「命のことで思い煩うな」   ルカ福音書一二章二二ー三四節

 聖書には、しばしば「思い煩うな」という言葉が出てまいります。思い煩うなというのですから、思い煩うということは、悪いこととして考えられているようであります。しかし聖書には、思い煩わ「ない」ということが悪いこととして考えられているところもあります。イザヤ書の三二章にこういう言葉があります。「安んじている女たちよ。起きて、わが声を聞け。思い煩いなき娘たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。思い煩いなき女たちよ、一年あまりの日がすぎて、あなたがたはふるえおののく。ぶどうの収穫がむなしく、実を取り入れる時が来ないからだ」とあります。そこでは、思い煩わないで、安閑として暮らしている人間たちが非難されているのであります。

 考えてみれば、全然思い煩うことのない人というのは、つきあいづらいのではないかと思います。思い煩うことのない人というのは、鈍感な人かもしれません。鈍感な人というのは、あまりつきあいたくないかもしれません。また思い煩うことのない人というのは、合理的に、すべてを合理的にものごとを割り切って考える人であるかもしれません。しかし人生というのは、そうなんでも合理主義で割り切るわけにはいかないわけです。

 そうかと云って、思い煩いばかりしている人というのも、またつきあいにくい人であるかもしれません。人間には限界があるし、われわれはどこかであきらめる必要はあるわけで、それができないで、いつまでもじぐじぐして、思い煩ってばかりいる人というのは、やりきれない時があります。

 主イエスが「思い煩うな」という時、主イエスは、なによりも現に思い煩っている人に向かってそう呼びかけているのであります。ただ一般的に、抽象的にそういっているのではなく、現に目の前に思いわずらっている人がいて、その人に「もうその思い煩い」を捨てなさい、と呼びかけておられるのであります。

主イエスは今までは群衆に向かって語りましたが、ここで二二節をみますと、「それから弟子達にいわれた」となっておりますので、その背後に群衆もいて、群衆もイエスの言葉に耳を傾けたかもしれませんが、今主イエスは弟子達に語りかけのであります。「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな」というのです。イエスはそれまでは、群衆に対しては、ある意味では、われわれの命というのは、いつ取り去られるかわからない、だから、安閑としてはいられないのだと語ったのであります。大きな倉を建てて、そこに食料を沢山詰め込んで、自分の魂に向かって「たましいよ、お前には長年分の食糧がたくさんあるから、安心せよ」といっている人に対して、そんなに安閑としていいのか、命は今夜のうちにも取り去られるぞ、と言っているのであります。

いわば、ここでは自分の命についてもっと敏感になれ、もっと心配しなさい、ある意味では、もっと思い煩いなさいと言っているようなのであります。それはイザヤ書にでてまいります「思い煩いなき女たちよ」と言われている人に対しての言葉と同じであります。 しかしここでは一転して、弟子達には、「命のことで思い煩うな」と言われるのであります。イエスがここでわざわざ弟子達の向けてそう話されたということは、イエスは弟子達といつも一緒におりましたから、この弟子達のことをよく知っていて、この弟子達が始終思い煩っていることをよく知っていたからではないかと思います。
 
 ここではどういう意味で、主イエスは「命のことで思いわずらうな」といわれているかということであります。イエスはここでただ命のことで思い煩うなといわれているわけではないのであります。命そのものについては、「今夜のうちにも取り去られるかもしれない」ということを自覚しなくてはならないといわれたばかりであります。それはある意味ではそう安心ばかりはしてはおれないぞという警告であります。ですから、われわれは自分の命については、ある意味では思い煩う必要があると思います。イエスはここでは、命のことについて、「何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかと、からだのことで思いわずらうな」といわれるのであります。「何を食べようか、何を着ようかと」ということで、命について思い煩うなと言われているのです。

そのことで主イエスは何を言おうとしているかといいますと、こういうことではないかと思います。われわれが自分の人間的な努力とか人間的なはからいで自分の命をなんとか延ばそうとしたり、維持しようとするなということではないかと思います。からすの例をとりあげて、「からすは納屋もなく倉もない、それだのに神は養っていてくださる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか」と言われるのであります。つまりわれわれの命というのは、神が守ってくださるのだ、だから自分の人間的な努力とかはからいで、命のことを心配する必要はないと言われるのであります。お前が自分の命を保とうとしてどんなに何を食べようかと考えても、そんなことはだめだといわれるのです。なぜなら、命というのは、根元的には神が支配しておられるからだ、神が守ってくださる事柄だからだというのです。そのようにして思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようかというのです。
 
そして主イエスは大変驚くべきことをいいます。「そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思い煩うのか」というのです。われわれにとって自分の命をわずかでも延ばすことは、決して「そんな小さな事」ではない筈です。ある意味ではこんなに大きなことはない筈です。しかしイエスはいとも簡単に「そんな小さな事さえできないのに」といわれるのです。われわれ人間にとって自分の命をわずかでも延ばすということは、そんなに大きなことはないのです。そのわれわれにとって一番大きなことが、主イエスの目からみれば、これは神様からみればということですが、そんな小さなことというのですから、逆にいいますと、神がどんなに大きなかたかということがわかると思います。そんなに大きな父なる神によってわれわれの命が守られているのだから、もう自分の努力とか人間的な計らいで自分の命を延ばそうとするなということであります。

思い煩いというのは、いつでも、自分のできる範囲を超えて、考える時に起こるのではないかと思います。マタイによる福音書では、主イエスはこのあと、「明日のことを思い煩うな」といわれます。われわれは明日についていろいろと考えます。そして明日について準備をいたします。それは当然しなくてはならないことです。それをするなというのではないのです。イエスは明日のことは考えるなとか、明日のことはなにも準備しなくていいと言われたのではないのです。

そうではなくて、「思い煩うな」といわれたのです。明日は明日自身が思い煩ってくれるから、といわれるのです。つまりわれわれがどんなに明日について準備しても、明日はやはり明日自身の力で向こうからやってくる。明日というのは何が起こるかわからないのです。ですから、もう自分の限界を超えて考えるなということであります。明日について準備しようとして考えることはいいのです。しかし明日についてなにもかも自分が取り仕切ろうとして考えだすと、そこから思い煩いということが起こるのであります。なぜなら、明日というのは、明日自身の思いで向こうからやってくるからであります、人間が支配仕切れるものではないかからであります。それはわれわれ人間の限界を超えた世界であり、超えた時間であります。それなのに自分の限界を超えて考え出すから、思い煩いが生じるのであります。思い煩いというのは、限界を超えて考え出す時に起こるのであります。ただ考えるのではなく、自分の限界を超えて考えだす時に、思い煩いは起こるのであります。

 ここで主イエスは「そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思い煩うのか」といわれます。この言葉はどういうことなのでしょうか。「ほかのこと」とは何をさしているのでしょうか。ここが「そんな小さな事さえできないのに、どうして命のことで思い煩うのか」というのなら、わかるのです。しかし、そうではなくて、「そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことで思いわずらうのか」というのです。ここはいろんな注解書をみましても説明していないのです。
ここはこういうことではないかと思います。われわれは自分の命を一日でも長く延ばそうとして、あるいは保とうとして一生懸命、何を食べようか何を着ようかといって努力する、そうしてはそこから思い煩いが生まれてくる、そしてそのことから、われわれはただ命のことだけで思い煩うのではなく、あらゆることに思いわずらうことになる。命のことだけでなく、人との人間関係のことでも思い煩いをはじめてしまう。命こと、つまりそれは言葉を変えて言えば死のことですが、いつ死ぬかというのは、ある意味ではある程度先の先の話なのですが、そういう先の先の死について思いわずらい始めますと、もっとみじかな明日のことまでも思いわずらい始めるのではないかと思います。命のことについて思いわずらいを始めますと、それがきっかけになって、あらゆることを思い煩いだす、人間関係のこと、お金のことと、「ほかのことを」思い煩いだすということではないかと思います。
 
自分の命という根本的なことについての思い煩いをやめた時に、われわれは他のこまごました思い煩い、人間関係の思い煩いも、ぴったっとやめることができるのではないかと思うのです。われわれの命という根元的なものが神によって守られているのだ、そのことがわかったときに、そのことが信じられたならば、そうして神に信頼できるならば、われわれは単に命のことだけでなく、他のすべての思い煩いから解放されるのでなはいかと思います。結局人間関係のいろいろな思い煩いももとをただせば、すべて自分の命をなんとかして自分の浅はかな人間的な知恵で保とうとしたり、延ばそうとするところから起こっているからであります。「そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思い煩うのか」ということは、もう一切の思い煩いから解放されなさいという主イエスの呼びかけではないかと思います。

主イエスは二六節でこういわれます。「きょうは野にあってあすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」といわれます。「今日は野にあっても、明日は炉に投げ入れられる」草というのです。つまり主イエスがわれわれに命のことで思い煩うなといわれる時、絶対に死なないから、命はいつまでも存続するからもう心配はないよ、と言われたのではないのです。野の草がそうであるように、われわれの命も終わる時は来るのであります。「今夜、お前の命は取り去られる」かも知れないとイエスはいわれたばかりであります。

われわれの命は永遠だなんて言われているのではないのです。われわれの命ははかない命であるかもしれません。しかしそのようにはかない命であっても、「今日は野にあって生えていても、明日は枯れて炉に投げ入れられる」草ですら、神はそれまでは美しく装ってくださる、だから思い煩うなというのです。われわれもいつか死ぬのです。変な言い方ですが、われわれが死ぬまでは、神がちゃんと守ってくださるというのです。しかもその死は、神のゆるしがなければ、あの価値のないすずめですら、一羽も地に落ちることはないという死であります。その死も神が定めてくださるのだというのです。ということは、神が死を超えてわれわれの命を守ってくださるということであります。死も死後の世界のことも大丈夫だ、というのです。死ぬまでは神が守ってくださる、しかもその死も神が定めてくださる、そして死んだあとも神が守ってくださる、なぜ思い煩うのかというのであります。

「今夜自分の命が取り去られるかもしれない」という自覚をもつことは大切であります。だから、ある意味では命そのものについて考え、従ってある程度、命そのものについて思い煩う必要があるかもしれません。しかしその思い煩い方は「何を食べようか、何を着ようかと」ということでの思い煩いであってはならないというのです。自分の人間的な努力とかはからいで、自分の寿命を一日でも延ばそうというようなことで思い煩うという思いわずらいかたはするなということであります。これは誤解のないようにいいますが、これは決して医者にいったり、あるいは健康食品などいらないというのではないのです、食べる食べ物を選ばなくていいということではないのです。ただ医者に行ったり、健康食品をどんなに食べても、どんなに有機生産物を食べても、やがてわれわれの命は取り去れることはあるのだということを自覚しなさいということであります。われわれの命について限界があるのだということ、根元的には、神がわれわれの命を守り、神がわれわれの命を取り去りたもうのだということであります。そうしたら、思い煩いから解放されるだろうということであります。
 
 二九節からみますと、主イエスはこういいます。「あなたがたも何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう」といわれます。「異邦人が」というのは、「神を信じていない人は」という意味であります。
 
「ただ御国を求めなさい」といわれます。御国とは、神の国ということであります。聖書の言葉では「国」というのは、「支配」という意味もあります。ですから、御国を求めなさいとうことは、神の支配を求めなさい、神が支配してくださることを祈りもとめなさいということであります。主イエスが教えてくださった「主の祈り」にあるように、「御国がきますように、み心が天にあるように、地にもなさせたまえ」ということを切に求めなさいということであります。
 
ここに来て主イエスはいっきにわれわれを神の国、神の支配という広い広い世界にわれわれを連れ出してくれるのであります。われわれがよるとさわると、自分たちの健康のことばかりを話題にしている時に、主イエスは「まず、ただみ国を求めなさい」といわれるのであります。

さらに主イエスは「恐れるな、小さい群よ。御国をくださることは、あなたがたの父のみここなのである」といって、弟子達を励ますのであります。弟子達は小さい群なのです。われわれの教会もまた本当に小さい群であります。しかし主イエスは「恐れるな、小さい群よ」と励ましてくださるのであります。小さい群の中にいますと、話題も小さくなってしまいます。そのわれわれに「み国」を仰ぎ求めなさいと、われわれの目を天に向けさせくださるのであります。
 
 「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」といわれるのです。どんどん自分のものを捨てなさいというのです。われわれは捨てることによって、どんなに豊かになるかということであります。物を捨てることによって、今まで生活していた空間がどんなにひろくなるかということであります。

物ですらそうなのですから、われわれの心の中にある自分の執着心をどんどん捨てていったら、どんなに自分の心がひろくなるかわからないと思います。そして天に宝を蓄えるのです。自分の心をこの地上の富、それはただお金という物だけでなく、自分の能力とか努力とか、そうしたものに置こうとしますと、それに心が執着してまうのです。その執着を捨てて、身軽になって、神を信頼して、神がわれわれの命を取り去るまで、一日一日を生きていきたいと思います。