「愛する者を失って悲しんで人に」


 愛する者を失ってしまった人の悲しみはどうしたらいやされるのか、どうしたら慰められるのか。
よく言われることですが、悲しみとか苦難というものは、その意味がわかったら、それは乗りこえられる、その悲しみや苦難はプラスに転じるといわれます。だから、その悲しみのなかで、その苦しみのなかで、なぜ悲しいのか、なぜ苦難が襲ってきたのか、その意味を知ることが大切だといわれます。しかし果たしてそうだろうか。

 わたしは十年前に三十三の息子を失いましたが、よく言われたのは、このことは牧師にとってとてもいい経験なるだろう、あなたの説教に深みを与えてくれるだろうといわれたのです。そういうことによって、少しでもわたしの悲しみをいやしてあげようという思いから、そういって慰めようとしてくれたのだと思うのです。しかしそれは子供を亡くした者にとっては、本当はなんの慰めにもならないのです。自分が牧師として立派になるために子供が死んだのだとすれば、自分は立派な牧師になんかならなくてもいいから、子供の病気をいやしてくれといいたくなるのです。

 何かを意味づけるということは、ほとんどの場合、それは自分にとって意味あるものとするということです。つまり、それは自分を鍛えるために、もっとあからさまにいってしまえば、自分を利するための、自分を幸福にするために、それはあったのだと意味づけることなのではないか。意味づけるということは、非常に自己中心的な作業になるのではないかということなのです。

 そんなことをして、悲しみや苦難を克服しても、なんにもならないと思うのです。ますます自分を自己中心的な人間にしていくだけなのではないか。自分の失敗によって起こる悲しや苦難を、自分を鍛えるための悲しみであり、苦しみであると意味づけて、それを乗りこえようとすること、それは別にわるいことではないと思います。自分の失敗による苦しみとか悲しみならば、それはそれでいいと思うのです。

 しかし、愛する者を失った悲しや苦しみを、それは自分になにかを意味するものだと意味づけてそれを乗り越えようとする乗りこえ方は、死んだ愛する者に対して本当にすまないという気がかえってするのです。

 ダビデが子供を亡くした話しを思いだします。彼は自分の部下のバテシバを奪い、妊娠させて、その発覚を恐れて、卑劣な手段で、その夫を殺して知らん顔をしていたのです。王様ですから、そのくらいのことは当たり前だと思っていたようです。しかし神はそれを許しませんでした。彼は預言者を通して自分の罪を知り、罪を告白します。ただちに神はダビデに対して、「罪の赦し」を宣言します。しかし、彼の犯した罪は赦されましたが、その妊娠によって生まれた子供はダビデの罪を背負って死ぬことを告げられます。ダビデは必死に神に祈りもとめ、断食して神に祈ります。

 罪は赦されたと神はいわれたのです。それならば、どうして子供は病気になり、死ななくてはならないのかと思って、神に訴え続けたのです。それでは自分の罪は赦されたことにならないのではないかと神に訴えのです。

 しかしダビデの必死に祈りにもかかわらず、子供は病死しました。そのとき、ダビデは、断食を止め、食事をしたというのです。これには家来たちはびっくりしました。病気のときには、あれほど深刻に悩み苦しみ、食事ものどをとおらなかったのに、死んだと知ると、ただちに断食をやめて食事をするとはどういうことかと、不快におもった。

 それに対するダビデの答えはこうでした。「子がまだ生きている間は、主はわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのところに帰ってくることはできない。」

 ダビデはどのようにして、愛する自分の子供の死の悲しみを乗りこえたのだろうか。それは一言でいえば、あきらめたということだろうと思います。「だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか」といっているのです。これはあきらめたということです。諦めるということは、言葉を換えて言えば、すべてを神に委ねたということです。

 ダビデは、子供の死を知ると、ただちに断食をやめて食事をしたのではないのです。子供の死を知ると、「地面から起きあがり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した」というのです。それから食事を用意させているのです。

 つまり、ダビデは、神の前にひれ伏し、この死は神が決定したことだと信じ、神を仰ぎみて、この事実を受け止めたということなのです。それはあらためて、神を信じ直したということです。それは言葉をかえていえば、神の前に自分の人間的な願いと思いをあきらめたということなのではないかと思います。

 竹森満佐一は、このところの説教で、「ここには悲しみはありました。しかし不平はないのです。悔いもないのです。神のなさることに、すべてをお任せするだけでありました」といっているのです。

 ダビデは子供の死をどうのりこえたか。それは子供の死を自分にとってそれはどういう意味なのかと、その死を意味づけることによって乗りこえたのではないのです。子供の死は、自分の罪の罰であり、自分の罪の償いとしての死であるということわかっていたのです。つまりその意味づけはさせられているのです。しかしそれは少しもダビデの悲しみを乗りこえさせることにはならなかった。その意味づけは、かえって彼を苦しみさせ、悲しませるだけだったのです。

 ダビデは子供が死んでしまったとき、あきらめたのです。そうしてその子供の死をふっきたのです。悲しみはなくなりはしないし、これからも続いたと思います。しかし、竹森満佐一がいうように、「ここには悲しみはあった。しかし不平はない」ということだと思います。あきらめる、ということは、われわれ信仰者にとっては、さいわいなことに、神にすべてを委ねることを通して、あきらめることができるのです。

 山田太一という脚本家がしきりに現代人は、あきらめることをしなくなったと嘆いております。あきらめるということがどんなに大事かというのです。

 最近の臓器移植の問題も、どこまで臓器移植を認めるかということは、その境界線をひくのは難しいといと思いますが、心臓移植までして、生き延びるというは果たして、いいことなのか。そのうち、脳移植までして生き延びようとすることになるのではないか。遠藤周作が腎臓の病気になったときに、お子さんの腎臓移植を受ける可能性をしめされたときに、自分は人の腎臓を移植されてまで生き延びようとは思わない、それは醜いといったといわれています。

 臓器移植は最後のところは、結局はお金の問題にゆきつきます。お金の用意できない親は子供の病気を治せないということで、もっと深い悲しみと、自責の念を与えるだけです。

 人間は神の前にあきらめるということが大切だと思います。死は最終的には神がなさることなので、われわれ人間にとっては、諦める以外にないと思います。そしてそれは大切なことです。

 ヨブは、自分の襲ってきた不条理な不当な苦難に対して、その意味づけをもとめて執拗に神にその答えを求めつづけましたが、神は結局はヨブにその意味づけをあたえませんでした。ただ、自己中的になっているヨブ、人間中心的になっているヨブに対して、天地創造の壮大な営みに気づかせて、その人間中心的な意味付けを拒否して、神の前にひれ伏せさせたのです。ヨブもまたその神の前にひれ伏して、その苦しみを乗り越えていったのです。

 それでは苦しみや悲しみのいっさいの意味づけは意味がないのか。ただひとつ意味づけに意味があるとすれば、その意味づけが自分を利するための意味づけではなく、自分の罪を深く自覚させるための意味づけの場合は意味があると思います。
 
 ダビデは自分の犯した罪が赦される背後に、自分の愛する子供の死という償いの死、犠牲の死があったのだと知ること、そういう意味づけを教えられたこと、それによって自分の罪を深く自覚させられるということは、大切だと思います。しかしそれによって悲しみはなくなるわけではなく、ますます悲しみは深まるかもしれません。

 イエスの十字架のあがないの死の意味づけは、なくてならないことだと思います。罪の赦しの背後には、愛する者の死の犠牲と償いを必要とする意味を知ることは大切なことだと思います。

 苦難と悲しみを通して、自分の罪を深く自覚すること、そのような意味づけは大切なことだと思います。そのことによって苦難は克服できると思いますが、自分の罪を知っただけにますます悲しみは深まるし、続くかと思います。そしてその悲しみをなくす必要はないと思います。悲しむことを忘れた人間は、愛を失ってしまうこことになると思います。