「信仰は聞くことから」   ローマの信徒への手紙一○章一四ー二一節


パウロは一七節で、「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」といっております。信仰というのは、まず信じることから始まるのだとはいわないのです。信じるためには、まず聞かなくてはならないというのです。

 一四節では、「ところで、信じたことのないかたをどうして呼び求められよう」という言葉から始まっておりますが、これはその前の一三節で「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という言葉を受けて、そのかたを呼び求めるためには、そのかたを信じなければならない、そして信じるためには、だれかがそのかたのことを宣べ伝える人がいなければならない、そしてその宣べ伝える人は神から遣わされた人でなければならない、述べていくのです。その宣べ伝える人の言葉を聞いて信仰は始まるのだというのです。
 なんだか、ずいぶんまわりくどい議論をしているようです。

 しかし、このところの中心は、「信仰は聞くことから始まる、キリストの言葉を聞くこから始まるのだ」といってもいいと思います。

 信仰は信じることから始まるのではないのです。もし信仰というものが、信じることから始まるとすれば、それこそ、「鰯の頭も信心から」ということになってしまうのであります。「鰯の頭も信心から」というのは、どんな意味だろうかと気になって辞書をあらためてひいてみましたら、「いわしの頭のようにとるにたらぬものでも、信じる気持ちがあれば尊いものに見えるように、信仰心の不思議さをたとえた言葉」と説明されていましたが、信仰はそんなわれわれの信心から始まるものではないということであります。

 まず「聞く」ことから始まるのだということであります。信仰から始まるということは、結局は自分から始まるということになってしまうのです。そうではない、信仰は聞くことから始まる、つまり自分からではなく、他者の声を聞くことから始まるということであります。

 「聞く」ということがどんなに大事なことか。

わたしが四国にいたときに、隣の町で宮沢明子というピアニストのコンサートがあって聴きにいったことがあります。それは市民公会堂で行われたのですが、子供がたくさん来ておりました。いろんな音楽教室のお子さんが親と一緒につれられてきたのだろうと思います。とてもさわがしかったのです。なにかとてもピアノを聴くという雰囲気ではありませんでした。
 そのとき、宮沢明子は演奏する前に、マイクをもってこういう話をなさったのです。「自分は全国各地をまわって、こうしたコンサートをひらいている。たくさんの子供たちが聴きにきている。だから子供がさわいでいてもひとつもわたしは気にならない。
 日本の場合、こうしたコンサートにいって音楽を聴くというチャンスがとても少ない。それは大変残念なことだと思っている。ヨーロッパにいくと、コンサートがいくつもあって、みんな小さい時から親に連れられて音楽を聴くという習慣ができている。それをみていて、小さい時から音楽会に行って、他人の優れた演奏を聴くということ、音楽を聴くということがどんなに大事なことかと自分は痛切に感じている。
 今日本の若い音楽家はみな技術的には優秀だ、世界のコンクールにいっても、日本の音楽家は技術的には優秀だ。しかし本当に音楽を楽しんでいるか、本当に音楽を演奏しているかとなると疑問だと外国の人からよく言われる。だから自分は日本の全国をまわって、小さい時から音楽を聴くというチャンスを作っているのだ。だから子供がさわいでいてもわたしは平気なのです」という話をなさったのであります。

 自分が演奏するだけ、自分を主張するだけ、それだけでは音楽を演奏したことにはならないというのです。自分の音楽を主張する前に、まず人の演奏を聴いて、自分の心を豊かにしておかなくてはならないということであります。

 「聞く」ということがどんに大事なことか。そして聞くということは、他者の声を聞くということであります。自分以外の他者の声を聞くということであります。私たちははそれが本当にできているか。

 よく講演会に行って、講師の話に感動することがあると思います。多くの場合、ああ、この講師は自分がふだん思っている通りのことを言っているといって、共鳴し感動する場合が多いのではないかと思います。しかし、そういうのは本当に「聞いた」ことになるのだろうか。

 本当に聞くということは、自分以外の声を聞くということであります。講演会にいって、本当に感動するということは、その講師が今まで自分が考えていたこととは全く違うことをいってくれた、それに感動するということが本当に聞くということだと思います。

、他人を通して自分の声を聞いても、自分が思っていたことを聞いて、ああ、自分は正しかったと悦に入っても意味がないことだと思います。

 自分以外の声を聞くということは、なんと言っても自分を超えたかたの声、人間を超えたかたの声を聞くということであります。つまり、神の言葉を聞くということであります。それが本当に聞くということであります。ですから、パウロは「実に信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのだ」というのです。聞くということは、自分の心の声を聞くことではないのです。自分の外から、自分の上から、迫ってくる神の言葉、キリストの言葉をきくということです。

 聞くということで、教えられる旧約聖書の記事が二つあります。ひとつは、預言者エリヤが神の声をきいたところです。もう一つは少年サムエルが神の声を聞いたという記事です。

 預言者エリヤが預言者として活躍した時は、当時のイスラエルの王アハブは異教の地の王の娘イザベルを妻として迎えて、その奥さんの影響で偶像であるバール信仰に傾いていくのです。それで本当の神であるヤハウェを信じるもの、それを宣べ伝える預言者をことごとく殺していくのです。
 
 預言者エリヤも迫害にあって、神の山ホレブに逃れて洞穴に入っていたときに、主の言葉があった。「エリヤよ、お前はここで何をしてるのか」という問いに対して、預言者エリヤは答えます。「自分は今まで情熱を傾けて、万軍の主に仕えてきた。ところがイスラエルの民は神との契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちをことごとく殺していった。わたし一人だけ残り、そのわたしも今殺されようとしているのです」と、主に訴えるのです。

 すると主は「そこを出て、山の中で主の前に立て」といわれた。エリヤは山の中に立った。非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし風の中に主はおられなかった。風のあとに地震があった。その時にも主の言葉は聞こえてこなかった。地震のあとに火が起こった。その中にも主はおられなかった。火のあとに、静かにささやく声が聞こえたというのです。

 預言者エリヤは今たったひとり残っている真実の預言者あります、それならばその自分に神様が語りかけてくるのだから、圧倒的な迫力で自分に神の言葉が迫ってくるだろうと期待していたのです。しかし嵐の中にも、地震の中にも、火のなかでも、主は語らなかった。それは見事に裏切れた。
 エリヤの期待していたことがすべてことごとく壊されていって、もう恐らくエリヤがあきらめかけていたときに、主の声が聞こえてきたというのです。それはよほど耳をそば立てないと、聞こえてこないほどにささやくような静かな細い声だったというのであります。

 信仰は自分の信念でも、自分の思想を信じるということでもないのです。自分以外の、自分を超えたかたの声を聞くことから始まるのです。ですから、そのためには、自分の神に対するイメージとか、神に対する期待とか願望がこわされなくてはならないのです。こちらが耳をそばたてて、聞くという姿勢をもとうとしないと聞こえてこないものなのです。

 少年サムエルは、神殿のなかで夜寝ているときに、主はサムエルに呼びかけました。しかし少年サムエルはそれが神の呼びかけだとは思いつかず、先生のエリのところにいって、「わたしをお呼びになりましか」と行きました。先生のエリは呼んでいないと答えます。そんなことが三度あったとき、先生のエリは今度また呼びかけがあったら、「主よ、お話しください。しもべは聞きます」といいなさいと忠告します。そして再び「サムエルよ」とよびかけがあったときに、少年サムエルは「主よ、お話しください。しもべは聞きます」と答えた。そのとき主はサムエルに神の言葉を話されたというのであります。

 信仰は聞くことから始まるのです。こちらが自分の思い、自分の期待、自分の願望を捨てて、あるいは神に対する観念を捨てて、「しもべは聞きます、主よ、お話しください」という姿勢をとらないと、神のささやくような声は聞こえてこないということであります。こちらがあまりにも熱心に熱心に神の声を聞くのだと思って祈ったりしていると、その熱心さが神のささやくような静かな声を聞こえなくさせてしまうということもあるということであります。あまり熱心に祈っていると神の声は聞こえてこないのです。

 そしてそのようにして聞こえてくる神の言葉は、われわれにとっては思いがけないものであるかもしれません。自分の期待通りの答えではないかもしれません、というよりは、それはわれわれの願望を聞くわけではないのですから、それは思いがけない、自分にとっては都合の悪い、自分にとって不利な内容かもしれません。

 預言者エリヤが静かなささやくような声で聞いた神の言葉の内容は、「もうお前は預言者を引退して、エリシャにバトンタッチしなさい」ということでした。また「お前はお前ひとりしかわたしを真に拝んでいるものはいないと思っているかもしれないが、わたしはイスラエルに七千人のバアルにひざまずかない者を残している」と告げるのであります。

 また少年サムエルが「しもべは聞きます、主よ、お話しください」といって聞いた神の言葉の内容は、自分の先生のエリの子供たちの悪い行いのゆえに、エリの家を裁く」という内容だったのであります。そのために、夜が明けて、先生のエリから神さまからなにをいわれたかと問われたときに、すぐには答えられなかったというのであります。

 聞くということは、自分の心のなかの声を聞くことではないのですから、自分を超えた他者の声を聞くということですから、それは自分の期待通りのことではなく、自分では思ってもみないことを聞くということであるかもしれません。それはまず裁きの声かもしれません。

 しかし、あるいは、いつも律法主義に捕らわれて、自分を先走って、自分を裁いてばかりいる人に対しては、お前はもう自分で自分を裁くな、わたしはお前をすでにあるがままのお前を受け入れ、赦しているのだから、もう自分で先走って自分を裁くなという、赦しの言葉であるかもしれません。

 主イエスは、病気で苦しんでいる人に対しては、まず「あなたの罪は赦された」と語りかけているからであります。

 もちろん、神の声はいろいろな形でわれわれに現されますから、いつもささやくような静かな声ではなくて、それこそ嵐のなかで圧倒的に聞こえてくるということもあります。パウロなんかはそのようにして、キリストの声を聞いたわけです。
 パウロはクリスチャンを迫害しようとして息せき切ってダマスコの道を歩いていたときに、突然まばゆい光とともに「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」というキリストの声を聞いたのであります。その声にパウロは圧倒されて一時目が見えなくなったというのであります。それはもう圧倒的な神の声であったと思います。

 聞くということは、自分の声を聞くことではなく、自分とは違う、あるいは自分を超えた他者の声、自分以外の他者の声をきくということであります。それはある意味では本当に難しいことだと思います。われわれはいつもいつも自分の声しか聞こうとしないからであります。

 他者の声をきくためにはどうしたらよいか。そのためには、自分の心をできるだけ空っぽにしなくてはならないかもしれません。しかし、自分の心を空にするということは大変難しいことであります。座禅でも組んで、精神を統一して、自分の心を無にするというやりかたもあるかもしれません。しかしそんなことをしたら、返って雑念ばかりわき出てしまうかもしれません。

 サムエルはまだ少年ですから、「しもべは聞きます、主よ、お話しください」と素直に神の言葉を聞く姿勢をもてたかもしれませんが、われわれはもう大人になってしまって、そう容易く自分の心を空にすることはできないと思います。

 しかし逆に、自分の心の中が全くの空っぽであったら、何も聞こえてこないということもあるかもしれないと思うのです。川の流れなんかみていますと、そこに一つの杭みたいなものができていますと、その杭にいろんなものがひっかかってくるということがあります。

 つまり、われわれ自分の中にいろんな問題性をかかえていたほうが、かえって他者の声はひかかってくるということもあると思います。こちらになんの問題性もなく、なんの思いもないとき、なんの悩みもないときには、他者の声は聞こえてこないかもしれません。

 預言者エリヤも、そしてパウロも、自分の問題性を一杯かかえて、激しく生きていた、だから、あるとき、そのエリヤのもつ問題性、パウロのもっていた律法主義という問題が激しく否定されるようにして、神の声が聞こえてきたということであると思います。

 ですから、必ずしも、座禅でもくんで、自分の心を空にする必要はないとも思います。そんな悟りを得ようとしなくても、いつも他者の声を聞こうとする姿勢をもって生きているということが大事なのではないか。常に自分の心を開いておく、自分の心を空にするというよりは、自分の心を開いておくということが大事なのではないかと思うのです。

 そしてこれも少し今までいってきたことと、矛盾することをいうことになるかもしれませんが、ある人が音楽を聴いて感動するということは、われわれはすでによく知っている曲を聴いて感動するのだというのです。全く新しい曲を聴いて感動するということもあるかもしれませんが、そういうことはめったにない、多くの場合は、すでに知っている曲を繰り返し聞くことによって感動するのだというのです。そういわれてみれば、そうだなあ、と思いました。

 そういう意味では、われわれもまた聖書を繰り返し、繰り返し読むということが大事なことなんだと思うのです。すでに知っている聖書の言葉を繰り返し、繰り返し読むということ、そのときには、もう自分なりにその聖書の箇所の解釈はできているかもしれません、しかし、それを読んでいく、そのときに思いがけない発見がある、そのときに自分を超えた他者の声、神様の声が聞こえてくるのではないか。
 
 聞くということは、なにも新しいものを聞こうとするたげでなく、すでに知っている曲を聴く、すでに繰り返し読んできた聖書の言葉を聞くということも、大切なことだと思います。ことわざにも「温故知新」という言葉があるとおりであります。

 パウロは、信仰は聞くことから始まるということを述べたあと、一八節から、「それでは尋ねよう。彼らは聞いたことはなかったのか」と問うのです。そしてもちろんイスラエルの民は聞いたのたど聖書の言葉を引用していうのです。
「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」という詩編の言葉です。

 それでは、イスラエルの民は、神の言葉を聞いていたのだけれど、わからなっかのだろうかとさらに尋ねます。

 そしてパウロは、「そうだイスラエルの民は神の声を聞いてもわからなかったのだ」と答えるのかと思いますと、そうは答えないのです。

 いきなり、モーセとイザヤの言葉を引用して、神は「わたしは、わたしの民でない者のことで、あなたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたを怒らせよう」といい、「わたしはわたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」というのです。

 つまり選民イスラエルにではなく、異邦人に神の声を聞こえさせたのだというのです。つまり、いってみれば、イスラエルの民に対しては、神が分からなくさせたのだというのです。

 そうしてイスラエルの民に対しては「わたしは不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」というのです。

 神は神の言葉を聞こうしない選民イスラエルの民に対して、あくまで、神は神の声を聞かそうとして、手を差し伸べているのだというのであります。それはヨハネの黙示録で、復活の主イエスが、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をしよう」という語りかけと同じであります。

 そうであるならば、われわれも神の声をきくために、心の戸を開いておかなくてはならないと思います。

 一四節の後半から、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう、といったあと、パウロはイザヤ書の言葉を引用して、「良い知らせを伝える者の足は、なとん美しいことか」といっています。
 
 わたしは以前、最初の赴任地の大洲教会にいるときに、そこにひとりの老婦人がいて、教会でとても大きな働きをするかたでした。どこにでも行って、教会員を訪問し、教会のことならなんでも知っているというかたでした。そのかたが、もう一人で生活するのはあぶないということで、息子さんに引き取られて名古屋のほうにいくことになって、送別会のときに、わたしはそのかたに感謝する思いで、、このかたは「良い知らせを伝える者の足はなんと美しい」と記されているように、大洲教会の足の役割をしてくれたといったのです。そのあとで、その婦人から「どうせわたしは足ですよね」と不満そうにいわれて、わたしは悪いことをいったのかなあと反省したのであります。その方は、教会の頭だ、教会の心だといわれたかったのかもしれません。

 しかし一つの教会のなかには、本当に足の役割を果たしてくれるかたがどんなに必要かと思います。