「悲しみ」 マタイによる福音書二六章三六ー四六節

 イエス・キリストは逮捕される前に、ゲッセマネというところに行って、父なる神にこう祈っているのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのです。「杯」というのは、「苦き杯」ということで、十字架で死ぬということであります。つまり、「十字架という死を過ぎ去らせてください、十字架で死なせないでください」と祈っておられるのです。

 この祈りは、われわれを不思議な思いにさせます。なぜかといいますと、それまでイエスは再々にわたって、弟子達に自分は十字架で死ぬのだと告げているからであります。なぜこの期に及んで、「自分を十字架につけないでください」と祈られたかということであります。みっともないといえば、大変みっともないことであります。しかもそれを三人の弟子達の前で祈られ、その祈りの言葉を隠そうとなさらなかっのです。むしろ、この三人の弟子達に聞かせるようにして、この自分の祈りを、目を覚まして記憶しておいてくれるようにと、祈られたのであります。

 なぜ主イエスはこの期に及んで十字架で死ぬことをためらったのでしょうか。

 ここで注目しておきたいことは、この祈りをする前にイエスは、弟子達に「わたしは死ぬばかりに悲しい」といわれたということなのです。

 イエスはこの期に及んで、十字架の死を恐れたわけではないのです。十字架刑という、その肉体の苦痛を恐れたわけではないのです。あるいは死んだあと、どこにいくのかという不安に陥ったわけでもないのです。死ぬことを恐れたわけではなく、死ぬことを悲しまれたのです。恐れたのではなく、悲しまれたのです。このことが大事だと思うのです。

悲しみにはいろいろな悲しみがあると思います。自分が失敗したときの悲しみ、あるいは、人から悪口をいわれたり、傷つけられた時の悲しみ、そういう悲しみがあると思いますが、しかし、なんといっても、一番深い悲しみは、人と別れるという悲しみ、愛する者を失うという悲しみではないかと思います。愛する者から切り裂かれてしまうという悲しみではないかと思うのです。

 私が親しくしておりました牧師が、三歳か四歳かになるお子さんを亡くした。。すぐ隣の家の池にはまって亡くされたと言う経験をなさいました。小さな池だったようですが、お姉ちゃんと遊びにいって、その子だけが池にはまってしまって、すぐ救急車で運ばれましたが、肺に水がたまって、入院して二、三日して死んでしまったという大変な悲しみに会われました。遠いということもありまして、その葬式には行けませんでした。

 一年くらい経ったと思いますが、近くで会がありましたので、その帰りに彼のところにお見舞いにいきました。一晩泊めてもらったのですが、彼はさすがに牧師ですから、落ち着いておりましたが、奥さんのほうはいまだにその悲しみから立ち直れなくて、わたしが行ってもその日は顔を出しませんでした。四国時代には、奥さんとも親しくしていたのですが、挨拶にも顔をみせませんでした。さすがに翌朝は、顔をだして朝食の準備はしてくれましたが、ほとんど会話らしい会話はできませんでした。一年経っても、外に買い物にも行けなかったそうです。亡くなられたお子さんの写真の前には、奥さんが自分で造ったぬいぐるみ人形が沢山かざられていて、それは異様な光景でした。

 その牧師がその時こんな話しをしました。子供が亡くなったときに、近くの牧師がおくやみにきて、自分も同じように子供を失っているから、あなたの気持がよくわかるというのです。そして一緒に讃美歌を歌いましょう、お祈りをしましょうといって、慰めようとしたというのです。それは彼にはとてもわずらわしく、不快であったというのです。

 その時に彼は思ったというのです。こういう深い悲しみを経験してみて、悲しみというのは、みなそれぞれに悲しいのであって、同じ悲しい経験をしたからといって、他人の悲しみがよくわかるなんてことは到底いえないのだ。自分が悲しい経験をしてみてはじめてわかったことは、他の人の悲しみが分かるとか、分かり合えるなんてことは到底言えない、そのことがよくわかったというのです。

 愛する者を失うというのは、それほどに深いのです。

 イエスにとってこのゲッセマネの園での「わたしは死ぬほとにに悲しい」といわれた悲しみは、どういう悲しみだったのでしょうか。

 今イエスは、いわば敵の手によって殺されようとしているのです。敵の手に引き渡されようとしているのです。いわばサタンの手に引き渡されそうになっているのです。それは神から引き裂かれることなのです。イエスはこのゲッセマネの園で「本当にあなたはわたしが十字架で殺されることを望んでおられるのですか。これはあなのみこころなのですか、あなはわたしを敵の手に渡してをお見捨てになるのですか」と、父なる神に祈っているのです、問うているのです。

 「自分としてはどうしても今サタンの手に陥りたくない。サタンの手に陥って死にたくはない。しかしもしこれが本当にあなたが望んでおられること、これがあなたのみこころならば、わたしはあなたに従います。なぜなら、これがあなたのみこころであるならば、これがあなたの意志であるならば、それはあなたがわたしを見捨てていないということだからです。だから安心して死んでいけます。これはあなたのみこころなのですか」と問うているのです。

 しかし、父なる神はこのときイエスに何一つ答えようとしないのです。父なる神は全く沈黙しているのです。

福音書を読んでいて、もう一つ気になることがあります。それはイエスは弟子達に、自分は十字架で殺されて死ぬことになる、といわれたときに、そのあと、「しかし自分は三日目に復活することになっている」といわれているのです。
復活する、よみがえるということならば、それがわかっているのならば、なぜイエスはここで悲しんだり、思い悩んだりするのかということであります。

 このことでわたしが一番教えられたのは、竹森満佐一の「ゲッセマネの祈り」についての説教を通してでした。竹森満佐一はこういっているのです。少しわたしの言葉でいいかえますが、こういっているのです。
 「自分が十字架で殺されて死んだあと、どうなるのか。そのさきはどうなるのか。それは神のみが知っておられることであった。主イエスすらもそのことについては、信じるだけであった。それならば、この救いは、神のみが知っている戦いだった。われわれにはわからない。従って主イエスが恐れおののき、悩み始められたと言っても不思議はない」というのです。

 つまり、主イエスが自分が十字架で殺されたあと、三日後に復活するということは、ただ信じるというかたちで、知っていただけだというのです。だから、思い悩み、不安になっても不思議はない、当たり前だというのです。

 知るということと、信じるということとは違うのだということです。知るというのは、この場合、ちょうど俳優がシナリオを渡されてその結末を知って演じるという知りかたです。しかし、信じるというのは、そういう知り方ではない、それは神のみぞ知る、こちらはただ信じるしかないというのです。

 従って信じるということには、絶えず不安と思い悩みと恐れが当然つきまとう、そういうものをふっきって、「わたしは信じます」と決断して、信じていくのだというこてです。

 それが本当の意味で信じるということなのであって、信仰生活に悩みや不安がない人は、ただ観念的に信仰しているだけであって、つまり知識のうえで信じようとしているだけであります。

イエスは死の最後まで、自分は父なる神に見捨てられてしまうのではないか、そのことで悲しみ、悩み、苦しまれたのではないかと思います。

 イエスが十字架につけられたのが、朝の九時です。そして息を引き取ったのが午後の三時です。その間イエスは何一つ言葉を発していないのです。その六時間の間イエスは何を思っていたのか。その間、イエスは自分は本当に神に見捨てられてしまうのかと思い続け、その最後に出た言葉が「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という絶叫になったのではないかと思います。それは自分は神に見捨てられてしまうという悲痛な悲しみの叫びであります。

 イエスはただ死ぬことを恐れたのではないのです。この死が神に見捨てられることになるのではないかと思い、悲しまれたのです。それはイエスにとって本当に悲しいことだったのです。死ぬばかりに悲しいことだったのです。つまり、イエスにとっては、神に見捨てられるということは死ぬばかりに悲しい、死ぬことよりも悲しいことだったのです。そしてそれは恐ろしいことだったのです。

 この悲しみとはどういう悲しみでしょうか。それは愛する者から切り裂かれるという悲しみであります。愛する者からその関係が切り裂かれるという悲しみであります。
  
 悲しみは、愛がある時であります。愛のない人は悲しまないと思います。悲しみというのがわからないと思います。悲しみが分からない人は愛がない人です。

 イエスは今、自分がもっとも愛している父なる神から切り裂かれ、見捨てられようとしているのであります。イエスにとってこんなに悲しいことはないのです。

 それに対してわれわれはどうでしょうか。われわれは神から見捨てられることを悲しいと思うだろうか。われわれは神から見捨てられることを怖いとは思うかもしれません。恐いとは思うかもしれません、しかし悲しいと思うだろうか。

 神に見捨てられることを怖いと思うのは、神に見捨てられて地獄に突き落とされるのではないかを恐れるからではないか。それは、神から切り離されるから怖いのではなく、ただ自分が地獄にいって自分が苦しめられるのが恐いだけの話しであります。それはどこまでいっても、自分中心なのです。自分が怖い目にあいたくないというだけの話です。それは神の愛から切り離されてることが悲しいというのではなく、ただ自分が恐い目に会うのがいやだというだけなのではないか。

それはちょうど、夫が死ぬのを恐れるのを、夫と一緒にいられなくなるということを悲しむのではなく、夫が死んだら、あとの生活費はどうなるのかと恐れるだけの話しと同じであります。夫と別れるのが悲しいのではなく、あとの生活が心配だというだけの話しなのです。

 しかしイエスのこの時の気持は、神から見捨てられることが悲しいと言うことなのです。父なる神との関係だけは何としてでも裂かれたくないと思ったのです。

 われわれはどうでしょうか。われわれはクリスチャンでありながら、本当に神から捨てられることを悲しいと思っているだろうか。われわれは人から捨てられることは悲しいと思うかもしれません。人から裏切られることは悲しいと思うし、口惜しいと思います。そのために、人から捨てられないためには、われわれは最後のところでは、神をも捨ててしまうことさえある、信仰すらすてることさえあるのではないかと思うのです。

たとえば、家族関係のなかで、夫からお前は教会に行ってはいけないといわれて、どんなにあっさりと信仰を捨ててしまうかであります。あるいは、会社の人間関係のあつれきを避けるために、自分がクリスチャンであることを隠して、日曜日に教会にいかなくなる、そうしたことをわれわれはやっているのではないか。

 そして、われわれは教会の中でも、その人間関係に躓いて、それがいやになってどんなにあっさりと教会から離れ、信仰を捨ててしまうかということであります。
 神との関係なんかは本当はどうでもいいのであって、やはり人との関係が大切なのであって、ということではないか。

 しかしそのことをさらに考えていきますと、われわれが人に捨てられるということが悲しいということでさえ、本当には人に捨てられることが悲しいのでなく、人との関係が裂かれること自体が悲しいのではなく、それは結局は人から捨てられて、自分が孤独なる、自分が困る立場に置かれる、そのことが恐いのであって、結局はただ自分がかわいいだけであって、結局は自分さえ良ければいいと思うところがあるのではないか。

 そうしますと、われわれは人の関係においてさえ、その関係が破れることを、切り裂かれることを、悲しんでいるのではなく、ただ自分の都合が悪くなる、その人がいなくなって、不便になるということを恐れているだけということなのかもしれません。

 われわれの罪は、そこにあるのではないか。自分さえ良ければいいという、密かな自己中心性、それがわれわれの罪というものではないか。それは少しむずかくいえば、少し気取ったいいかたをすれば、関係性の破壊ということです。これがわれわれ人間の罪ということではないかと思います。神との関係を破壊する、人との関係を破壊する、そしてただただ自分を中心にして生きていく。

 われわれはもちろんひとりでは生きていけませんから、この自分のひとりの幸福を壊さない程度の交わりをわれわれは欲している、自分ひとりの幸福を壊さない程度の関係をもとうとしているだけなのではないか。ですから、自分の幸福をみだすほどにその関係が食い込んでくると、もうわれわれはその関係から逃れようとするのではないか。われわれが一番望んでいるのは、ほどほどの関係なのではないか。

 今、若い人が結婚をなかなかしたがらないのは、そのような深い関係をもちたくないということであって、深い関係が煩わしい、深い関係になって傷つくことが恐いというように、それほどまでに、自己中心的になっていることではないか。それは幸福なことだろうか。

 われわれは自己中心的な人間であります。しかし、そういうわれわれでも、ある時に、愛する者を失ったときに、われわれは悲しみに突き落とされる。普段は、ただ自分に取って便利だから、自分にいろいろと経済的なものをあたえくれるからありがたいと思っているだけの関係でしかないとおもっていても、いざその人が死んでしまったときに、われわれはその人がどんなに大事な人だったかということがわかるのではないか。

 死なれてみて親の愛というものがわかる、あるいは夫の愛がわかる、妻の愛がわかる、それは単なる自分の利己的な思いを超えた関係だったということがかわるのでなはいか。愛の関係だったのだということがわかるのではないか。

だれが言ったかもう忘れてしまいましたが、ある人が、自分にとって、仲のいい友達のことを思うと、みな愛する者を失った経験をしていることがわかった、その家で葬式をだしていたことがわかった、と面白いことをいっておりました。なぜ愛する者を失う経験をすると良い友達になれるのかというと、愛する者を失って、悲しみを経験して、愛の大切を知らされる。だからなんとなく、その人は優しい人間になっているということではないかと思います。

 聖書でいっている罪、キリスト教でいっている罪というのは、何かわるいことをしたとか、汚れたことをしたとか、不真面目な生活をしたとかということではないのです。罪とは関係性の破壊ということであります。そしてわれわれ人間はそのことがどんなに悲惨なことか、悲しいことであるかに気づいていないのです。自分ひとりさえ幸福でありさえすればいいと思っているのです。 

 そしてそれがどんなに悲惨なことでりあり、悲しいことであるかをわれわれはわからない。その人に死なれてみてはじめて、それがどんなに悲しいことであり、悲惨なことであるかがわかるのではないかと思います。

 神はそのことをわれわれ人間にわからせるために、神はご自分のひとり子イエスを十字架で死なせるのであります。神に見捨てられるということがどんなに悲しいことであるか、そしてそれ故に、それはどんなに悲惨なことであるかを分からせようとして、今神はイエスを十字架において見捨てるようとなさるのであります。

 父なる神は、今イエスを罪人のひとりとして、十字架で死なそうとしているのです。自分のことしか考えようとしない罪のなれの果ては、神に捨てられることなのだということをどうしてもわからせなくてはならなかったのです。
それ以外にわれわれは自分の罪を知ることができなかったのです。

 よく言われることですが、健康のありがたさというのは、いちど病気になってみないとわからないといわれます。病気になってはじめて健康のありがたさがわかるというのです。
 死なれてみて、はじめてその人との関係がどんなに大切だったかわかるのです。

 愛する者から切り離されるということがどんなに悲しいことか、どんなにつらいことか、それをわれわれが一番感じるのは、死ぬときだろうと思います。死ぬときはひとりで死んでいかなくてならないのです。

わたしは、もう八年にもなりますが、三十三歳の息子をガンのために失いました。ガンそのものは放射線治療で完治したということでしたが、結局は放射線治療のためか、免疫力を失って死んでいったのですが、彼が自分がガンだと知って、自分の死の不安にさらされて、夜眠れないという日が何日もつづいたことがありました。どんなに睡眠薬を飲んでも寝れないのです。そういうときはわれわれを親を起こして、自分の話を聞いてくれと訴えたのです。三十三にもなる男がまるで子供になったようにして、小さいときからの話しをするのです。彼がそのとき話したことは、自分がどんなにさびしかったかということでした。

それはわれわれ親にとっては全く思いがけないことでした。息子がこんなに淋しい思いをしていたのかと本当に不思議な思いをしたのです。といいますのは、この息子は性格が穏和でだれにでも好かれるタイプで、友人は小さい時から沢山いたのです。病院にも大学時代の友人が親身になって見舞いに来てくれたのです。会社でもいい人間関係をもっていたようなのです。それなのに、どうしてさびしかったのかというのか、本当に不思議でした。葬儀の時にも彼の友人達がたくさん来てくれたのです。
 それでわたしは思いました。彼が自分は淋しい、孤独だったというのは、三十年間ずっと孤独だったというのではなく、今この時、死を前にして、自分が死の影の谷を歩もうとしているとき、この今がどんなに淋しいか、どんなに孤独な思いに立たされているか、それは今までの三十年間の親しい人との温かい交わりを帳消しにしてしまうほどの寂しさを死を前にして、味わっていたのだということでした。死ぬ数ヶ月のあいだ、彼がどんなに孤独であったかということでありました。

 死ぬ最後の一週間は、自分の死を敏感に感じたのか、病院で面会時間が来て、彼と別れなくてならないときに、彼は母親に「もう少しいてくれ、十分でもいいから、もう少しいてくれ、一分でもいいから、いてくれ」と、三十三になる男が母親にただをこねました。われわれ親が病室を去ろうする時にみせた彼のものすごいまなざし、親の顔をじっと見つめるまなざしに、こちらは耐えられないで目をそらしたほどであります。

 最後の時は、もう酸素吸入器をつけられましたが、まだ意識ははっきりしておりました。眼鏡をかけたままでしたので、わたしはいつも寝る時には眼鏡を外しますので、少しでも楽にさせてあげようと彼から眼鏡をとろうとしましたら、いきなり、大きな声で「取らないで」と叫んだのです。わたしは大変びっくりしました。それが彼と私がかわした最後の言葉になりました。それから数分後息を引き取ったのであります。彼は最後まで、親の顔を自分の脳裏にやきつけておきたかったのではないかと思います。

 われわれは死ぬ時には、そのように誰かがかたわらにいてもらいたいのです。

しかし、われわれ人間にそれができるだろうか。親はそれができるだろうか。わたしはできなかったのです。人間ではだめなのです。人間は一緒に死の陰の谷を歩むことはできないのです。それは神様しかおできにならないのです。死ぬときに、死の陰の谷を歩む時には、どうしても神さまが共にいていただかないとだめなのです。
 それなのに、われわれはその神様の関係をどんなに粗末にしてしまっているか。

 父なる神はイエスを見捨てたままにはしませんでした。イエスを神は三日後によみがえらせたからであります。イエスの復活は、神はイエスを最後には見捨てなかった、それはつまり、われわれ人間、われわれ罪人である人間を神は見捨てなかったということをわれわれに示しているのであります。

 そして、大事なことは、神はそのことを十字架という悲しみを味あわせることによってそのことをわれわれに示してくださったということです。それは十字架なき復活ではなく、十字架を通しての復活だったのであります。一度徹底的に神に捨てられる悲しみを味あわせて、その上でその悲しみを慰めてくださった、それがイエスの復活であります。

 神様に見捨てられるということがわれわれにとって、どんなに悲しいことか、そしてそれはどんなに恐ろしいことであるかを知ることです。その神様との関係をわわれわれがどんなに粗末にしてしまっているかということであります。

その神様との関係を取り戻すときに、われわれはあの死の影の谷を歩まなくてはならないという、あの本当の孤独の時にも、災いを恐れない、淋しくはない、なぜなら神が共にいてくださるからだという信仰をもって死の影の谷を歩むことができるのであります。

 主イエスが「死んだ者の復活はあるのですか」と問われたときに、復活はあると答えられたあと、こう言われるのであります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ。すべての人は神によって生きているからである」と、答えられたのであります。

 われわれはすでに死んだ人と、この神を通して、この神を信じることによって交わることができるのであります。それはただ思い出として死者と交わるのではなく、天にあって生きている者として交わることができるのであります。

 今日はこのあと讃美歌を三九九番をうたいますが、これはわたしの好きな讃美歌の一つであります。これは「天のちからにいやしえぬ悲しみは、地にあらじ」と繰り返し、繰り返し、歌われる讃美歌です。ここでは痛みとか苦しみとはいっていないのです。「天のちからに癒し得ない悲しみは」と歌うのです。肉体の痛みや苦しみは、お医者さんに注射で緩和して貰う以外にないかもしれません。こればかりは祈っても緩和されないかもしせません。医者に頼る以外にないかもしれません。

 しかし、悲しみだけは、神様しかいやすことはできないというのです。そして神様はそれをしてくださるというのです。なぜなら、神は、愛において傷つき、愛に悲しんでいる者を慰めて下さるもっとも深い愛のかただからであります。