「神の子として」2章12−18節


 パウロはピリピの教会の人々に対して、従順でいて、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧めます。そして一五節には、「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」というのです。

 ここは口語訳聖書ではこうなっています。「あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代の中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」。

 今のわれわれにとって、少し気恥ずかしくなるような事を言うのです。今のわれわれといいましたが、考えてみれば、ピリピの教会の人々にとっても同じかも知れません。すぐ少し前には、何事も党派心や虚栄からするのではなく、人を自分よりも優れた者としなさい、とか、おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさいとか、まるで小学校の先生が生徒に語るような事を言われているピリピの教会の人々なのであります。

われわれは「非の打ち所のない神の子」になるのだといわれると、どこか孤島の中の修道院でも入って、粗食に耐えて、一日中黙想し、祈り三昧にふける、そういうことが神の子になる道だと考えてしまわないでしょうか。

 パウロがガラテヤの信徒の手紙の中で、われわれは神の子なるためにあがない出されたのたといっているところがあります。そしてわれわれが神の子であるということは、われわれが神に祈るときに「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊をそれぞれに与えられていることによってわかるのだと言っております。

 「アッバ」という言葉は、主イエスが父なる神に呼びかけた時の言葉であります。それは今日の言葉でいえば、「パパ、お父さん」という言葉です。

 それまでユダヤ人は、神様に対してそんなに親しそうな言葉で祈ったことはないのです。「父なる神よ」とか祈ったでしょうが、子供が親しみをこめて「アッバ」と祈ったことはないのです。つまり、ユダヤ人にとっては、神はもっとおそるべき存在だったのです。

 そうしたなかで主イエスは「アッバ」と神に対して呼びかけた。それはユダヤ人にとっては驚きだったのです。イエスの弟子達にとっても驚きだったのです。それで聖書がギリシャ語に訳されたときに、この言葉はそのまま「アッバ」のまま残されたのです。

 われわれが神様に対して、子供が素直に、素朴に「アッバ、お父さん」と呼びかけて祈れるようになる、そのことがわれわれがなによりも神の子であるという
証だというのです。

このところで、以前教団の総会議長だった鈴木正久という牧師がこう言っております。「わたしがどれだけ聖人めいてきたとか、どれだけ聖書知識がましたかなどということではなく、ただこのわたしが罪深いものであり、聖書知識の少ないものであっても、「アッバ、父よ」と祈る人間であることだけが、わたしが神の子であることの根本的な証明なのだといっているのです。

 この鈴木牧師は肝臓ガンでなくなりましたが、入院してから、ある時、娘さんから肝臓ガンであることが告げられ、余命が一年もないことを知らされたというのです。そのときに鈴木正久はさすがに眠れなかった。なかなか寝付かれないので、彼は「お父さん」と口にだして祈ってみた。

 それまでは、教会では、祈る時に「お父さん」などとよびかけたことはなかった。そんな呼びかけはあまちょろくて、なにかいやだし、自分でもそんなふうに祈ったことはなかったし、他の人がそんなふうに祈るの聞くのが好きでなかったといのうです。

 しかし、そのとき「お父さん」と呼びかけて祈ったというのです。すると不思議と、心が落ち着いて眠りにつけたというのです。そして翌日からは死の不安を克服できていたというのです。

 われわれが神の子になるということは、決してわれわれが聖人のような者になるということではないのです。われわれが子供が父親に対する用に、神様に対して「アッバ、父よ」と素朴に単純に祈れるようになるということなのであります。

 パウロはこのフィリピの手紙においても、「非のうちどころのない神の子、傷のない神の子」となるためにはどうしたらよいかと言うと、それは本当に意外なことに、一四節をみますと、「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい、そうすれば」というのです。口語訳では、「すべてのことを、つぶやかず、疑わないで」というのです。そのようにしたら、純真で傷のない神の子になる、というのです。

 もちろん、それだけで傷のない神の子になれるわけではないと思いますが、その後をみますと、「いのちの言葉を堅く持って」と書いてあったりもしますので、「不平や理屈をいわずに、つぶやかず、疑わなければ」それだけで神の子になれるわけではありませんが、しかし、少なくともその「つぶやかず、疑わないで」という事は、大事な要素であるこということは言えそうであります。

 「不平をいってはいけない」、これは口語訳のように、「つぶやいてはいけない」と訳したほうがいいと思います。それは、旧約聖書ではつぶやくということは神に対して大変な罪として取り上げられているからであります。パウロはコリントの教会の人々に対しても、「つぶやいてはならない」と言っております。その時、パウロは旧約聖書を例に持ち出すのです。つぶやいた者は、死の使いに滅ぼされたというのです。

 イスラエルの民がモーセに導かれて、砂漠を通っている時です。その砂漠の中で民は食べるものに不自由するようになった。そうすると民はつぶやきだしたというのです。

 民はモーセたちにこう言ってつぶやいた。「われわれはエジプトの地で、肉なべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導きだして、全会衆を餓死させようとしている」と言ってつぶやくのです。(出エジプトー六章)

 彼らは直接主なる神に訴えたわけではないのです。祈ったわけではないのです。つぶやいたのです。

 つぶやきと訴えと、あるいは、つぶやきと祈りとどう違うのか。訴えるとか祈りというのは、いわば自分の全存在を賭けているところがあります。つまり自分の責任を賭けているのです。
 それに対して、つぶやきはそういうところがない。ぶつぶつ不平を言っている。しかも独り言のようでいて、その独り言を相手に聞いてもらうようにして言うわけで、ある意味では、大変無責任な卑怯な訴えであります。

 しかしこの時、神は「お腹がすいた、お腹がすいた」という民のつぶやきを聞いてくださいました。夕方にはうずらという鳥が飛んできて、それが彼らの食糧になり、朝には、マナという不思議なパンが荒野に降りて来たいうのであります。

 そして面白いのは、そのマナの集め方に対して神が言われた事です。 そのマナはその日その日の分だけとることを許された。それは翌日分まで取って置く事はゆるされなかった。欲張って翌日分までとっておこうとすると、それは太陽があたると溶けてしまって保存ができなかったというのです。それはその日その日の分しかとることがゆるされなかったというのであります。

 そして後に、このマナの事を取り上げて、申命記ではこういうのであります。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがたがその命令を守るかどうかを知るためであった。」

 そしてこういわれるのです。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と説明するのです。

 神は人々を飢えたまま放っておいて、「人はパンだけで生きず」と言われたのではなく、ちゃんとパンを与えて「人はパンだけで生きるのでない、神の恵みによって生きるのだ」と言われたのです。パンを食べてパンを食べながら、「人はパンだけで生きるのではない。神の恵みによって生きるのだ」ということを知りなさいといわれたのです。そのパンを神の恵みとして受け取れと言われたのです。だからわれわれは食前の祈りをして、パンを神に感謝するようになったのであります。

 ここでは神は人々のつぶやきに対して、そのつぶやきに応えてくださいました。その「おなかがすいた、おなかがすいた」というつぶやきに対しては、それをしりぞけないで、そのつぶやきを聞きとどけてくれたのであります。

 ここではつぶやきに対して、裁きではなく、恵みを与えたのです。しかしそれは、ただの恵みではなかった。その恵みを信じ切れないで、人間的な欲の突っ張りで、二日分にして蓄えておこうとすると神からひどくしかられた、裁かれた、そういう恵みであったと言うことであります。

 つぶやきはどこから起こるかということであります。それは神を信じ切ろうとしない事から起こるのだということです。そういうわれわれのつぶやきに対して神はある時は厳しく裁いて、そのつぶやきを黙らせて、神を信じさせようとし、またある時にはそのつぶやきに恵みをもって応じてくださり、神を信じなさい、とわれわれを導くのであります。

 パウロがピリピの教会の人々に対して、「神の子になるために」と言われたもう一つの事は、「理屈をいわないで」ということであります。これは口語訳では「疑わないで」となっております。この「理屈をいう」とか「疑い」という聖書の言葉の元のギリシャ語は、「対話する」という言葉です。つまり、英語のダイアログという言葉の元になっている言葉です。

 理屈をこねるとか、疑うというのは、対話するという事なのです。誰と対話するのか。神と対話するのならば、いいのですが、疑う場合は自分と対話するのわけです。もう一人の自分と対話する。お前は信じようとするけれど、本当に大丈夫なのかともう一人の自分が語りかけてくる、そこに疑いと言う事が始まるということなのです。

 神と対話するのではなく、ただ自分と対話するだけで終わってしまう、それが疑いということなのです。自分という狭い穴の中をうろうろと動きまわっているだけで終わってしまうのであります。

 パウロは、「なにごとも不平や、理屈をいわずに」「すべてのことをつぶやかず、疑わないで」しなさい、そうすれば神の子になるのだというのであります。われわれが神の子になるのは、どこか山の中の修道院にでも入って、瞑想的な生活をして、神を体験する、そうして神の子になるのかというと、そんな事ではないのです。

 曲がった邪悪な時代のかだ中にあって、というのですから、その曲がった邪悪な中から逃避してはいけないというのです。その中にあって、つぶやかずに、疑わないで、つまりその中で、神を信じていきなさい、そうしたら神の子になるのだというのであります。

 神の子になるなんてことは、とても気恥ずかしいし、大変難しいことのように感じて、とてもこんな言葉は使う気になれないことですが、しかし別に難しいことではないのです。
 われわれの心の中に、始終ふつふつとわいてくるつぶやきと疑いを、その都度その都度、それが起こってきたら、それを投げ捨てて、神を信じる方に身を翻していけばいいだけなのです。

 われわれはつぶやきとか、疑いが自分の心の中に生じること、その事自体を根絶するなんてことはできないと思います。しかしそれが出てきたら、それを吹っ切るのです。それを投げ捨てるのです。そういう決断をしていくのです。それならわれわれにもできることではないかと思います。そうしたら神の子になるというのであります。

 どういう神の子になるのか。「非のうちどころのない神の子」と新共同訳ではやくされていますが、口語訳では、「責められるところのない、傷のない神の子」になると訳されていて、このほうが原文に忠実です。責められるところのない、というのは、人に責められるところのないということではないのです。神の子になるということですから、神に責められるところのないということであります。

 パウロがコリント人への第二の手紙六章で言っているように、「ほめられてもそしられても、悪評を受けても、好評をはくしても、神の僕として自分をいいあらわしている」と言うように、人からは誤解を受けるかもしれない、非難されるかもしれない、しかし神には責められないということであります。なぜならとにもかくにも神を信頼して生きているからであります。

 「非のうちどころのな神の子」というところは、口語訳では「傷のない神の子」であります。しかし「傷のない神の子」という表現は本当は少しおかしな表現だと思います。神の子というのが、もし、これを天使のような存在と考えたら、傷のある天使などというのは考えられないわけで、おかしいと思います。

 ここでは天使のような意味での神の子ではないと思います。傷のない、とわざわざここでいっているのは、あの神様にはん祭として捧げる小羊のことをここでは考えられているのであります。
 
 ここでいう神の子というのは、天使のような意味での神の子ではなく、神に捧げる小羊のことです。神にはん祭として捧げる小羊は傷があってはならないのであります。

 そう考えたら、神がお喜びになるはん祭の小羊はどういう小羊かということを考えなくてはならないと思います。
 「神が喜ばれるはんさいの動物、いけにえは砕けた魂です」という詩編の言葉(五一篇一七節)にあるように、そのはん祭の小羊とは砕けた魂のことであることがわかります。

 傷のない神の子とは、完全無欠という意味の欠点がないという意味ではなく、自分は不完全であることを良く知っている、だからいつも砕けた悔いた魂をもって、自分を神に捧げようとしている、そういう神の子になるということなのではないかと思います。

 それならばわれわれにもできることではないでしょうか。われわれもこの礼拝において、悔いた砕けた心を神に捧げていれば、そしてつぶやきと疑いを捨てて、神の恵みを信じていけば、傷のない神の子になれるので そしてそのようにして、神の恵みを信じて、いのちの言葉を堅く持っていけば、星のようにこの世にあって輝くことができるというのであります。

 星のように、などといわれますと、これも気恥ずかしいことでありますが、しかし考えて見れば、星は、星自体が輝きを発揮しているわけではなく、ただ太陽の光を反映させているだけであります。
 
 われわれは神の宝をわれわれの脆い土の器にもればいいということで、そうする事によって測り知れない力は神のものであることを証していけばいいということなのであります。