「心の清い人々はさいわいである」 マタイ福音書五章一ー一二節

 「心の清い人々はさいわいである。その人たちは神を見る」と、主イエスはいわれるのであります。この聖書の言葉は美しい言葉であります。わたしも最初に聖書に触れたときに、この言葉に惹かれました。神を見るために、心を清くしたいと本当に思いました。まだ中学生のときです。

 神を見るためには、心を清くしなくてはならない、心を清くしたら神を見れるだろうと思ったものであります。最初に聖書に触れたときに、この言葉に大変強く惹かれましたが、同時に最初に聖書にふれたときに、このいわゆる山上の説教のなかにある主イエスの言葉、「情欲をいだいて女を見るものは、心の中にすでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるならば、それを抜き出して捨てなさい」という言葉が同時に響いたのであります。そういう言葉にであって、自分の中にある邪悪な心をなんとかして抜き出して、心を清くしようと悪戦苦闘が始まったのであります。聖書を知ったばっかりに、キリスト教を知ったばっかりに、わたしの青春時代は大変暗いものになってしまったのであります。

 しかし、ここでいわれている「心の清い」という日本語の「清い」という言葉は、どうもいわゆる清らかな、つまり邪悪な心をひとつももたないという意味の「清い」という意味ではなく、英語の訳では「ピュア」と訳されておりますが、純粋という意味のようであります。
 ヤコブの手紙の四章の八節にこういう言葉があります。「心の定まらない者たち、心を清めなさい」とあります。ここは口語訳聖書では、「二心の者どもよ、心を清くせよ」となっております。つまり、心が清くないということは、心が二心をもっている、心が定まらない、一途でない、という意味なのです。

 ですから、ここは、「二心をもたないものは、神を見る」と訳した方が、この場にふさわしい訳ではないかと思われます。つまり、一途な人、ただひたすら、神を求めようとするもの、そういう人は神を見るということであります。

 あの旧約聖書にでてまいりますヤコブの話を思い出します。創世記の三二章の記事です。ヤコブは兄エサウの長子の特権を卑劣な手段で奪い取ってしまって、エサウに憎まれ、故郷を追われて、遠い国で苦労するのですが、とうとうそこも追われて、自分の故郷に帰ることになるわけです。しかしそこでは、自分を殺そうと待ち構えているエサウがいる。ヤコブはあらゆる人間的な知恵を働かせて、エサウと遭おうとするのですが、それでも不安でひとりで一夜を過ごすのであります。そのときになにものかかがあらわれて、ヤコブと格闘をした。ヤコブはそれが神の使いだと知って、「どうかわたしを祝福してください、祝福してくださらない限り、あなたを放しません」と執拗に求めるのであります。
 そうすると、その天からの使いは、ヤコブに対して「お前の名前はなんというのか」と尋ねますと、「わたしの名はヤコブです」と答えます。一説によれば、ヤコブとは「かかとをつかむもの」という意味だそうです。つまりヤコブはうまれるるとき、双子である兄エサウのかかとをつかんで生まれ出た、そのようにヤコブは人を押しのけるものという意味。ヤコブは「自分は兄を押しのけて、長子の特権を奪い取ったものだ」とここで告白させられたのだということであります。

 すると天の使いは「これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人とに勝ったからだ」とわれて、その場でヤコブを祝福したというのです。イスラエルとは「神が支配している」という意味であります。 ヤコブはここで、人を押しのけて生きようとするものではなく、イスラエル、神が支配しておられることを信じて生きるものになったということであります。

 そのときにヤコブはいうのです。「わたしは顔と顔とをあわせて、神を見たのに、なお生きている」と言ったというのです。

 まさにこのヤコブの姿こそ、「心の清いものは、神を見る」ということではないかと思います。ヤコブの心のなかには、邪悪な心があるわけです。自分の兄を卑怯な手段でだまして、兄の長子の特権を奪い取ろうとしたことには、悔いいるかもしれません。しかし、その兄エサウに遭うためには、いろいろな人間的な策略を立てて、遭おうとしているわけです。それでもヤコブは不安で仕方なかったのです。人間的な策略だけでは、この危機を乗りこえられないと感じていた。そのために神に助けを求めていたはずです。

 それは決して、いわゆる心の清い状態とはいえないのです。しかし、このとき、ヤコブは切実に神からの祝福を得たいと思ってやまないのです。神の祝福を得るまでは、あなたを放しませんと執拗に、いちずに天の使いにしがみついているのです。これこそが「心の清い」ということであります。

 そしてヤコブはこのとき、神を見たのだというのです。「わたしは顔と顔とをあわせて、神を見たのに、なお生きている」と言ったからであります。それは当時のイスラエルでは、神を見たものは死ぬといわれていたからであります。ヤコブはこのときに、神から祝福を得た、神を見た、それなのに、死なないで、なお生きているといっているのであります。

 神を見たものは死ぬといわれていたのです。しかし、それでもわれわれ人間は神を見たいという思いを止めることはできないのです。

 モーセが必死に神の栄光をこの目で見たいと願ったことがありました。それはイスラエルの民をエジプトから約束の地カナンに導く途中、アロンが金の子牛を造って民に偶像礼拝させたということがあって、神は怒って、もうお前たちと行動を共にしないといわれたときに、モーセがどうかわれわれと一緒に行ってくださいと頼むときです。

 それに対して、主なる神は「わたしは自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と約束をします。しかしモーセはその証拠が欲しいと求めるのです。「どうかあなたの栄光をお示しください」と執拗に求めるのです。すると神は「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたは恵もうとするものは恵み、憐れもうとする者を憐れむ」といわれた後、さらに神は「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからだ」といわれるのです。

 そうして、モーセに対して、お前は岩の裂け目に隠れていなさい、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手でお前を被う。そしてお前はわたしの後ろをみることはできるが、わたしの顔はみることができない」と、神はモーセに言うのであります。

 われわれ人間は神の顔を見ることはできないのです。神を見たものは死ぬのです。モーセは、神の後ろ姿を見ることはあっても、神の顔をみることはできなかったのです。そして、モーセも多くの預言者たちも神の声は聞くことはあっても、神を見ることはできなかったのです。

 しかし、ただ一人の預言者だけは神を見た預言者がおります。それはイザヤという預言者です。

 イザヤが神殿で祈っているときに、神を見たというのです。イザヤはこう記しております。イザヤ書六章一節からのところです。「わたしは高く天にある場所に主が座しているのを見た。衣のすそは神殿に一杯にひろがっていた。上のほうにはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛びかわっていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』」と記されております。

 それを体験した預言者イザヤはこういうのです。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は主なる万軍の主を仰ぎ見た」といって、ふるえおののくのです。自分は神を見たので死んでしまうと告白するのです。

 するとセラフィムのひとりが、セラフィムというのは、神話的な鳥のようです、セラフィムのひとりが、イザヤのところに飛んできて、祭壇にある火鉢でとってきた炭火で、彼の口に触れ、こういった。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。
そしてそのとき、イザヤは主の声を聞いた。「誰を遣わそうか。誰が行くだろうか」と主なる神の声を聞いた。そしてそのとき預言者イザヤは「わたしがここにいます。わたしを遣わしてください」といったのであります。

 これがイザヤが預言者として召されたときの体験だと記されているのであります。イザヤは神を見たというのです。「高く天にある御座に主が座しているのを見た」というのです。
 しかし、この記事を読むと、実際にはイザヤも神の顔をまともに見たわけではないようであります。「神の衣の裾が神殿一杯に広がっていた」というし、天の使いのセラフィムは二つの翼で顔をおおっていたというのですから、イザヤもまた神の顔を見たわけではないようであります。
 
ここで大事なことは、神を見たイザヤは決して幸せな気持ちになったわけでもなく、恍惚になって喜んだわけではなく、逆に自分は災いだ、自分は滅ぼされるといって、おののいたということなのです。

 よく自分は神を見た、神にお逢いしたといって、そういう神秘的体験をしたといって、自慢する人がおりますが、そんなことを自慢げに語るひと、そんなことをいって有頂天になる人は、本当に神を見たわけでも、神にお逢いしたわけでもなく、ただ自分の幻想に酔いしれているだけの話だということであります。

 もし本当に神を見たならば、神にお逢いしたという経験をしたならば、あのイザヤがそうであったように、「自分はわざわいだ、自分は汚れた人間なのだから、自分は滅ぼされる」と、自分の罪を自覚させられのです。自分の罪の深さをしるのです。そうでなければ、その神秘的体験は偽物であります。

 「心の清いものは神を見る」といわれておりますが、その「心の清いものとは」、皮肉なことに、神を見て、かえって、自分の清さではなく、自分の汚れを知ったものこそが、神を見たといえるのであります。

 ペテロが主イエスにあったとき、イエスの足下にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と告白しているのです。
それはペテロたち漁師たちが一晩かかっても魚一匹をとれないで、朝ぼんやりして網を洗っている時、漁師でもないイエスから「沖に漕ぎ出して、網をおろし、漁をしなさい」といわれて、沖に漕ぎ出して、網をおろしてみましたら、おびただしい魚が捕れた。それをみて、ペテロはイエスの足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と告白したというのです。

 ペテロもまた神の圧倒的な恵み、いわば神秘的な恵みにふれたときに、有頂天になって喜んだのではなく、まず自分の汚れを知った、自分の罪を知ったのであります。それが神の神秘に遭うということであるし、神を見たということであります。

 イエスご自身は、この地上での生活において、父なる神を見たことがあったでしょうか。それを思わさせる記事は、イエスから罪人の一人になりきって、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたときに、神の霊が鳩のようにご自分の上にくだってくるのを見たという記事であります。そして神の語りかける声を聞いた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者だ」という声を聞いたというのです。しかし、これも神の顔を直接みたわけではなく、聖霊が鳩のようにくだってくるのを見たというだけであります。

 われわれは、この地上では、神を見るということはないのではないか。神の声は聞くことがあるかもしれませんが、神の顔を見ることはないのです。

 パウロがこういっているところがあります。終末について語っているところであります。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れる。今は、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知られているように、はっきりと知ることになる」といっているのであります。

 ここでもはっきりと神を見るとは述べてはいませんが、しかし、完全なものが来た時には、顔と顔を合わせて見る」というのですから、やはり神をみるということが示唆されていると思います。

 われわれは終末のときがくるまでは、この地上では、神の声をきくことはあっても、神そのかたを見ることはできないし、また見る必要もないのであります。

 なぜなら、ヨハネによる福音書の一章一六節にこうあります。「いまだかって、神を見たものはいない。父のふところにいるひとり子である神、このかたが神を示されたのである」と記されているのであります。

 弟子のひとりフィリポがイエスに対して「主よ、わたしたちにちに御父をお閉めしください。そうすれば満足します」といったときに、イエスはこういわれたのであります。「フィリポよ、こんなに長い間、一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである」といわれたのであります。
 
 考えてみれば、聖書のなかには、神をみるために、たとえば山にこもって座禅でもして修業をして、神にお逢いしたという人はだれもいないのではないかと思います。アブラハムにせよ、ヤコブにせよ、あるいはモーセにせよ、そういうことはないし、預言者にもそういう人はいないのであります。預言者エリヤは山の中で神の細い声を聞いておりますが、しかしそれはなにか修養のために山にこもったのではなく、命をねらわれて、山にこもっただけであります。

 イエスは宣教を開始するまえに、確かに四十日四十夜、荒れ野で断食をした都聖書は記しております。しかしそのあと、イエスは神を見たのか、なにか神秘的な体験をして、悟りを開いたかといえば、なんとそのあと、イエスが遭遇したのは、神ではなく、悪魔だった、悪魔の誘惑を受けたのだと聖書は記しているのであります。そしてそのとき、主イエスは悪魔の誘惑に対しては、徹頭徹尾、神に信頼して、神のみを信じてその悪魔の誘惑に勝っているのであります。それは決して、自分の心を清くして、なにか悟りを開いて、悪魔の誘惑に勝利したのではないのです。
 むしろ、その四十日の間断食して、空腹を覚えて、徹底的に自分の人間として弱さを知って、ただ神に頼ることを学んで、悪魔に勝利したのであります。

 心の清いものは神を見る。それは、自分の弱さを自分の汚れを知り、自分の罪を知ったものが、いちずにただひたすら神に頼ろうとして生きるものが、神を見る、神にお逢いするということであります。