「イエスのなさった奇跡」 マタイ福音書 八章二三ー二七節

 マタイによる福音書では、イエスが山の上で、説教したあとに、さまざまの病人をいやしたと、今度はイエスの行動について記します。そして八章の二三節から、いわゆるイエスがなさった奇跡の記事が記されております。

 それはまず「嵐を鎮めた奇跡」「悪霊を追い出した奇跡」「中風の病をいやした奇跡」「十二年間長い間の出血で苦しんだ女をいやした奇跡」そして最後に「会堂司の娘を死からよみがえらせた」奇跡の記事であります。

 これは三つの福音書、つまり、マルコによる福音書、ルカによる福音書、そしてマタイによる福音書、いわゆる共観福音書といわれている福音書に、多少は違うところがありますが、ほぼ、共通しているところであります。

 われわれはこのイエスのなさった奇跡、福音書に出てまいりますいわゆる奇跡物語をどのように読んだよいのでしょうか。現代人にとっては、ある意味では、福音書の奇跡は信仰の躓きになるかもしれません。そういう奇跡の記事がないほうがずっと聖書を受け入れやすいかもしれません。

 本当にイエスはそうした奇跡をおこなったのだろうか。死んだ娘を生き返らせたのだろうか。嵐を鎮めたのだろうか。われわれはそれを今になって検証することはできません。
 ただ言えることは、イエスがそういう今日の考えからすれば、いわゆるそうした奇跡的なわざをしていなかったならば、人々はイエスを救い主として、あるいは、将来のユダヤ人の王として、期待して、イエスを慕うということはなかったことは確かだろうと思います。ただイエスが語るだけの人だったならば、インテリはともかく、多くの病気で苦しみ、いろんな苦しみに遭っている人々、こういう言葉が適切かどうかわかりませんが、一般大衆、庶民はイエスについていくことはなかったと思います。

 やはりイエスは当時の人々にとっては、奇跡としか考えられないことをなさった、そうして人々を救ったのだということは言えるのではないか。

 福音書というのは、そもそもいわゆるノンフィクションではないのです。つまり実際に起こったことを写真にとるようにして、ありのままをできるだけ忠実に記述するというノンフィクションではないのです。
この場合の写真というのは、芸術写真の写真ではなく、いわば、報道写真の写真であります。

 福音書は、それぞれの著者が、自分の考えに基づいて、イエスを描こうとしているということなのです。それは対象物をそのまま写すという写真ではなく、いわば、絵画、絵、として考えたほうがいいと思います。そこには、画家というひとりの人間の美的感覚、あるいは、思想、ある意味では主観的な思いが込められて絵が描かれているように、福音書もそれぞれの著者の神学があって、あるいは、それぞれの著者の属している教会の神学があって、描かれているということであります。

 描く対象は、イエス・キリストなのです。しかしそれを描くのはそれぞれの個性をもった画家という人間なのです。自分が受け止めたイエス・キリストをみんなに伝えるためには、どうしたら良いか、それを正しく伝えるためには、どうしたらよいか、それぞれの画家の感性に従って、デフォルメしたり、捨象したりして、対象物を描くようにして、イエスという人物を描いているということなのです。

 それはイエスが十字架のうえで最後に語られて言葉でも、マルコとマタイは共通しておりますが、ルカとヨハネはまったく違うことが語られてるのです。ではどちらかがウソなのか。そういうことではなく、どの著者も自分にとってのイエスの十字架とは何かということをそれぞれに書こうとしているのです。大事なのは、自分にとっての真実なのです。それは単なる事実とは違うということなのです。単なる事実ではなく、いってみれば、自分にとっての真実であります。それをどう表現しようかということであります。

 ですから、もちろん、根本的には、イエスが語られた事実、イエスがなさったわざ、行いという、ある意味では客観的な事実があったのです。それを離れるわけにはいかないのです。その事実をどのように自分にとって真実になったのかということで違いというのが生じたのであります。

 ある意味では、イエス・キリストという存在が、人々にそのような違いをあたえるほどに、豊であったということであります。イエスの存在とイエス十字架の死は、一つのことに限定させてしまうような貧弱なものではなく、四つの福音書を書かせるほどに豊かな内容をもったものであったということであります。

 イエス・キリストという存在の大きさと豊かさ、あるいは深さが、それぞれ違う福音書を書かせたのだということであります。

そうしたことをふまえた上で、聖書を読むときに、子供が聖書を読むように、それが事実起こったこととして素直に読むのでなかったら、聖書を読んだことにはならないことも確かであります。いちいち、これが事実起こったのかどうかなどと詮索しながら読むようなことでは、聖書を聖書として読んだことにはならないのです。

 すこし、前置きが長くなりましたが、われわれが福音書の奇跡の記事を読むときに、必ずしもある意味では今日では到底受け入れられない、奇跡物語をそのまま信じなくてはならないといものではないということであります。

 たとえば、五つのパンと七の魚だけで、男だけでも五千人の人のお腹を満たしたのだと、文字どおり信じなくてならないということではないのです。
 あるいは、イエスがガリラヤ湖の上を歩いたという記事をそのまま信じなくてはならないということではないのです。

 もちろん、それに似た出来事は事実としてあったと思います。それは当時の人々にとっては、奇跡としか思えない出来事だったと思います。その事実の中に隠されている真実をわれわれにどのように伝えようかということで、福音書はそれぞれ書かれているということであります。

 さて、福音書に書かれている奇跡物語は、どれもわれわれ人間に脅威をもたらすもの、つまり、嵐という自然災害、悪霊というなにか得たいの知れないわれわれの外からわれわれを運命的に脅かす存在、そして病気、そして最後決定的にわれわれの存在をおびやかす死という恐れ、そういうわれわれの人生を脅威にさらすものを打ち壊して、そうしたものよりも、もっと強いかたがこの世にいらしたのだ、もっと強いかたがわれわれにはおられるのだ、そのことをわれわれに示そうとしているのであります。

 最初の奇跡は、イエスと弟子達がガリラヤ湖の海をわたっていたときに、突然突風が襲ってきて、舟が沈みそうになった。弟子達はあわてた。「主よ、助けてください。おぼれそうです」と、訴えた、漁師達であった弟子達があわてたというのですから、よほど大きな突風であったと思われます。そのとき、イエスは「なぜ、こわがるのか。信仰の薄い者たちよ」といって、叱って、風と波とを一括すると凪になったというのです。

 そして、悪霊にとりつかれた二人の者から、悪霊を豚の中に追いやり、その悪霊に憑かれた者をいやしたという奇跡が書かれています。

 そしてある指導者の娘が死にかかっていた、あるいは死んでしまっていた、その死んだ娘を生き返らせたという奇跡をイエスが起こしたと記されております。
 そしてその娘のところにいく途中で、十二年間も長血で苦しんでいる女の病をいやしてあげたという奇跡が挿入されているのであります。

そして、三つの福音書が、この奇跡物語の冒頭に、イエスが嵐を鎮めた記事をおいているのであります。このことは、イエスのなさった奇跡をわれわれがどのように読んだらいいかを示す示唆が与えられていると思います。

それは、イエスと弟子達が一緒にガリラヤ湖を渡ろうとして、舟にのっていた時のことであります。舟は波にのまれそうになった。弟子達はあわてふためいた。しかしそのとき、イエスは眠っておられたというのです。それで弟子達はイエスに「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫んだというのです。するとイエスは「なぜ、こわがるのか。信仰の薄い者たちよ」といって、叱りとばしたのであります。

 マタイ福音書では、「なぜ、怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と叱ってから、嵐を鎮めておりますが、マルコによる福音書とルカによる福音書は、弟子達の訴えに対して、まず波を鎮めてから、「なぜ、怖がるのか、信じないのか」といって、叱ったと順序が違っておりますが、いわんとしていることは同じだと思います。
 つまり、嵐の中で父なる神を信じて、信頼して、どうしてあわてふためくのか、どうして怖がるのか、どうしてわたしと一緒眠っておられないのか、といってイエスは弟子達を叱ったということであります。つまり、どうしてお前達は奇跡を欲しがるのかということであります。奇跡がないと生きていけないのかということであります。

 嵐よりも、悪霊よりも、あるいはなにか得たいの知れない運命よりも、病よりも、そして死よりも、もっと強いかたが、われわれの人生を支配しておられるのに、どうしてそのかたを信じないのか。その神を信頼しないで、恐がり、あわてふためくのかということであります。

 しかし、われわれは信仰をもっているといいながら、そうしたものに遭遇したときに、あわてふためき、こわがるのであります。そういうわれわれ、そういう弱いわれわれのために、イエスは波を鎮めてくださり、悪霊をおいだしてくださり、病気をいやしてくださり、そして死から生き返られてくだる、そういう奇跡をイエスは起こしてくださったということであります。
 そのようにして、そういう奇跡を起こして、嵐よりも、悪霊よりも、病気よりも、そして死よりももっと強いかたがおられるのだとわれわれに信じさせようとしたのであります。

 福音書には、五つのパンと七の魚で、男だけだも五千人の人の空腹をみたしたという奇跡を行ったという記事があります。そのあと、弟子達だけで、ガリラヤ湖を渡っているとき、逆風がおき、弟子達が漕ぎ悩んでいたときに、山の上で祈っていたイエスがその様子をみて、ガリラヤ湖を歩いて彼らに近づこうとした。そのときに、弟子達はそれがイエスだとわからずに、幽霊だと思って、大声で叫び、おびえ、恐れたのです。イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、彼らに話しかけ、舟に乗り込まれると嵐が沈んだ。弟子達は心のなかで非常に恐れたという記事があります。

 マルコによる福音書には、そのあとにこう注釈するのであります。彼らは「パンの出来事を理解せず、心がにぶくなっていたからである」と記しているのであります。

 あの五千人に、五つのパンと魚七つでその空腹を満たしたという奇跡があったために、彼らの信仰は鈍くなってしまっていたというのであります。奇跡はわれの信仰を鈍くさせてしまう、ダメにしてしまうというのであります。
 それはどうしてかといいますと、奇跡信仰は、われわれを単なる御利益信仰にとどまらせてしまうからであります。

 御利益信仰がなぜだめなのか、御利益信仰がなぜわれわれの心を鈍くさせてしまうかといえば、それはわれわれをきわめて自己中心、自分さえよけばいいという信仰に終わらせてしまうからであります。

 信仰というのは、神がこの世界の中心である、神がわれわれの世界を、われわれの人生を支配しておられるという信仰でなければならないのであります。

 マルコ福音書とルカによる福音書では、嵐を鎮めた奇跡物語、悪霊を追い出した奇跡物語のあとに、すぐ続いて、十二年間長血をわずらった女ををいやしたという奇跡、そして死んだ娘を生き返らせたという奇跡物語が続いて記されておりますが、マタイ福音書は、奇跡物語の真ん中に、中風の者をいやした奇跡がおかれております。他の福音書では、その出来事は別のところにおかれているのですが、マタイは奇跡物語の中核に、この中風の者の病気をいやしたという記事をおくのであります。
 そしてこれは福音書に出てくる奇跡をわれわれが理解するうえで、大変重要な役割をしてくれていると思います。

 といいますのは、中風の者がみんなにかつがれて、イエスの前におかれますと、イエスは「子よ、しっかりするのだ、あなたの罪は赦される」と述べたというのです。つまり、病をいやすという奇跡は行おうとはしないで、「あなたの罪は赦されている」と語っただけだったのです。

 それでそれをみた律法学者たちは、つぶやいた。イエスは、病気をそのものをいやそうとしないで、ただ口先で「あなたの罪は赦される」といって、お茶をにごそうとしている、第一、「罪が赦される」という宣言は、神のみがすることができるのであって、神でもないイエスがそんなことを神に代わって宣言するのは、神を冒涜している、神を汚していると心のなかでつぶいたというのです。

 イエスはそれを見抜き、「罪が赦される」というのと、「起きて歩け」というのと、どちらが易しいことかと問いかけ、しかし、「人の子であるわたしが地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」といって、中風の者に、「起き上がって、床をたたんで、家に帰りなさい」いわれた。するとその人は起きあがり、床をかついで家に帰っていたというのであります。

そして、マタイ福音書は、そのあとに、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきたのだ」と、イエスが宣言する記事をおき、またイエスが来たことによって、新しいぶどう酒は新しい革袋にいれなくてはならないという新しい時代が始まったのだとイエスが宣言した記事をおき、そうして、マルコ福音書、ルカ福音書の奇跡物語の順序にもどるという書き方をしてるのであります。

 マタイ福音書では、ここにはっきりと、イエスのなさった奇跡の中心は、その目的は、われわれの罪を赦しにあるのだ告げるのであります。
 そのことがなかなかわからないお前達に、そのことをわからせるために、わたしは奇跡を起こし、中風の者の足をいやすという奇跡をおこすのだと、イエスはいわれたということであります。
いってみれば、わたしは奇跡を行うために、この世に来たのではなく、罪を赦すためにこの世に来たのだということであります。

 われわれの罪とは何かということであります。なぜイエスは、中風の者にいきなり、「あなたの罪は赦されている」といわれたのでしょうか。それは中風という病は、その人が今までにさんざん罪を犯してきたために、その因果の結果中風という病になったのだから、そのもとである罪をとりのぞくために来たのだということなのでしょうか。それならば、そういう病気でない元気な人たちは、罪がたないのでしょうか。そんなことはないことはわれわれがよく知っていることであります。まるまると健康そうな人がどんなに悪いことをしているかはわれわれはよく知っていることであります。

 この中風になってしまっている人は、もうすっかり望みを失ったしまっているのです。自分ひとりではイエスのところにくることもできないで、友人に床のまま運ばれなくてこれない状態である。もうすっかり望みを失っている状態なのです。神も仏もあるものかという状態になっている。

 キルケゴールという哲学者が「死にいたる病」という本を書いておりますが、死にいたる病とは、希望を失う、絶望すること、それが最大の人間の罪であり、それがわれわれを死にいたらせる病だと、いっているのであります。

 神様がおられるのに、神がわれわれの生と死を支配しておられるのに、そのことを信じられないで、嵐のなかでイエスと共に眠っていることができないで、慌てふためいて、希望を失い、右往左往してしまう、そういうわれわれに対して、イエスは「信仰の薄いものよ」といって叱りとばし、嵐よりも、悪霊よりも、病よりも、そして死よりももっと強い神がおられることを信じさせるために、中風という病をいやしたのであります。

 奇跡だけを求め、神様を信じたら、奇跡が起こるという信仰は、われわれの心を鈍くさせてしまうのであります。われわれの信仰をただ御利益信仰に導き、御利益信仰だけに留めさせてしまうのであります。それではわれわれは救われないのです。それは神を信じているのではなく、ただ自分の幸せだけにしがみつくことでしかないからであります。

 しかしイエスはそのようにただ御利益だけしか求められないわれわれを決して軽蔑したり、退けようはなさらないのです。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者よ」と叱りつけましたが、そういうわれわれのために奇跡を起こしてくださったのであります。そうして父なる神を信じなさいと導いてくださったのであります。

 そのようにして、われわれの信仰をただ奇跡信仰にとどまらせるためにではなく、変な言い方もしれませんが、奇跡なんかなくても生きていけるのだという信仰に導くために、奇跡を起こしてくださったということであります。

 それでは、奇跡のなかの奇跡、復活信仰とはなにかということであります。復活信仰もまた、ただ死んでも生き返るのだというわれわれのはなはだ人間的な願望を満たしてくれる信仰、いわば御利益信仰を導くための復活ではなく、復活信仰とは、パウロがいっておりますように、神がすべてにあってすべてとなってくださるという信仰、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じさせてくださる信仰なのであります。
 そのときに、われわれは「望み得ないのに、望み得ないときに、なお望むことができる」信仰を与えられるのであります。