「クリスマスのあと」 マタイ福音書二章一一一二節

 御子イエス・キリストがこの世にいらしたことをこのように考えてみたらどうでしょうか。
田舎から大学生活のために都会に来て下宿生活している子供に、親は子供の要求どおりに現金封筒でお金を送っていたのです。しかし、あるとき、それまでは現金封筒でお金を送っていた親が、突然子供の下宿を訪れた、それがクリスマスという出来事なのではないかと考えてみたらどうでしょうか。

子供はいきなり、親が下宿に来て喜んだろうか、子供に取っては親が直接下宿にくるのは、迷惑なことではないか。子供にとっては、自分の要求に応えて、現金封筒でお金だけを送ってきてくれたほうがよほど都合がよかったのではないか。いきなり親が自分の下宿にきたら、自分のだらしない生活がそのまま親に知れてしまって大変あわてるのではないか。それは大変迷惑なことなのではないか。

 従って、御子イエス・キリストがこの世にいらしたということは、それほど諸手をあげて歓迎できることではなかったのではないかということなのです。

 現に聖書の記事をみますと、クリスマスは人々はなんの関心も示さず、異邦人の東から来た博士達だけが関心を示しただけだった。しかもユダヤ人であるヘロデ王は、その博士たちが「将来ユダヤ人の王として生まれるメシアはどこにおられるか」と探し回っているときくと、不安を感じたというのです。そして王だけでなく、エルサレムの人々も同様であったというのです。
そしてヘロデ王は、そのメシアを抹殺してしまうことにやっきになって、とうとうイエスが生まれたというベツレヘムの二歳以下の男の子をことごとく殺してしまったというのです。

 クリスマスの出来事は、人々の関心を引かなかったし、歓迎されなかったし、メシアとしてイエスが誕生したのだと知った人々は、そのメシアを抹殺しようとしたのであります。

 われわれにとっては、本当のところは、現金封筒で現金だけを送ってくれたほうがよほどうれしいし、都合が良かったのです。

 しかし神様はそうはお考えにならなかった。どうしても御子イエス・キリストを人としてこの世に送りださなくては人間を救えないと思われたのであります。

 そのようにして、神ご自身がこの世界に介入して来て、この世はどうなっていったのでしょうか。クリスマスのあと、われわれの世界はどうなったのか、どう変わったのか。

それはなによりも、われわれ人間がこれが正義だと考えている正しさというものに疑問符がつけられたということではないかと思います。

この世の悲劇、悲惨さというものは、人間の邪悪とか利己心とか、欲望によって犯罪が行われるということよりも、実は正義という名のもとに行われる戦争、国と国との争い、人と人との争いにあるのではないか。

 イエスは邪悪な人々によって殺されたのでなはく、自分たちは正しく神に仕えていると信じてやまない律法学者、ファリサイ派の人々が中心になって殺されていくのであります。われわれの抱いている正しさは、ほんとうに正しいのか。

 聖書は、イエス・キリストの誕生の記事をこのように書き始めます。
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と書き始めるのであります。

 自分の婚約者が自分の身に覚えがないのに妊娠している、そのことを知ったヨセフは憤ったに違いないと思います。マリアは他の男と姦淫したと思ったわけです。それでただちに離縁しようとした。婚約を解消しようとしたのであります。正しい人間だったならば、だれでもそうするだろうと思います。

 聖書は、「夫ヨセフは正しい人であったので」と書きますが、その正しさとは、彼は正しい人であったから、自分の婚約者の裏切りと不倫に憤り、離縁しようとしたとは書かないのです。

 そうではなくて、ヨセフはこのことでマリアのことが表沙汰になって、みんなから罵倒され、あざけられ、石打の刑に処せられることを望まず、ヨセフは正しい人であったので、だから、「ひそかに」縁を切ろうとしたと記すのであります。ただ縁を切ろうとしたというところではなく、「ひそかに縁を切ろうとした」、その「ひそかに」ということで、ヨセフは正しい人であったので、と聖書は書くのであります。

つまり、ヨセフは人間のもつ正しさのもっとも良質の正しさをもった人間であったということであります。ヨセフはマリアの不倫を知って、ただ正義をふりかざし、マリアを糾弾するという、正義の志というような正しい人ではなかった。人の過ちをも最大限に許し、被ってあげようとする優しさをもった正しい人間であったということであります。

 正しさとは優しさであるということであります。

 吉野弘の「祝婚歌」という詩があります。これはよく結婚式の披露宴で紹介される詩のようであります。
 「二人が睦まじくいるためには  愚かでいるほうがいい  立派すぎないほうがいい  立派すぎることは  長持ちしないことだと気付いているほうがいい  完璧をめざさないほうがいい  完璧なんて不自然なことだと  うそぶいているほうがいい  二人のうちどちらかが  ふざけているほうがいい  ずっこけているほうがいい 

 互いに非難することがあっても  非難できる資格が自分にあったかどうか  あとで疑わしくなるほうがいい  正しいことを言うときは  少しひかえめにするほうがいい  正しいことを言うときは  相手を傷つけやすいものだと  気付いているほうがいい  立派でありたいとか  正しくありたいとかいう  無理な緊張には  色目を使わず  ゆったり ゆたかに  光を浴びているほうがいい」

もう少し続きますが、こういう詩です。「正しいことを言うときには、少しひかえめにするほうがいい」というのです。われわれが正しさをいうときには、どこかに必ず自分の正しさを主張するという、自分が自分がという自我の主張があるからであります。

 茨木のり子さんという詩人がおりますが、茨木のり子さんの親戚の娘がドイツのカトリックの青年と国際結婚するとことになったといのうのです。そして式のときに相手は聖書の一部、あの有名な「コリント人への手紙の愛の賛歌」を読むから、こちらも日本の詩のなかでなにかを紹介して欲しいということがあって、その詩の選択を頼まれたとき、茨木のり子さんはすぐこの吉野弘さんの「祝婚歌」を選んだというのです。

 この「祝婚歌」という詩は、ヨーロッパの思考法、徹底的に原理を追求するヨーロッパの思考法とは、対極にある詩だから、ある意味では、これは聖書の一節に十分拮抗できるのではないかと彼女は思ったというのです。それでこれを紹介したら、若い二人はとても気に入ってくれた。相手のカトリックのドイツの青年も気に入ってくれた。それでこれをドイツ語に訳して渡したところ、式のときにこの詩が聖歌隊によって歌われた。そうしたら、出席した会衆に大きな感動を与えた。神父もこの詩についてかなり長い解説をしていたというのです。

茨木のり子さんは、この詩はあの原理を追求するドイツでも受け入れられたというのは、興味深いことであると書いているのであります。

 今世界は、ある大国の正義の主張によって、テロリズムを引き起こし、復讐の連鎖を断ち切れないでいるのであります。ただ正しさを求める原理というものがある意味では破綻を来しているといってもいいかもしれません。  

われわれは人間関係のなかで、正しさを求めるときに、どこかぎくしゃくしたところがでてくるのではないでしょうか。親子の間で、あるいは、特に夫婦の間で正しさを主張しようとすると必ずぎくしゃくしたものが起こるのではないでしょうか。

 今、離婚の問題で一番問題になっているのは、夫の不倫とか、夫の妻に対する暴力とかということよりも、モラルハラスメントだということであります。モラルハラスメントというのは、セクシャルハラスメントをまねて造られた言葉のようですが、夫が自分の価値観を妻に押しつける、自分の正義観を相手に押しつるという行為であります。それは特に熟年離婚の場合に多くみられるというのであります。長い間それに耐えてきた妻はとうとう耐えきれなくなって離婚するというのであります。

 正しさを主張するときには、必ずどこかに自分の自我が主張されるからであります。

 ヨセフは正しいひとでした。ですから、婚約者のマリアは自分以外の他の男と密通したのではないかと思い、縁を切ろうとしましたが、しかしそのとき、ヨセフは自分の正しさをあからさまに主張しようとはしないで、それをおさえて「ひそかに」、離縁しようとしたというのであります。

 吉野弘の詩にあるように、「正しいことをいうときには少し控えめにするほうがいい」とありますが、ヨセフはそうしたのであります。
 ヨセフは人間のもつ最良の正しさをもっている人でした。

 しかし神はそのヨセフに対してこう告げるのであります。「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と、神は天使を通して告げるのであります。

このとき、神は、ヨセフが「ひそかに」にではあっても、離縁しようとした彼のもっていた正義、潔癖感を捨てさせて、マリアを妻として迎え入れよ、といわれるのです。神はヨセフのもっていた正義感、それは人間のもつ最高の正義感であったのですが、それを捨てさせようとするのであります。

ヨセフのもっていた正義とは何だったのか。

 ヨセフは、マリアをあからさまに告発しないで、石打の刑から逃れさせようとして、ひそかに離縁しようとしたのであります。ここには人間のもつ最良の優しさがあるかもしれません。しかしそこでは、どんなにひそかにではあっても、離縁しようとする限りにおいては、まだまだ自分の正しさを守る、自分の潔癖性を維持するという、自分の立場を守るということ、自分を守るということは保持されているのであります。

 ここに、人間のもつ正しさの限界があるのではないか。このときヨセフがいだいた正義感は、自分の立場に固執するという人間の罪につながる正義でしかなかったのではないか。 
 
 ヨセフの優しさという正義は、自分の立場を守るという限りにおいては、状況によっては、あのヘロデ王の幼児虐殺につながる正義でしかなかった。ヘロデ王は自分の王という立場を守ろうとして、将来イスラエルの王として生まれたという噂のある幼子イエスを殺そうとして、ベツレヘムの付近の幼子をことごとく殺していったのであります。ヨセフがひそかに離縁しようとしたあの正義感、潔癖感は、あのヘロデ王の自己保身という罪にいつ転落するかわからない、それとつながっているのだということをわれわれは知っておかなくてはならないと思います。

 善良な市民がいつヒットラーのナチズムに荷担して、罪のないユダヤ人の大量虐殺にまわるかわからないのであります。あの罪のないユダヤ人の大量殺戮に加わったナチズムの高官たちは、家に帰れば良きパパだった、モールアルトの音楽を好む善良の市民であったということであります。

マリアの事が表沙汰になるのを好まず、ひそかに離縁しようとしたというヨセフの正しさ、ヨセフの優しさという正しさ、それだけでは本当にこの世界を変えていくことはできないのではないか。

 そのために、神は今ヨセフに「自分の立場を守るという正義」を退けさせて、彼を神の正しさの前に立たすのであります。

 ヨセフは、自分の立場を守ろうとする正義、潔癖性を捨てさせられて、人間の常識からいえば、姦淫して身ごもったとしか思えないマリアを、妻として迎えよと言われるのであります。

 ここで思い出すのは、預言者ホセアのことであります。
 旧約聖書にホセア書という預言の書があります。その冒頭で、預言者ホセアは神からこういわれるのです。「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」と告げられるのであります。

 預言者ホセアはあまり素行のよくない女を妻とした。そしてその妻は姦淫をした。そして子供を身ごもった。預言者ホセアはもちろん苦悩して、妻と離婚しようとするのです。そのとき神から「姦淫をした妻を迎え入れよ」といわれるのです。

 なぜ神はそのようなことを預言者にさせるかというと、今神みずから、自分が選んだ民、自分が愛して止まないイスラエルの民に裏切られている、いわば自分の民が他の神々に姦淫に走っている、しかし神はその民を赦し、なおも愛し続けようとしているのだ、だから、その神の愛を預言するために召された預言者はみずから、淫行に走った自分の妻を赦し、受け入れよ、といわれるのです。

 のちに預言者ホセアは、神の言葉としてこのように告げるのであります。「神はこういわれる。ああ、イスラエルよ、お前を見捨てることができるか。わたしの心はわたしのうちに変わり、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起こっている。憐れみに胸を焼かれる。わたしはもはや怒りに燃えることはない。イスラエルを再び滅ばさない。わたしは神であって、人ではなく、お前達のうちにあって聖なる者。怒りをもって臨むことはしない」と、預言するのであります。

 わたしは人ではなく、神だから、お前たちのなかにあって、聖なるものだから、もはやお前達の罪を告発し、暴き立て、裁くことをしないで、赦すというのです。これが神の正しさだというのです。

 神はわれわれ人間の罪を裁くというところにおいて、神の正しさを示されたのではなく、われわれ人間の罪を赦すという愛のなかに、神の正しさ、神の義を示したのです。

 預言者ホセアの場合と、ヨセフの場合とは違うかもしれません。ホセアの妻は実際に姦淫をして、子供を産んでいる。その妻を赦しなさいと命ぜられたのであります。そのことを通して、神は、神の義というものは、神の正しさというものは、われわれ人間の罪を赦すという愛のなかに示されることを明らかにしようとしたのであります。

ヨセフの場合には、姦淫によってではなく、聖霊によって胎内に子を宿されたマリアを受け入れなさいと言われるのです。
確かにマリアは姦淫によってではなく、聖霊によって子を宿したのです。そのことをヨセフは天使を通して告げられ、ヨセフはそれを信じて、マリアを迎え入れたのです。

 しかし、ヨセフはその結婚生活のなかで、時には、もしかすると、マリアは他の男と密通したのではないかという疑いがふと起こったことがあったのではないか。それは人間の常識からいったら、当然起こる感情であります。そのたびにヨセフは、いや違う、マリアは姦淫したのではない、聖霊によってみごもったのだという天使の言葉を信じようとしたと思います。そして信じたのです。

 その時ヨセフは、「ひそかに離縁しようとした」という彼のもっている狭い正義感、自分の一人勝手な潔癖感、それを退けさせられて、自分のちっぽけな正義感よりももっと大きなもっと深い神の義の前に立たされて、マリアを受け入れたのであります。

 ホセアは自分の外にある他人の罪、姦淫した自分の妻の罪との戦いであったのに対して、ヨセフの場合は、人間の正しさということの中に潜んでいる人間の根強い罪、自分の正しさを主張しようとする人間の罪、他人の罪ではなく、なによりも自分自身の罪、その罪との戦いがあったのであります。

 「正しいことをいうときには、少しひかえめにするほうがいい」という優しさ、ヨセフが「ひそかに離縁しようとした」としたヨセフの正しさだけでは、世界を変えることはできないのではないか。

自分の立場を守ろうとする人間のもつ正義を退けて、罪を赦すということにおいて示された神の正しさ、神の義を信じないと、世界を変えることはできないのではないか。

人の罪を赦す、人のあやまちを赦すということは、口では容易にいうことはできますが、これを実際にしようとしたら、大変なことであります。とうていできることではないと思います。

 ヨセフは神の介入がなければ、天使を通して「マリアは姦淫したのではない、聖霊によってみごもったのだ。心配しないで、マリアを妻として迎えよ」という
御告げがなければ、とうていマリアを妻として受け入れることはできなかったと思います。

 われわれも神様の介入がなければ、とうてい人の罪を赦すことなんかできないと思います。どういう神様の介入かといえば、神ご自身がご自分の子をこの世に送ってくださって、そして最後には十字架で殺し、われわれの罪をあがなってくださったという神の介入であります。

 つまりわれわれ自身が自分の罪が主イエスの十字架によってあがなわれ、赦されたのだ、何よりも自分自身が神によって赦されたのだということをわれわれが信じなければ、とうてい人の罪を赦すことはできないということであります。このことを信じられたならば、十のうち一つぐらいは、人のあやまちを赦せるようになるかもしれないと思います。

 クリスマスのあと、われわれ人間のもつ正義感、正しさが、本当にそれは正しいのかと問われたのであります。

 親がいきなり下宿先にこられたら、子供にとっては迷惑ではないかとさきほどいいましたが、しかし子供が病の床に伏していたらどうでしょうか。その淋しさと孤独のなかに親がきてくれたら、ほれほどうれしいことはないのではないか。

 クリスマスは心の貧しいものにとっては、こんなにうれしいことはないのであります。