「ただひとつの赦されない罪」   ルカ福音書一二章一ー一二節

 一二章の八節をみますと、「そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受け入れる者を人の子も神の前で受け入れるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。」と主イエスは言われます。ここで主イエスはなぜわざわざ「人の前でわたしを受け入れる者は」といわれたかといいますと、ここでは弟子達がやがて迫害に会うことを予想しているからであります。迫害にあっても自分たちの信仰を曲げるな、捨てるな、人の前でも堂々と信仰を告白しないさいというのであります。信仰というのは、自分ひとりでひそかに信じていればいいというものではないということであります。よく聞かれる話ですけれど、その人が死んだ時に、その人がはじめて洗礼を受けていたことがわかったとか、その人が教会に行っていたことがわかった、家族でもそのことを知らなかったということを聞くことがありますが、それではキリストを信じているとは言えないのであります。もちろんわれわれはそうやたらに、人の前で自分は神を信じていますとか、自分はクリスチャンだと人前で宣伝するようなことはしないと思いますし、またする必要もないと思います。今日 、日本の社会では、幸か不幸か、クリスチャンであるということは、良い意味にとられている、真面目な人間にとられておりますので、自分はクリスチャンであるということは、自分は立派な人間であるということを宣伝しているようで、いやみになることもあるからであります。
 しかし、次の言葉、「しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使いたちの前で拒まれるであろう」ということは、われわれはよく知っておかなくてはならないことではないかと思います。今日われわれ日本人として生きる時、このことはしっかりと覚悟しておかなくてはならないことであります。人の前で自分はクリスチャンですとあまり宣伝してまわることはないかもしれませんが、しかし人の前で自分はクリスチャンであることを拒むということはしたくないものであります。あなたはクリスチャンですかと人から言われた時、いや、違います、というようなことだけはすべきことでないと思います。

 主イエスがそのように言われる時、「そこで、あなたがたに言う。」といわれるのです。「そこで」というのは、その前の言葉を受けております。そこでは、「あなたがたの父なる神は、あなたがたの頭の毛までも数えておられるかた、お前の弱さもすべてご存じのかたで、そのかたがお前を受け入れてくださっている、だから恐れることはない、どんなに迫害に会おうが、お前の魂を守る」といわれているのであります。だから、人の前でわたしを拒むなといわれているのであります。
 その主イエス・キリストはこうも言われます。一一節からみますと「あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」というのです。ここのところは、マルコによる福音書にはこう記されております。「人々があなたがたを連れて行って引き渡すとき、何を言おうかと、前もって心配するな。」とあります。「前もって心配するな」というのです。われわれの心配とか思い煩いというのは、いつでもこの「前もって心配する」ということではないか。まだ明日がこないのに、明日のことを心配する、そのためにわれわれは明日のことを思い煩い始めるのでなはいかと思います。まだ死なないのに、死ぬことを前もって心配する。まだガンだと宣告されたわけでもないのに、前もってガンなのではないかと心配するのであります。そういうわれわれに対して、主イエスは、「命のことで思い煩うな。明日のことは思いわずらうな。明日のことは明日自身が思い煩ってくれる。一日の苦労はその日一日だけで十分である」といわれるのであります。

 マルコによる福音書をはじめて、すぺての福音書の基礎になっているのは、いうまでもなく、イエスの弟子達の証言であります、イエスの弟子達がイエスの語った言葉を記憶していて、それに基づいていることは明らかであります。その弟子のなかでも一番有力なのは、なんといってもペテロであります。ペテロが一番イエスの語った言葉を記憶していたはずであります。そうであるなはら、このイエスの言葉「だれでも人の前でわたしを受け入れる者を、人の子も神の使いたちの前で受け入れるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使いたちの前で拒まれるであろう」という言葉を人々に語る時、「主イエスはこういっておられたんだよ」と人々に語る時、ペテロはどんな思いでこのことを語っただろうか。
 ペテロはイエスがご自分の十字架の死を予告した時、「わたしはあなたと一緒に死ななくてはならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません、あなたを決して拒みません」とイエスの前でいったのであります。それなのに彼はイエスが捕らえられた大祭司の庭にいってイエスの様子を伺っているとき、ひとりの女の人から「あなたはあのイエスの仲間ではありませんか」といわれた時に、ペテロは「わたしはそんな人のことは知らない」と拒むのであります。そうしたことが三度続くのであります。女の人はペテロを告発するためにそんなことを云ったわけではないのです。ただ「あなたはイエスのお仲間ではありませんか」と云っただけなのです。それなのにペテロはあわててイエスを拒むのであります。もちろん、これはペテロがもしここで自分がイエスの仲間だと知れたら、自分も捕らえられて殺されるだろうと予想できたから、そういったに違いありません。つまり、ペテロは「前もって心配してしまった」のであります。また、このペテロは主イエスが「あなたがたが会堂や役人や高官の前へ引っ張られて行った場合には、何をどう弁明しようか、何をいおうかと心配しないがよい 。いうべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」といわれていたことを聞いていた筈なのです。そのことを忘れていたのでしょうか。このイエスの言葉をあとになって思いだした時に、どんな気持ちであの大祭司の庭での自分のふがいなさを思い出していたのでしょうか。

われわれが「前もって」こうはしないといってみたり、「あなたと一緒に死ななくならなくなってもあなたを拒みません」というように前もって誓ってみたり、あるいは「前もって」こうなるのではないかと心配したりすることが、どんなにつまらないことかということであります。われわれが神を信じて生きるということは、神を信頼して毎日の生活を送るということであります。それはもう「前もって」思ったり、前もって思い煩ったりしないといことであります。そうはいってもそうしてしまうのが人間であるかもしれませんが、前もって明日のことを思いわずらいをはじめてしまった時には、ああ、そうだ「前もって心配するな」と主イエスは云われていたんだということを思い出す必要があると思います。パウロもまた「主がこられるまでは、なにごとについても、先走りして自分を裁いてはいけない」と云っているのであります。われわれは神様よりも前に行ってはいけない、先走りしてはいけないのであります。

一○節にはこう記されております。「人の子に云い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊を汚す者はゆるされることはない。」「人の子」というのは、福音書でもいろいろな意味に使われますが、大体はイエスご自身のことであります。ですから、イエスについていろいろと悪口を云ったり、云い逆らってもそれはゆるされる、しかし、聖霊を汚すものはゆるされないというのであります。同じことを、マタイによる福音書、マルコによる福音書では「よく言い聞かせておくがよい。人の子らには、その犯すすべての罪も神を汚す言葉もゆるされる。しかし聖霊を汚す者はいつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」とあります。そしてそこでは、イエスが悪霊を追い出しているときに、人々がイエスが悪霊を追い出せるのは、イエスが悪霊の親分、ベルゼブルだからだといって悪口を云ったのに対して、主イエスが云われたということになっております。しかしルカによる福音書では、弟子達が迫害にあうだろうという予測のなかでイエスが弟子達を励ますという文脈のなかで語られております。それは「あなたがたが会堂や役人や高官の前に引っ張られて行った場合には、何をどう弁明しようか、何 を云おうかと心配しないがよい。云うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」というなかで、主イエスが云われた言葉になっております。つまり聖霊はお前たちが一番困難に遭遇している時、一番弱り果てようとしている時に、助けてくれる、励ましてくれる、何をどういうべきか、を教えてくれる、そういう力強い味方である、その聖霊を汚す者は赦されないというのであります。つまり聖霊とはここでは強力な神から派遣される愛の支え、守りであります。神の愛の働きかけといってもいいと思います。その神の愛を拒んだり、その神の愛を軽んじたり、ないがしろにしたりしたら、それは決して赦されることではないというのであります。

マタイやマルコでは、すべての罪はゆるされるというのです。しかしただひとつ赦されない罪がある。それは聖霊を汚すことだというのであります。神がどうしても赦すことのできない罪があるというのであります。それは何か。マタイによる福音書には、主イエスがあの「主の祈り」を教えてくださった時に、その結びの言葉で、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるしてくださるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるしてくださらないであろう」といわれております。それは「主の祈り」のなかで、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をもゆるし給え」ということを受けての言葉であります。そしてマタイによる福音書では、ペテロがそのようなイエスの言葉から、人のあやまちをゆるさなくてはならないということを聞いて、これは大変なことだと思ったのでしょう。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たび赦さねばなりませんか。七たびまでですか」と聞くのであります。ペテロとしたら、七たびも赦さなくてはならないということだけでも大変だ と思って、そういったのです。そうしたら、主イエスは「わたしは七たびまでとはいわない。七たびを七十倍するまでゆるしなさい」といわれるのであります。つまり徹底的に何回でもゆるしなさいといわれるのです。それは天の父なる神もわれわれ人間の罪を徹頭徹尾ゆるすおかただからだということであります。そしてそのあと、主イエスはこういう話をなさいます。ある人が一万タラントの借金を返させなかった僕がいた。王様は哀れに思ってその借金をまるこど棒引きにしてゆるしてあげた。ところが、その赦された僕はその帰り道、自分がたった百デナリのお金を貸している人に出会って、借金を返せと迫った。その人はその百デナリのお金を返せなかった。そうしたら、一万タラントの借金をまるごと棒引きにされ、赦された僕は、しかもその借金をまるごとゆるされたその帰り道に人に貸した借金をゆるすことができないで、彼を獄吏に引き渡してしまった。そのうわさが王にまで届いた時に、王は怒って、その一万タラントの借金を赦された者は、そのゆるしが取り消されて、獄にいれられてしまったというのです。そうしてこういうのであります。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆ るさないならば、わたしの天の父もまたあなたがに対して、そのようになさる」というのです。主イエスはペテロに対して、人の罪を七回ゆるせばいいというようなことではなく、七度を七十倍、つまり徹底的にゆるしなさいと云っておきながら、しかしただひとつ赦すことのできないことがあるというのです。それは自分は一万タラントという借財が赦されておりながら、人のあやまちをゆるせないということだということであります。
これはただ人の罪を赦せない人間を神も赦さないというのではないのです。自分の罪は神様から赦されておりながら、一万タラントという莫大な罪を赦されておりながら、ということが前提になっているのです。それなのに、人の罪を赦せないとはなにごとかということであります。ただひとつの赦されない罪とはなにか。それは人の罪をゆるせないという罪だというのであります。
なぜわれわれは人の罪を赦せないのでしょうか。それは逆にいいますと、なぜわれわれは人の罪を赦せるのでしょうかということであります。それは私自身が神によって罪赦された人間であるということを肝に銘じて知った時であります。それではあの一万タラントの借金を赦された者は、どうして自分が貸した百デナリの借金のあるものをゆるせなかったのでしょうか。それは彼が王から一万タラントを赦された時に、赦されたということにひとつも感動していないからであります。恐らく、ただもうけものをしたということでしか、このことを受け止めていないのです。王は愛をもってこの人の罪を赦しているのです。しかし彼はこの王のゆるしの愛というものをひとつも愛として、受け止めていないのです。だから彼は人のあやまちをゆるせないのであります。

神はイエス・キリストを派遣してそのひとり子を十字架につけてまでしてわれわれの罪を赦そうとしておられるのであります。それを強力にわれわれに悟らせてようとして送るのが神の霊であります。聖霊であります。聖霊とは神の愛の霊であります。われわれが困難に出会ったときに、助けてくれる霊であります。そういう神の愛の霊を、われわれはそんな霊なんかいらないとか、そんな愛の霊はつまらないといってないがしろにしてしまっていいのだろうか。そのようにして聖霊を汚してしまっていいのだうろか、それは赦されることではないとイエスは云われるのであります。
 赦されないただひとつの罪とは何か。それは神の赦しの愛を拒むという罪であります。それは神が赦さないというよりは、そのようにされてしまっては、神さまのほうでも、もうどうしようもないということではないかと思います。神様のほうではもう赦したくても、どうしようもない、従って赦すことはできないということであります。