「自分を捨てて」 ルカ福音書一四章二五ー三五節

 大勢の群衆がついてきたので、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「だれでも父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子になることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子になることはできない」といわれました。

 せっかく大勢の人がイエスを慕ってついて来ようとしている時であります。「だれでも自分を捨てなくてはわたしについて来ることはできない」といわれるのであります。
 そして自分を捨てるという具体的な行動として、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹を捨てるということなのだというのであります。父、母を捨てるということ、自分の家族を捨てる、あるいは、自分の家族から離れるということは、自分の家族を捨てて、これから自分のしたいことをやり始める、そのために捨てるのではないのです。
 
 自分を捨てるために、自分をそれまで守ってきてくれた家族を捨てるということなのであります。自分の楽しみのために、自分がこれからしたい放題のことをするために家族を捨てるのでないのであります。

 家族の中の誰かが病気になった時に、もうその介護はいやだというので、家族を捨てて、自分のしたいことをやるというのではないのです。その場合には、自分を捨てるために、むしろ家族を捨てないで、その病人のために献身するということであります。それが自分を捨てるということであります。すくなくとも、ここで主イエスが「父、母を捨て、自分を捨てて」ということであります。

 長田弘という詩人がこんな詩を書いております。「はじまりというのは、何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、実際はちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何かをやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです」という言葉で始まる詩であります。
 
 何かを始めるということは、常に何かをやめるということだ、何かをやめることが何かの始まりだというのであります。そしてその詩人はこういうのです。「わたしの場合、子どものときから、はじめたことよりも、やめたことのほうが、人生というものの節目、区切り目として、濃い影のように、心の中にのこっています」と歌うのです。
 
 そしてそのあと、その詩人がいっていることは、やめるということよりは、やめさせられたということ、断念せざるをえなくて、やめて、やめさせられて、何かが始まったというのです。
 「水彩をならい、絵の腕をあげた。それでも描くことが楽しくなくなった。そして、絵をやめ、絵筆を手にするのをやめたのも、少年のある日でした。小鳥を飼って、死なせて、飼うのをやめた。犬を飼って、死なせて、飼うのをやめた。野バラを庭に植えて、ぜんぶ枯らして、育てるのをやめた。ひとの人生は、やめたこと、やめざるをえなかったこと、やめなければならなかったこと、わすれてしまったことでできています。わたしはついでに、やめたこと、わすれたことを後悔するということもやめてしまいました」。
 
 そして結局、あとに残ったことは、何かというと、彼にとっては、「読むこと、聴くこと、そして、書くこと」といのうです。最後に残ったものは、詩を書くということだったというのであります。
 
 何かをはじめるということは、何かをやめることだというのです。そしてもっと厳密にいいますと、やめさせられて、やめざるをえなくなって、それをやめて、そうしてそこから、何かがはじまったというのです。
 
 主イエスは「自分の命を捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」といいます。前に学んだところでは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」といっております。
 
 イエスの弟子になるということは、何もすべての人が直接イエスの弟子になるということではなく、自分の本当のいのちを得るために、ということであります。そのために自分を捨てなさい、というのであります。

 ところで、ここで、「自分の命までも捨てて」と訳されているところは、もとの言葉から訳しますと、「憎む」という字が使われております。新共同訳聖書では、ここは「自分の命であろうとも、これを憎まないなら」となっております。文語訳も、「自分の命までも憎まずば」となってりおます。「捨てる」というところが「憎む」という言葉になっているのであります。そしてそのほうが原文に忠実のようであります。

 「憎む」というのは強烈であります。「自分を憎む」ということだけに限っていえば、まだいいかもしれませんが、ここでは「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹」となっておりますから、自分の父母を憎まなければ、ということでは、強烈だということで、口語訳はここを「捨てて」と訳し変えたのかもしれません。
 
 しかし二三節をみますと、「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては」と、ここでは「捨てる」という言葉が使われておりますから、口語訳のように、ここを「捨てる」と訳しても、間違っているわけではないと思います。
 
 しかし「自分の命を憎む」という言葉は強烈であります。憎むという日本語は心理的な軋轢を与える言葉で、いつまでも憎み続けるという印象を与えます。捨てるということならば、一度捨ててしまえば、あとはもう忘れるとか、あきらめてしまうという印象をともないますから、ある意味ではあっさりしているかもしれませんが、「憎む」というのは、なにか怨念を残すような、いつまでも憎むことを引きずっていくような響きがありますから、ここを「捨てる」という言葉に置き換えたほうがいいのかも知れないと思います。
 
 さきほどもいいましたけれど、ここの中心は「家族を捨てる」とか「家族を憎む」ということが中心ではなくて、あくまでも「自分を捨てる、自分を憎む」ということが中心であります。自分を憎むということの具体的なこととして、家族を憎むということであります。
 
 わたしは中学生の時に聖書を知ったのですが、いつの頃から、「神を愛するということは、自分を憎むことだ」という文章に出会って、これは確かマルチン・ルターの言葉だったのではないかと思うのですが、これは大変強烈な印象の言葉でした。
 今考えるとこのルカによる福音書にあった言葉なのだなと思いあたります。ともかくわたしは神に従おうとして、一生懸命自分を憎まなければならないと思ったものであります。
 しかし自分を憎むということは、人間を分裂的な人間にしてしまうものであります。いつも自分のことを憎むということは、人を大変いびつな暗い人間にしてしまうのであります。自分を憎むということは、自分で自分を受け入れないということで、自分の中に自己分裂を引き起こしているわけで、これは精神病理的にいっても好ましいことではないと思います。
 自分を憎んでいる人が人を心から愛するなんてことはできる筈はないのです。自分を受け入れることができていない人は、人を受け入れるなんてことは到底できないのであります。
 
 わたしはキリスト教をそのように理解したために、自分の青春時代はずいぶん暗い人生を歩んでしまったと思います。
 
 しかしある時に、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力はお前の弱いところに完全にあらわれる」という言葉を通して、神がこの弱い、醜い自分を受け入れて、恵みを与えてくれているのだということが心の底からわかって、そうであるならば、つまり、神がこの自分を受け入れ、愛してくれているならば、どうして自分で自分を憎む必要があるだろうか、神が愛してくれている自分を、自分でも受け入れ、自分でも肯定していいではないかと思えるようになって、自己分裂から解放されたのであります。

 この場合、大切なことは、ただ自分で自分をあるがままに受け入れるということではなく、神がこのあるがままの自分を愛し、受け入れてくれている、そういう自分を自分でも肯定して受け入れるということであります。
 
 ただ自分で自分を肯定するということであるならば、ひとりよがりな傲慢な我が儘になるかもしれませんが、そうではなくて、神がこの自分を受け入れてくださったということ、神のゆるしというのが背後にあって、自分でも自分を受け入れるということであります。
 
 常に神のゆるしに支えられて、自分を肯定し、自分を受け入れるということですから、自分をひとりよがりな傲慢から救ってくれているということであります。
 
 そんなわけで、「自分を憎む」というこの訳語は、誤解を招きかねない訳語ではないかと思います。
 
 しかしそれならば、「自分を捨てる」ということがいい訳かどうか。考えてみれば、自分を憎むということよりも、自分を捨てるということのほうが、実はもっと難しいことなのではないかと思います。
 
 自分を捨てなさいといわれても、これはできることではないのです。座禅でもくんで、無我の境にたたなくては、とてもできそうもないことだからであります。それに比べれば自分を憎むということのほうができそうな気がいたします。
 
 父母を憎むという表現は少し困りますが、自分を憎むという表現ならば、あるいは自分を捨てるということよりはよいかも知れないと思います。われわれは自分を憎むことはできても、自分を捨てるなどということは到底できないことだからであります。
 
 聖書でいっている、自分を捨てる、ということは、仏教的な意味での、自分を捨てる、自分を無にする、無我の境に立つ、そういう悟りを得るということではないのであります。それはもっとわかりやすくいえば、なにもかも自分中心に生きようとするなということであります。
 
 つまり、「自分の命までもを捨てて、わたしのもとに来るのでなければ」ということ、ただ自分を捨てればいいというのではなく、イエスに従う、神に従うということが大事なのであります。
 
 自分を何もかも中心にすえて生きるのではなく、神を中心に据えて生きる、それは具体的にはイエスに従って生きるということなのであります。ですから、それは無我の境の悟りを開くというようなことではなく、神に従う、常に神のみこころは何かということ、それに耳を傾けながら、神に従順になろうとして生きるということなのであります。

 「自分の十字架を負うてわたしについて来るのでなければ」というのです。前のところでは、「自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」ということであります。われわれは十字架を負う、などといわれますと、すぐ殉教者の十字架のことを想像し、何か悲壮な気がしてきて、到底そんな生き方はできないと思ってしまいます。
 
 しかし、ルカは、「日々自分の十字架を負うて」といいます。「日々」というのですから、これは何も殉教者的な十字架ではないのです。そして、「自分の十字架」というのですから、これもまたなにも殉教者的なものではなく、自分の日常生活での、自分が負わなければならない自分の十字架、自分しか負えない十字架、それは他人からみたら、そんなことが十字架なのかといわれてしまうかもしれない十字架、しかし、それは自分にとっては、やはり本当に自分の十字架であります、それを負うのであります。
 
 十字架というと、われわれはすぐ苦しみとまず考えるかも知れませんが、イエス・キリストの十字架のことを思えば、イエスにとって、十字架とはなによりも父なる神のみこころに従うということでした。
 
 あのゲッセマネの園での祈りなかで、主イエスが求めたことは、何よりも「わたしの思いではなく、あなたのみこころがなるように」と祈られたのであります。そしてそれが結果的には、十字架の死という苦難の道でもあったのであります。
 
 「わたしの思いではなく」ということですから、それはやはり当然そこに自分を捨てるということが伴うわけで、苦しい自分との戦いが強いられるに違いないので、十字架イコール苦しみともなるわけですが、しかし、十字架ということで何よりも、大事なことは、神の御心に従うということなのであります。自分中心に生きないということであります。

 そしてルカによる福音書では面白いことに、われわれが自分の十字架に従うということの従いかたについて、二つのたとえ話を語るのであります。

 「あなたがたのうちで、家を建てる時に、それを仕上げるのに足りるだけの金をもっているかどうかを見るために、まず座って、その費用を計算するだろう。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、みんなから彼は土台をすえただけで完成できなかったと言って笑われるだろう」というたとえを一つ語ります。

  もうひとつは、「どんな王でもほかの王と戦う時には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かってくる敵に対抗できるかどうか、考えないだうろか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう」というたとえであります。

 この二つのたとえで語られていることは、共に共通していることは、「すわって、まず座して」ということであります。自分の十字架を負うということは、やみくもに負うということではない、その十字架を自分が負えるのかどうか、自分ひとりで負いきれるものかどうか、まず座ってじっくり考えて、ある意味では計算をして、決断しなさいということであります。
 
 無鉄砲に、やみくもに衝動的に十字架を負うなということであります。そういうやりかたは結局は自分の悲壮感にとらわれての行動で、まるで自分が殉教者気取りになって、自分が英雄であるかのように行動することで、それは自分の十字架を負うということにはならないというのです。それはただ自分が十字架を負うということに酔っているだけだということであります。

 この十字架を負うということが、殉教者気取りの英雄主義的な十字架でないことは、場合によっては、敵に対して降参してしまいなさい、とイエスが勧めていることでよくわかることであります。これは今日の問題でいえば、たとえば、老人介護の問題でしたら、家族だけで担いきれないならば、公的なサービスを進んで利用しなさいということであります。誰かにの助けを求めることは決して恥じではないのだということであります。
 
 十字架を負うということで大事なのは、自分の悲壮感などではないということであります。

 主イエスは、その十字架を担い切れるかどうかまず座って、じっくり考えて、そうしてそれが担い切れそうもなかったら、もう十字架を担わなくてもいいというのではないのです。三三節をみますと、「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨てきるものでなくては、わたしの弟子となることはできない」と言われるのであります。
 
 この二つのたとえ話と、その結論、「それと同じように」というつなぎの言葉がどのようにつながれるのか不思議であります。自分の十字架を担い切れなかったら、担わなくてもいいというのではないのです。
 自分の十字架を担いきれそうもなかったら、それが現実に担い切れるまで力をためなさいというのです。じっくりと待ちなさい、また他の誰かの助けも借りなさい、そうして自分を捨てなさい、とイエスは勧めているのであります。

 そしてイエスは最後にこういいます。「塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったならば、なんによって塩味がとりもどされようか。もうなんの役にも立たない」と言われるのであります。つまり、イエスの弟子になるといっても、その中心に自分を捨てる、自分の十字架を担うという覚悟とその生き方をもっていないならば、それが塩ということであります、その塩味を失っているならば、それはイエスの弟子とは言えないということであります。
 
 どんなに人を愛し、人のために仕えるといっても、もしそこに自分を捨てるということ、自分の十字架を負うという姿勢がないならば、それは愛にはならない、奉仕にはならないということであります。人の役に立つ塩にはならないということであります。

 自分を捨てるとか、自分の十字架を負うということは、大変難しいことであります。それを自分から自分を捨てる、自分から自分の十字架を負うということは難しいということであります。
 しかし自分を捨てるということは、また自分の十字架を負うということは、それは結局は他から自分を捨てさせられるということで、また結局は逃げても逃げても十字架を負わされるということであって、その時に負えばいいことではないかと思います。
 長田弘の言葉によれば「人の人生は、やめたこと、やめざるをえなかったこと、やめなければならなかったことでできている」ということであります。
 
 自分から何をやめるということは難しいことであります。やめさせられるのであります。自分から自分を捨てるということは難しいことであります。自分から自分を捨ててもそれが本当に自分を捨てたことになるかということであります。
 
 自分が自分みずからの決断で負う十字架というものも、果たしてそれがその人にとって「自分の十字架」といえるかどうかであります。それは自分で選んだ十字架であって、結局は自分が好んだ十字架であって、主イエスが求めたように、「わたしの思いではなく、あなたのみこころに従って」ということにはならないのではないかと思います。
 
 大事なことは、イエスに従うというとであります。イエスの前に行く必要はひとつもないのです。われわれはしばしば神よりも完全主義者になりたがるのであります。神よりも、イエスよりも先きんずる必要はないのです。主イエスに従っていけばいいのことなのであります。