「神の恵みの豊かさと深さ」ローマ書六章一ー一四節

 「では、わたしたちはなんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」とパウロは自ら問うています。これはパウロ自身の問いではなく、パウロに敵対する者のパウロをからかうための問いであるかも知れません。

 それはパウロが前の五章二○節のところで、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」と言ったからであります。罪を犯せば犯すほど、恵みが満ちあふれるのならば、それならば、ますます罪を犯そうではないか、と言い出すだろうと、パウロはあらかじめ予想して、そういう問いを持ち出しているのかも知れません。

カール・バルトという大変偉い神学者がここのところを解説して、こういうことを言っているのであります。
 「このような問いが現れてくるということは、まさにそこで述べられている福音が本物であることを示している。福音が正しく宣教されるようになると、必ず愚か者がこの問いを出してくる。
 もし彼らがこの問いを起こさないとしたら、少なくもそこで宣教されているものは、福音とは非常に違ったものなのではないかと疑っていい。このような問いによって汚されない福音が正しい福音であることは困難である」と述べているのであります。

 これは大変過激な発言であります。「恵みが増し加わわるように、もっと罪を犯し続けよう」という人がでてこないような福音の説きかたはないのだというのです。

 ではこういう問いが出てこないような福音の説きかたというのはどういう言い方でしょうか。たとえば、こういうふうに言ったらどうでしょうか。「神の無条件の罪の赦しというのは、今まで犯した罪についてだけ言えることであって、これからの罪については言えない。今までの罪は赦してあげるが、これからは頑張って罪を犯さないようにしなくてはだめだ、今度罪を犯したら地獄行きだ。」

 そういうように、罪の赦しを説いたとしたら、「恵みが増し加わるようなに、もっと罪を犯そうではないかい」というような問いは出てこないと思います。こういうふうに言われたら、罪赦された者は罪にとどまることはできないからであります。

 しかしそれは大変わかりやすい言い方ではありますが、それがキリストの十字架において示された神の恵みなのでしょうか。十字架の罪の赦しとはそんな常識的なことを言っているのでしようか。

 そう言われて、われわれは救われた気持ちになるだろうか。われわれはますます不安になるのではないでしょうか。今までの罪は赦してあげる、しかし今度罪を犯したら地獄行きだと言われて、救われた気持ちになるだろうか。

 それではかえって、もうはっきりとお前は地獄行きだと宣言されてしまったようなものではないでしょうか。かえって、われわれの不安は増すのではないかと思います。

 われわれにとって一番の問題は、罪を犯してしまったという、そこで行われた罪そのものであるよりは、そういう罪を犯してしまったわれわれ自身の問題、つまり、個々の犯した罪、罪そのものよりもわれわれが罪人であるということが一番の問題だからであります。

ですから、「今までの罪はまあ仕方ない、赦してあげましょう、しかしこれからは駄目だよ」と言われて、「はい、そうですか」と言って、「これから自分を変えてみます」とは、とうてい言えないのがわれわれであります。この自分をどうしたらよいかであります。

 十字架において示された神の恵み、罪の赦しという神の恵みは、罪を犯してしまったわれわれをまるごと神が赦しくださったということであります。神がわたしのまるごとを受け入れてくださったということであります。それは今まで犯した罪を赦してあげると同時に、これから犯すかも知れない、いやきっと犯すに違いないお前の罪もわたしは赦す、なぜならそういうお前をまるごとわたしは受け入れるからだという宣言なのであります。

 将来のお前もわたしは受け入れるということだからであります。なぜなら、われわれの将来というのは、われわれの過去を引きずっているわれわれの将来だからであります。われわれの将来は、われわれの過去、罪を犯してきたわれわれの過去と切り離すことのできない将来であります。そのわれわれが赦され、受け入れられる、それが義とされるということだからであります。

 つまり、義とされるということは、われわれがなにか義人になる、なにか正しい、立派な人間になるということではなく、神との関係が義とされるということで、神との関係が正しい関係になるということ、これからお前がどんなことがあってもわたしはお前を見捨てない、そういう神との関係に入れられたということだからであります。どんなことがあってもわたしはお前の面倒を見るという神様との関係に入れられたということだからであります。

 聖書には、神はわれわれの保証人になってくださるという表現があります。保証人になるということはどういうことでしょか。われわれが誰かの保証人になるということは、その人がこれから、もしかしたらあやまちを犯すかもしれない、その時はわたしがその債務を引き受けますということを保証しますということであります。その人の将来に責任を持ちますということであります。

 だから、人の保証人になるということは、本当は大変な覚悟がいることなのであります。ある人の保証人になって、その人自身が身の破滅を招くということさえあるのであります。

わたしが神学校を卒業するとき、当時の学長にいわれました、「あなたがたは教会員の保証人ににはならないように、牧師は財政的に人の保証人になるなんてことは到底できるはずはないのだから、保証人になるな。それは教会に迷惑をかけることになるから、軽々しく保証人になってはいけない」といわれました。

 人の保証人になるということは、それほど大変なことなのであります。神はその保証人になってくださったのであります。神がわれわれの罪を赦しくださって、義としてくださったということは、神がわれわれの保証人になってくださったということであります。

へブル人への手紙では、イエス・キリストはわれわれの永遠の大祭司になってくださって、われわれの保証人になってくださったといっているのであります。七章二二節のところで、「このようにして、イエスはさらにいっそうすぐれた契約の保証となられたのである」といい、そしてこのかたは「永遠に生きていて、われわれのためにとりなしをしておられるイエス・キリストによって、神に近づく人たちを完全に救うことができるのである」といっているのであります。口語訳聖書では、この新共同訳が「完全に」とやくしているところを「いつも」と訳しております。主イエスはわれわれを「いつも救うことができる」というのです。

 そして、パウロはコリント人への第二の手紙の一章でこういいます。「わたしが宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『しかり』と同時に『否』となったようなかたではない。このかたにおいては、『しかり』だけが実現したのである。神の約束はことごとくこのかたにおいて『しかり』となったからである」というのであります。

 イエス・キリストはわれわれに対して、もうこんりんざい「否」とはいわないのだというのです。「しかり」しか言わないというのです。「しかり」とは「わたしはお前を赦す」という「しかり」であります。そしてその保証としてわれわれに聖霊をくださったというのであります。

 それがキリストによる十字架の罪の赦しということであります。

 これをただ聞いた人は、つまりただ理屈として聞いた人は「それならば、恵みを増し加えるために、罪にとどまろう、もっと罪を犯そうではないか」というだろうと思います。

 しかし十字架の罪の赦しは、ただの理屈ではないのです。ただ法律的に罪が無罪放免になったということではないのです。これは無罪放免になったという法的処置ではないのです。
 罪をこのようにして赦してくださった「かた」が自分の目の前におられるということなのです。

 順番であたる裁判官がただ法にのっとって無罪判決をくだしたということではないのです。裁判官ならばだれでもいいという裁判ではないのです。ここにははっきりとキリストという裁判官がおられるのです。あるいは、神という裁判官がいて、キリストという弁護士がいてくれる、そういうはっきりと顔をもったかたによって裁かれ、弁護され、そうしてわれわれが罪赦されたのであります。

 そういう裁判を受けた人が、罪赦されて、これはもうけものをした、裁判というのはちょろいものだ、これからも罪を犯しても安心だ、と言うだろうか、言えるだろうかということなのです。

 確かにそういう人はいるのです。それは主イエス・キリストも予想しているのです。あの主イエスのなさったたとえ話に、一万タラントン、リビングバイブルでは三十億円と訳しておりますが、それくらい莫大な借金を許された者が、その帰り道、自分が百デナリオン、リビングバイブルでは、六十万円と訳されておりますが、六十万円を貸した人間からその借金を取り立てようとして、それを返せないというので、彼を獄にわたしてしまったという話がでてまいります。ひどい話であります。

 その男はまさに「恵みが増し加わるために、罪にとどまろう、いや、それどころか、罪をもっと犯そう」とした話であります。イエスはそういう話をするのです。そういう人間がでてくることを主イエスは予想しておられるのです。
 しかし彼はその時、一万タラントンを許された時、本当にそこで罪の赦しを主人から受けとったか、彼はただ、「しめた、これはもうけものをした」と思っただけなのではないか。

 ここには罪赦されたという感謝もなければ、感動もない、喜びもない、ただもうけものをしたという姑息な、ひとりほくそ笑むような卑しい喜びがあるだけなのではないか。

それに対して、主イエスがあるファリサイ派の人に招かれて食事をしているときに、町で汚れた女として評判の女が入ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油をぬったのであります。
 これをみてファリサイ派の人はこんな汚れた女の行為をさせているイエスを非難しましたが、イエスはこの女の行為をとても喜ばれ「この人は多くの罪を赦されたことを知っているから、このようにわたしに愛を示したのだ」といわれたのであります。

 この女は、「恵みが増し加わるために罪にとどまろう」などとは決して思わないのです。もちろん、これからも何度も過ちを犯すかもしれません。しかしそのたびに、自分の罪を赦したくださったイエス・キリストのことを思い起こし、必死に自分の弱さと戦い、自分の罪と戦ったと思います。

ドストエフスキーの小説にでてまいりますが、「すべての罪は赦されているんだ」とある人がいいますと、それを聞いた意地悪い神学生が、それでは「人を殺しても赦されるんだな」とからかいますと、彼はしばらく考えてから「すべての罪が赦されたことを知った人は、人を殺さなくなる、人を殺すことができなくなる」というのです。そういう場面がでて来ます。

本当に罪赦されたことを聞いた人は、そのことを単にコンピューターから聞くのではなく、顔をもった人格をもった裁判官から聞き取った人は今後罪を犯さなくなるだろうと思います。少なくともことさら罪を犯し続けるとか、罪のなかにとどまるということはできなくなるのではないかと思います。

 あやまちは犯すかも知れない。しかしことさら罪を犯し続けられるだうろか。まして恵みを増し加えるために、罪の中にとどまろうとか、罪を犯し続けようということは言えなくなるのではないかと思います。

さきほど、罪赦されるということは、過去を引きずっているわれわれの将来も神が赦してくだるということなのだといいました。
 しかし聖書には罪赦されたということは、キリストの死とともに、われわれの過去も死んだということなのだ、古い人は過ぎ去った、新しくなった、それが救われるということだと書いているではないか、といわれるかも知れません。

 現に、パウロは「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」と問うて、すぐその後、「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」と言っているのであります。

 そして六節をみますと「わたしたちの古き人はキリストと共に十字架につけられた」といっているのです。それはもう自分の過去は引きずらない、新しい自分に生まれ変わったということではないかと言われるかも知れません。バプテスマを受けるということはそういうことであると言っているのであります。

 しかし別の箇所では、パウロは「この幕屋の中にいる私達は、つまりこの地上にいる私達は、ということです、この地上に生きているわたしたちは重荷を負って苦しみもだえている」と述べているのであります。

  われわれが自分の過去を完全に捨てられないで、過去を引きずりながら生きているということもまた、われわれの現実であります。

しかし、そのように過去を引きずりながら生きているわれわれは、キリストと共に十字架につけられて、新しい自分に生まれ変わったのです。それはどのように新しい人になったのかというと、竹森満佐一のこのところの説教でこういっているのです。
 「まだ自分には罪があるということで、キリストの救いを疑ったり、キリスト者としての生活に絶望したりする必要がなくなったのだ。ある意味からいえば、キリスト者というのは、もう自分を顧みない人になったということだ」というのです。そして続けてこういのであります。

 「キリストを信じる人はキリストの中に生きているので、神との関係は全く新しく造られている。だから神に対してもう何の心配もなくなったのだ。帰化して日本人になった西洋人のことを考えてみれば、よくわかる。その人は皮膚の色を変えることはできない、目はやはり青いかもしれない、みそ汁は嫌いで、パンばかり食べているかもしれない。日本人の気持ちにも、まだ通じていないかもしれない。しかし、その人が日本人として扱われ、日本人のあらゆる権利を与えられていることには誰も疑わない。

 それと同じように、キリストを信じている者にとっては、その全生活が、キリストの死と復活によって守られている。その人に、過去からの生活の名残があったとしても、それはもう問題にされない。それを信じぜよ、それを認めて生きていけ、ということ、それが新しくなるということだ」といっているのでりあます。

 新しくなるということは、過去からの生活の名残があったとしても、その過去をひきずらない、いや、過去にひきずられないということであります。いつも過去を吹っ切って新しくなる、ずるずるした生活をするのではなく、いつも決断的な生き方をしていくということであります。

 今日は是非、「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか」という問いが出てこないような福音の聞き方はないのだというカール・バルトの言葉を深く味わってもらいたいのです。

 つまり、神の赦しの前にもうすっかり安心仕切って、どっぷりとつかって頂きたいのです。自分の罪は赦されたのだ、これからもずーと赦されるんだ、これからはもう何をしてもいいんだ、赦されるんだという神の赦しの前に立ち止まって欲しいのです。一度は、いや何度でも、神の赦しの前に立って欲しいのです。

 礼拝というのも、ただただ神の赦しを聞く場として、聞く時してまもっって欲しいのです。礼拝をして、そのあとなにかの奉仕をしなくてはならないなどということは、いっさい考えないで、ただただ神の赦しを聞くための礼拝をして頂きたいのです。それだけでは何か物足りないというような礼拝であっては困るのです。

 この調布教会で説教をする機会を与えられて、この所ずっとローマの信徒への手紙を学んできましたが、これを書いたパウロは一章から十一章までをかけて、神の赦しの福音を説いてきて、十二章にきてようやく、「こういうわけで」と、キリスト者の倫理について語りだすのであります。「こういわけで」というのは、このようにして圧倒的な神の恵みによって赦されたのだから、これからこのように生きようではないかという倫理を語るのであります。

 先ほどふれたあのルカによる福音書に出て参ります罪ある女の記事で、イエスはこの女は「多くの罪が赦されたことを知ったから、このように深く人を愛そうするのだ」といわれたあと、イエスはこの女に「あなたの罪は赦された」というのです。

 わたしはここを読む時にいつも、不思議に思いました。この女はもう罪を赦されたということを知っているのに、なぜイエスは女に「あなたの罪はゆるされた」と言われたのかということなのです。
 しかし、「あなたの罪は赦された」ということは、イエス・キリストからわれわれは何度でも、繰り返し繰り返し、聞く必要があるのではないか。その恵みの力がわれわれが人を愛する力になる、人の罪を、人のあやまちを赦せる力になるのではないか。

 神の恵みの豊かさと恵みの深さを味わってほしいと思います。
詩編三二編は「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」という言葉で始められる神に対する感謝と罪赦された者の喜びの詩編であります。