「悔い改めの涙」   ルカ福音書 七章三六ー五○節


 昔、あるいは今でもそうかもしれませんが、ドイツでは、小さい子供が死ぬと、そのお墓に小さいパンと水の入った壺をお墓におくということがあったようです。日本でもよくお墓にいくと、お酒が備えられたり、あるいは果物がそなえられたりしております。

 それと同じようなことがドイツでもあったのです。その死んだ子供達のお墓におかれたパンと水は、子供が死んでから天国に旅する間、お腹がすかないようにのどがかわかないようにと、お母さんがおいたものなのです。

 ひとりの羊飼いの少年が、お父さんもお母さんもなくなって、そしてお兄さん達にも見捨てられてしまって、ひとりぼっちになってしまって、食べるものもなくなってお腹かがすいてたまらくなって、墓地で夜を過ごそうとやってきました。ちょうどそのときに、子供を亡くしたお母さんがお墓の前にパンと水をおいてお祈りしているところにぶつかりました。

 羊飼いの少年はその様子をみていて、お母さんが立ち去ったあと、お腹がすいてたまらないので、悪いこととは思いながら、そのパンを食べてしまいました。そんなことが一○日ほど続きました。お墓にきたらパンが食べられると思うようになったのです。

 あたりに誰もいないと見回して、そっとパンをとって食べ終わったときに、誰もいないとおもっているところに、ひとりのこびとのおじいさんが突然あらわれました。そして少年にいいました。「お前さんはわしの仕事を手伝ってくれてありがとう」というのです。「わしはお前さんが死んだ子供達のパンをそっと食べているのをみていたのだ。お前さんのお陰で、あの子供たちは天国にゆけなくて、みなわしのところにくるようになったのだ」と、変なことをいうのです。

 そしてこういいました。「これから千人の死んだ子供達のパンをお前さんが食べてくれたら、お前さんにご褒美をあげよう」といいます。少年は「千人なんかとてもたべられないよ」といいますと、そのおじいさんは「そうだなあ、お前さんはのろまだから、それでは百人でいい、そうしたら沢山のお金をご褒美にあげる」というのです。

 羊飼いの少年は、それからお墓に供えられた百人の死んだ子供たちのパンを食べました。そうしたらおじいさんが現れて、これからご褒美をあげよう。ヤマナラシの木の下に立って、「死んだ子供たちのたましいよ。お前達のパンをもっとおくれ」といいなさい。そうするとヤマナラシの木の葉がおちてくる。それはみんな金貨になるんだ」といいました。

 少年はなんだか「いやな文句だなあ」といいながら、ヤマナラシの木の下で、「死んだ子供たちのたましいよ。お前達のパンをもっとおくれ」と、いいますと、木の葉がおちてきて、それはみんな金貨になりました。

 少年は金持ちになり、大きな家を建てて、毎晩のように宴会を開きました。沢山の人がその宴会に集まりました。しかしみんなが楽しそうにしているときにも、少年はいつも淋しそうに皆の様子をみているだけでした。

 そして夜の十二時になると、召使いが金のお盆の上に百個のパンの載せて運んできて、白いテーブルクロスの上に順番にならべるのでした。それを合図としてお客さんはみんなかえっていきます。

 「これはなんなのですか」、とお客さんがききますと、その屋敷の主人である羊飼いの少年は「これは死んだ子供たちのパンなのですよ」と答えていました。お客さんはなんのことかわかりませんでした。
 みんなが去った後、召使いも去り、ただひとり屋敷の主人はのこってだれもいないその宴会場でじっと誰かをまっているようにして、一時間ほど悲しそうに座っていました。

 ある時、召使いが帰るときに、扉を閉め忘れたようで、扉から風がふいてきてローソクの光がもえあがりました。そしてそのドアから長い三列の子供たちが入ってきました。子供たちの足ははだしでした。そしてなによりも悲しいことは子供たちの目はつぶれていました。ひとりづつ椅子に座るとなにか手探りでパンをつかもうとするのです。

 羊飼いの少年は、「きみたちは何が欲しいの」というと、子供たちは「ぼくたちのパンをちょうだい」といいました。すると羊飼いの少年は「どうぞどうぞ、ここに一人づつパンを用意していたよ。ぼくは本当のところずっと前から君たちをまっていたんだよ」といいました。

 すると子供たちは悲しそうに首を横にふりました。「これはぼくたちのパンじゃんない。これはぼくたちの壺ではない。だってぼくたちのお母さんはパンを涙でぬらし、壺の水に涙をまぜてくれたのだ。涙にぬれていないパンなんて、ぼくたちはたべられないんだ」といったのです。

 羊飼いの少年はそれを聞くと、両手をもんで、「どうかぼくの罪をゆるしてくれ」と、子供たちに頼みました。「これが罪だということを、ぼくは今はじめて知ったのだ。君たちの目があいて、もう道に迷わないですむならば、ぼくの全財産を投げ出してもいいよ」といって、少年は一番年かさの子に、パンをおしつけて、お願いだからどうか食べてくれと頼みました。その子が悲しそうに手をひっこめときに、彼は小さなパンの上に顔を伏せて激しく泣きました。

 彼の最初の涙がこがね色のパンのふりそそいだときに、突然すべてのろうそくが明るくなって、その一番年かさの子は青い目をぱっちりとひらき、彼の手からパンを取り、ちぎって食べました。するとつぎつぎと子供たちがパンを彼にわたして涙がそのパンにひたされてから、食べました。そうしたら目があきました。そして百人の子供たちはまた長い行列をつくってドアからでていきました。「これからどこにゆくんの」と少年がさけびますと、子供たちは「天国にゆくんだよ、天国にゆくんだよ」とうれしそうに叫びました。

 これはドイツの童話作家のヴィーヘルトという人の書いた童話、「死んだこどもたちのパン」という童話を短く紹介したお話です。

 ヴィーヘルトという人は、ドイツのヒットラーに抵抗して、強制収容場に入れらたという経験をもった作家なのです。第二次世界大戦では、ドイツのヒットラーが率いるナチズムは、ユダヤ人をただユダヤ人であるという理由だけで、捕まえてユダヤ人の六百万人の人をガス室におくって虐殺したのです。その六百万人という数についてはいろいろな説がありますが、ともかくドイツはユダヤ人に対して、ひどいことはしたことは明らかなのです。そしてドイツが負けて、ドイツはユダヤ人に対して、また戦争をした世界の人々に対して、謝らなくてはならなかったわけです。

 自分の犯した罪に気づいて、謝らなくてはならないのです。その謝るときに一番大切なのはなにかということです。お金で謝ることもできるのです。あるいは、ただ頭を下げて、ごめんなさいと謝ることもできるのです。

 しかしそれでは本当に謝ったことにはならいのではないか。謝るということで一番大切なことは、自分の罪を、自分の過ちを心から知って、本当に悪いことをしました、本当にわたしはあなたを傷つけてしまいましたと、涙を流して悔いることなのだ、そのあやまりかたに心が、涙がこもっていなくてはならない、そのことを今ドイツの国民はユダヤ人に対して、全世界人々に対してしなくてはならないことだと、ドイツ人であるヴィーヘルトは、この童話をとうして訴えたかったようなのです。

 羊飼いの少年は、最初はお腹がすいてたまらなくて、お墓に供えられた死んだこどもたちのパンを食べてしまった、それはまあ仕方ないことだったかもしれません。しかしそのうちに自分のしていることに鈍感になってしまって、自分が幸福になるためならば、人のパンを食べてもいいやという気持ちになっていってしまうのです。自分が幸福になるためには、人の幸福を奪ってもいいや、ということになってしまう。

 これはもう悪いことですね。これが罪というものです。わたしたちはそうやって人の幸せをうばってしまう、人をいじめたり、人よりも少しでも、よくなろうとして人をけおとしたりしてしまうのですね。それはだれでもそうなのです。自分は絶対にそんなことはしないという人はひとりもいないと思うのです。

 大切なことは、そういう自分に気がつくことです。自分がどんなに死んだ子供たちのパンを奪ってしまう人間か、死んだ子供たちが天国にゆくためのパンを奪ってしまってただ自分だけが幸せになればいいんだとおもってしまっている、そういう自分に気づいて、涙を流して悔いることなのです。

 イエスさまがあるとき、村の偉い人に招かれて食事をしているときでした。そこに一人みすぼらしい女の人がとつぜんあらわれて、とても高価な香水の入った壺を手にもって、うしろからイエスさまの足下に近づいて、泣きながらイエスさまの足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、イエスさまの足に接吻して、香水を注いだのです。

 それをみていたイエスさまを招待した偉い人はとても怒ったのです。この女は町でも評判の悪い女で、イエスさまはこの女のしたことを非難もしないで受け入れているのはけしからんと、口にはだしませんが心のなかで思ったのです。

 するとイエスさまは、その偉い人の心のなかを見抜いて、こういうのです。
「わたしがこの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかった。しかしこの女はわたしの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。この女の人がこのように涙をながして、わたしの足を接吻してやまないのは、この人が自分の罪にきづき、どんなに神様にゆるしもらいたくて、このようにしているのだ」といわれたのです。そしてイエスさまは、この女の人に対して、「あなたの罪は赦された」といわれたのです。

 イエスさまがこの家に招待されて家に入ったときに、イエスさまはこの偉い人に対して「あなたは足を洗う水をくれなかった」といっていますが、この偉い人は本当は足を洗う水をだしたかも知れないと思います。人を招待しておいて、足を洗う水をださらないなんては考えられないからです。しかしその水にはひとつも心がこもっていなかった、とイエスさまは言いたかったのだと思うのです。
お客さんがきた、じゃあ水を出そうくらいの気持ちだった。本当にお客さんの汚れた足を洗ってあげましょうなんていう思いはひとつもなかったということなのです。

 イエスさまを招待した偉い人は、いつもいつも自分は正しい立派なことをしているんだと威張ってばかりいたのです。だからいつも人を見下していた。自分が一番偉いとおもっていたようなのです。神様の子であるイエスさまよりも自分は偉いと思っていたようなのです。だから足を洗う水をだしても、すこしもそれに心がこもっていなかった。神様の子イエスさまを迎えようとする心がひとつもこもっていなかったです。

 自分はいつもいつも正しい、立派なことをしているんだとおもっていて、自分は悪いことなんか一つもしていないんだと威張っている人が、世の中をよくしていくことなんかできないとイエスさまはいわれるのです。

 自分は悪いことをしてしまう弱い心をもっているんだと気づいている人、そうしてそのことにいつも涙を流して、「神様、こういうわたしをお赦しください」と祈る心を持っている人、そういう人は、人に対しても、弱い人に対しても、やさしくなれるんですね。

 自分は正しいんだ、自分は立派なことをしているんだと威張っている人は、強い人かも知れませんが、弱い人の気持ちなんかひとつもわからない人なのです。人にやさしくすることができないのです。人を愛することができないのです。

 イエスさまは「わたしは正しい人、偉い人を招くために来たのではなく、罪人を招くために、来たのだ」といわれたのです。
 イエスさまは、強くて、いつもいつも威張っている偉い人のところに来たのではなく、病気で苦しんでいる人、愛する人を失って悲しんでいる人、自分のあやまちに苦しんで涙を流している人、自分を低くして、子供のような心をもった人のところにいらしてくださったのです。