「神のひとり子」ローマの信徒への手紙八章三一ー三九節

 クリスマスというのは、神様がそのひとり子をわれわれを救うためにこの世に送ってくださった日であります。
 聖書の中の聖書といわれる言葉が、ヨハネによる福音書の三章の一六節にありますが、それは「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という一句であります。
 
 そのことをパウロがこう書き記すのであります。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死にわたされたかたは、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。

 神は御子をただこの世に送っただけではない、その御子をわれわれのために死に渡された、十字架の死にわたされたのだ、その御子をわれわれのために死なすほどにわれわれを愛してくださったのだ、それならばそれは、御子と一緒にすべてのものをわれわれに賜った証ではないかというのです。なぜなら、神様は神様にとって一番の宝である独り子をわれわれに賜ったということは、もう神様のもっているすべてを与えてくださったということになるというのです。

 このことを説教して、竹森満佐一という説教者がこう言っているのであります。
「ひとり子さえも、惜しむことなくお与えになった神が、他のものを惜しまれるはずはない。このひとり子とともに一切のものを賜物としてくださるに違いないではないか」というのです。

 そしてそのあと続けてこういうのです。「そうであるならば、もし与えられないものがあったとすれば、それは神が惜しまれたからではない。その一切によって、御子を賜ったことの意味がいっそう深く理解されのである」というのであります。

 しかし、われわれにとって、神は御子とともに神様のもっているすべてのものをわれわれに与えられたといわれても、われわれはどうでしょうか。
 われわれにとっては、あれも足りない、これも欲しいというものがまだまだたくさんあるではないかというのが、われわれの実情だし、われわれの本音ではないかと思うのです。それは何ももっとお金が欲しいとか、健康が欲しいとかという、いわば御利益的な願いだけでもないのです。自分ひとりのための幸福のためだけでもないだろうと思うのです。

 神は、わたしの愛する者の病をいやしてくれなかったではないか、救ってくれなかったではないかという不満をもつ人もいると思います。第一、この世界には貧しさの中で苦しんでいる子ども達、人々がまだまだたくさんいるではないか。差別の中で苦しんでいる人々がたくさんいるではないか。戦争が依然としてなくならないではいなか。凶悪な犯罪はいっこうに減っていないではないかという思いがわれわれの中には起こってくるのでないかと思うのです。

 それでいてどうして、このわれわれの現状で、あれも足りない、これも足りないというわれわれの現実のなかで、神は御子とともにいっさいのものをわれわれに与えたのだといえるのだろうかとわれわれは疑いたくなるのです。

 そうした中で、竹森満佐一はいうのです、「与えられないものがあったとすれば、それは神が惜しまれたからではない。その一切によって、御子を賜ったことの意味が一そう深く理解されるのだ」と言い切るのであります。

 「その一切によって」という「一切」には、「与えられていないもの」を含んだ一切であります。それはある人にとっては、重い病人をかかえている現実のなかでの一切であるかもしれない、あるいは、自分の子どもを失ってしまうという無念のなかでの一切であるかもしれない、世界の悲惨な現状の中での一切であるのです。
 つまりわれわれ人間にとって、あれもない、これも欠けているということ、その欠けている部分、その悲惨、その無念さが、逆に神が御子イエス・キリストをこの世に送り、そして十字架で死なしめたということの意味を一そう深く理解させるのだというのです。

このローマの信徒への手紙を書いたパウロという伝道者は、一つの重い病をかかえておりました。それをパウロは「自分の身にひとつのとげがある」のだといっておりました。それがどんな病であるかははっきりとはしません。パウロは目が悪かった、目の病気であったかもしれません。あるいはパウロはてんかんという病をもっていたのではないかとも言われています。どちらにせよ、それはパウロにとっては自分が伝道者として立つにはマイナスの要因でした。それは見栄えのしない病気だったようです。それでパウロはこの病気を治してくださいと神に必死に祈った。しかしその病はいやされなかったのです。そして与えられた神の答えはこうでした。
 「わたしの恵みはお前に十分与えている。わたしの力、神の力は、お前の弱いところにおいてこそ、十分に発揮されるのだ」という答えだったのです。

神はパウロに対して、御子イエスと共に、パウロに「十分の恵みを」つまり一切のものを与えたというのです。それは、彼の肉体のとげ、その肉体の弱さを含めて、御子とともにいっさいのものを与えたのだというのです。「だから、お前はあれも足りない、これも欠けているなどといってはならない」といわれたのです。

 パウロはその神様からの答えを与えられて、パウロは自分のもっている重い病こそ、自分を本当に謙遜にさせ、自分を誇るのではなく、神を誇ることを教えられ、それは伝道者パウロにとって、もっとも大きな賜物だったことを知るのであります。
 そしてパウロはいうのです。「キリストの力がわたしのうちに宿るように、自分の弱さを誇ろう、わたしが弱いときにこそ、わたしは強い」とまでいえるようになったのです。

神はパウロに、御子と共にそのいっさいを与えられたのであります。

 竹森満佐一はその説教のなかでこういうこともいうのです。「福音は決して安価に人間に幸福を約束するものではない。福音は決して人間のわがままな願いをそのまま満足させてくれるものでもない。しかしこのひとり子が与えられたことを知れば、神が他のどんなものでも惜しまれるはずはないと断言して少しも誤りではないのである。神の支配の下にあるすべてのもの、その御手のあらゆるものを、神はわれわれにお与えになるに違いないからだ」というのです。

 イエス・キリストがお生まれになったユダヤの社会は今日の世界情勢と同じように決して平和な時代、平和な所ではなかったのであります。当時ユダヤの社会はローマの支配下にありました。そしてそのローマの支配下で王の位置にいたヘロデはいわば暴君でした。
 「将来ユダヤ人の王としてお生まれになったといわれているかたはどこにいるか」と東から来た占星術の学者がエルサレムの町を探し回っていたときに、そのことを聞いたヘロデ王は、自分の王としての地位が危うくなることを恐れたのです。そしてその者はどこで生まれたのかとエルサレムの学者達を集めて調べさせた。どうやらベツレヘムのあたりらしいということがわかった。それで王は東から来た学者たちをひそかに招き、「そのメシアをみつけたら、わたしにも知らせてくれ、拝みにゆきたいから」といいます。

 学者たちは幼子イエスを見つけて喜び、贈り物を贈った。そのとき彼らは夢でヘロデ王のもとに帰るなと告げられた。それで彼らは王のいるところを避けて別の道を通って自分たちの国に帰ってしまったのであります。

 一方イエスの父親ヨセフのところにも御使いが現れ、「ヘロデ王がこの子を探し出して殺そうとしているから、エジプトに一時逃げておきなさい」と告げるのであります。それで彼らはイエスをつれてエジプトに避難したのであります。

 ヘロデ王は東からの学者たちがいっこうに帰ってこないことを知って、だまされたと思い、怒り、兵士達たちを派遣して、イエスが生まれたというベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させたというのです。権力者がただ権力にしがみつこうとして、二才以下の子供を殺していった。その子供が殺された母親の泣き声がベツレヘム一帯に響き渡ったというのです。

 これが神がその独り子イエスをこの世に送ったことによって起こった現実なのであります。このことを記しているマタイによる福音書には、この世に生まれるイエスの名前はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神はわれわれと共におられる」という意味だと記しているのであります。

 神我らと共にいますという名前をもったかたが生まれるという、まさにその時、まるで神なんかこの世にいないかのような悲惨な出来事が起こったことを聖書は平気で、平然として書き記しているのであります。 

 神は御子と共にそのすべてをわれわれれに与えてくださったということの中には、このイエスを抹殺するために、罪のないいたいけない幼児の虐殺が起こったということも含まれているのであります。

 もちろん、それを神がなさったというのではないのです。それを引き起こしたのは、もちろんヘロデ王であります。自分の王位という権力に執着した人間の引き起こしたものであります。

 しかし神はそれを阻止しなかった、そういうことが起こることをいわば神は容認したということであります。なぜなら、そのことによって、御子イエスをなぜこの世に神が送り出さなければならなかったという意味を一層明らかにするためであったからであります。

 それによって神は何を明らかにしようとしたのでしょうか。

 それは神が御子イエスをこの世に送られたのは、安価に人間に幸福を与えるためではなく、われわれ人間の罪を明らかにし、その罪を救うためだったということであります。

 そのことはヨハネの第一の手紙の四章にはっきりと示されております。
「神はわたしたちを愛して、わたしたちの罪の償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と書かれているのであります。

 御子イエスがこの世に派遣されたのは、われわれ人間の罪を救うために来られたのです。ですから御子イエスがこの世にくることによって、よこしまな人間はまずたじろぐのです。罪を犯している者は、自分の罪に文句をいう人に対して敏感であります。だから自分の罪を滅ぼしにきた者に対して、たじろぎ、だじろぐだけでなく、それをなんとか抹殺しようとするのであります。ヘロデ王がそうだったのです。

 それは何もヘロデ王だけの問題ではないのです。ヘロデが自分の王位という地位が危うくなるのではないかと不安を感じたときに、聖書は「ヘロデは不安を抱いた。エルサレムの人々もみな同様であった」と書き記しているのであります。

 人々はヘロデ王を全面的に支持したわけではなかったでしょうが、少なくとも自分たちの小さな自分たちだけの安寧を乱されることを恐れて、ヘロデ王の不安につきあったのであります。

 ヒットラーという独裁者を支えたのはやはりドイツ国民の民衆であったのであります。日本においても、翼賛体制が開かれて、みんなが日本の無謀な軍事政策を支持したのであります。

 御子イエスがこの世に来たことによって、人間の罪はますますはっきりと露わにされる必要があったのであります。いや、それは必要であったというよりは、必然であったのです。

 それでは、神はどのようにして、人間の罪、われわれの罪を救おうとなさったのか。それは御子を十字架で死なせて、独り子であるイエス・キリストに罪の償いをさせて、人間の罪を救おうとなさったのだということであります。
 
 竹森満佐一牧師は、晩年には、クリスマスの説教では、いわゆるクリスマスの記事が載せられている御子の誕生の聖書の記事のテキストを使わないで、イザヤ書五十三章の「苦難のしもべ」を説教のテキストにしたということであります。そこでは救い主の犠牲の死が預言されているところであります。竹森満佐一はその視点からのみ、御子の誕生を語ろうとしたということであります。

 聖書は、パウロは神は御子と一緒にすべてのものを私達に賜ったのだと述べたあと、すぐ続いて、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるのか。人を義とされたのは神なのです。だれが私達を罪に定めることができるか」と続けるのです。

 これは大変不思議な言い方だと思うのです。すべてのものを与えた、というのですから、そのあと、これもくださった、あれもくださったとその贈り物を列挙するのかと思ったら、いきなり、「だれがお前達を訴えるのか」というのです。そして「神はお前達を義としてくれたのだ。それならば、だれが私達を罪に定めるのか」と続けるのです。

 つまり神が御子をこの世に送り、そして罪のいけにえとして十字架で死なせるほどまでにして、われわれを愛し、われわれに御子と共にすべてのものを与えた最大の贈り物は、罪の赦しだったということであります。

 もうお前を閻魔大王には引き渡さない、地獄には堕とさないということだったのです。もうお前を訴えるものはだれもいない、もうお前を罪に定める者はだれもいないというのです。いや、たとえいたとしても、わたしがお前を赦し、受け入れ、愛しているのだから、もうだれも、何者もお前をイエス・キリストにおける神の愛から引き離すものはないと続けていうのであります。だから大丈夫だというのです。もし神がわれわれの味方であるならば、誰がわれわれに敵対できるかというのです。

神は独り子を賜ったほどに世を愛されたという神の愛とは、罪の赦しだったのです。お前の弱いところも、醜いところも、わたしは赦す、わたしはお前をあるがままに受け入れる、それが罪の赦しということであります。どんなお前であってもわたしはお前を見捨てない、味方だと宣言してくださったのであります。

 神はパウロに対して、お前の弱さをそのまま受け入れる、そしてただ受け入れるだけでなく、その弱さにおいてこそ、お前の力を発揮させるといわれたのです。

 クリスマスに神が与えてくださったものは、罪の赦しだった。しかし、そんなものはわれわれにとってはなんにもならないというかもしれません。そんなものはプレゼントではないというかもしれません。われわれがクリスマスの日に望んでいるプレゼントは、普段は見られない美しいもの、聖なるもの、神秘を感じさせるものだというかもしれません。だからわれわれは美しい、神秘的なイルミネーションをクリスマスの夜にかざるのです。

罪の赦しというプレゼントをもらってもひとつもうれしくはないというかもしれません。むしろ、われわれの罪を忘れさせてくれるような美しいもの、聖なるものが欲しいというかもしれません。

しかし聖書のクリスマスの記事は、マタイによる福音書では、ヘロデ王による幼児虐殺の出来事を記し、ルカによる福音書では、客間から追いやられようにして、馬小屋の飼い葉おけでのイエスの誕生を記すのであります。われわれの罪を忘れさせるような書き方ではなく、むしろわれわれの罪をはっきりとあらわにすることを聖書は記すのであります。

確かに自分の罪に鈍感な人にとっては、罪の赦しという贈り物をもらってもひとつもうれしくはないかもしれません。平気で人を殺してしまう人、平気でうそをついて人を傷つけてもなんの痛みも感じない人にとっては、罪の赦しということを聞いても一つも喜ばないかもしれません。

イエスは自分の罪に気づかず、その罪が赦されたということに一つも喜びを感じない人のことをこう語っています。

 ある人が主人から借りた一万タラントの借金を返せなかった。しかし主人は最後にもう返さなくてもいいと、借金を赦してあげると言われた。その一万タラントを赦された者はその帰り道、自分が、たった百デナリのお金を貸した者と出会って、その借金を返せと迫った。そして彼が返せないと知ると、彼を獄に入れてしまったというのです。
このことが主人に知れることになって、主人は大変怒り、彼を獄に入れてしまったというのであります。
 そして主人は、こう言った。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」といった。

 彼は一万タラントを赦されたときに、そのことになんの感動もしなかったのです。ただもうけものをしたと思っただけではなかったかと思います。罪赦されたことになんの感動もしないてのです。だから平気で人のあやまちをただ糾弾し裁くことができたのであります。

平気で人を殺してしまう人、平気でうそをつける人は、自分の罪に鈍感な人であります。だから彼は自分の罪が赦されても、なんの喜びも感じないのです。それがどんなに大きなプレゼントであるかわからないのです。

 それに対して、聖書はあるひとりの女のひとのことを記しております。
 イエスがあるファリサイ派の人に招かれて食事をしていた。そのときにひとりの罪深い女がやってきて、香油の入った石膏のつぼをもってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足に接吻して、髪の毛でその足をぬぐった。そしてもってきた香油を塗った。それを見てファリサイ派の人は非難した。しかしイエスはこの女の行為をとても喜び、最大級の言葉でこの女の行為を讃えたのであります。「この女が、自分の大きな罪を赦されたことを知り、そしてそれにどんなに喜んだかは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されてることが分からない人は、人を愛することはできない」といわれたのであります。

われわれにとって自分の罪が赦されたということがどんなに大きなプレゼントであるかということであります。

 そしてそのようにして、自分の罪赦されたことを知った者が今度は、ひとの罪をひとのあやまちを赦せるようになるということであります。そしてもしわれわれがそのようにして人の過ちを赦せるようになれたならば、われわれはどんなに力強い人間になれるかということであります。もしわれわれが人のあやまちを赦せる力を与えられたとすれば、もうわれわれは神からすべてのものを与えられたということと同じことになるのではないか。神から一番大きなプレゼントをいただいたということではないか。

 主イエスは「右の頬をぶたれたら、左の頬もさしだせ」といわれました。われわれはもちろん、自分の頬をぶたれたら、ほかの頬を向けることは到底できないと思います。しかし、われわれは自分の右の頬を打たれたときに、左の頬を差し出すことまではできないまでも、少なくも相手の頬をうつのを止めようとすることはできるかもしれない。十のうち一回ぐらいはできるかもしれない。少なくとも、自分の生活の信条としてそれをその基本にもつことができるかもしれない。もしそうなれたならば、われわれはどんなに強い人間になれたかわからないと思います。

 神がひとり子イエスをこの世に送り、そして御子を十字架で死なせてからも、この世の罪はひとつも一掃されないではないかと言われるかもしれません。しかし神はこの世から罪を一気に一掃させてしまうという形で罪を解決しようとはなさらなかったのです。そうではなくて、罪赦された者ひとりひとりが、今度は他の人の罪を赦せるようになっていく、そのようにして、お互いの罪を赦しあい、お互いの過ちを赦しあうことによって、罪の問題を解決していこうとされたのであります。

 もちろん、人の罪を赦すということは容易なことではないのです。それは相手をただ甘やかすことではないのです。何よりも、それが罪だということ、その罪がどんなに人を傷つけてしまうかということを、明らかにしなくてはならないからであります。一万タラントを赦されて者は自分の罪に気づかないかぎり、どんなに罪赦されてもなんにもならないのです。
 だから、具体的に罪を赦すということはとても難しいことなのです。

ただ最終的には、根本的には、罪は赦す以外に解決のしようがない、ということであります。わたしが竹森満佐一から学んだ一番大きな事は、「罪は赦していただく以外にない」という言葉でした。それ以外に罪の解決策はないということなのです。
 それはわたし自身が、自分の罪は神様に赦していただく以外にどうしようもなかったことを知っているからであります。
 
 クリスマスの日に、神が御子と共にすべてのものを与えてくださったという贈り物は、この罪の赦しという贈り物だったのであります。