「上に立つ権威に従う」  ローマ書一三章一ー七節


 「人は皆、上に立つ権威に従うべきである」とパウロはいうのであります。それはその前のところで、自分で復讐するな、復讐は神の怒りに任せなさい、と勧めたあとの言葉であります。

 そういう前後関係からの言葉として、この句を読むときに、ここのところはわれわれにとっても納得のいくところであるかもしれません。つまり、復讐は自分でしてはいけない、神の怒りに、それはつまり神の正義に任せなさいということで、神の正義に任せるということは、具体的には、われわれ人間が造った国家という権威による司法制度に委ねるということだからであります。

 国家が司る司法に、裁判に委ねることが、復讐の連鎖を断ち切る最善の方法だからであります。

 しかし、ここでは、パウロは、その上に立つ権威は、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからだ」とまでいうのです。「神に由来しない権威はなく」というところまでは、わかりますが、「今ある権威はすべて神によって立てられた」とまでいわれてしまうと、とまどってしまうのではないかと思います。

 われわれ現代人は、もう国家の権威というものを信用していないのが現状ではないでしょうか。特にわれわれ日本人は、あの戦争体験を通して、国家というものがいかに悪で、いかに欺瞞に満ちたものであるかを知ってしまった者として、国家というものがとても神に由来した権威をもっているものとは思えないのであります。

 確かに、戦後は民主主義で、すべては、公正な選挙で選ばれた人々によって、国家が成り立ってはいますが、しかし選挙そのものが、お金とか地域の利益とか、そうした様々な思惑によってなされる限り、決してわれわれが手放しで、国家を神によってなされたものであるとは言えなくなっていると思います。

 聖書が国家の成り立ちについて、書いているところは大変興味深いと思います。それは旧約聖書のサムエル記上の八章に記されております。

 当時の指導者でありますサムエルが年老い、あまり権威が亡くなったときに、その息子たちが父に代わって裁きを行うものになったのです。ところがその息子達は不正な利益を求め、賄賂をとって裁きを曲げた。
 それでイスラエルの長老達は全員集まって、サムエルのところにきて、「あなたはもう年をとられた、あなたの息子たちはあなたの道を歩まず、とても信用してついて行くわけにはいかない、それで今こそ、ほかのすべての国々のようにわれわれのために裁きを行う王を立ててください」と言ったのです。

 それを聞いてサムエルはとても悲しんだ、それはただ自分の権威がなくなったことを悲しんだということよりも、イスラエルにとって、他の国々のような王を立てることは、それは悪だと感じたのです。それで神に祈った、どうしたらよいかと神に祈った。

 神の答えはこうでした。「彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのは、あなたという指導者ではなく、彼らの上にわたしが王として君臨することを退けたのだ。民衆が今までしてきたことは、わたしを捨てて、他の神々に仕えることだった。あなたに対しても今同じことをしようてとしているのだ。今は、彼らに従いなさい。ただし、彼らにはっきりと、警告し、彼らの上に君臨する王を立てるということは、どういうことか、どういう結果を招くかをはっきりと警告しておきなさい」というのであります。

 そうしてサムエルは長老たちに言うのです。「あなたがたが、あなた方の上に立つ君臨する王を立てるということは、まず王はあなたがたの息子たちを兵士として徴用することになる。また強制労働するために、徴用する。女たちもまた王のために仕事をするために徴用される。最上の田畑は王のためにとられ、十分の一が徴用される。こうしてあなたがたは、王の奴隷になる。その日にあなたがたは、自分の選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ、しかし神はその日、あなたたちに答えてはくださらないだろう」というのです。「それでもあなたがたは王をもうけたいのか」というのです。

 これはまさに今日の国家制度を預言してるのです。国家を作るとということは、国家が軍事国家になり、徴兵制度がしかれ、重い税金が課せられることになる、それでもあなたがたは王が欲しいのかというのです。

 それに対して民はサムエルの警告に従わず、「いいえ、われわれにとどうしても王が必要なのです。われわれもまた他のすべての国民と同じように、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、われわれの戦いを戦いたいのです」といったというのです。それで仕方なく、サムエルは民の要求を聞き入れた。

 それによって誕生したのがイスラエルの初代の王、サウルだったと旧約聖書は記すのであります。そうしてこのサウルは最初はよかったのですが、結局は最後は自分の名声と野心に終始するようになり、主なる神に従わなくなっていった。それで神はこのサウルを失脚させて、ダビデを王として油を注いだと記していくのであります。

 それ以後、イスラエルの王は、ダビデとヨシアを除くすべての王がみな野心に富み、異教の神を拝んで、国を滅ぼした王として描くのであります。

 ダビデ王はのちにメシアの代名詞になったくらいに、高く評価されておりますが、しかし聖書はそのダビデの人間的弱さをしっかりと描くのであります。自分の部下ウリヤの妻バテシバを奪い、妊娠させ、それを隠蔽するために、卑劣な手段でその夫ウリヤを戦死させてしまうという大罪を犯す王として記すのであります。
 しかし、そのダビデは、自分の罪を自覚したときに、神の前にひれ伏し、自分の罪を悔いる王として、神の権威に服する王として、その一点で理想的な王として描くのであります。

 ヨシアは偶像礼拝が横行していたときに、律法の書を発見して、その律法に従って宗教改革をした王として評価されているのであります。

 ダビデもヨシアも、神の権威の前にひれ伏した者として、本当の王であったと聖書は評価するのであります。

 神という権威にひれ伏すことのできない王、神の権威にひれ伏さなかった王は、そんな者は権威をもっているとはいえないということであります。

 この地上のすべての権威は、神による権威なのだということであります。神によって立てられた権威なのだという自覚をもった者、神という権威にひれ伏すことのできる者だけが、真の権威をもった者だということであります。

 しかし現代における権威をもった者という人はどういう人でしょうか。現代にも、王と称される王制をもっている国もあります。日本もまた天皇制を敷いております。それらは、選挙によって選ばれた権威者ではなく、家系の血筋によって継承されている王であります。日本の天皇もそうであります。その継承のもとになるものは、そのもとをただしていけば、神話的世界でつくられたものであります。そのために、それは神によって立てられた権威者となっているわけです。

 現代人のわれわれの大部分の人は、そんなものは、神話的な虚構だ、ウソだということは、よく分かっているのではないかと思います。それでも王制という制度を廃止ししない、天皇制を廃止しないのは、それが虚構による権威だとわかっておりながら、それでもそういう権威を設定しておいたほうが、われわれが生きるためには、便利だ、便利だというと少しいいすぎかもしれませんが、都合がいいからであります。なぜなら、それは人間を、具体的にいえば、選挙によって選ばれた政治家を、神の権威にまで祭り上げないためであります。たとえ、虚構によってであれ、一人の人間を神の座に据えておいたほうが、他の人間を神の座につかせないための防波堤になるというわけです。

 そういう虚構としての王とか天皇というものを立てていないと、ヒットラーのように、あるいは、ナポレオンのように、自分が神の座に立とうとするからであります。

 われわれ人間は限りなく、自分を神の位置に置きたがるのであります。自分自身を権威者にしたくなるのであります。

 あらゆる権威を否定するアナーキズム、無政府主義とも訳されますが、そういうアナーキズムの行き着くところは、自分自身を権威者に祭り上げてしまうという恐ろしさであります。

 偽りの国家権力を打ち壊すのだと改革に走ったものが、その人がどこかで、具体的に自分がひれ伏す場所とか、自分がひれ伏すことのできる尊敬する先生とか先輩とか、もっとはっきりいって、自分がひれ伏すことのできる神に対する畏敬の念をもっていなければ、その改革は真の改革にはならなということであります。
偽りの権力者を打ち壊したとおもっても、改革者自身が権力者になってしまうからであります。
   
 それは大学紛争で起こった最後が、自分達の中での派閥争いであり、内ゲバによる仲間同士の殺害という悲惨な出来事であったことがよく示していることなのではないか。

 自分の主張が絶対に正しいという錯覚に陥っている、自分を絶対化して、自分を相対化できない、自分を疑うことができない、そのときに、われわれは自分が神になっているのであります。

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきである。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからだ」というこの聖書の言葉は、われわれが自分自身を絶対化させないための防波堤になっていると思います。とても大切な言葉だと思います。

 十戒の第五の戒めは「あなたの父母を敬え」であります。この第五の戒めは「神のみを敬え」「偶像を造ってはならない」「神の御名をみだりに唱えてはならない」「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という、十戒の前半に属する戒めなのか、それとも、後半の戒め、「殺してはいけない」「盗んではいけない」という後半のわれわれの社会生活に関する戒めに属するのかというのは、昔から議論があるのです。
 この十戒は神によって二枚の石版に刻まれたというのですから、バランスからいうと、五つ、五つの戒めになるわけで、そうなると、この「父母を敬え」は、「神のみを敬え」という十戒の前半に属することになるわけです。

 「父母を敬え」という戒めは、われわれの社会生活における戒めではなく、「神を敬え」という戒めの具体的な戒めとして、置かれていると思います。神を敬う、ということを具体的に家庭のなかで教育するのは、父母なのです。宗教教育は、父母に委ねられているのです。父母は子供に神を敬うことを教え、子供はそれを教えてくれた父母を敬うことを通して、神を敬うことを学んでいくわけであります。父母の前にひれ伏すことによって、子供は、自分には権威あるものが存在するのだということを学んでいくわけです。

 父母の内容は問わないのです。父親がどんなにだらしのないのんだくれてあっても、その父親を軽蔑してはならないのがイスラエルの掟だったのであります。昔の日本もそうだったのです。小さいときには、自分にはそういう権威ある存在がいるということが、父母を敬うということを通して、教えられる一番大事なことだったのです。

 神を崇める、そして具体的に、自分には、敬うべき人が存在しているということが、われわれにとってどんなに大事なことか、それは自分を絶対化させないための防波堤のような役割を果たしてくれるからであります。

 その一つが国家権力なのであります。しかし、国家権力そのものが、そのはじめから、実は神を捨てて、人間の王を神の位置に据えるという動機をもって造られた制度だというのが聖書の考えなのです。

 自分達の上に自分たちを裁く王が欲しいと人々が要求したときに、主なる神が憂えたように、人々は神が王として君臨することを捨てて、人間を王として選ぼうとしているのだということだったのです。その人々の要求を神は容認はしておりますが、それは神様からすれば、ひとつの譲歩だったのであります。
ですから、聖書は、国家というものは、もともとそういう危ういものを含んでいるものだと見ているのです。

もともとは、国家という権威者は善を行わせるために、神に仕えるものなのです。だからもし悪を行えば、恐れなければならないのです。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのであります。
 
 しかし、悲しいことに、人間がひとたび権力を握りますと、自分自身が神だという錯覚に陥る、自分の権威はただ神に委託された権威だということを忘れ、それを無視して、自らが神の座に着こうとするのであります。そこに独裁者がうまれるわけです。そうして、自分たちの権威を危うくさせる者を排除しようとするのであります。

 そうなりますと、国家というものが、ただ悪を行う人々に剣を帯びているだけでなく、善を行う人々、つまり、国家を批判する人々に対しても、剣をもって臨もうとしているということになるのであります。

 そのために殉教者が生まれるのであります。イエスも、その権力によって殺されたのであります。そして恐らく、パウロも、ペテロも殉教したと思われるのです。

パウロがこの手紙を書いた時には、まだネロの迫害といわれるほど、キリスト者に対する迫害は激しくなかったといわれております。しかしパウロほどの人なら、そうした時代が来ることは容易に予想できた筈であります。イエス・キリストが国家権力によって殺されているからであります。

 それでも国家という権威に従わなければならないのか。そういう偽りの権威者に従うよりは、自分を神の位置に置き、神に従おうとしない権力者を倒して、権力者を変える抵抗運動に参加すべきではないか、という選択肢もあり得ると思います。
 権威ある者に従うのではなく、その偽りの権威者を打ち壊すことによって、神に従うという選択肢もあると思います。

 ボンヘッファーという神学者であり、牧師は、ナチズムのヒットラーの暗殺計画に参加して、それが発覚して、捕らえられ、処刑され、殉教の死をとげたのであります。

 ある人がここのところの説教でこういっております。「殉教するということは、どこまでも自分の信仰とか思想を主張しつづけながら、その国の法によって裁かれることだ。信仰を最大限に主張していながら、誤った考えに裁かれることだ。それはまことに残念なことだ。しかも、その殉教は、どんな方法よりも、信仰を証し得ていることになる」といっております。

 ボンヘッファーはヒットラー暗殺を成功させたことよりも、ヒットラーによって殉教させられたことによって、信仰の証を強烈に今われわれに訴えているのであります。

 神にひれ伏す人は、具体的に、人にひれ伏すことをする人でなければならないと思うのです。自分は神だけにひれ伏すのであって、人なんかには、ひれ伏さないと威張っている人は、結局は、自分自身をいつのまにか、神にしているだけなのであります。
 「人は、みな上に立つ権威に従うべきだ」というこのパウロの言葉を大切にしていきたいと思います。