「土の中の器」 コリント第二 四章七ー


 太郎君と次郎君という二人の兄弟がいました。お兄ちゃんの太郎君はかけっこが得意でいつも運動会では一等でした。しかし弟の次郎はいつもびっけでした。運動会の前の日に、お兄ちゃんが弟の次郎を呼んで、早く走る秘訣を教えました。運動会の当日、次郎君はなんと一等賞をとりました。

 お兄ちゃんはどんな秘訣を教えたと思いますか。それは前の日にお兄ちゃんは次郎君を呼んで、これはぼくの大事な小石なのだけど、これをしっかり握って走ってごらん、そうしたら力が出て走れるよ、と小石を渡しのです。

 そうしたら、運動会の当日、次郎くんはその石をしっかり握って、手のひらをしっかり握りしめて走ったから、早く走ることができたのです。それまでは次郎君は走るときには、いつも手をぶらぶらさせながら走っていたのですね。だから力がだせなかったのです。それでお兄ちゃんは次郎君の手をしっかりと握らせて走らせようとして、自分の持っている小さな石を次郎くんにもたせたわけです。

 お兄ちゃんが次郎君に「走る時は、しっかり手を握りしめて走るんだよ」と、ただ口で教えても、次郎くんはいざ走るときには、そんなことは忘れてしまっていつものように手をぶらぶらさせて、また走ってしまったと思うんです。しかしお兄ちゃんから大事な小石をもたされたのです。それで次郎君はその小石を落とさないようにしっかりと握りしめて、そのために手を握りしめて走ることができたのです。

 もしそれが小石でなくて、ダイヤモンドのような宝石だったらどうでしょうか。今度は次郎君はその宝石をおとしてはいけないと、そのことばかり気になってしまって、とても走ることなんかできなかったと思うのです。それは小石だったからよかったのです。それもお兄ちゃんが大事にしていた小石だったからよかったのです。

 イエスさまは、わたしたちにとって、その小石のようなものとなって、この世に来てくださったのです。イエスさまはけっしてダイヤモンドのような宝石としてこの世にきたのではないのです。ほんとうに小さな小石のよなうものとして来てくださって、この小石をしっかり握って走ってごらんといってくださるのです。

 イエスさまはそういうかたとして来てくださったのです。イエス様は神様の子でしたが、決して高価なダイヤモンドのようなかたではないのです。みんながこんなものは役に立たない、こんなみばえのしないかっこわるい石なんかいらないといって、捨ててしまった隅の石ころとして、この世にきのたです。

 イエスさまはきらびやかな王様の屋敷のなかではなくて、神々しい神殿のなかでうまれたのではなく、貧しいみすぼらしい馬小屋の飼い葉おけのなかで生まれたのです。そうしてイエスさまは最後にはみんなから馬鹿にされて、つばきをかけられて、お前なんかは死んでしまえといわれて、十字架で殺されてしまったのです。

 すみっこの小石として、みんなからののしられても、ののしり返すことはしないで、あざけられても黙々と十字架の道を歩まれた神さまの子なのです。

 みなさんは、小さいときにお母さんと道を歩いたことがあると思います。そのときには、小さいお子さんはお母さんの手を汗がでるほどに一生懸命ににぎりますね。しかしそのとき突然車がつっこんできそうになったときに、どうしますか。おどろいてお母さんの手を離してしまうのです。

 そのときです、そのとき、お母さんは子供の手をしっかりと握って、自分のほうに引き寄せて守ってくれるのです。お母さんはふだんはただ子供の手に軽くふれているだけです。子供のほうが一生懸命汗をかくほどにお母さんの手をにぎりしめているのです。しかしいざというときには離してしまうのです。しかしそのときにお母さんはぎゅうっとあなたがたの手を握ってまもってくれるのです。
 
 わたしたちは自分が小石をにぎっているようで、ほんとうはイエス様という小石ににぎられているのです。

 イエス様というかたはどういうかただったのでしょうか。

 イエスさまがみんなに神様のお話をしていたときに、ひとりの女の人が偉い人たちに連れられてきました。大変恥ずかしい、わるいことをしたところを見つけられたのです。その偉い人たちはイエス様に「この女はわるいことをしました。こういうことをした人は石で打ち殺してしまえといわれていますが、あなたならどうなさいますか」と尋ねたのです。

 そうしたらイエス様はなにも答えませんでした。捕まえられた女の人は恥ずかしさのあまり、うずくまってしまいました。そうしたらイエスもその女と一緒になってうずくまりました。さらに偉い人は尋ねました。「どうしましょうか、石で打ち殺しましょうか」といいました。

 わたしたちは何か人の悪いところを見つけて、それを指摘するときというのは楽しいです、人を裁く時というのは楽しいんですね。人をいじめる時は楽しいですね。自分は別に立派な人間でもないのに、人の悪いところをみつけたときは、なにか自分は偉い人間のような気がしてましうのですね。そうして人を裁いたり、いじめたりするのです。

 偉い人はさらにイエス様に尋ねました。石で打ち殺しましょうか。イエス様は二度目にいわれたときに、とても不思議なことをいいました。「お前達のなかで生まれてから一度もわるいことをしたことのない人から、順番にこの女に石をなげつけなさい」といわれたのです。

 そうしたら、そこにいたひとたちは、ひとり去り、ふたり去り、そしてみんなそこを去ってしまったというのです。いなくなってしまったのです。お年寄りから去っていったというのです。面白いですね。わたしたちは年をとればとるほど、なにかわるいことをしてしまうんですね。生まれてから一度も嘘をつかないひとなんかいないんです。

 そしてみんながいなくなった時に始めて、イエス様は顔をあげて、その女の人をたたせて、その女のひとの顔をじっとみつめて、「わたしもあなたを罰しない。わたしも石をなげないよ、これからはもうあやまちをしないようにね」といったいうのです。

 イエスさまは、そういうかたなんです。あやまちをしてそれが人から発見されて、本当に恥ずかしくて、恥ずかしくて、うずくまっているときに、みんなと一緒になって「お前なんか死んでしまえ」といいにきた正義の人、とても恐い人ではないのです。

 いつもいつも失敗をして、恥ずかしくてうずくまってしまうようなわたしたちと一緒になってうずくまってくださる神様の子なんです。

 さきほど聖書を読んでいただきましたが、それを書いたパウロさんも何度もなんども失敗をして、みんなから馬鹿にされたり、非難されたりした人なんです。しかしそのの度にパウロさんは、あの次郎くんのように自分の手の平にはイエス様という石ころをもっている、そのことを思いだして、もう一度その石ころをぎゅうと握りしめて立ち上がることができたのひとなのです。

 土の器の中に宝をもっているのだというのです。土の器というのは、どろんこでできた器ということで、それはとてもろいですね。弱いです。それはわたしたちのことなのです。しかしその器のなかにイエス様という石ころ、宝をもっているといのうです。だから強いというのです。

 ある病院の病室に、とつぜん燕さんが迷子になったようにして入り込んできました。ちょっと窓が開いていたんですね。つばめさんは病室に誤って入り込んでしまって、入ったはいいがどこから出ていったらいいかわからなくなって、出ていくとろを探し回って、病室のなかをぐるぐるとびまわったのです。病室にいる患者さんの頭のうえを羽をばたばたさせてとびまわったのです。そうしてようやく入ってきた隙間をみつけてまた飛びだしていったのです。

 そうしたらひとり患者さんが「ああ、今日はとても良い日だった。いつもお見舞いの人がくるけれど、ぼくのところにはだれもお見舞いに来てくれない。しかし今日は燕さんがぼくのところにも、みんなのところにもひとりひとり平等に頭の上を見舞ってくれた、今日はほんとうにいい日だった」と言ったというのです。

 今日は聖霊降臨日の礼拝です。イエス様はもう天にいらっしゃいますが、しかしイエスさまは今目に見えない霊となって、わたしたちひとりひとりにほんとうに平等にお見舞いしてくれた、それを覚える日なのです。