロは今まで、学んで来ましたように、このローマの信徒への手紙の三章の二一節から、われわれの救いについて語るのであります。そのときに、パウロは神の愛という言葉を使わないで、神の義という言葉を使うのです。
 そしてこの五章にきて、はじめて、パウロは五章五節で「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれた」といい、八節で、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された」と語るのであります。

パウロはそれまでは、なぜか神の愛という言葉は使わないで、神の義という言葉を使うのです。それはなぜか。

 それは、そこでのわれわれの問題は、神に対して、そして周りの人間に対して、つねに自分の正しさを主張して、神の義に従わないで、自分の正しさばかりを主張し、また他人を裁くことばかりしている、そういうわれわれの罪を問題にしているからであります。

 自分は正しいんだ、そのことばかり主張して、自分を守ろうとしてきた、そうしては結局は惨めな状態に陥っているわれわれを救うためには、そのわれわれの自己主張という罪をたたきつぶさなくてはならなかった、そのためにパウロは、神の愛という言葉をさけて、何よりもまず神の義が示されて、神の正しさが示されたと言わなくてはならなかったのであります。

 神の義をがつんとわれわれに示して、われわれの自己主張をたたきつぶす必要があったのであります。
そこであらわになる人間の罪は自己主張という人間の罪、それは自分の強さによる罪といってもいいかもしれません。

神は人間の罪に対して、忍耐して、忍耐して、その最後に堪忍袋の緒が切れて、人間を裁きにいったのではなく、忍耐してその最後に人間の罪を赦すためにキリストを十字架で犠牲にして、赦したのだ、そうすることによって神の正しさを現したのだというのです。それは内容からいったら、愛であります。

 賛美歌の二六二番に「十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛のあえるところ」と、ありますが、十字架はまさに神の義と愛が一致しているところなのであります。

 しかし、それでもパウロは、神の愛という言葉は、使わないで、神の義という言葉を使ってきたのであります。

パウロはどういうときに「神の愛」という言葉を使い始めたかといいますと、「実にキリストはわたしたちがまだ弱かったころ、定められたときに、不信心な者のために死んでくださった」といい、「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された」と続けるのであります。

 罪というのは、ただ自分の正しさを主張して、自己主張してやたらに人を裁いていくことだけが罪なのではないのです。そうではなくて、自己主張ができなくて、自分の殻に閉じこもってしまって、自分はだめだ、自分は駄目だと自分の弱さに沈み込んでいる、そういう弱さもまた罪なのだとパウロはいうのです。弱さは罪なのです。

先週の説教で、コリント教会が分裂した問題をとりあげました。教会で活躍していた人々が、あまり活躍できないでいる人を、役に立たない者は教会では必要はないと言い出す人がいて、教会は分裂しそうになったということをとりあげました。
 そのことをパウロは、人間の体にたとえて、「目が手に向かってお前は要らない」とは言えない、頭が足に向かって「お前は要らないとは言えない」、強い人が弱い人に向かって、「お前は要らない」とは言えないし、そんなことをいってはならないというのです。

 しかし、先週はとりあげませんでしたが、そこをみますと、大変おもしろいことに、パウロはまず弱い人のことをとりあげちるのです。「足がわたしは手ではないから、からだの一部ではない」、「耳がわたしは目ではないかから、からだの一部ではない」といってはいけないというのです。「もしからだ全体が目だったら、どこで聞きますか」といい、神はご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分をおかれたのだ、というのです。

 教会の分裂をとりあげるときに、パウロは、自分の強さを主張して弱い人を裁く人のことをとりあげるのではなく、自分なんか駄目なんだ、自分なんか役に立たないから、もうこの教会では用はないのだといって、自己卑下して自分の殻に閉じこもってしまう人間の弱さをまずとりあげているところが、おもしろいし、大変考えさせられるところであります。

 自分は駄目だ、と自己卑下する人、そういう弱い人が教会を駄目にしてしまうのだとパウロはいうのです。

 わたしが尊敬している説教者に竹森満佐一という人がおりますが、そのかたがある説教のなかで、人間の弱さについて、痛烈な言葉を述べております。
「世の中でもっとも扱いにくいものは、弱さではないかと思う。弱い人という者は、大事にしすぎるとつけあがるし、厳しすぎるとひねくれるし、甘やかすとまつわりついてくるというように、手に負えないものだ」というのです。

 われわれ日本の教会では、あまり自己主張をする人はいないかもしれません、われわれ日本の教会で一番問題になるのは、この弱さとしての罪ではないか。自分は駄目だ駄目だと、自己卑下する、そうしては頑なに、自分の殻に閉じこもってしまう、そういうわれわれの弱さが一番問題なのではないか。
 
 弱さにおいて現れる罪は、自己保身であります。自分で自分を守ろうとすることであります。自分が傷つくことを一番恐れるのです。そのために他の人から傷つけられないように、あらかじめ先取りして、自己卑下したりするのであります。
それはなぜ罪なのかといいますと、その弱い者のために、キリストが死んでくださり、神の愛がその弱いお前に注がれているのに、どうしてお前は自分で自分を守ろうとするのか、そうしては、自己保身に走り、それができないで、自分の殻に閉じこもり、自分勝手に絶望してしまうのか、どうして神の愛を信じないのか、それは罪だというのです。

 われわれは聖書の中で一番、人間の弱さについて思い知らさせれるのは、ペテロのイエスに対する三度の否認の記事ではないかと思います。
 イエスが逮捕されて、イエスが裁判につれだされた大祭司の庭で、ペテロが人から、あなたはあのイエスの仲間ですね、といわれて、わたしはイエスの仲間なんかではない、イエスなんか知らないと、三度までイエスを否認したという記事であります。

 ペテロは、イエスが自分は逮捕されて殺されるのだと言ったときに、ペテはわたしも一緒に死にますと大見得を切っていたのです。ところが現実に自分が捕らわれそうになったときに、まだ逮捕されるわけでもないのに、わたしはイエスなんか知らない、イエスの仲間ではないと、否認してしまうのであります。弱さとは自分で自分を守ろうとする自己保身であります。

 しかし主イエスはそのペテロを知り尽くして、お前はわたしにつまずくだろう、鶏が鳴く前に三度わたしのことを否認するだろうといい、しかしわたしはそのお前のために、祈っていると言われたのであります。

イエスはペテロのつまずきを非難しているわけではないのです。神の子がいなくなる、そうしたら当然、人間はつまずく、ペテロはつまずくのです。問題はそのつまずいたときに、どうやってそこから立ち直るかであります。後悔してもなんにもならないのです。自己反省してもなんにもならないのです。悔い改めることです。

 ある人がいっておりますが、後悔と悔い改めとは違うというのです。後悔は自分のしたことをただ失敗したと悔いるだけです。しかし悔い改めるということは、自分に向けられる思いを神に目を向けることなのです。方向転換することなのです。
 
 この弱い自分にも主キリストが祈ってくださっていることに気づくことなのです。この弱い自分に神の愛が注がれていることにきづくことであります。

 主イエスは十字架で殺される前に、弟子達と最後の食事をしたときに、いきなり弟子達の足を洗い始めた。ペテロは驚いて、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。足を洗うということは、奴隷が主人のためにすることだからであります。

 するとイエスは「わたしのしていることは今、お前にはわかるまいが、あとでわかるようになる」と言われました。するとペテロは「わたしの足など決して洗わないでください」といいますと、イエスは「もしわたしがお前の足を洗わなければ、お前はわたしと何の関わりもなくなる」といわれて、ペテロの足を洗い始めたのであります。

 足というところは、人間のなかで一番汚れているところであります。イエスはその人間の一番汚れている部分と関わり、その一番汚れているところを洗うことによって、われわれと関わろうとしているのだということであります。

 主イエスは、われわれのきれいなところ、美しいところと関わろうとしたのではなく、一番醜いところ、一番弱いところと関わろうした、しかもそれを洗うことによってわれわれと関わろうとしたということであります。

 それなのに、われわれは神様の前にでようとするときに、まず自分の身を清めてから、自分の一番美しいところをみせようとしているのではないか。今週はどうもあまりよい生活をしてこなかったから、聖餐式を受けるのをためらうというようなことをしていないだろうか。

 主イエスはユダの裏切りを知り、ペテロの否認をあらかじめ知っていて、ペテロの足を洗い、そしてユダの足も洗ったのであります。

 そのことをペテロは全くわからなかったのであります。それに対して主イエスは「わたしのしていることは、今お前にはわかるまいが、あとで、わかるようになる」と言われたのであります。

 本当の愛というのは、すぐわかるようなものではないのです。それはいつでも、あとでわかるようになるのではないでしょうか。親の愛というものも、親が死んだときに、あとでわかるのではないか。

 ペテロはこのイエスの愛がいつわかったのだろうか。それは、ペテロが三度イエスを否認して、鶏が鳴いたとき、イエスの言葉を思いだしたときではないか。
 ペテロは鶏の鳴き声と共に、この自分のために、「お前の信仰がなくならないように祈っている」といわれたイエスの言葉を思い出し、そしてあの食事の席で、自分の汚れている足を洗ってくれたイエスの手を思いだしたときに、この自分の弱さに注がれるイエスの愛に気がついたのではないか。

本当の愛というのは、あとでわかるものであります。それは自分の弱さに気づき、自分の罪に気づいたときに、わかるものなのでなはいか。

そういう弱いわれわれに、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」のであります。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められたときに、不信心な者のために死んでくださった」のであります。「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された」のであります。

そしてその愛がわれわれに希望をあたえくれるのだというのです。われわれは救われたといっても、神との平和が与えられたといっても、現実の生活においては様々な苦難がおそいかかるのであります。
 しかしその苦難も苦難のなかで忍耐することができる。苦難は忍耐を、忍耐は練達を生むのです。
 練達というのは、この世にうまく立ち回れる、どんな困難にもおろおろしないで、見事にやってのけるられる人になって、処世術だけにたけた人になってしまう、そいう意味での人生の達人、練達の士になるということではないのです。

パウロは、この練達は、われわれに希望を与える、というのです。そういう練達なのです。つまり練達の士になって、なんでも自分が解決できるようになるということではなくて、艱難とか苦難に出会って、自分の弱さを感じて、ますます神に頼り、神に望みをおくようになる練達、自分の力を頼るのではなくて、神に信頼するようになって、神から与えられる希望をもつようになるということに熟達する、そういう意味での練達の士ということであります。

この練達は希望を生み出すのだというのです。そしてこの希望は、わたしたちを欺かない、なぜかといえば、神の愛がわたしたちに注がれているからだというのです。

 パウロはよく、信仰と希望と愛というのです。そしてもっとも大いなるものは愛だというのです。これは単なる愛のことではないのです。神の愛であります。われわれの弱さに注がれる神の愛であります。

 その愛がわれわれに希望を生み出してくれるのであります。そして希望はわれわれの信仰が弱り果てて、崩れそうになるときに、神の愛を示してくれて、われわれの弱い信仰をささえてくれるのであります。

 愛が、神の愛が、われわれに希望を生み出し、そして希望はわれわれの信仰を支えてくれるのであります。