「人知を超える神の平安」4章4−7節

 パウロはいつも喜びなさいと勧め、あなたがたの寛容をみんなの人に示しなさいといい、そして何事も思い煩わないで、感謝をもって祈りと願いとを神にささけなさいと勧めます。そしてこういうのであります。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。ここは口語訳では「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」となっていて、このほうが訳としていいと思います。「神の平和」というよりは「神の平安」と訳したほうがいいと思います。

 ともかく、神の平安によってわれわれの心と思いが守られるというのです。そうしますと、神の平安によって守られる前には、われわれは何によって自分を守ろうとしていたのでしょうか。人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安が、と言っておりますので、神の平安に守られる前は、われわれは自分の人知で自分を守ろうとしていたということであります。

 この「人知」という字は、理性という意味だとある人がいっております。あるいは、ある聖書の訳は「人間の理解と工夫」となっているそうです。英語では、理解力となっております。

 そうした理性で、あるいは人間の理解と工夫で自分の魂を守ろうとする人間に対してイエスが大変皮肉っている箇所があったのを思い出します。
 それは人間の貪欲に対してイエスが警告を発しているところです。
 ある金持ちの畑が豊作で今までの倉をとりこわして、もっと大きな倉を建てて、そして取れた穀物をそこにしまいこみ、そして言った。口語訳ですが、こう言ったというのです。「魂よ、お前には長年分の食糧がたくさん蓄えてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」。すると神が言われた「愚かな者よ、お前の魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そうしたら、お前の用意したものはだれのものになるのか。」

 こういうたとえ話をして、イエスは「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。」と言うのであります。(ルカ福音書一二章一三−二一節)
神に対して富むとか、宝を積むというのは、神に対して献金しなさい、教会のために沢山献金しなさいなどというケチな勧めではないのです。自分のために宝を積むというのは、われわれが自分の宝、つまりお金に自分の安心を置くということです、それに対して神に対して宝を積むということは、神に自分の魂を託しなさいということ、つまり神いに信頼しなさいということであります。

 われわれが貯蓄したり、あるいは保険をかけたりして、将来の生活に備えようとすることは、決して愚かではないと思うのですが、しかしそのことに自分の魂を安心させてしまう、それだけで、もうすっかり安心してあぐらをかいてしまうこと、それが愚かだということなのです。

 人間の理解と工夫によって自分の命を、自分の魂を守るうとすることには限界があるということなのです。

 この人知という言葉は、人間の理性とか理解力ということであります。われわれが理性という言葉を使う時は、感情ということと対比して使う場合が多いと思います。確かにわれわれの感情で自分の生活を守ろうとしますと、あまりにも浮き沈みの激しいものになってしまって、はなはだ不安定なものになってしまいます。だからそんな頼りない感情なんかではなく、われわれの理性で自分の生活を律しようとするのであります。しかしわれわれ人間の理性というものはそれほど頼りになるものなのでしょうか。

 前に、吉田直哉という、テレビのドキュメンタリーなどでいい作品をつくっている人と、解剖学の方で今売れっ子になっております養老孟司との対談を読んでおりましたら、こんな事を言っておりました。
 吉田直哉が心臓の手術のドキュメンタリーを取るという番組で、東大の病院で人工心肺をつけて心臓の手術をする様子をテレビに放映するという番組をとっていたというのであります。

 その手術は大変な手術で、ものすごい時間がかかる。お医者さんたちがテレビの医者のドラマみたいに看護婦に汗をふいてもらったりしながら、手の上に載せた心臓を手術をしながら、看護婦とこんなやりとりをしているというのです。「その後どうした、彼とは」なんてことを看護婦と雑談しているというのです。看護婦の方も「先生、それがだめなんですよ」なんて話をしている。

 それに驚いた、と吉田直哉が言っているのです。始めはこんな事はあっていいものか、こんな不謹慎なことが許されるかと思ったというのです。しかしこれをしないとテンション(緊張感)が耐えられないのだという事がだんだん分かってきた。つまり緊張のしっばなしでは、とてもそうした長時間の手術には人間の理性は耐えられないということなのだなということがわかってきたというのです。

 それを受けて養老孟司も、局所麻酔で手術なんかしていると患者さんがよく怒るというのです。医者はムダ話しながら手術していると言って怒るというのです。局所麻酔ですので、その手術の様子がわかるから、手術を受けている患者はそう言って怒るというのです。真面目な患者さんほど怒るというのです。

 しかしもしそうした長時間の手術を真面目にやっていたら、失敗してしまうと養老孟司は言います。「真面目でいいと思っておられる方は人間に対する信頼が非常に強い人だ、真面目にやればちやんとうまくいくはずだと考えるけれど、本当はそうでない」と言っていました。

 われわれ人間の理性、人知、人間の理解と工夫、というのは、その程度のものだということです。八時間の長い手術に緊張のしっぱなしでは耐えられないくらいの理性でしかないということ、われわれの人知、理性で、自分の魂を守ろうとしていたら、われわれの人生は大変不安になってしまうのは当然であります。

 その対談の中で言われていた事ですが、科学が一番嫌う事は予測不可能という事だと言うのです。人間の理性を重視する社会で一番嫌われるのは思わぬ出来事ということで、思わぬ出来事をなくそうなくそうという形で世の中が動いていく、未来を予測して、予測に合うように行動していくようになる、しかしそれでは人間が生きていることにはならないのではないかという事を言っておりました。こういう事を言っているんです。

 「人間生きていてどこが面白いか。やっばりとんでもない時にとんでもないことが起こるから生きてて面白いんであって、その時が非常に不安でもあれば、危険でもあるかも知れないが、実は生き物というのはそういうものをすっと通り越して、なおかつ生きてきたもので、そういう不安というものを全部消してしまった世の中が決して幸せな世の中ではないだろう」というのであります。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安がわれわれの心と思いとをキリスト・イエスにあって守ってくれるというのは、自分の理性で自分の魂をコントロールできないで不安の中にいるわれわれに対して言われている言葉です。

 そしてわれわれはもう自分の貧しい理性で、自分の愚かな理解と工夫で、「わが魂よ、さあ安心せよ」などと言って、無理して自分の魂を安心させようとしないで、予測不可能なこの生活の中で、そういう意味では不安と危機を抱えながら生きている中で、われわれの人知をはるかに超えた神の平安に守られていく、ということが大事なのではないかと思います。

 主イエスはヨハネによる福音書一四章二七節によれば、この世を去る時に弟子達に、口語訳「わたしは平安をあなたがたに残していく、わたしの平安をあなたがたに与える」と言っています。新共同訳では、口語訳では「平安」となっているところを「平和」と訳しておりますが、平安のほうが訳としていいと思います。

 そしてその平安は、「世が与えるようなものとは異なるものだ。だからあなたがたは心を騒がせるな。」と言っております。

 そして最後に「これらのことをあなたがたに話しだのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気をだしなさい。わたしはすでにこの世に勝っている」と言うのであります。
 なぜイエスはこの世に勝っていると言えるかといいますと、その前の箇所でイエスはこう言っているのです。「わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられる。」だから「わたしはこの世に勝っているのだ」と言うのであります。

 イエスもわれわれのこの世の生活がどんなに悩みがあり、不安があるかということはよく知っているのです。「しかし、勇気をだしなさい、父なる神が一緒にいてくださり、わたしが去った後も、聖霊という助け主をあなたがたに与えるのであるから、あなたがたは決して独りぼっちではない」と言うのです。

 イエスの与えようとしておられる平安は、どんな時にも神が共にいて下さるというところから来る平安なのです。それが人知をはるかに超えた神の平安によって守られるということなのであります。

 それでは、この神の平安とは具体的にどんな平安なのでしょうか。

 パウロは自身がそうした神の平安を得ているのです。パウロは、ある時重い病気になったのです。それで彼はこの病気を治してくださいと必死に神に祈った。その時に、神から 「わたしの恵みはお前に十分注がれている。わたしの力は弱いところにあらわれる」という言葉を聞くのです。その時、パウロは「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと侮辱と危機と迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と告白しているのです。

 これはやはり人知をはるかに超えた神の平安に守られた心境だろうと思います。人知を超えた神の平安に守られるという事は、従って、何の心配も不安もなくなってしまって、何の波風もないと言う平静な状態になるということではないと思います。

 自分の状態を見つめれば、相変わらず弱さは変わっていないかもしれない、ちっとも強くなっていない、人々からの侮辱にとりかこまれ、危機と迫害と行き詰まりの中にいるかもしれない。しかしその中にあっても「わたしは弱い時にこそ、わたしは強い」と言い得る平安が与えられているということです。

 今、平安が与えられていると言いましたが、パウロの表現では、「平安に守られている」という表現です。「平安が与えられる」というのではなく、「平安に守られている」「守られる」というのです。周りは敵に囲まれている、しかしその中にあって、神の平安に守られているということであります。

 あの有名な詩篇の二三篇では「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴をもうけ、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます」と歌っております。周りは敵に囲まれている、しかし神の平安というテントに入って、酒宴を開かれるのだというのです。もうこのテントの中までは敵は入れないのです。その前のところには「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわかしと共におられるからです」と言うのであります。

 イエスと弟子達がガリラヤ湖を舟でわたっている時に、突然突風が吹いてきて、舟が沈みそうになって弟子達はあわてふためいた。その時イエスだけは眠っておられたというのです。イエスだけは人知をはるかに超えた神の平安に守られていたので眠っていたのであります。

 こうした平安を得るためには、思い煩いを捨てて、「事ごとに感謝をもって祈りと願いとをささけ、あなたがたの求めるところを神にもうしあげなくて」はならないのです。「そうすれば、人知をはるかに超えた神の平安が」というのであります。

 少年ダビデが敵の将軍ゴリアテと戦う時、王様のサウルは自分の着ていた重い青銅のかぶとと、うろことじのよろいを少年ダビデに着せたのです。しかし少年ダビデは途中でそれを脱ぎすててしまった。それはあまりにも重すぎるよろいだったからだというのです。そしてダビデは自分の普段着の羊飼いの身軽な服装で、羊飼いの杖となめらかな石五個を選んで袋に入れて、大男のゴリアテに向かっていったのでありります。

 少年ダビデには「ししのつめ、熊のつめからわたしを救い出してくださった主なる神が、このゴリアテの手から自分を救い出してくれるに違いない」という信仰という武器をもって、ゴリアテに立ち向かっていったのです。

 自分で自分を守ろうとする重いよろいを、もう脱ぎ捨てなくてならないのです。ある人がこの「人知をはるかに超えた神の平安」という時、この「人知」とは、その前にある「何事も思い煩ってばならない」という、思い煩っている人間の人知だと説明しているそうです。その思い煩いをすてて、自分の思い煩い心配を神に委ねてしまうのです。

 竹森満佐一がこう言っております。「われわれは自分の心配事がある時、誰か信頼出来る人に相談にいく。その帰り道はすっかり安心して帰れるではないか。なぜかというと、その自分の心配をその人にあずけてしまうからだ。それと同様に、自分の心配を神になげてしまって、もはや自分の心配にしないで、神の心配にしてしまうことなのだ。」

 信仰というのは、ある意味では、自分の人生をすべて自分の責任でとりしきろうとしない事だといえるかも知れません。われわれはもっと無責任になっていいのではないか、そういう言い方が奇妙に聞こえるならば、こういうふうに言い換えてもいいかもしれません。われわれの人生はもっと無責任になっていい場所と時があるのではないか、ということであります。われわれがどんなに自分で責任を取ろうとしても取れない時と事柄があるということであります。そういうときには、神様に責任を負ってもらうのです。

 詩編の一三一編ではこう歌っております。口語訳ですけれど、「乳離れしたみどりごがその母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を鎮め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのようにやすらかです。」 
 
 自分の心配を神に投げてしまって、神の心配にしてしまってもいい時というのがあるのではないか。神様に心配していただかなくてはならないこともあるのではないでしょうか。

この一年も神様を信頼して歩んでいきたいと思います。