「心の貧しい者はさいわいである」 マタイ福音書五章一ー一二節


 主イエスが弟子達を中心にし語られた、いわゆる「山上の説教」昔の言葉では「山上の垂訓」というわれている、その冒頭の言葉は「心の貧しい人々はさいわいである。天の国はその人たちのものである」という言葉であります。ここは文語訳では、「さいわいなるかな、心の貧しい者」となっております。

 ここで心にとめておきたいことは、心が貧しくなったら、幸いである、というのではないということなのです。ここはご承知のように、ルカによる福音書では、「貧しい者はさいわいである」となっていて、「心の」がついていないのです。そうしましたら、貧しい者はさいわいであるということは、貧しくなったら、幸いになるということはあり得ないことはあきらかだと思います。

 ここは、心が貧しい、その現状において、さいわいだというのです。心が貧しくならないとさいわいにはなれないということではないのです。「あなたがは心が貧しい、そのままの姿でさいわいだ」ということなのです。

 問題は「心が貧しい」とはどういうことかということであります。今、われわれは新共同訳聖書を使っておりますが、この新共同訳聖書の前に、共同訳聖書というのが、新約聖書だけ出版されました。ですから、現在の聖書には、「新」という言葉がついているのです。ちなみに、この共同訳聖書では、イエスではなく、イエススとなっております。そのほうが原語に近いからですが、しかし、日本人には、もはやカトリックも含めて、イエスのほうが定着しているからということで、新共同訳ではイエスになっております。

 その前の共同訳聖書では、この「心の貧しい者」というところを、「ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人達のものだから。」と訳されております。「心の貧しい」といとろを、「ただ神により頼む人」となっているのです。それでは少し意訳しすぎるというので、新共同訳では「心の貧しい者」となったのであります。このほうが原語に近い訳だからであります。

 心の貧しいというのは、前の共同訳聖書の意味でいえば、自分のなかにもうなにもない人、だからもうただ神により頼む以外にない人、という意味になります。

 心が貧しいというのは、心が貧弱だとか、能力がいとか、あるいは、ただ謙遜であるとか、ということではなくて、あるいは、そういうことも含めて、だからもうただ神に頼る以外にない、そういう状態にある、あなたがたは幸いであるということであります。

 ここの「幸いである」といういわゆる山上の祝福は、三節から一二節までつづきますが、ある人がここで「さいわいである」といわれているところは、最初の前半、六節までのところは、祝福される人間の状態が祝福されていて、七節からの「憐れみ深い人」から始まる後半は、祝福される人の態度、その人の主体的な意志が問題とされているといっております。

 そうしますと、「心の貧しい人」「悲しんでいる人」「柔和な人」「義に飢え渇く人」、そいう状態にある人は、そのままの状態のままで、さいわいであるということになります。なにか努力してそうなったらというのではないのです。

 とくに、「心の貧しい者は幸いである、天の国はその人たちのものである」という祝福の言葉は、心の貧しい現在そのままでさいわいである、ということであります。天の国、つまり、天というのは、神ということをあらわし、国というのは、支配という言葉をあらわしている言葉ですから、「天の国はその人たちのものである」というのは、「神の支配はその人たちに現在もう行き渡っている」いう意味であります。心の貧しいという現在そのままで、神の支配は行き渡っているから幸いであるという祝福の言葉になるということであります。

 若い時というのは、幸福というものをいつも将来くるものと考える傾向にあるのではないかと思うのです。自分自身のことを考えても、わたしは幸福というか、楽しみというものをいつも将来に設定していたような気がいたします。夏になったら、旅行しようとか、そのように将来に、将来に楽しみを設定して、現在を過ごしていたように思うのです。

 わたしは牧師を引退したあと、日本基督教団で発行しております。教団新報とい機関誌で、引退牧師のコメントを求められて、それは引退牧師にみな書くように求めるのですが、わたしはこんなことを書きました。「引退して、一切の責任から解かれて、こんなに楽をしていいのかと思えてならない。毎日をこんなに一切のものから解放されていいのかと思う。しかし考えてみれば、引退するということは、それだけ、年をとったということで、つまりそれだけ、死が近くなったということで、すべてのものから解放されたわけではなく、われわれの人生とって、一番重いもの、死からは解放されていない、それに次第に近づいていくことだということに気がついた」というよなことを書きました。

 年をとるということは、引退するということは、それだけ死が近づいてきたということを実感することなのです。いつもそう思うわけではありませんが、しかしふと考えるとそのことを思うのです。そうしますと、このごろは、もう将来に楽しみを設定して生きるという生き方はできなくなりました。そんな設定してもいつ死がきて、そんな設定はこわされてしまうわけですから、将来ではなく、現在を楽しまなくてならないと思うようになったのです。

 たとえば、ご馳走が目の前に置かれたときに、わたしは自分が一番おいしいと思うのは、最後にとっておいて、それを最後に食べようとしていたのです。しかし年をとってからは、そんなたべかたではなく、ご馳走を前にして、まず一番先においしいものに箸をつけようとするようになったということであります。
 実際には、いまだに依然としてやはりおいしものは、最後に食べようとしてとっているかもしれませんが、いっみれば、生き方としては、将来に楽しみをとっておくというよりは、現在を楽しもう、現在楽しまなくてはならないという生き方に変わったことは確かであります。

 主イエスは「心の貧しい者はさいわいである。天の国は、神の支配はもうすでに与えられているからだ」というのです。今われわれが心の貧しいその状態そのままで、幸いであるというのです。今は心が貧しくても、やがて将来、いつの日かその心が豊になるときがくる、そのときに天の国はやってきてお前のものになるから幸いだというのではないのです。

心の貧しい者、自分のなかにはもう何ももたないもの、もう何ももてない者、そのために「ただ神により頼むしかない人」、その人はそのままの姿でさいわいだ、なぜなら、われわれが空の手を天に差し伸べたときに、神様がそのわれわれの空の手に神の恵みを一杯満たしてくださるからだというのです。

 もし、われわれがわれわれの手に、なにか神に捧げる土産物をもって、なにかよい行いとか敬虔な信仰とか、そういう土産物をもって神様のところに行こうとしたら、神は神の恵みを入れようとする余地はなくなってしまうのであります。

 大事なことは、自分の手に何ももたずに、空の手を神に差し伸べることなのであります。そのように努力しなさいというのではなく、どんなに努力したって、われわれは自分の手に神にもっていけるような土産ものは何一つないのですから、自分の手になにもない、自分は本当に心の貧しいものだとつくづく知ることが大事なのであります。

 そして四節からみますと、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と続きます。口語訳は「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らはなぐさめられるであろう」となっております。つまり、三節の幸いとは違って、現在さいわいであるというのではなく、未来形が使われて、慰められるだろうとなっているのであります。

 悲しみにはいろいろな悲しみがあると思いますが、悲しみの原因はすぐ取り去られないと思うのです。たとえば、愛する者を亡くしてしまう、愛する者が死んでしまって、悲しむというときに、愛する人がもうこの世にはいないとという現状はそのままです、それは将来にわたってもう愛する人は帰ってこないわけです。しかしそういう現状であっても、慰められる、慰められる時が必ず来るということであります。慰められるときがくるから、悲しいという現在も幸いであるというのです。

 ここは、共同訳は、四節からのところは、やはり少し意訳して思いきってこう訳されております。「悲しんでいる人々は幸いだ。神がその人たちを慰めてくださるから。耐え忍ぶ人々は、幸いだ。神がその人たちに約束の領地をくださるから。御心にかなう生活に飢え渇いてる人々は幸いだ。神が満たしてくださるから」と訳されていて、みな「神が」という言葉をいれているのです。ギリシャ語原文には、「神が」という主語はないのです。ここは原文は、すべて受動態で、受け身で表現されております。「慰められる、地を受け継ぐ、満たされる」というように。しかし共同訳は、そこを思い切って、「神が」という主語を入れて訳しているわけです。内容からいいますと、そのほうがはっきりしてくると思います。

 
 悲しみのなかでも、もっとも深い悲しみは、愛する者を亡くしてしまうということだろうと思います。ダビデがそうでした。ダビデは自分の部下の妻を奪い、卑劣な手段でその夫を殺し、そうして知らん顔していたのであります。当時の王様でしたら、そんなことはそれほど大げさなことではなかったのです。しかし神はそれを赦しませんでした。神はダビデとその奪った女バテシバの間にできた子供を病気にさせたのであります。

 ダビデは自分の犯した罪の大きさに気づき、神に自分の罪を告白しました。神はそのダビデの罪を赦しました。しかし罰は免れなかったのです。その愛する子供は病気になりました。ダビデは必死にその子供の病気がいやされるようにと断食してまで、神に祈り求めました。しかし、神はその子供を死なせました。

 それを知るとダビデはただちに断食をやめて、身を洗って香油を塗り、衣を替えて、主の家に行って礼拝をしました。それは家来たちを驚かせました。家臣はダビデに対して、「あなたは子供が病気のときには、あんなに神に断食してまで神に祈り求めたのに、子供が死んだと知ると、なぜそんなにあっさりと断食をやめることができるのですか」と食ってかかって詰問したのです。

 するとダビデはこう答えたのです。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかも知れないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、なんになろう。あの子を呼び戻せるようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子はわたしのところには帰ってくることはない」。

 このダビデの言葉に対して、ある説教者がこういっているのです。「ここには、悲しみはあった。しかし不平はない。悔いもない。神のなさることにすべてお任せするだけだった」といっているのであります。

 もう死んでしまった子供は帰ってこないのです。こちらからやがて死んだ子供のところにゆくことはあっても、死んだ子供は帰ってこない。従って、ここには子供を亡くしてしまったという悲しみはある、その悲しみは続く、しかし、不平はないというのです。神に対する不平はないというのです。なぜなら、すべてのことは、神にお任せすることができたからだ、というのです。この時のダビデはまさに「心が貧しくなっている」ダビデであります。「ただ神により頼んでいる」ダビデであります。

 「悲しんでいるものはさいわいである、彼らは慰められる」ということはこういうことであります。悲しみはなくなりはしないのです。悲しんでいてもいいのです。その悲しみのなかで、神に向かうとき、その悲しみは、神の御心に適う悲しみになり、われわれを悔い改めに導いて、すべて神に委ねることができる、そうして慰められるのであります。

 悲しみは取り去られないのです。いや、悲しみの原因となるものはもとにはもどらないのです。しかし、慰められるのであります。神が悲しみのなかにあるわれわれを受け入れてくださるからであります。

 五節には「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と言われます。共同訳では、「耐え忍ぶ人々は幸いだ。神がその人達に約束の領地をくださるからだ」と、訳されております。

 ここでやくされております「柔和」という言葉は、われわれが日本語で「柔和」という言葉から感じるのとはずいぶん違うようであります。

 リビングバイブルでは、「柔和で高ぶらない人はさいわいだ」と訳されおります。柔和というのは、ただ心優しいとか、穏やかだというのではなく、自分を誇らない、高ぶらないという意味をもっているようであります。

 柔和という字は、聖書ではいろいろと訳されております。たとえば、この言葉のもとの言葉になっているかも知れない旧約聖書の詩編の三十七篇の言葉は、口語訳聖書では「柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄を楽しむことができる」となっておりますが、新共同訳では、ここで「柔和な者」というところは、「貧しい人」となっていて「貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らを委ねる」と訳されているのであります。

 こうしてみますと、「柔和」と日本語で訳されている言葉は、日本語の「柔和」という語感とは違って、むしろ、柔軟性に富んでいる、自分を主張しない、権力的でない、高ぶらない、従って、あるいは、共同訳のように耐え忍ぶことができる、という意味をもった言葉のようであります。

 主イエスご自身が「わたしは柔和で心のへりくだった者である」といわれて、だから「重荷を負うて苦労している者はわたしのところに来なさい」といわれております。ここでは、柔和ということで、なによりもへりくだりということ、謙遜ということをあらわしております。

 共同訳のように、「耐え忍ぶ人」という意味では、自分の考えを主張したり、自分の考えだけに執着しないで、耐え忍んで、待つことができる人という意味にとれば、神を待つことができる人という意味であります。そして神を待つということは、具体的には、「時を待つ」ということでもあると思います。つまり、「神が用意してくださる時を待つ」ということであります。そのように待っていれば、神が用意し、神が約束してくださる「地を受け継ぐ」と言うことであります。

 「地を受け継ぐ」という意味もあまりはっきりしませんが、われわれに取っては約束の地、それは天国という意味にとってもいいと思います。

 そして今日学びたい、最後の句は「義に飢え渇く者は幸いである。その人は満たされる」というところであります。ここは共同訳では、「御心にかなう生活に飢え渇いてる人々はさいわいである。神が満たしてくださるから」となっております。

 「義に飢え渇く」というときの「義」は自分の義、自分の正しさではないことは明かであります。神の正しさであります。神によって自分が正しいと認められることを求める、ということであります。それは自分の罪の赦しを切実に求めるということであるかもしれませんし、またなにか冤罪とか不当な罪を他人から負わされて、神によって正しい裁きがあたえられるということを求めるということであるかもしれません。

 神様が本当に正しくこの世を裁いてくださる、それは自分自身もまた神によって正しく裁かれることを含んでの裁きであります。神は決して閻魔さまではないのですから、それはいつも憐れみをもった正しい裁きですから、われわれは安心してその神の義を求め、神によって本当の裁きを求めることができるのであります。

 いわゆる、主イエスが山の上で弟子達を中心にして語った説教が「さいわいなるかな」という祝福の言葉で始まっていることは考えさせられることであります。われわれは神様から祝福される、こんなにありがたい、安心なことはないからであります。

 しかし、祝福というのは、ただわれわれにとっていいことばかりだと思いがちですが、神様の祝福というのは、それだけではないようです。それは幼子イエスがヨセフとマリアに抱かれて、いってみれば、幼児祝福式をうけに神殿にきたときに、シメオンがそのヨセフとマリアを祝福して、特に母親マリアに対して、こういうのです。「ご覧なさい。この子はイスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められている。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわれるためだ」というのです。

 シメオンは幼子イエスの母マリアを祝福し、この幼子はやがて成人して最後に十字架で殺されることになるだろう、そしてそれによってあなた自身も心を剣で刺し貫かれる悲しい思いをするだろう、といって祝福したというのであります。
神によって祝福されるということは、ただいいことばかりが言われるのではないようであります。

 神の祝福は、主イエスの受難と十字架の死を通して、われわれに与えられるのだということを覚えておかなくてはならないと思います。