「神の義が示される」 ローマ書三章二一ー三一節 ハバクク書二章一ー四節

 パウロは、ローマの信徒への手紙の三章二一節から、われわれの救い主イエス・キリストのなさった救いの本質について語ろうとします。

 三章の二三節をみますと、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受け入れなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです」言っております。

 「人はみな罪を犯して、神の栄光を受けられなくなっていますが」というのです。すべての人は罪を犯したために、不幸になったとか、悲惨になったというのなら、よくわかるのです。しかしここでは、すべての人は罪を犯したために、神の栄光をうけられなくなった、この事が問題なのだと聖書はいうのです。

 われわれにとって神の栄光を受けられないということがどれだけ切実な問題になるのでしょうか。神の栄光を受けられないから、救われたいと思うようになるでしょうか。われわれは病気から救われたいと思うかも知れない、あるいは、自分の利己的な自己中心的な性格に嫌気がさして、そこから救われたいとは思いますが、神の栄光がうけられないから困るとはあまり思わないのではないかと思います。

 しかし聖書は、われわれが罪を犯したから、神の栄光が受けられない、そのことが問題なのだというのです。われわれが救われるということは、神の栄光にあずかられるようになることなのだというのです。

 神の栄光にあずかるということは、どういうことなのでしょうか。そしてそれがわれわれにとって救いであるということはどういうことなのでしょうか。

 ルカによる福音書をみますと、イエス・キリストが誕生した時、天には大きな喜びがあったと記されております。そして夜野宿していた羊飼たちのところに天使が現れた。「おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神を賛美して言った、『いと高きところでは、神に栄光にあるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』」。

 神の栄光にあずかれないというのは、天の軍勢が天使たちと一緒になって神を賛美しているとき、その時一緒になってその賛美にあずかれないということなのだと考えたらどうでしょうか。まばゆいばかりの神の栄光が輝いている、それをみんなが賛美している、そういう時に、その賛美の合唱に自分ひとりだけ参加できない、それは大変淋しいことではないでしょうか。

 自分がどんなに汚れた人間であろうと、つまらない人間であろうと、自分がどんなに不幸な状態にいようと、もうそんなことはすっかり忘れてそのオーロラのよう神秘的な光のなかに包まれるということ、それが神の栄光にあずかれるということなのではないか。そしてわれわれが罪を犯したために、その神の栄光にあずかれないということは、やはりわれわれにとって大変不幸なことではないでしょうか。

 いつも自分のことばかりにとらわれているわれわれであります。そういう自分から逃れたいと思って、われわれは、時には大自然の空気のなかに自分を置きたいと思うのではないでしょうか。あるいは、幼子の無邪気な様子をみていて、心和むのは、いっときその幼子のしぐさに心奪われて、なにか救われた気持ちになるのではないでしょうか。

 自分から離れたいと思っても、なにかそういう対象物がないと、われわれはなかなか自分の問題から離れられないのであります。そういう時に、神の栄光にあずかれるということは、われわれにとって本当に救いになるのではないでしょか。

 この栄光という元のギリシャ語は、評判という意味をもった言葉だそうです。神からの栄光を受けるということは、神からの評判を得るということだとある人が説明しております。神からの評判を得るということは、簡単に言えば、神さまからほめてもらうということであります。神から認めてもらうということであります。

 主イエスは弟子達に「律法学者たちのような偽善者になるな」といわれました。彼らは人に施しをする場合にも、わざと自分は施しをしているぞ、とラッパを吹き鳴らして、施しをするというのです。そしてイエスはその後、こういうのです。「よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左に手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事をみておられるあなたの父なる神は、報いてくださるであろう」というのです。

 ここで不思議に思うことは、人にほめてもらおうとして、施しをするな、そんなものは偽善だといいうのですから、当然、施しをする時には隠れてしなさい、だれかにほめてもらおうなどと思わないで、善を行いなさい、いわばなにも当てにしないで、何の報いも当てにしないで、ただ善のために善をしなさい、それが偽善的でない純粋な生き方なのだと、主イエスは勧めるのかとわれわれは思うのです。しかし、主イエスはそうはいわないです。

 隠れたところで、施しをするのは、隠れた事を見ておられる父なる神様から報いてもらうためなのだ、そうしないと、神様からの報いを受けられなくなってしまうぞ、というのです。

 このことが聖書の教えのなかで一番大切なところではないかと思います。つまり聖書は単なる道徳を教えていない、なにか大変高尚な倫理をわれわれに教えようとしているのではない、善のための善をしなさい、などという高尚な、崇高な倫理を教えようとしているのではないということなのです。

 そういう生き方は、かっこよくても、結局は自分の立派さを求める生き方にすぐ結びついてしまう生き方なのではないか。それは自分の栄光をひたすら求める生き方になっていくのであります。つまり、善のために善をするんだと歯を食いしばって善いことをしようとする、それは結局は自分の立派さにこだわってそうした事をしようとするだけなのではないかと思います。

 主イエスはそんなことは言わないのです。われわれが求めなくてならないことは、神さまにほめてもらう、神からの評判を得るということなのです。神に認めてもらうということなのです。自分ひとりで自分の正しさとか、自分の立派さに自己満足することではないのです。神に「よし、よくやった」とほめてもらうということが大事なのです。

 森有正という哲学者がこういうことをいっているのです。「仕事というものは、いったい誰のためにするのだろうか。仕事自体のためにと答える人もいる。自分自身のためにという人もいる。どちらも本当ではない。仕事は、心をもって愛し、尊敬する人に見せ、喜んで貰うためだ。それ以外の理由は、全部嘘だ。中世の人々は、神を愛し、敬うが故に、あのすばらしい大芸術をつくるのに全生涯を費やすことができたのだ」といっているのであります。

 ミケランジェロでもダビンチでも、みな神様に褒めて頂こうとして仕事をした、あの西洋の大聖堂はみなそのような思いでしているから、自分の一生をかけて完成しなくても、世間の評価を気にしないで、ただ隠れたことを見ておられる神様に褒めてもらおうとして、こつこつと壮大な教会堂建築に励んだのだというのであります。

ところが、現代人は神に対する信仰を失ってしまった。すべては自分のために作品をつくるようになった。だから現代人の芸術はみなみみっちいものになってしまったと森有正はいうのであります。

 人からほめてもらうために、何かをするということはいやしいことだと思っていたわたしにとっては、この森有正の言葉は、目から鱗がおちたように感じたのでした。

 コンサートにいっても、いい音楽を演奏できた指揮者が、最後に聴衆から盛んな拍手をあびて、本当にうれしそうな様子を見ると、この人はこのために一生懸命努力してきたのだなあと分かるのであります。

 人から褒めてもらう、それがどんなにわれわれにとって喜びであるか。そして本当に人からほめてもらうためには、偽善的なことでは、決して真に人からほめてもらうなんてことはできる筈はないと思うのです。大広間に出て、ラッパをふきならしてこれから施しをするぞと大声をあげても、人は誰も本当の意味でほめる筈はないと思うのです。世間はそれほど馬鹿ではないからであります。そういうことをやる人は、きっと世間は自分のことをほめてくれているだろう勘違いしているだけで、結局のところ、ただ自分で自分を自前でほめているだけであります

 神にほめてもらうとして生きる時、われわれは隠し事をしても意味はないわけです。なにしろすべてを見通しておられる神だからであります。その時にわれわれははじめていっさいの偽善から解放されて、自分のありのままを神の前に正直にさらけ出すことができるのであります。その時にわれわれは幼子のように素直な人間になれるのであります。神からほめてもらおうとして生きる時、われわれは自分の傲慢さから解放されて、本当に謙虚になることができる、そうして人からもほめてもらえのであります。

神の栄光にあずかるというのは、この神の光のなかで生きられるようになるということです。それは光といってもいいし、あるいは、神からの評価といってもいいのです。その神の眼差しのなかで生きるということであります。罪を犯すということは、その神の光から逸脱してしまうということであります。

さらに、パウロはもうひとつ、われわれにとって思いがけないことをいいます。それはわれわれが救われるということは、われわれがただ救われるということではなく、なによりも神の義が明らかにされることだ、神が正しいかたであるということが明らかに示されることなのだというのです。われわれの救いの問題なんかよりも、実は神の義が問題なのだというのです。これは意外なことではないでしょうか。

 われわれを救うことによって明らかにされることは、神の義なのだ、神の正しさなのだというのです。二五節をみますと、「神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐をしてこられたが、今、この時に義を示されたのは、ご自身が正しいかたであることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」というのです。

 十字架の出来事は、何よりも神の義が示されるということなのだというのです。われわれが義とされるなんてことは、神の義のいわばおこぼれにあずかるようなことなのだというのです。

 われわれが救われるということは、神の権威がしっかりと保たれ、神の栄光が輝き、そのうえでわれわれも救われるのでなければ、それはわれわれにとっても救いにはならないのであります。いわば神の義がしっかりと示される、それによってわれわれも救われ、われわれも義とされるのでなければ、なんにもならないのであります。
 なぜなら、われわれが救われるということは、自分は正しい自分は正しいと、自分の正しさに浅ましくこだわり続けることから解放されるということだからであります。

主イエスが神の愛を語る話に、放蕩息子の話があります。ある父親にふたりの息子がいて、弟のほうが財産をわけてくれと要求する。父は財産をわけてあげると、彼はすぐその金をもって父の家を出て、放蕩に持ち崩してしまったというのです。食べるものにも困って、とうとう父親のところに帰って、もう息子としてではなく、雇い人の一人としてやとってもらい、食物にありつこうとして帰ります。すると、父親は息子よりも先に彼をみつけて、父親のほうからかけよって、彼に接吻して受け入れてくれたという話であります。

 それは主イエスが神の愛を語ろうとして、語った例え話であります。

 このところで、主イエスは三つの例え話をしているのです。最初のたとえ話は、百匹のうち、一匹の迷い出た羊がいた場合、羊飼は他の九十九匹の羊をうっちゃっておいて、その一匹を探しだそうとするという話であります。
 そして次に、ある女が銀貨十枚のうち、一枚をなくした時、あかりをつけて家中を探し回る、そしてそれを見つけると、女友達や、近所の女たちを呼んで、一緒に喜ぶという話であります。そうして、最後にこの放蕩息子の話をするのであります。

この三つの話は、みな神の愛の深さ、罪を犯して迷い出た人間を赦し、救い出すための神の愛の深さを語ろうとするイエスの例え話であります。

 ここで不思議に思うのは、この最後の放蕩息子の話で、主イエスはこの父親の姿に父なる神の姿を語ろうとするわけですが、それならば、なぜこの父親は自分のところを去っていった息子を探し求めて、異国の地までいこうとしなかったのかということなのです。

 食べるものにも困って、豚のえさを食料にしようとしている息子を探しだそうとしなかったのか。あの迷い出た羊を探すために、他の九十九匹をうっちゃってまでして野に出て、谷に出て、探しまわる羊飼いの姿を語ったイエスであります。
 それならば、どうしてこの放蕩息子の話では、そういう父親像を語ろう
としなかったのか。

 ある人がこの父親の姿を説明してこういうのであります。「この父親はこの子が悔い改めて帰ってくるのを、今かいまかと待っているのだ。自分の気持ちに負けて、子供を取り扱う父親ではない。これはわたしたちのようにだらしのない人間にとっては、まことにありがたい父である」というのです。

 ある人が「人は父親であるときにもっとも俗悪になる」と言っておりますが、この放蕩息子の父親は、この時に俗悪な父親にはならなかったのであります。
 「自分の気持ちに負けて、子供を取り扱うようなことはしなかった」のです。仕事を終えると、畑の端に立って遠いところを見つめ、息子が帰ってくるのを今か今かと待っていた、しかし、息子のいる異境の地まではのこのこと行こうとはしないで、息子が自分で自分の愚かさに気がついて、自分から父親のところに帰ろうとするまで、じっと忍耐強く待ち続けたというのであります。そういう父親像をここでイエスは語っているのであります。

 その動機がどんな不純ものでもいいのです、おなかがすいて食物にありつこうとする、病気をなおしてもらいたい、もっと幸福になりたい、あるいは、もっと強い性格をもちたい、そういきわめて世俗的な、あるいは利己的な動機からでもいい、ともかく、それを神に求めようとする、そういう気持ちをわれわれ人間がもつようになるまで、父なる神はじっと忍耐強く待っておられるということなのです。

 今か今かと待っておられる、父親の威厳をたもちながら、ただ子供に甘い、だらしのない父親としてではなく、あくまで毅然とた父親として待っておられる、そういう愛でなければ、われわれは救われないのであります。

 心理療法家の河合隼雄がある本のなかでこういうことを言っている。「家庭内で暴力をふるう男子高校生に、両親が自分たちはお前に必要なものはすべて与えてきたのに、なにが不足で暴力をふるうのかといったときに、息子が『この家に宗教はあるのか』と問いかけたというのです。これは日本の家族のあり方に対する痛烈な批判である」と河合隼雄は書いているのであります。

この両親にしてみれば、子供に必要なものはすべて与えてきたとおもっている、しかし子供からすれば、一番大切なものが欠けていたということなのだというのです。この家に宗教があるか。

 子供にとって一番大切なもの、それを「宗教」という言葉でいっておりますけれど、それは本当に権威ある者の前にひれ伏すという姿勢ということだと思います。それを自分は教えてもらえなかった。だから自分は自分のわがままさを押さえることがでずにもてあまして、こうなってしまったのだということだろうと思います。

 子供にとっては、子供の間は、両親が権威あるものとして立たなくてはならいということだと思います。
 
 十戒の第五の戒めは、「あなたの父母を敬え」であります。これは「人を殺してはいけない」という人間どうしの道徳の教えの後半ではなく、「唯一の神を敬え」という十戒の前半の戒めのなかの最後の戒めのなかに入っているのです。つまり、唯一の神を敬えという、その具体的な戒めとして「父母を敬え」と教えられているのであります。

 人間の父母の権威なんてものは、子供が成長していけば、いずれ化けの皮ははがれるのです。しかしそれでも、親は子供がまだ幼い内には、権威あるものの存在として、子供の前に立ちはだかっていなくてはならないのです。

 子供にとってだけでなく、人間にとってどうしても権威ある者の前にひれ伏すということがどうしても必要だということです。そうでないと人間はどこまでいっても傲慢になるからであります。謙虚になれないのです。われわれが傲慢のままではどうしても救われないのです。まず神の義が立てるということが大切なのであります。

主イエスは、放蕩息子のたとえ話では、父親はこの子が悔い改めて帰ってくるのを、今かいまかと待っている。自分の気持ちに負けて、子供を取り扱う父親ではない父親を語るのであります。

 しかし、現実の人間は、放蕩息子のように悔い改めて父親のところに帰ろうとしたか。父親のところに帰ったか。どんなに神は忍耐して待ってもわれわれ人間は帰ろうとしなかった。人間は悔い改めようとはしなかったのであります。

 それで神は忍耐したすえに、神の義を示そうとして、ただキリスト・イエスの購いのわざを通して、神の恵みにより無償で、タダで、われわれにほうでは一銭も払わずにです、われわれを義とする道を選び、それによって神の義を示そうとされたのであります。

イエス・キリストは神の子であったにもかかわらず、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、おのれをむなしうして、僕のかたちをとり、おのれを低くして、十字架の死をとげたのであります。

 それは、主イエスが話された放蕩息子の話を超えて、放蕩に身を持ち崩し、食べるものにも困っている息子をみずから異教の地にまでいって探し出す父親を、父なる神がなさったということであります。父なる神はいわば俗悪な父になりきってまでして、われわれを救い、それによって神の義を示されたのだということであります。その義にあずかることによってわれわれも義とされ救われるのであります。