「神の自由な選び」 ロマ書九章一ー一八節


 キリスト教国でない日本という異境の地にあって、クリスチャンになるということの一つの大きな問題は、自分だけが救われていいのだろうか。自分だけが洗礼を受けて救われていいのだろうか。自分の家族はどうなるのか。まだキリスト教を知らない、あるいは知っていても、クリスチャンになろうしない家族、あるいは親族の人々はどうなるのだろうか、ということは大きな問題だと思います。

 もし救われるということが、死んだあと、洗礼を受けた者は天国に行き、洗礼を受けていない人たちは、地獄にゆくのだということだとしたら、それを素朴に信じるとしたら、いったい洗礼をうけていない家族とか親族はどうなるのかということは深刻な問題だと思います。

 自分一人だけ救われて、自分の親しい人がまだ救われていない、まだ信仰をえていないということは、われわれにとっては大きな痛みであると思います。だからといって、われわれはたとえば、家族の人にキリスト教を伝えることは苦手なのではないか。それは宗教というものは、強引に押しつけるものではないし、またそんなことをしたら嫌われるということもあるからであります。

 自分ひとりだけが救われていいのか。自分の家族、自分の親族、親しい人はどうなるのかということは、われわれにとっては大きな痛みであります。

 今学んでおります、ローマの信徒への手紙は八章までで、われわれはどのようにして救われたのかと述べてきたのであります。そして九章から十一章にかけては、まったく違う問題が取り上げられているのであります。
 十二章からは、救われたわれわれがどのように、この地上で生きたらいいのかという、いわば、キリスト教の倫理について述べるのですが、その間に九章から十一章にかけては、神によって選ばれた選民であるイスラエルの民の救い、パウロもまたその民族の一員である同胞の民、イスラエルの人々の救いの問題を扱っているのであります。

 ローマの信徒への手紙は全部で一六章ある大変長い手紙ですから、これは一気に書かれたわけではないと思われます。特にこの手紙の八章と九章との間には、かなりの時間的へだたりがあったかもしれません。だから九章からは今までとは全く違う主題をとりあげることになったのだろうとも言われております。

 しかし、そうだろうか。それよりは、八章から九章は、むしろ、時間的にも密接なつながりがあるのではないかと思うのです。それは八章の終わりで、「ではこれらのことについてなんといったらいいか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と非常に高揚した感情をぶつけて、最後に、「どんなものもわたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すものはない」と、断言しているのです。そしてパウロは、その大変高ぶった感情をそのままひきついで、九章を書いたのではないかと思うのです。それは九章のはじめからの文章もまた大変、パウロの感情がむき出しに出た言葉ではじまるからであります。
 
 「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りをいわない。わたしの良心も聖霊によって証していることだ。わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがある」と切り出すのであります。

 それはなにかというと、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられてもかまわない。彼らはイスラエルの民です」と語りだすのであります。それはパウロの同胞の民、イスラエルの人々がイエス・キリストを信じないからです。受け入れようとしないからであります。

 自分はイエス・キリストに出会って、そのキリストの恵みと真実によって本当の信仰を与えられて救われた、かつてはイスラエルの民のひとりとして、熱心なユダヤ教徒としてキリスト教を迫害してきたけれど、今はイエス・キリストこそ本当の救い主として信じて、救われている、しかし同族の人の大部分はそのキリストを受け入れていない、救われていない、そのことを考えると深い悲しみがある、どうしようもない痛みがあるというのです。

 それどころか、自分の同胞の民が救われるならば、というよりも、自分の同胞の民が救われないならば、自分も「キリストから離されてもいい、神から見捨てられてもかまわない」、いってみれば、自分の信仰を捨ててもいいというのであります。
それほどに自分の同胞の民、イスラエルの人々のことが心配だというのです。

 八章の終わりに、「どんなものもキリスト・イエスによって示された神の愛からわたしを切り離すものはない」と高らかに語ってきたパウロであります。そのパウロがここでは突然、自分の同胞の民が救われないならば、キリストから離され、神に見捨てられてもいいとまでいうのであります。

 これは理屈からいえば、支離滅裂であるといってもいいかもしれません。しかしここにこそ、信仰者パウロの真実、伝道者としてのパウロの真実というものをうかがい知ることができるのではないか。

 数年前に亡くなった加藤周一という評論家がおりますが、このかたは東大の医学部を出て、医者として働きましたが、広島の原爆の影響の合同調査団の一員として働いたそうですが、その後、医者として働くよりも、評論家として日本の文化を論じてきた第一人者として評価されておりますが、亡くなってから加藤周一に関する評論が出版されましたが、その一つに「加藤周一を読む」という題がついていて、その副題に「『理』の人にして『情』の人」という題がついているのです。
 理の人というのは、きわめて緻密な論理を駆使して日本の文化を論じてきたから、そのようにつけられたわけですが、情というのは、感情の情、人情の情という意味で、つけられたのであります。加藤周一というひとは、単に理屈ばかり述べる「理」の人という面だけをもっている人ではなかったというのです。情の人でもあったというのです。

 その一例として、加藤周一が亡くなる数ヶ月前にカトリックの洗礼を受けて亡くなったことをとりあけでいるのであります。それは多くの人に大変な衝撃的だったというのです。あれだけ論理明晰、合理主義に徹してものを書いてきた人が、突然カトリックの洗礼を受けるとは、それでは「加藤周一が加藤周一でなくなってしまう」とまで憂えた人もいたということであります。 

 加藤周一が死ぬ直前にカトリックの洗礼を受けた理由は、本人にしかわからないことですが、彼の母親と妹さんがカトリックの信者で、小さいときにカトリックの幼稚園にも通っていたということもあって、カトリックには親近感をもっていたということであります。

 加藤周一が洗礼を受ける前に親しい友人に電話でこう語ったそうです。「宇宙には果てがあり、その先がどうなっているかはわからない。神はいるかもしれないし、いないかもしれない。わたしは無宗教者であるが、妥協主義でもあるし、懐疑主義でもあり、相対主義でもある。母はカトリックだったし、妹もカトリックである。葬儀は死んだ人のためのものではなく、生きている人のためのものでもある。わたしが無宗教では妹たちも困るだろうから、カトリックでもいいと思う」といったそうであります。

 これが加藤周一が死ぬ直前に洗礼を受けた本当の理由ではないだろうと思いますが、もっと深い理由があったと思いますが、ともかくそれまで彼をよく知っていた人には衝撃を与えようであります。洗礼名は、加藤周一が医者であったということもあって、「ルカ」と名付けられたそうであります。

 その本を書いた人は、そういうことを受けて、彼は死ぬ前に自分の妹のことをおもってカトリックに入信したのだといって、彼はそういう情の人だったというのであります。

 あれだけ合理主義に徹したかに見えた人が、世界は、宇宙は、単なる理屈を超えた存在があることを知っていた、そして死ぬ前に妹が困るだろうからということで、カトリックの洗礼を受けた、加藤周一というひとは、理の人であったとと同時に情の人であったというのであります。

 パウロは、このローマの信徒の手紙では、実に論理をつくして、われわれが救われるのは、自分達のよいわざを行ったからではない、ただただイエス・キリストの十字架の贖いによって示された神の愛によって救われたのだと論理を尽くして語ってきたのであります。そしてその結論として、だからわれわれはどんな罪人であっても、われわれの信仰がどんなにあやふやで、頼りないものであってもこの神の愛がある限り、神から見捨てられることはないのだと語ってきたのであります。

 そのパウロが、自分の同胞の民イスラエルの人々がいまだにイエス・キリストを受け入れようとしない、信じようとしない、この同胞が救われないならば、自分一人だけ救われても何の意味もない、「自分の同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられてもまわない」というのであります。

 これでは自分が今まで述べてきたことを、全部否定してしまうようなことをいうのであります。

 これでは、神を第一とする、なによりも神を神として愛するという信仰の一番大切なことを捨てて、神よりも自分の同胞を愛する、神よりも人間を、しかも自分の同胞、自分の家族を愛するということになってしまうのではないか。

 主イエスが、わたしよりも、自分の父母、兄弟を愛するものは、わたしにふさわしくない、といわれたことはどうなるのかということであります。

 ここでは、パウロがある意味では、神よりも自分の同胞を愛している、自分の隣人を愛している、そういう自分の心情を吐露しているといっていいと思います。そういう意味では、パウロという人は、本当に情の人であったと思います。

 自分ひとりが救われてもひとつもうれしくはないということであります。自分の愛する同胞の民、自分の愛する親族、家族も救われないならば、ひとつも救われたことになはならないということであります。
 それは、どうか、まだあなたを信じない同胞の民、まだ信仰にはいっていない家族、親族の人々をも救ってくださいという痛切な叫びであります。

 自分一人だけ救われても、ひとつも救いにはならない、自分の愛する者、自分の同胞、自分の家族、自分の親族をも救ってくれない救いなどは、本当の救いにはならない、自分ひとり救われてもそんな救いは少しもうれしくはない、と思っている人が、そういう情の厚い人が、救いについて理路整然とかたってくれる救いというものに、われわれは安心して救いの教えに耳を傾けることができるのではないか。ただ冷たい論理だけの人ではなく、自分の同胞の民の救いについて深い悲しみと痛みを感じているパウロ、そういうパウロだからこそ、われわれはその救いの教えに耳を傾けたくなるのではないか。

 パウロはこの九章から十一章にかけた、自分の愛する同胞の民イスラエルの救いについて語ろうとするのですが、その際にパウロは、今まで救いについて語ってきた論理、われわれが救われるのは、われわれのわざによって救われるのではない、ただ良い行いなどできないわれわれを憐れみ、一方的にわれわれの罪を贖ってくださった主イエス・キリストによって示された神の恵みによって、それを信じる信仰によって救われるという救いの論理をもちいて、まだキリストの信仰を受け入れていない同胞の民の救いについて語るのであります。

 それがローマの信徒への手紙の九章から十一章にかけてのところなのであります。ですから、ここにはわれわれ日本人と余り関係のないパウロの同胞の民、イスラエルの民の救いについて語っているようでいて、本当にはこの三つの章こそ、われわれが救いについて考えるときに、大変大切な箇所なのではないかと思います。いわば、これはパウロが一章から八章まで語ってきた救いの論理の応用問題の解答であるといってもいいと思います。

 それは結論だけをあらかじめいいますと、われわれの救いは神の恵みの自由な選びにあるということであります。
 それは十一節の後半にいわれていることであります。「それは、自由な選びによる神の計画が、人の行いによらず、お召しになるかたによって進められるためでした」とあり、一四節に「神はモーセに『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもう思う者を慈しむ』といってる、従って、これは人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」ということなのであります。

われわれが救われるのは、人の意志や努力によるのではない、ただ神の憐れみによるというのです。

 これらの言葉は、今まで、パウロが述べてきた救いの論理と同じ論理なのであります。われわれが救われるのは、われわれのわざ、われわれの行いではない、神の自由な恵みの選びによって救われるのだということであります。その救いのことを考え見れば、この自分を救ってくださった神の自由な恵みの選びが自分の愛する者の上にも、同じように注がれることを信じることができるということなのであります。 

 われわれが救われたのは、神の選びにあったのであります。自分の側の選ばれる理由とか資格なんかはひとつもなかったのであります。ただ、ただ、選んでくださったかたの意志にあったということなのであります。自分が他の人よりも立派だったとか、信仰があったのだとか、そんなものではなかったのです。こちら側には選ばれる理由とか条件とか資格などひとつもないのです。

われわれの側には、選ばれた理由などひともない、ただ神の意志にあった、神の憐れみの自由な意志にあったということなのです。

 パウロの同胞の民、イスラエルが神によって選ばれた理由もそうであった。

 そして選びということで一番大切なのは、選ぶ側の自由な意志であります。選ばれる側の資格とか理由なんかではないのです。選ばれる側が、こういう理由だからあなたはわたしを選んでくださったのだと主張などできないということなのです。それは結局は、わたしはこういう人間なのだから、あなたはわたしを選ばなければならない、あなたはわたしを選ぶ義務があるなどといいだすことになってしまうのです。

 そして選びということが一番あざやかに示されるのが、選別されるということであります。この人は選ばれ、この人は選ばれない、すべての人がただ自動的に選ばれるのではない、いつも選ぶ人の自由な意志というものが感じられるときに選びということがあざやかに示されるのであります。

 それがイスラエルの民の選びにおいてあらわれたのだとパウロはいうのです。イスラエルの父祖アブラハムには、肉のつながりからいえば、妻サラの産んだイサクと奴隷の女ハガルが産んだイシマエルがいた、しかしイスラエルの民として選ばれたのは、イシマエルではなく、イサクだったというのです。それは神がそのように約束していたからだというのです。

 またイサクには双子が生まれた、エサウとヤコブであります。お父さんのイサクは、どうもエサウのほうを愛していたようなのですが、イスラエルの民の跡継ぎとして選ばれたのは、イサクではなく、ヤコブが選ばれた。それは神がそうされたからだというのです。

 それは「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、兄は、つまりエサウは、弟、ヤコブに仕えるであろう」と神が約束されていたからだというのです。それは神の自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになったかたの意志によるためだというのです。

 そしてそのあと、われわれにとってはとても衝撃な言葉をパウロは引用するのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いているとおりだというのです。

 これでは神のえこひいきではないか、神の側に不義があるのではないとかわれわれはすぐ思ってしまうのであります。それを予想して、パウロは決してそうではない。神はこういっているというのです。「わたしは自分が憐れもうと思うものを憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」のだ、神はモーセにいっている。これは人の意志や努力によるのではなく、神の憐れみによるというのです。

 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というのは、旧約聖書のマラキ書からの引用なのですが、そこでは、その冒頭に、「わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。しかし、あなたは言う。どのように愛を示してくださったのかと。エサウはヤコブの兄ではないかと主はいわれる。しかし、わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というところなのです。

 つまり、神はどのようにしてイスラエルの民を愛してくれたのかという問いに対して、神は「わたしはヤコブ、つまりイスラエルを愛し、エサウを憎んだ」と答えられた、そのようにして神は、いわばえこひいきの愛をもって特別にイスラエルの民、お前達を愛したのだと答えたというのであります。

 愛というのは、その愛を受ける側から言うと、自分だけが特別に愛された、「私はお前だけを愛するのだ」という愛されかたをすると、愛を深く受けめられるものなのであります。おおよそ、愛というのは、お前だけを愛するというえこひいきの愛という形でしかあらわすことができないものなのであります。えこひいきの愛というのは、「お前だけを」ということで、愛の集中性を現し、愛の深さをあらわすものなのではないかと思います。

 そうでなければ、一夫一婦制とか家族などいうものは成立しないのです。

いってみれば、神はそのようなえこひいきの愛をもって、すべての人をひとりひとり、愛したということであります。愛は機械的なものではないのです。

 そしてここでは、そういう神の愛の集中性というよりは、神の自由な選び、選びの主体は神にある、われわれ人間の側にはないということを示すためにもちられているのであります。神は自由な意志をもって、神が憐れもうとするものを憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむのだ、それは人間側の思いに左右されものではないことをあらわそうとするのであります。

 それは神はあの出エジプトのときに、イスラエルの民に神の愛の深さを思い知らせるために、神はエジプトの王パロの心をわざわざかたくになしたのだというのです。神はそれほどまでして、憐れもうとする者を憐れもうとしたというのです。

 すべては神の側の自由な深い憐れみの選びにある、その神の自由な憐れみの選びによって、われわれは救われ、わたしは救われたのだ、それは決してわたしの意志や努力や行いによるのではないというのです。われわれ人間側の理由によるものではないというのです。

 そうであるならば、いまはまだかたくなにキリストの救いを受け入れようとしていないイスラエルの民も、神はわれわれに示してくださった神の自由な憐れみの選びによって、わたしの同胞であるイスラエルの民も救ってくださる、とパウロは救いの論理をこれから展開していくのであります。

 われわれが救われたのが、われわれの意志や努力や善い行いや、あるいはわれわれの信仰ですらなく、ただ神の自由な憐れみの意志、神の側の選びにあるならば、いまはまだかたくにキリストの救いをうけいれていないわれわれの家族や親族、われわれの愛する者の上にも神はかならず救いの手をさしのべてくださると信じることができるのではないでしょうか。

 パウロは自分の同胞の民イスラエルの救いについて述べるときに、こういうのです。四節「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らからでられた。キリストは、万物の上におられる、永遠に褒め称えられる神、アーメン」と、神を賛美するのであります。

 自分自身の救いについても、そしてまだ救われていない自分の愛する者の救いについても、考えるときに、われわれはただただ万物を支配しておられるキリストにひれ伏す以外にないのであります。