「神のみこころ」 マタイによる福音書二六章三六ー四六節


 主イエスは、ゲッセマネの園に行って「わたしを十字架につけないでください」と父なる神に必死に祈られたのであります。それまでイエスは弟子達に三度にわたって自分は十字架で殺されるのだと語ってきているのです。なぜイエスはこの期に及んで、そんなことを祈られたのか不思議であります。なぜこの期に及んでためらわれたのか、その一つの理由は先週学びました。

 このイエスのためらいの不思議さを思わさせる、もう一つのことがあると思います。それはイエスが弟子達にご自分の十字架の死について語るときに、かならず、三日目によみがえると語られているということなのです。福音書には「この時からイエス・キリストは自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを弟子達に打ち明け始められた」と記されているのであります。

 三日後によみがえる、生き返る、復活するとわかっていながら、なぜこの時、イエスはこんなにも悲しまれ、恐れ、悩み、十字架で死なせないでくださいと、父なる神に訴えておられるのかということであります。

このことでもわたしが一番教えられたのは竹森満佐一の説教の中の一節であります。こういうのです。
 「主イエスはご自分を悪魔の手に渡さないで、勝利をしめる道はないと考えた。しかし、それが本当に人間の救いになるのか、それこそ悪魔の手のうちにおちることになるのではないか。自分が悪魔の手に陥って、それが自分が身代わりに死のうとしている人間の救いになるのか。いったい、自分が十字架で死んでそのさきはどうなるのか。それは神のみが知っておられることだ。主イエスすらもそのことについては、信じるだけであった。それならば、この戦いは神のみが知っておられる戦いだった。われわれにはわからない。したがって、主イエスが恐れ、おののき、悩みはじめられたといっても不思議はない」と言っているのであります。

 自分が十字架で死んでその先はどうなるのか、本当に自分は三日後に生き返り、そのようにして本当に悪魔に勝利するのか、それは神のみが知っておられることだというのです。死んだあと、復活するのか、それは神のみがご存知のことで、イエスにとっても、それはただ信じるというかたちでしか、知ることはできないというのです。

  信じるということと、知るということとは違うのです。知るというのは、ちょうど俳優がシナリオを読んで、その結末を知っていて演じる、それが知るということです。しかし信じるということは、そのような知り方ではない。最後のところは自分でもよくわからない、ただ神を信頼して、信じる以外にないのです。イエスにとっては、三日後によみがえるということは、そのように信じるということであったというのです。三日後によみがえるということは、ただ信じるというかたちで知っていただけであったということであります。

 そこが、信じるということと、知るということの違いなのです。従って、信じるということには、常に不安と恐れと、あるいは疑いかつきまとうものなのであります。

 われわれは信仰生活を送っていて、たえずそうした不安とか疑いにとらわれることがありますが、そしてそういう時には、ああ、自分はなんと不信仰なのだろうと思いがちですが、竹森満佐一はそうではないというのです。信仰にそうした恐れと不安、おののきと悩みがあるのは当然だというのです。

 われわれが信仰生活を歩むということは、信仰の歩みを知らない人からみれば、外部の人からみれば、もうすっかり安定した道を歩むのだと思われて、なんとうらやましいことかと思われるかもしれません。しかし実際に信仰の道を歩んでいるわれわれ自身は決してそんなことはなく、いつも不安と疑いのなかでとまどいながら、ためらいながら、歩んでいるのだと思うのです。

 アブラハムが自分の故郷を捨てて、神が示す道に歩み始めたときは、ヘブル人への著者は、アブラハムは「行き先を知らずに出ていった」と書いているのです。信仰生活というのは、なにもかも分かっている道を歩むのではなく、なにも分からない道を歩む、行く先を知らないで、ただ神が支えてくださる、神がその時、その時、道を示してくださるに違いないと信じて歩んでいるのであります。
だからアブラハムは何度も失敗をしているのです。その度に神様から叱られているのであります。

そういう意味では、信仰の道を歩むということは、冒険なのです、言葉はわるいですけれど、一種の賭けなのです。冒険ですから、いつも不安と恐れおののきが伴うのは当然なのです。

 もしわれわれが信仰生活をしているんだといいながら、ひとつも不安や疑いや恐れおののきというものがないとしたら、それは信仰の道を歩んでいるのではなく、その信仰は大変観念的な信仰で、ただ自分の描いた自分の作ったプログラムを歩いているだけだということになると思います。ただ自分の信念の道をかたくなに歩いいるだけということではないかと思います。そんなのは、信仰の道ではないのです。

 イエスは十字架を前にして、どんなに悲しみ、恐れ、不安になり、十字架につくことをためらったかわからないのです。それでもう一度、これが本当にあなたのみこころなのですかと、イエスは父なる神に必死に問うているのです。

 このイエスの必死の祈りに対して、父なる神はひとこともお答えになっていないのです。

 福音書をみますと、父なる神は、イエスに対して、明確に神の意志、神のみこころをあらわした時が二度あるのです。
 その一つはイエスが、ヨハネから罪の悔い改めのバプテスマを受けた時であります。それは罪の悔い改めのバプテスマですから、罪を犯したことのないイエスがそれを受ける必要はないし、それを受けることはおかしいのです。しかしイエスはこの時、みずから罪人の一人として、ヨハネから罪の悔い改めのバプテスマを受けました。

 その時、天が開いて神の霊がはとのようにご自分の上にくだってくるのをみた。そして天から声が響いた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という声を聞いているのです。「お前が罪人の一人になりきって、悔い改めのバプテスマを受けたことは正しかった」という天からの承認があったのです。これは神のみこころであるという啓示があったのです。

 そしてもう一つは、イエスがいよいよ自分が十字架で死ぬことを決意し、それを弟子達に語り、三人の弟子達をつれて高い山に登ったときに、イエスの姿が突然栄光に輝き、天から声が響いた時であります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という天からの声が響いたのです。ルカによる福音書によれば、この時、旧約聖書を代表するモーセとエリヤという預言者が現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のこと、つまり十字架の死について、話し合われたということが記されております。

 そしてこの時、これは神の御心に適うことなのだ、そういう天からの承認があったということであります。この時にも神のみこころは示されたのです。
 
 イエスの生涯のいわばターニングポイントで、神のみこころは明確に示されたのです。

 それなのに、ここに来て、ゲッセマネの園では、イエスが必死になって、もう一度最後の確認、私が十字架で死ぬことが本当にあなたの意志なのですか、あなたのみこころなのですかと父なる神に問うているのに、イエスにとっては、今一番明確に神のみこころを、神の意志を知りたい時に、父なる神は全く何一つお答えになっていないのです。
 
 ルカによる福音書には、この時に天使が現れたと書いております。しかしこの天使たちはイエスに何も語ろうとはしないのです。天使たちはイエスを力づけはしましたが、イエスはこの天使の力づけを受けても、その苦しみは少しも軽減されずに、イエスはますます苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた、とルカは書くのであります。

 天使たちも何も語らない。イエスは天使達の励ましを受けると、ますます苦しみもだえ、「これがあなたの本当の意志なのですか、みこころなのですか」と、いよいよ切に祈るのであります。しかし神は沈黙したままのです。

そしてイエスはこの父なる神の沈黙の中で、自分が十字架で殺されることが神の御心だと信じて、決然として「立て、さあ行こう、見よ、わたしを裏切る者が来た」といわれて、十字架の道を歩み始められたのであります。

 神は沈黙したままのです。神は明確にご自分の意志をここであらわそうとしないのです。そうした中で、イエスはいわばご自分の意志と決断で十字架の道を歩み始められるのであります。

 しかし、考えてみれば、われわれの信仰生活において、これが神のみこころですと明確な形で、つまり天から声が聞こえるようにして、なにか神秘的な体験をして、神の声が聞こえたということがあって、神の御心が示されたことがあったでしょうか。
 
ある神学者がいっているそうですが、「わたしどもが信じている神は将来を予見させない。主イエス・キリストの父なる神はそういうかたである。将来の出来事をわれわれに見せてはくださらない。神のみこころは、まるでコンピュウターのプログラムのように将来のことが全部決まって刻まれていて、それを見せてくれる、そういうかたではない」と言っているそうであります。

 つまり、それは神はわれわれに未来について語ることはあっても、見せてはくださらないということであります。未来については、語ることはあっても、見せてはくれない、この言葉を読んだときに、わたしは、ああ、なるほどなあ、と思いました。

 これこそが神の御心だとわれわれが思うときは、それはほとんどの場合、自分の思いこみに過ぎないのではないか。自分にとって都合のよい神の御心に過ぎないのではないか。自分の都合のよい錯覚なのではないか。

わたしが四国の教会にいたときに、近くの教会の牧師就任式に出て、そこに新しく来た牧師が「自分がこの教会に召されたのは神のみこころだと信じます。だからこれから生涯、この教会に仕えます」と、スピーチで話しておりましたが、その牧師はそれから一年か二年して、その教会をあっさりと去っていって、わたしはあの時のスピーチはなんだったのだろうかと思ったものでした。

 われわれが神の御心に従って従って歩むということは、祈っていて、これが神の御心だと示されて、なにか啓示のようなものを受けて、これが神の御心だとわかってその道を歩み始める、そんなことではないと思うのです。そんなことならば、こんなに楽なことはないのです。

 しかし、実際はそうではない。神の御心はどこにあるか、今自分が選択すべき道はどこにあるのかと神に祈り、聖書を通して神の意志を探ろうとするのです、それが信仰に歩むということであります。

 ある意味では、聖書を読んでいけば、明確に神の意志は示されているのです。それは、「心をつくして神を愛すること、そしてそれと同じように大事なこととして自分を愛するように隣人を愛すること」、つまり神を愛することと隣人を愛すること、これが神のみこころだということははっきりと示されているのです。

 われわれは、その神のみこころに従って具体的に歩むためにはどうしたらよいか、そのために祈り、どの道を選択すべきかを探るのです。その選択をするときには、われわれは当然自分の利益を選ぼうとする、計算をする、打算もそこには入ってくるかもしれない、そういう打算と戦いながら、しかし本当に神にみこころに従って歩むにはどうしたらよいかを探っていくのでなはいか。

 われわれは信仰生活をしているといいながら、自分の利益を求めるという打算が入ってくるのです。そんな打算はないといえば、嘘になります。しかしそういう打算と戦いがら、しかし今の自分にはこれしかできないのです、どうぞ神様おゆるしください、と祈りながら、この道を選ぶ。この自分をゆるし、支え、助けてくださいと祈りながら、歩みはじめる。

 つまりこれが神の御心だとはっきりわかって歩むのではなく、神の御心を探りながら、祈りながら歩むということ、失敗しては、また立ち上がって歩み始める、そういう試行錯誤を繰り返しながら、歩む、その課程が、そのプロセスが神の御心にそって生きるということではないかと思うのです。

 少し具体的なことを考えたいのですが、さしさわりがあるかたがでてくるかもしれませんが、おゆるし願いたいのですが、たとえば、離婚すると言う道を選ぶ時もそうだと思うのです。結婚するときは、これが神のみこころだと思って結婚するわけです。しかし、実際に結婚生活していくうちにどうしても、これではやっていけなくなって、これはもしかすると神の御心にそったものではなかったのではないかと思い始める、どうしてもやっていけない、そうして祈りながら、自分のわがままさにふりまわされないように、あらゆることを考えながら、どうしても離婚せざるを得ない、そうしてその離婚の道を選ぶことを決断して、その道を歩み始める、それが神のみこころにそって生きるということではないか。

 すでに起こったことについて、それが神の御心だったと信じたり、断定したりすることは容易なことであるかもしれません。しかしこれから起こるとこについて、どれが神のみこころなのかどうかということは、われわれ人間にはわからないことなのではないか。神は明確な形ではわれわれには神の御心を示してはくださらないのではないか。

そう考えますと、イエスのいわばターニングポイントで天から声があったという出来事は、イエスがすでに決断してヨハネから罪人の一人になりきって悔い改めのバプテスマを受けたときであります。また、山上の変貌の時の天からの声も、イエスがすでに自分は十字架につこうと決意をしているときに、天からの声があった、つまりそれはすでにイエスが決断して、その道を歩み始めたときに、天からの承認があったということであります。

 これから起こることについての神の啓示ではなかったということであります。イエスが十字架で死んだあと、三日後によみがえるということは、直接イエスは、天からの啓示を受けたことではなく、旧約聖書であらかじめ預言されていることをイエスが受け入れ、信じたということであります。

 神の御心はどこにあるかはわれわれにとっては、明確に示されることはないのです。われわれは、俳優がシナリオを読んでそれを演じるというような形で、自分の人生を演じるのではないのです。

 神様はわれわれを操り人形のようにして、われわれを操って信仰生活を送らせるのではないのです。あるいは、われわれをなにか洗脳するような形で、われわれの自由意志とわれわれの決断を奪うようなかたちで、信仰生活を歩ませるのでもないのです。
 神はわれわれに自由意志を与えてくださったのです。

 そうした中でわれわれが、どれが神のみこころなのかを自分の都合とか利益とかと戦いながら、これしか自分の歩む道はないのです、どうかおゆるしください、助けてくださいと祈りながら、歩むのです。
 そこにはいろんな計算が入ります、自分の性格の弱さとか、自分の今生きている生活環境とかによって、その選択は左右されると思います。ですから、神のみこころに従って歩むということは、みな一律ではないのです。親の介護ひとつとっても、自分の家で最後まで看取ってあげるという選択をする人もいるし、それができる環境にいる人もいれば、それができないで、施設におまかせせざるを得ないという選択をする場合もあるわけです。それは決して一律ではないのです。個性的なものです。

 そうしたなかで、われわれがもし誤った道を選んでいたならば、神はそれを裁き、修正してくださる、われわれを赦し、叱咤激励して、われわれわを導いてくださる、それを信じていくということが、神の御心を信じて歩むということではないかと思うのです。

 主イエス・キリストもそのようにして、今、十字架の道を歩もうとされるのでりあます。そこにためらいや、不安や恐れがあるのは当然なのです。今イエスはそのためらいを捨てて、「立て、さあ行こう」と決然と十字架の道を歩み始めるのであります。