「パンの奇跡と十字架への道」 ルカ福音書九章一○ー二七節

 イエス・キリストは弟子達を伝道に派遣して、彼らが意気揚々として伝道の成果を報告しにもどって来た時、彼らを群衆から切り離し、ひそかに退かせたのであります。もともと、イエスは彼らに伝道の厳しさとむしろ彼らが挫折を覚えて欲しいという思いで彼らを伝道に派遣したのではないかと思います。ところが弟子達はそのことに気がつかないで、まるで自分達の力で伝道が成功したと思ってしまっている。それを見てイエスはすぐ彼らをひそかに退かせたのであります。
 ところが群衆がそれをゆるさないで、イエスのところに多くの人が集まって、イエスから神の国について聞き、また病人をつれてきて、その病をいやしてもらったのであります。夕方になりました。弟子達がイエスのところに来て、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手に入れるようにさせてください。わたしたちはこんなに寂しい所にきているのですから」といいました。するとイエスは「あなたがたの手で食物をやりなさい」といいます。すると弟子達は「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。この大勢の人のために食物を買いに行くかしなければ」といいます。なにしろ男だけでも五千人の人がいたからであります。するとイエスは人々を五十人づつの組みにして座らせ、その五つのパンと二匹の魚で、群衆のお腹を満たした。彼らは食べて満腹した。その余りくずを集めたら十二のかごあったというのであります。いわゆる、パンの奇跡の記事であります。
 この出来事は四つの福音書にある記事で、すでに何回もこの記事は学んでいると思います。わたしは今度この記事をルカによる福音書を通して読みまして、始めて気がついたことがあります。それはこのパンの奇跡をイエスは群衆のためにしたのではなく、実は弟子達のためになさったのではないかということなのであります。といいますのは、ルカによる福音書は、この後すぐイエスが弟子達に゜群衆はわたしを誰と言っているか」と尋ねているからであります。そうして彼らが「ある人々はあなたのことをバプテスマのヨハネだと言っている人もいれば、預言者エリヤの再来だ、また昔の預言者のひとりが復活したのだとうわさしていますよ」と、答えますと、イエスは「それでは、あなたがたはわたしを誰と言うか」と尋ねているのであります。他の福音書では、パンの奇跡のあと、いわゆる海上歩行、イエスが湖の上を歩いて弟子達のところに行ったという奇跡の記事があったりしているので、そう感じなかったのですが、ルカによる福音書は、パンの奇跡の後、すぐイエスは弟子達に「あなたがたはわたしのことを何だと思っているか」と、尋ねているので、このパンの奇跡は弟子達のためにしたの ではないかと思ったのです。そう考えて、もう一度この記事を読み返してみますと、イエスは「群衆を解散させて食物を手にいれさせましょう」と提案する弟子達に、そういうことを言い出した弟子達を叱るように、あるいは何か弟子達を困らせるようにして、「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言っているのであります。そうして弟子達が困惑した時に、イエスみずからが弟子達の持っているわずかなパンと魚で男だけでも五千人の人々の飢えを満たしてあげた、そしてその余りを集めてみたら、十二のかごにいっぱいになったというのです。つまりここでは、あの弟子達が伝道の成果をあげて意気揚々として帰ってきた、その弟子達の自信をうちくだくようにして、「あなたがたの手で群衆に食物をあげたらどうか」と言われたのではないか。弟子達にはもちろんそんなことはできる筈もないのです。ここでイエスは弟子達の自信というものを徹底的にうちくだこうとしたのではないか。自分たちだけの力では到底人々を救うなんてことはできない、そのことをイエスは教えようとしたのではないか。そうしたうえで、イエスは彼らのもっている五つのパンと二匹の魚を手にとり、天を仰いで祝福してさ き、弟子達にわたして、群衆に配らせているのであります。イエスは弟子達の持っている五つのパンと二匹の魚を決して無視しようとはしない、それを用いているのであります。そうしてそれに神からの祝福を受けさせて、あふれるばかりに多くして、弟子達に手渡して配らせているのであります。ここでもイエスは弟子達を無視してはいないのです。弟子達を通して、この神の祝福されたパンを群衆に配らせているのであります。
伝道というのは、弟子達だけの力でできるものではない、神の祝福と励ましを受けて始めてそれができることなのだということを、イエスはこのパンの奇跡を通して弟子達に教えたかったのではないかということなのであります。そうした上で、「あなたがたはわたしのことを誰というか」と、弟子達にとって一番重要なことを尋ねているのです。群衆はこのパンの奇跡を味わって、イエスを王にしようと動き始めるのであります。群衆はこのパンの奇跡をただ御利益的にしか理解しようとしないのであります。イエス・キリストはわれわれの肉体の飢えを満たしてくださるかただ、そういう意味での救い主だ、だからイエス・キリストを王にしようとしか理解しないのです。それに対して、イエス・キリストは弟子達に「あうなたがたはどうか」と尋ねるのであります。それに対して、弟子を代表してペテロが「神のキリストです」と答えました。キリストという言葉は、油注がれた者という意味のメシアというヘブル語のギリシャ語であります。つまり救い主という意味です。神から派遣された救い主という意味です。
 しかし、このペテロの告白と、パンの奇跡を経験した群衆がイエス・キリストを王にしようとしたという動きとどれだけ違いがあるのでしょうか。
 イエスはペテロの告白に対して、「この事は誰にも言うな」と命じられました。群衆がイエスのことをバプテスマのヨハネの再来だといい、預言者のひとりが復活したのだと言っているのに対して、「神のキリストです」つまり、「あなたは神から派遣された救い主です」という告白は一応正しい告白としてイエスは受けとめているようであります。だから、このことは今は誰にもいうなと言われたのであります。これはマタイによる福音書をみますと、もっとはっきりしておりまして、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」とペテロを祝福し、この告白をさせたのは、「血肉ではなく、天にいますわたしの父である」とイエスはいわれております、つまりこれは人間であるお前がそう告白したのではなく、天の父なる神がそう告白させたのだとイエスが言われておりますから、このペテロの告白は、群衆のイエスに対する思いとはやはり違うものであります。
 しかしマタイによる福音書では、この後イエスが自分はこれから十字架の道を歩むのだと言いますと、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」といいます、するとイエスから「サタンよ、引き下がれ、わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とイエスから厳しく叱られておりますから、やはりこのペテロの告白は群衆のイエスに対する思いとそれほど違いはないようなのであります。
 
 ペテロは「神のキリストです」と告白しました。それに対してイエスはこの事は誰にもいうなと言われた後、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」と言われるのであります。ペテロが「神のキリストです」と言ったのに対してイエスはご自分ののことを「神のキリスト」とは言わないで、「人の子は」と言っていることが大事なことなのだと、ある人が指摘しております。
「人の子」というのは、旧約聖書では、ただ人間という意味に用いられたり、またメシアの意味に用いられているところがあります。イエスはご自分について言う時に、「人の子」という呼び方を用いられるのであります。福音書では、ほかの人がイエスについて「人の子」と呼びかけるということはなく、イエスがご自分のことを「人の子」と表現されているのであります。そしてそれは特にご自分が苦難を受けて十字架で殺される者であることを表現する時に、この「人の子」という言葉をイエスは用いるのであります。
 ペテロはイエスに対して「神のキリストです」と告白した。それに対してイエスは「人の子は」と言われるのです。ペテロがイエスに対して「あなたは神のキリストです」と告白した時には、恐らく胸を張って、誇らしげにそう告白したのではないかと思われます。だからイエスがご自分がこれから苦難を受け、十字架で殺されるのだといわれた時に、そんなことがあるはずはないと、言ったのではないかとと思われます。イエスはそういうペテロの告白を打ち砕くように、あるいは、訂正するようにして、「人の子は」という名称を用いられたのだということなのです。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして、三日目によみがえる」とイエスは言われるのです。「わたしは確かに、神の、神から派遣されたキリストだ、救い主だ。しかしその神から派遣されたわたしは人間として、人間の罪を担って、ひとりの人間として、罪人として辱めを受けて、十字架で殺されることになるのだ」と言われたのであります。これはパンの奇跡を通して人々が期待したメシアとは全く異なるメシアの姿であります。それは弟子達が期待したメシア像とも違うものだったのであります。

 その後、イエスは弟子達にこう言われました。ここでは、ルカによる福音書は「みんなの者に言われた」と、ありますから、ただ弟子達にだけいわれたのではなく、われわれに対しても言われていることであります。実際にはここにいるのは弟子達だけなのですが、これを書き記してルカは、これは自分達に対して語られているのだという思いをもって書いているのです。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」といわれます。十字架を負うというと、われわれはなにか大変なことのように思うかも知れません。それこそすぐ殉教のことを想像するかもしれません。そしてそんなことは到底自分にはできないと思うかもしれません。しかしルカは「日々自分の十字架を負うて」といっております。これは何も殉教の死などという大げさなことではなく、われわれの日常生活においてそれぞれが負わなくてならない十字架のことを言っているのであります。
 
 そのことで少し具体的なことをお話ししてみたいと思います。わたしがかねてから敬意を覚えている牧師の話なのですが、その牧師の教会で、牧師の発言したことからその教会の婦人会の活動が停止してしまったということなのです。だれも婦人部の部長になり手がなくなってしまって、婦人会の活動が停止してしまって、対外的にも婦人部の集まりにもいけなくなってしまった。そしてそれを牧師はよしとしているということなのです。どうしてそういうことになってしまったかといいますと、その婦人会にひとりのお年寄りがいて、少し痴呆症状を起こすようになった婦人がいて、自分は婦人会の会費をちゃんと納めましたと主張している、それでその部長さんがいやあなたはこの通り納めてはいないのです、と言ってもそれを受け入れてもらえない、あげくの果てに部長さんがそれを自分のものにしたのではないかと言い出したというのです。それで困惑した部長さんが牧師にそのことを訴えて、なんとかしてくださいと言ったら、牧師から「あなたは黙ってその会費を払ってあげたらどうか」と言われたというのです。それでその部長さんは憤慨して、自分の濡れ衣をはらすことができないで、みんな に話して、牧師はけしからんということになって、それから誰も部長さんになるなり手がなくなってしまった。そして婦人部の活動は停止してしまって、牧師はそんなことで停止してしまうような婦人会ならいらないということで手をうとうとしない状態が続いているというのです。わたしは初めその話を聞いた時に、そのことを話をしてくれたかたと同じような気持ちで「困った牧師だな」と思ったのです。どうしてもっと丁寧にその部長さんの気持ちを思いはかってあげられないのかと思ったのです。わたしはかねてからその牧師に対してある種の敬意を覚えておりましたから、彼は以前はそんな牧師ではなかったのにと思って、彼は変わってしまったのかと思いました。しかしその後、その牧師と親しく交わる時が与えられて、彼は以前わたしが親しくしていた時の彼と少しも違っていないことを知って安心したのですが、そんなことがあってから、わたしはそのことを思いめぐらしている時にその牧師の気持ちが分かるようになったのです。つまり、婦人部の部長さんにもなるくらいの人なら、どうして自分が受けた屈辱を黙って引き受けて上げることができないのか、相手は痴呆になっている老人ではな いか、その人の誤解ぐらい黙って引き受けてあげることがどうしてできないのか、十字架を負うということはそういうことではないのか、その時その牧師にはそういう思いがあったのではないかと思い始めたのであります。これはそういうことが起こる以前にその婦人部の部長さんと牧師との間に、婦人会の人達と牧師との間に信頼関係がすでになくなっていたようなので、そうしたことになってしまったのだと思いますし、その牧師はおよそ人に対して媚びるということをしない人なので、人から誤解されるところがあるのですが、もう少し配慮した対応の仕方があったかとも思いますが、しかし基本的にはわたしはその牧師の思いがわかる気がするのです。われわれは自分が受けた小さな屈辱すら我慢することができない、日々自分の十字架を負うということは、そうした小さな屈辱を黙って引き受けるということでもあるのではないか、われわれはそれができない、自分が受ける小さな屈辱を引き受けるということがどんなに大変なことかということなのです。
十字架を負うということは、何も殉教の死を遂げる覚悟をもてなどということではなく、われわれの日常生活で起きるこうしたことを日々負うということ、自分の小さな十字架を負うということではないかと思うのです。

そしてイエスはそのあと「自分の命を救おうと思うものはそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」と言われます。自分が自分がと自分ばかりに執着していく人生を送る時に、われわれの人生はいつもいらいらして不満ばかり不平ばかりの人生になってしまう、そして命あふるる、豊かな深い人生を失ってしまうと言われるのであります。自分に対する執着とか誇りを捨てて、自分ひとりが謙遜になり切れたら、どんなに豊かな命に満ちた人生を歩めるかということであります。
そうしてイエスはこう言われます。「人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。」イエスは何も禁欲的な人生を生きなさいと勧めているわけではないのです。この世の人生を否定して生きなさいと言われたのではないのです。イエスはひとりひとりの命というものを全世界の富に匹敵するほどのかけがえのないものだと見ておられるのであります。「自分自身を失う」というところは、マタイ、マルコによる福音書では、「自分の命を損したら」となっております。命を失う、命というものは、とりかえしのきかないものであります。それは他のものと取り替えることができないものであります。今度わたしは息子を失ってみて、深い喪失感にとらわれました。この喪失感はなんなのだろうかと考えました。それはこういうことなのだろうと思い至りました。わたしは今までも失ってきたものはいくらでもあります。しかしそれはすべて何かで代えることができるものでした。何かで補うことができるものでした。しかし今度ばかりはもうとりかえしのできないものを失ったという思いであります。なにものにも代えることのできないものを始めて失うという経験を致し ました。生まれて始めてとりかえしのできないものを失ったという経験をしたのです。命というものはそういうものであります。命だけは他のなにものによっても代えることができない尊いものだということであります。
 そしてその命は、イエス・キリストとその言葉を受け入れて生きる時に、本当に命あふふる命になるのだというのであります。「わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、イエスもまた恥じる」というのです。
 そしてイエスが終末の時に再び来るときにそのことが明らかになるのであります。そしてその終末の時とはもうすぐやってくるというのです。その終末という時間の性質はわれわれの時間の延長線の遠いかなたにやってくるというものではなく、そんなのんきな仕方でやってくるものではなく、それは上から垂直にやってくるという性質の時ですから、今日来るかもしれないのであります。