「主の祈り その三」     ルカ福音書十一章一ー一三節

 ルカによる福音書では、主イエス・キリストがこのように祈りなさいと教えてくださった「主の祈り」の最後は「わたしたちを試みに会わせないでください」であります。われわれがいつも祈っている「主の祈り」では、マタイによる福音書によっておりますが、そこでは「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」となっております。
 試みは誰がするのでしょうか。マタイによる福音書では、「試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」とありますから、悪しき者、つまり悪魔、サタンが試みるのだということになります。しかし聖書をみますと、しばしば神ご自身もわれわれを試みるのであります。すぐ思いだすのは、創世記二二章に記されているアブラハムに対する試みであります。そこではこう記されております。「神はアブラハムを試みて彼に言われた。『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクをつれて、燔祭として、捧げよ」という試みであります。「あなたはあなたの子イサクを殺してわたしに捧げよ」というのであります。
誰が試みるのでしょうか。もし悪魔が試みるとしたら、それは誘惑ということでしょうし、神が試みるとしたら、試練とか訓練ということになると思います。そして悪魔がわれわれを誘惑するのは、何の誘惑をするかと言えば、われわれを神から切り離すために誘惑する、われわれが神を信じないように誘惑することだと思います。また神が試みとするならば、それはわれわれをますます神に信じさせようとするための試みであります。だからそれは試練とも、訓練ともなるわけであります。
 そして聖書を読んでいてもっと複雑なのは、神はしばしば悪魔にわれわれを委ねて試みるということなのであります。ヨブ記にでてくる話がそうです。ある時神様が神の子たちの前でヨブの信仰について自慢したのです。その中にサタンもいた。それで主なる神はサタンに「お前はわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことに気がついたか」というのです。すると悪魔は「いや、ヨブは今幸福だから、あなたを敬っているのであって、不幸になったら、かならず、あなたを呪いはじめますよ」というのです。それで神はサタンに対して、それではヨブを不幸にしてみよといって、ヨブを悪魔に委ねるのであります。それからヨブの様々の試練、ヨブの子供たちが次々と災難に会って死んでいく、しかも最後にはヨブ自身がひどい皮膚病になっていくのであります。それでもヨブは神を呪わないで、「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ、主のみ名はほむべきかな」といって、神を呪わなかった。悪魔の試みにも見事に勝利したというのであります。またイエス・キリストは宣教を開始するに当たって、御霊、つま り、神様に導かれて荒野に行き、悪魔の試みに会われたと聖書は記すのであります。神は時には、悪魔を通してわれわれを試み、われわれを試練に会わせ、われわれを訓練するのであります。

 そうしますと、主イエスがここで「わたしたちを試みに会わせないで下さい」と祈りなさいと教えておられるのは、どういうことになるのでしょうか。悪魔の試みには会わせないでください、しかしあなたの試みには会わせて、われわれを訓練してくださいということなのでしょうか。しかし神がわれわれを試練に会わせたり、訓練するとしても、われわれは自ら進んで、どうぞわたしを試練に会わせてください、わたしを厳し訓練してください、と祈ることがわれわれにとって正しいことかどうかであります。それが神の試みであったとしても、われわれはやはり、「わたしを試みに会わせないでください」と祈ることがわれわれの信仰にとってもっとも正しい姿勢ではないでしょうか。どうぞわたしの信仰を試してみてください、わたしは立派にその試練に耐えてみますというような態度が果たして信仰的かどうかであります。やはり神が試みるとしても、「神様、わたしを試みに会わせないでください、わたしを試練に会わせないでください」と祈るほうがわれわれの態度として正しいのではないでしょうか。われわれが神の試練とか訓練に耐える態度は、われわれの強さで耐えるのではなく、あくまで 神に信頼し、神により頼んで、この試練に耐える以外にないのであって、自分の強さでこの試練に乗り切ってみせます、なんという態度では、試練に勝ったとたんに、自分の強さを自慢するようなことになってしまって、神の試みに失敗したということになるからであります。
 主イエス・キリストが悪魔の試みに会われた時に、すべてを父なる神に信頼し切るという姿勢で、悪魔の試みを退けているのであります。悪魔の第一の試み、「もしあなたが神の子であるならば、あなたには力がある筈だから、奇跡もなんなく起こせる筈なのだから、この石に命じてパンにしたらどうか」という試みに対しては、「人はパンだけによって生きるのではなく、神の言葉によって生きる」といって、悪魔の試みを退け、悪魔の第二の試み、「もしあなたが神の子ならば、ここから下に飛び降りて見よ」という試みに対して「主なる神を試みてはならない」といって、あくまで神を信頼していくのであります。そして最後に「もしあなたがわたしを拝むならば、この世の権力と富をあげよう」という悪魔の試みに対しては、主イエス・キリストは「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」という聖書の言葉をもって、悪魔の試みに勝つのであります。主イエスは最後まで父なる神に信頼し、その神に仕えていくということで悪魔の試みに勝つのであります。
 
 アブラハムの場合はどうだったか。神からわが子イサクを燔祭として捧げよと言われた時に、アブラハムは最後まで迷ったでしょう。しかしとうとう最後にはイサクを神に捧げようとして、手に刃物を持ってイサクを殺そうとするのであります。その時に神から「イサクを殺すな」といわれ、「あなたがあなたのひとり子をさえ、わたしたのために惜しまないで、あなたが神を恐れるものであることをわたしは今知った」という声が聞こえてくるのであります。アブラハムはただわが子イサクを殺そうとしたのではないのです。わが子イサクを燔祭として捧げよ、つまり神に捧げよと言われているから、わが子イサクを殺そうとしたのであります。つまり自分では納得はいかないまま、あくまで神に従おうとしたのであります。この時アブラハムはわが子イサクだけを殺そうとしたのではなく、実はもうアブラハム自身が、わが身も殺している筈であります。そういう気持ちになっている筈であります。そうでなければ、わが子を殺すなんてことはできないのです。新約聖書のへブル人への手紙では、「彼は神が死人の中から人をよみがえらせる力があると信じていた」からそうしたのだと記しているのであり ます。つまりアブラハムは自分の悲壮な決意とかで、わが子を自分自身を神に捧げたのではなく、神に対する絶対的な信頼から神の不条理な命令に従っただけなであります。自分の力でこの神の試み、神の試練に勝ったのではなく、神に信頼しきるという姿勢でこの神の試みに対したのであります。
 ヨブはどうだったか。ヨブ記は、物語の部分と詩の部分と二つの部分で構成されておりますので、複雑ですが、物語の部分では、ヨブは堂々と悪魔の試みに勝利したということになっておりますが、詩の部分になりますと、神との激しい格闘の末に神に屈服する形で、神の試練を乗り切っているということになっております。それは到底神の試練に勝ったなどというものではなく、神の試練に屈服して、神の試みを通り抜けたということであります。しかし、ここで大事なことは、ヨブはこれは悪魔の試みなのに、ヨブは一つも悪魔を問題にしないで、悪魔と問答をしようとしないで、あくまで神に真っ正面から問いかけ、祈り、神からの回答を求め続けたということであります。神はかならず正しい回答、なぜ自分は正しいことをしてきたのに、こんなに苦しまなくてはならないのかという問いに対して、神は必ず正しい回答を与えてくれるに違いないという信仰をもって、神に問い続けたということなのであります。ヨブは悪魔と相対したのではなく、神に相対した、ここにヨブの信仰があったということなのであります。

 「わたしたちを試みに会わせないでください」という祈りは、それが悪魔の試みであれ、神の試みであれ、どちらにせよ、わたしたちを試みに会わせないでくださいという祈りなのではないでしょうか。悪魔の試みにはもちろんですが、神の試みであったとしてもわれわれはそれに耐える自信はないのです。ですから、わたしを試みないでくださいとわれわれは祈らざるを得ないのです。しかしそれでも、われわれの人生にはさまざまな不幸が起こります。それはひとつひとつが悪魔の誘惑であり、神の試みのように見えるのであります。それにわれわれは勝つ自信などひとつもないのです。ですから、「わたしたちを試みに会わせないでください」と祈るのは切実であります。そしてそれはまたこういう祈りにもなるのではないか。「もし試みが来た場合、それを自分の力で勝とうなどと思わないで、ますますあなたを信頼することでその試みに乗り切らしてください」という祈りになるのではないか。つまり、「試みが来た時に、あなたに対する信頼を失わせるようなことはさせないでください」という祈りであります。
 
 主イエス・キリストが、自分はこれから捕らえられて十字架で殺されることになると弟子達に告げた時に、ペテロは「自分だけはあなたを裏切りません、あなたと一緒に死ぬ覚悟です」と言いかけるのであります。しかしイエスはそういうペテロの思いを見通して、「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。(つまり、サタンはあなたがたを誘惑するということです。)しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った、祈っている」と言われるのであります。ペテロは自分の力で悪魔の誘惑に対抗しようとした時に、挫折してしまうのであります。ペテロは三度も「わたしはあの人のことなど知らない」とイエスを否認してしまうのであります。そしてイエスから逃れようとするのであります。そのペテロを立ち直らせたのは、主イエスの言葉でした。主イエスがあらかじめペテロの弱さを見抜き、知っていて、しかもそのペテロのために祈っているというイエスの言葉でした。ペテロは悪魔の試みに破れた時、その試みから立ち直れたのは、「お前のためにわたしは祈っている」というイエスの言葉であり、イエスの祈 りだったのであります。

またゲッセマネの園で、イエス・キリストが父なる神に祈っている時、弟子達はイエスから「目を覚ましていなさい」と言われながら、そのイエスの苦闘のなかで、眠ってしまっていた。その時イエスはこう言われるのであります。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われるのであります。試みに勝つ道は、われわれの信仰がなくならないように、イエス・キリストがわれわれのために祈って下さっているということであります。それはまたイエス・キリストだけでなく、わたしを愛する者がわたしのために祈っていてくれているということでもあると思います、そういう他者の祈りであります。そして「誘惑に陥らないように祈っていなさい」というイエスの言葉にあるように、われわれが自分で祈るということ、それがあらゆる試みに勝利する道なのであります。

パウロはこう言っております。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである」というのです。試練というのは、われわれが生きている限りはある、それに対してパウロは、ここで神は試練と同時に、その試練に耐える力を与えて下さっているとはいわないで、試練と同時にそれに逃れる道も備えてくださっている、というのです。それはまるで試練と真っ向から相対するというような堂々とした闘いではなく、そうっと逃れる道を神は用意してくださっているというのです。そしてそれがもっとも信仰的な道なのであります。
 テレジアという人が「わたしは困難に出会った時は、決してそれを飛び越えようとは思いません。今よりももっと小さくなって、わたしはその下をくぐり抜けようと思います」と言っているそうです。「今よりももっと小さくなって」というのです。
へブル人への手紙では、神の試練に対してはもっと積極的に対しなさいと勧めているようなところがあります。それはへブル人への手紙の十二章にありますが、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるときに、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである」と旧約聖書の言葉を引用し、「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。」というのであります。試練と訓練とは違うかもしれませんが、ここでは、すべての試み、試練を、父なる神の訓練として耐え忍びなさいというのです。つまり父なる神の愛の訓練なのだから、耐え忍びなさいというのであります。ここでも頼りなるのは、自分の力ではなく、この試練は愛の神が与えている、愛の訓練なのだという信仰なのであります。

 主イエス・キリストが「主の祈り」で、最後に「わたしたちを試みに会わせないでください」と祈りなさいと勧めました。ここで主イエスは「試みに耐える力を与えてください」と祈れと勧めたのではなく、「試みそのものに会わせないでください」と祈りなさい、と勧めていることは、主イエス・キリストがどんなにわれわれの弱さをよく知っておられ、しかもそういうわれわれを決して切り捨てようとなさらないかということではないでしょうか。