「なぜ顔を伏せるのか
     創世記四章一ー一六節 ローマ人への手紙九章一四ー一八節


 エデンの園を追放されたアダムとエバに、子供が生まれました。カインとアベルという息子です。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。ある時ふたりはそれぞれ神に捧げものをしました。ところが主なる神はアベルの供え物には目をとめましたが、なぜかカインの供え物には目をとめませんでした。それでカインは激しく怒って顔を伏せたというのです。そしてこれが後に人類最初の殺人に発展するのであります。カインはアベルを野原に連れ出して、弟アベルを殺してしまったのであります。
 
 殺人の発端は、神がカインの供え物に目を留めないで、アベルの供え物に目をとめたという事から始まりました。なぜ神はそうなさったのか。その理由は記されていないのです。それでいろいろとその理由を探り出そうとする試みがあります。

 ここには、「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた」と記されているのに対して、アベルのほうは「群の中から肥えた初子を持って来た」と記されている。つまりカインは無造作に神にささげものをしたのに対して、アベルは群の中のういごと肥えたものと、群の中から一番良いものを捧げているというのです。そのために神はアベルの供え物を顧みたのだというのです。

 地の産物を捧げる時には、初物を捧げなければならないのに、カインは無造作に捧げたのだというのです。しかし動物の場合でしたら、ういごというのははっきりしております。肥えているかどうかもはっきりしております。
 しかし地の産物の場合には、初物といっても別にどれが初物かははっきりしないと思います。みないっせいに実るからであります。捧げる人がこれは初物だと言って捧げるということだろうと思います。

 第一、もし聖書がカインとアベルのささげものに差があって、それで神がカインのものを退け、アベルのものを顧みたのだということならば、その事をもっと明確に示してもよさそうであります。何もそんな謎ときをわれわれに委ねる必要はひとつもないからであります。
 
 ここには、「なぜ」という理由が記されていないところに、むしろ意味があるのではないかと思います。つまり、神がアベルの供え物に目を留められ、なぜカインのそれには目を留めなかったということ、神が誰の供え物に目を留めるかどうかは、神の自由に関わっていることで、それに対して、人間はなにも文句は言えないし、言うべきでもないということであります。

 それはパウロが、ヤコブとエサウの選びに対して、神がヤコブを選び、エサウを退けたのはなぜかということに関して、神の側に不正があるのかと問うて、「断じて神の側に不正はない。モーセもいっているように、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくしむ』、ゆえにそれは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによる」と言っているのであります。

 われわれと神との関係は、陶器師と陶器との関係だというのです。造られた陶器が造った陶器師に対して文句などいえる立場にはないというのです。われわれと神との関係は決して対等の関係ではないというのです。

 われわれがある人との関係で、対等の関係に立ちたいという事は、対等と言っても、実は対等ではなく、結局はいつでもこちらが優位でなくてはいられない、こちらが優位でないと対等の関係ではないと言い出すものであります。女性解放運動も、どうかすると、男性と対等の関係に立ちといいながら、その実は男性よりも優位な関係に立ちたいという運動になっているのではないかと思います。

 ですから、われわれが神に対して対等の関係でなければいやだというのは、実は結局は、われわれが神よりも優位に立っていなければいやだ、ということで、自分が神よりも上でなければいやだということと同じであります。

 しかし神とわれわれ人間の関係は、対等の関係ではないのです。いつでも神が優位の立場でなければならないのです。しかしそれは神がいつも暴君のように、専制君主のようにいばりちらしているということではなく、神はその優位の立場にいて、いつもそういう立場に立って、「わたしはあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者をいつくしむ」というのです。

 神がアベルの供え物に目を留め、カインのそれには目を留めなかった。その理由はわれわれにはわからないのです。これは神の自由にかかわることであります。それに対してカインはどうしたか。自分が目に留められなかったことに対して、神に文句をいったか、神に堂々と顔をあげて文句を言ったか。カインは神に対して「顔を伏せた」のです。

 カインは神に怒ったかも知れませんが、それは神に対する怒りというよりは、それはアベルに対する怒り、自分に対する憤りです。カインは怒ったかも知れませんが、それは神の不公平、神の不正に対する怒り、神のえこひいきに対する怒りというよりは、自分が認められなかったということに対する怒りであります。なぜなら、カインは神に対して真っ向から、「なぜあなたはこんな不公平なことをなさるのですか」と文句を言っていないからであります。

 カインは神に向かわないで、アベルに対して、アベルを妬み、アベルを殺してしまうからであります。

 カインは神の不公平さは問題にしていないのです。もしこの立場が逆だったならば、どうでしょうか。神がカインの供え物に目を留め、アベルの供え物には目を留めなかったならば、カインは恐らく「なぜこんな不公平なことをなさるのですか」と神に文句をいうことはしないし、怒ることもなかったろうと思います。もし神が自分をえこひいきしてくれるならば、何も文句もいわないし、神の不正に文句もいわないと思います。

 われわれがえこひいきを憎むのは、えこひいきする者の不公平とか不正を憎むというよりは、ただ自分がえこひいきされなかったということを口惜しく思うだけなのではないか。

 自分がえこひいきされなかった時、われわれは大抵えこひいきする者を憎むよりは、えこひいきの対象になった人を妬み、抹殺しようとするのであります。それはつまりえこひいきをする者の不正に怒るというよりは、自分が顧みられなかったことを恨むということで、それは極めて自己中心的な思いのあらわれであります。

 神はアベルの供え物に目を留め、カインの供え物には目をとめませんでした。ここには確かに神のえこひいきがあります。

 聖書にはしばしばえこひいきをめぐる物語があって、そうして不思議なことにこのえこひいきの愛に対して、聖書は非難していないのです。

 われわれにとっては、愛においては、えこひいきが最大の問題だと思うのに、聖書はこのとことは問題にしないのです。パウロが愛を定義して、「愛は寛容であり、情け深い、妬むことをしない。高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない、不義を喜ばないで、真理を喜ぶ」と、いろいろと言っているなかで、愛はえこひいきしない、という項目はあげていないのです。
 むしろ愛はねたまない、というのですから、えこひいきされても妬んではいけないということが言われているのであります。

 ヤコブとエサウの話では、その母親リベカはヤコブだけをえこひいきして愛している。父親のイサクはエサウをえこひいきして愛している。

 聖書では、えこひいきというのは、ある時には、お前だけを特別に愛するという愛の深さの表現としてあらわそうとしています。そしてなによりもそれは愛の自由さをあらわしております。愛というのは、コンピューターのように機械的に公平無私とか、そういう平等主義ではないのです。生きた愛というのは、お前だけを、この人だけを愛したいのだという自由さを失わないのです。
 
 第一、神はイスラエル民族をあれだけえこひいきして、えこひいきして、愛しているのであります。そこにわれわれは神の愛の深さと神の愛の自由さをみなければならないのであります。神はいつでも「わたしは憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとするものを慈しむのだ」というのです。この神の自由さがなければ、それは愛にはならないのです。

愛はいつもえこひいきの愛として現されるのではないでしょうか。それは愛の深さを示しております。夫婦の愛、家族の愛は、いつも自分の妻を自分の夫だけをえこひいきして愛するのです。それがなければ、結婚生活は成り立ちようがないのです。家族愛もそうです。

神はアベルの供え物には目を留めましたが、カインのそれには目をとめませんでした。

 カインは怒りました。それは神の不正に対する怒りというよりは、ただ自分のプライドが傷つけられたことに対する怒りであります。もし神に対して怒り、神の不正に対する怒りならば、ヨブのように神に真っ向から向かっていけばいいのであります。神に対して顔を伏せることはないのです。顔を伏せてはいけないのです。カインが顔を伏せて、怒ったということは、カインという人間が大変プライドの高い人間で、神に心から捧げものをするというところが全くない人間だったということがわかるのであります。

 一番問題なのは、神に対して顔を伏せるということなのです。神はカインに言います。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。

 たとえ、自分のプライドが傷つけられたといって、怒ったとしても、口惜しい思いをしたとしても、その怒りをその口惜しさを、顔をあげて、顔を伏せないで、神にぶつければいいのです。そうしたら、事態は別の方向に動くのであります。少なくも、弟アベルを陰険に殺してしまうという事態は避けられた筈であります。

 神はカインの心の動きを見抜き、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と警告します。

 ここでは罪というものが、まるで獅子かハイエナのように人間の外から襲う動物のように例えられております。それはエバを誘惑したへびの存在と似ている。これは古代的な神話的表現ではありますが、今日のわれわれの実体でもあるのではないか。罪を犯す時のわれわれの心理的な動きをよく表しているのではないかと思います。

 新約聖書では、これをしばしばサタンとして表現している。罪はわれわれの心の中の主観的なものではなく、われわれの外にある、われわれの外から襲ってくる、客観的な力であるというのが、聖書の罪に対する一つの見方です。一つのというのは、聖書では、罪はあくまでわれわれ人間の責任として考えているからであります。しかし聖書は、もうひとつの罪に対する見方があって、罪は人間の責任とか自分の責任とかということを超えて、人間の外部から自分の外部から襲ってくるどうしようもない悪魔的な力の誘惑、悪の存在を考えているのです。

 ですから、この罪から逃れるためには、自分の意志の努力などではなく、神に助けを求めなくてはならない。サタンに対抗できるのは、人間の意志などではなく、神しかいないからであります。そのためにも、まず顔を神の前で伏せてはいけないのであって、顔を神に向かってあげなくてはならない。不満があるならば、それを神に訴え、サタンの誘惑の力を感じたならば、神に助けを呼び求めなくてはならないのであります。
 
 罪は獅子のようにハイエナのように強力ではあるが、しかしそれは治めることができないものではないのだと神はカインに対していうのです。「罪はお前を求める。お前はそれを支配しなくてはならない」、口語訳では「治めなければならない」となっておりますが、罪はわれわれが治めることができるというのです。罪に対してわれわれは宿命感に陥ってはならない。それは治めることができるというのです。 

どうやって治めるのか、それは神に顔を伏せるのではなく、顔を神向けて、神に助けを求めることによってであります。

  カインの心の中にもうすでにアベルを抹殺してしまおうという思いが浮かんでいるのです。しかしそれはまだお前には治めることはできるのだから、治めなければならないと、神はカインにいうのであります。われわれが心に思い浮かべることと、われわれがそれを実行に移すこととの間は、紙一重のようでいて、また大変な距離があるのも事実ではないかと思います。

 アベルを抹殺してしまいたいという気持ちがカインの心の中にふつふつと生じてしまうことは致し方ないかも知れません。しかしそれを治めることはできる。われわれも自分の心のなかに邪悪な思いが浮かんできてしまうことは致し方ないのです。それが浮かんできたからといって、くよくよと反省ばかりしても仕方ないのです。その時にこそ、神に顔を向けて祈り、神に赦しを乞い、神からの聖霊の助けを求めればいいのであります。

 カインはアベルを野に連れ出して、殺してしまいました。主なる神はカインに対してこう言います。「お前の弟アベルはどこにいるのか」。

 最初に罪を犯したアダムに対する神の問いは「お前はどこにいるのか」という問いでした。そこでは神との関係が問われたのであります。
 そしてここでは、「お前の弟はどこにいるか」という問いであります。それは「お前の隣人はどこにいるのか」という問い、われわれの隣人との関係でわれわれはどこにいるかが問われるのです。

神はいつもわれわれに対して「お前はどこにいるのか。お前は神との関係のなかでどこにいるのか」と問い、そして次に「お前の弟はどこにいるのか」と、われわれの隣人との関係を問うのであります。

 それに対してカインは、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えるのです。われわれは自分の隣人との関係を問われて、われわれがどんなにその責任から逃れようとしているかということです。カインはアベルを抹殺しているのです。それなのに、「わたしは弟の番人なのですか」と、弟のことなどわたしは知らないと答えているのであります。

今まで学んできましたように、創世記の一章から十一章までは、このようにして、人間の罪の深まりを語っていくのであります。

 神との関係が崩れ、そして隣人との関係も決定的にくずれて、人間の罪はどんどん深化し、ひろがっていく、そのために神はとうとうノアの一族だけを残して、大洪水を起こし、神が造られた世界を再創造しようとなさったというのが六章から始まります。
 
 しかしそれでも人間の罪は、どんどん発展し、自分たちは神の領域まで上り詰めようとして、つまり神になろうとして、天にまで達する高い塔を建てようと試みたのであります。十一章にそれが記されております。いわゆるバベルの塔であります。つまり、神なんかいらない、もう自分達の力でやっていこう、やっていけるんだと煉瓦で塔を造りだした。それが今日の文明社会なのだ聖書は語るのであります。われわれの文明社会というのは、神を必要としない世界を作ろうとする人間の試みなのであります。

 神はそのことに危機感を憶えて、とうとう人間の言語をバラバラにして、人間を散らしたのであります。
 それが創世記の一章の天地創造の話しから、十一章にまでのバベルの塔の話しであります。ここまでは聖書は神話を用いて人間の罪の深化を語ってきました。

 今日は、わたしの伊勢崎教会での説教は最後になりますので、聖書はその後なにを語ろうとしているかを簡単に述べて起きたいと思います。

 創世記の十二章からアブラハムが登場します。イスラエル民族の父祖アブラハムであります。ここからいわば神話ではなく、いってみれば歴史が始まるのであります。
 
 バベルの塔の記事までは、神は全人類を直接愛し、神の御心を示そうとされましたが、あまりにも人間の罪は広がっていく傾向をみて、神はイスラエルという小さな本当に小さな一民族を通して、全人類に神の愛と神のみこころを示そうと計画をなさったのであります。それがイスラエル民族の選びであります。ですから、イスラエル民族というのは、神のみこころを全人類に伝えるためのいわば道具にすぎない筈だったのです。

 しかし一度選ばれたイスラエル民族は、その選ばれ理由を誤解して、自分たちは特別な民なのだと誇りだした。選民性のおごりの歴史を歩み始めるのであります。そのおごり高ぶりをいさめるために神はとうとうバビロンという国によって、イスラエルという国家を滅ぼすのであります。バビロン捕囚であります。その後もイスラエルは悔い改めようとしない。

 それで神はとうとうご自分のひとり子イエスをこの世に派遣して、この御子イエス・キリストを通して、神の愛とみこころをすべての民に伝えようとなさったのであります。しかしそのひとり子も殺されてしまった。神はそのひとり子イエスを復活させて、そのイエスを信じる共同体をお造りになった。それがわれわれの教会なのであります。もはや民族としてのイスラエルではなく、イエスを信じる信仰共同体である教会に、神はご自分の御心を託したのであります。そのことが書かれているのが新約聖書であります。