「神との平和」 ローマ書五章一節

 五章一節に、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とパウロはいいます。

 われわれはそういわれて果たしてピンと来るでしょうか。つまり、救われた人間は、人と平和に過ごせるようになると言われれば、ピンとくるかもしれませんが、パウロはまず神との平和を与えられれたのだというのです。

 われわれが救われるということで考えることは、自分がもっと強くなるとか、どんな時にもたじろがないで、平安でいられるとか、もう少し人格が立派になるとか、あるいは優しい人間になれるとか、愛に満ちた人間になれるとか、そういうことが救われるということだと考えていないか。そしてひそかに、家内安全、商売繁盛、であることが救われると考えていないか。

救われるということが、神との平和を得ることであると言われても、なかなかわからないと思います。神との平和を得る、ということは、言葉としては美しいけれど、われわれが現実的に望んでいるのは、神との平和というよりも、人との平和だというかもしれません。本当に人と平和な関係をもてるようになったらどんなにいいだろうかと、われわれは思いますが、そのためにはどうしたらよいかであります。

 その事を考えるために、前にも引用いたしますが、ルカ福音書一五章に記されている主イエスのたとえた放蕩息子の話のことを考えてみたいと思います。

 この話は、主イエスが徴税人や罪人たちと親しくしているのをみて、ファリサイ派の人や律法学者たちが「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事している」と非難し、イエスを軽蔑してつぶやいたのに対して、イエスが語ったたとえ話であります。

 三つの話をします。始めに、百匹のうち一匹の羊がいなくなった時、羊飼はそのいなくなった羊を探すために他の九十九匹を野原に残しておいてどこまでも探し出すという話であります。その迷い出た羊を見つけだしたなら、喜んでそれを自分の肩に乗せて、家に帰ってきて友人や隣人を呼び集めて「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言うであろう、それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが天にあるであろうと言うのであります。

 そしてそれと全く同じ趣旨の話ですが、十枚のうち一枚の銀貨をなくし、それを見つけた喜びについて語ります。その話の結びも、隣近所の女友達を呼び集めて一緒に喜んでもらうとするということであります。

このたとえ話の眼目は、迷い出た小羊を探し求めるという羊飼いの愛ではないのです。そうではなく、その迷い出た羊を見つけたときの羊飼いの喜びであります。「わたしと一緒に喜んでくれ、いなくなった羊を見つけたから」という羊飼いの喜び、「一緒に喜んでくれ」という喜びなのです。
 それは銀貨の話でも同じであります。

 そうして、最後に放蕩息子の話と言われている話をするのであります。
ここの話の眼目は、放蕩息子ではなく、放蕩に身を持ち崩した弟が帰ってきたことを喜べない兄の話であります。つまり、一緒に喜べない兄の話であります。

 この世でいわゆる罪人とされている人たちが、イエスと食事をしている、親しくてしている、それは悔い改めているということではないか。それを見て、真面目な律法学者たちが不平をいう、文句をいう、イエスはその人たちに対して、「どうしてわたしと一緒に喜べないのか」というのであります。

 放蕩息子のたとえ話は、ふたりの兄弟のうちの弟が父親から遺産をもらうと、父親のもとを去り、財産を使い果たし、困り果てて、父親にもとに帰ってきた。父親はその弟を叱りもしないで、赦し、歓迎した。
 ところが兄のほうが畑仕事から帰ってみると、父親が放蕩に身を持ち崩して帰ってきた弟に、最大のもてなしをして、宴会をしているという、それで兄は怒って、家にも入ろうとしなかった。

 すると父親が出てきて兄をなだめますと、彼は父親に文句を言った。「わたしは何カ年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけに背いたことはなかったのに、友達と楽しむために子山羊一匹もくださったことはありません。それだのに、娼婦どもと一緒になってあなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」と文句を言った。

 すると父親はこういうのです。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前の弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえではないか」と答えたという話であります。

 繰り返しますが、この例え話をイエスはなんのためにしたのかといいますと、ファリサイ派の人、律法学者たちが、イエスが罪人たちと食事をしている様子をみて、それを非難し、軽蔑している姿をみて話をしたのであります。この兄の姿こそ、ファリサイ派の人、律法学者たちの姿だというのです。弟が帰ってきたことを喜べない兄の姿であります。

 この兄の姿、「わたしはあなたに何カ年も忠実に仕えたのに、一度もあなたの言いつけに背いたことはないのに、あなたはわたしに何もしてくれなかった」という父親に対する言葉は、われわれにもよくわかるのではないかと思います。

 それに対して父親は「子よ、お前はいつも一緒にいる。わたしのものは全部お前のものではないか」というのです。

この兄と父親とのちぐはぐなやりとりは、考えさせられます。父親のほうは、お前はわたしといつも一緒にいるではないか、どうしてそれを喜べないのか。子牛一匹どころか、わたしのものは全部お前のものではないかというのです。

それに対して兄のほうは、父親と一緒にいてもひとつも喜びを感じていないのです。なぜかというと、兄は自分は忠実に父親に仕えてきたのに、なにひとつ見返りのものをもらっていないと不満をもっていたからであります。つまり、兄は、父親との関係を親子関係としてではなく、いわば雇用関係としてしかみていなかったということであります。
 ギブアンドテイクの関係、これだけのことをしたからこれたけの見返りがあってしかるべきだという関係でしかなかったということであります。

われわれの人間関係というものは、多くの場合、このギブアンドテイクの関係、これだけのことをあなたにしてあげたのだから当然、これだけのこととを返して欲しいという関係かもしれません。

 われわれのあらゆる人間関係はそれで成り立っているかもしれません。家族関係、夫婦関係、友人関係もそうであるかも知れません。しかし、もしそれだけの関係だとしたら、その関係はたちまち破綻を来してしまうのではないか。

 家族関係、夫婦関係、友人関係のなかで、損得勘定を越えて、その人のために自分の命を捨てるという覚悟をもって、その関係をもとうとする、それが愛の関係ということなのですが、そういう愛がその関係の根底にないならば、その関係は危うい関係でしかないと思うのです。

われわれがもし神との関係においても、このギブアンドテイクの関係、自分は忠実に仕えてきたから、これだけ立派に律法を守ってきたら、これでけ善い行いをしているのだから、神はとうぜんそれに見返りのものをくれるべきだと考えていたらどうでしょうか。
 
 これが律法主義というもの、少し難しい言葉をつかえば、行為義認主義、行いによって救いを得ようとする考えであります。

 これではどんなに神と一緒にいても、神を信じているといっても、あの放蕩息子の兄のように、少しも喜びはないし、不平不満だらけで、神との平和はないのであります。多少いいことがあったとしても、それは当然の報酬なのであって、当然の権利なので、そこには感謝もなければ喜びもないのであります。
 そのために、放蕩に身を持ち崩した弟が帰ってきて、それを父親が喜んで迎えている姿をみたときに、怒りが爆発するだけであります。

放蕩に身を持ち崩し、食べ物にも困って父親のところに帰ってこようとした息子は、父親に会うまでは、最初は、もう子供としてではなく、雇い人の一人としてやとってもらおうと思ったのです。
 ところが父親のほうはそんなことはいささかも考えていない、あくまで子供として接して、彼を抱きかかえたのであります。もうそのとき、放蕩息子は、もう「雇い人の一人として」という言葉は発していないのです。ルカ福音書はその言葉は書いていないのです。

 もうこのときは、放蕩息子は、雇用関係として父親に対したのではなく、親子関係として父親のふところにだきついていったのであります。この息子を雇用関係にさせなかったのは、この父親の愛であります。

 自分はこれだけのことをしたのだから、これだけのものをもらえて当然だという思い、いつもいつも、自分の功績、自分のわざ、自分の行いを頼りにして、生きようとする生き方、それは律法主義であり、この世の言葉でいえば、功利主義であります。

功利主義というのは、役に立つものが尊いという価値観がその根底にあります。役に立つものが尊いという価値観は、それは必ず、役に立つもの「だけ」が尊いという価値観になっていきます。そうしてそれは役に立たないものは排除されていく、排除していくという価値観であります。これは人間関係を駄目にしていく、壊していくのではないか。

 この功利主義的な考えが教会の交わりの中に入ってきて、教会を分裂させようしていたのがコリント教会でした。パウロはその分裂をくいとめるために、人間の体にたとえてこういうのです。

 第一コリントの十二章ですが、「目が手に向かって、お前はいらないとはいえない、頭は足に向かって、お前はいらないとはいえない。体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのだ。からだの中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと見栄えよくしようとする。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられた。それで体に分裂が起こらず、各部分が互いにいたわりあっている。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべの部分が共に喜ぶ。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分である。神は教会のなかにいろんな人をお立てになったのだ」。
 パウロはそう言って、教会の分裂をやめさせようとするのであります。

 人間のからだでは、役に立つ部分とあまりそうでない部分というのは歴然としてあるのです。そのように機能しているのです。心臓がなければ、生きていけませんが、小指の爪がなくたって生きていけるのです。

 しかし人間のからだには、確かに役に立つ部分とあまり役に立たない部分というのはある、しかし、同じ一つのからだに属しているということで、それぞれが尊いのだとパウロはいうのです。

 人間のからだというのは、よくできていて、役に立つ部分、能とか心臓というのは、骨でしっかりと守れている、ですから、人間のからだの部分で、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分をもっと恰好よくしようとする」部分なんかは、本当はないのです。

パウロはもこでは、もうからだのことを離れて、教会という組織、教会の交わりのことにはいっているのです。

パウロが教会の分裂を阻止するために、からだの部分のたとえをもちだしたのは、からだの肢体というものは、確かに役に立つ重要な働きをする部分とあまりそうでない部分もあるけれど、同じひとつのからだに属しているという点でなりたっていて、それぞれの部分が尊ばれているということをとりあげたいわけです。

 つまり、パウロは役に立つものは尊いという価値観を教会の交わりのなかに持ち込むな、役に立つものが尊いという価値観は捨てて、同じ一つの体に属している、同じキリストというからだに属しているのだから、心臓であろうと、小指の爪であろうと同じように尊いのだと考えようではないかといいたいのです。

 教会というところは、そういう組織、そういう人間関係で成り立たなくてはならいのです。それなのに、教会ほど役に立つことが大事なのだ、お役に立ちという思いが強い、奉仕、奉仕といわれているのではないか。つまり、なにかお役にたちたい、奉仕したい、そして神と人にお役に立って、奉仕しなくてはならないという思いがつよすぎるのではないか。教会では、奉仕、奉仕といいすぎるのではないか。

だから礼拝だけに出て、なにもしないで帰っていくことになにか肩身の狭い思いをしてしまう。しかし、英語でいうサービスという言葉は、もともとは礼拝という意味なのです。つまり神に仕える、神に奉仕するということで、礼拝という意味に使われているのです。礼拝に参加することが最大の奉仕なのです。

役に立つものが尊いという価値観は、やがて役に立たないものは尊くない、役に立たないものを排除していく思想に堕落していくのではないか。
そしてそれは人間関係をぎくしゃくさせ、人間関係を駄目にしていくのではないか。

 それが教会という組織にまで入り込んでいないか。教会という組織も、もちろんいわゆる奉仕する人がいなければ成り立たないのです。オルガンを弾く人がいなければ困るし、掃除をしてくれる人がいないと困るのです。役員になる人がいないと困るのです。しかし役に立てる人は、それを黙々と不平をいわずに謙虚に奉仕することが大事なのではないか。そして時間的にも環境的にも、あるいは性格的にも、それができないでいる人は、教会のなかでそのように奉仕をしてくれる人に心から感謝する気持ちを忘れない、そういう交わりができていなくてはいけないのではないか。

 教会というところは、同じキリストというからだに属している、だからみなそれぞれが尊いのだとパウロはいうのであります。

 役に立つ者が尊い、役に立つ者だけが尊いという功利主義的な価値観、それが人との平和を邪魔しているのではないか。人の喜びを一緒になって心から喜べない、人の悲しみを共に悲しめない、いつも自分を誇ることに汲々としている、その裏返しに、すぐ人を批判し、裁き,人を排除し、人を軽蔑する生活になってしまっている、それが人との平和を保てないのではないか。

 放蕩息子の兄がそうだった。それに対して、父なる神は、「わたしはいつもお前と共にいる。お前がなにかいいことをしたときだけでなく、放蕩に身を持ち崩したときにも、お前を捜し求めようとしているのだ。わたしのものは全部お前のものだ」というのです。父なる神さまのほうでは、われわれとの関係を決して功利主義的にみようとしていないのです。

 パウロは「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で今の恵みに信仰によって導きいれられた」というのです。
 主イエス・キリストによって、あの十字架の贖いによって一方的に神様の方から差し出された恵みによって、われわれのほうでは一銭も払わずに、ただで、価なしに、われわれと神との平和という関係は与えられたのだというのです。
 われわれの良き行いとか、われわれが律法を守ったからではない、ただ十字架の赦しによって、神との平和が与えられたのであります。

 放蕩息子を叱らずに黙って抱きしめる父親の姿、そういう神の愛に触れたときに、われわれは自分のなかに執拗にしみこんでいる功利主義、律法主義、自分のわざを頼りにしようとする生き方が壊されていくのであります。
このようにして神との平和が与えられたということがどんなに大切なことだったか。

 最後に蛇足のようなことをいいますが、われわれは救われたからといって、神に赦されたことを知ったからといって、たとえば、ホームレスの汚れた服を着た人々と、すぐ仲良くなれるとか、仲良くならなくてはならないと思う必要はないと思います。われわれにはやはりそれまで生活してきた生活の歴史というものがあるし、環境というものがあるから、それをすぐ全部捨てるなんてことはできないと思います。いってみれば、教養が邪魔してしまうのです。

 しかし、自分が神に赦されたことを知っているときに、少なくも、ホームレスの人をみて、あのファリサイ派の人や律法学者たちのように、そういう人たちをただ軽蔑したり、汚いものを見るように見ることはしなくなるのではないかと思うのです。その人たちに対しても、優しい心をもつことはできるのではないかと思うのです。罪赦された人間として、人に対して優しさをもつことはできるのではないかと思います。そのことは大事なことだと思うのです。

 詩編の四十六編は、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」という言葉で始まる詩編であります。そして最後には、「力を捨てよ、知れ、わたしは神、国々に崇められ、この地で崇められる。万軍の主はわたしたちと共にいます」という言葉で結ばれています。
 わたしはここは口語訳が好きです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」となっています。自分の力を捨てて、静まって、もう自分の思い煩いを捨てて、万軍の主、父なる神がわれわれと共におられることを知りたいと思うのです。静まって、神との平和を与えられていることを感謝したいと思います。