「偽善と真実」 ルカ福音書二○章四五ー二一章一ー四節

 ある貧しいやもめが自分のもっているレプタ二つを神殿の献金箱に入れた。それを見ていたイエスが、「よく聞きなさい、あの貧しいやもめは誰よりもたくさん入れたのだ。金持ちたちはありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」といわれました。ルカによる福音書は、恐らくこの元になっておりますマルコによる福音書も、このいわゆるレプタ二つを投げ入れた婦人の話の前に、律法学者たちの偽善をイエスが批判している記事を置いております。

 それはルカによる福音書ですと、二○章四五ー四七節にかけて記されております。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くのを好み、広場での敬礼や会堂の上座や宴会の上座を喜び、やもめたちの家を食い倒し、見栄のために長い祈りをする。彼らはもっと厳しい裁きを受ける」とイエスは言って、律法学者たちを批判するのであります。

この箇所は、対になって読まれるべきところであります。そして、律法学者たちのふるまいが、「偽善」ということであるならば、この貧しい婦人が自分の持っているレプタ二つをすべて捧げたという行為を、「真実」と言ってもいいのではないかと思いまして、今日の説教の題は「偽善と真実」という題をつけました。はじめは「真実と偽善」という題にしようと思ったのですが、それではいかにも高尚な題のような気がしまして、つまり、なにか「真実とは何か」というようなことを説教するような印象を与えかねないので、やはり聖書の記述の順序に従って、「偽善と真実」という題にしました。そしてここで学ぼうとしている「真実」ということは、何か哲学的な、あるいは倫理的な真実というような高尚なことではないのです。つまり、ここでいいたい真実ということが、誠実さとか純真さというようなことではないのであります。

 律法学者たちの偽善ということと、それによって浮かび上がってくる真実ということを今日は考えてみたいと思っております。

 イエスは律法学者やパリサイ派の人々を、しばしば「偽善な律法学者、パリサイ人よ」と言って糾弾しております。偽善とはなんでしょうか。それは文字通り、善を装うということであります。自分はひとつも善ではないのに、ただ外見上善を装うということであります。今日のところでいえば、「見栄のために長い祈りをする」ということであります。本当に神に祈っているのではなく、ただ人々にあいつはなんと信仰心があついことかと、見てもらうために長い祈りをするのです。

 マタイによる福音書にありますが、施しをする場合、わざわざラッパを吹き鳴らして、これから俺は施しをするぞ、と言って施しをするということであります。マタイでは、こう記します。「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるために会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らすな」というのです。つまり、律法学者たちは、なによりも人にほめてもらうとするのです。人にほめてもらうことが彼らにとって、唯一の生き甲斐なのであります。彼らはだから人々の目に目立つことをしたい、「彼らは長い衣を着て歩き、広場での敬礼や会堂の上座や宴会の上座を喜ぶ」のです。

 「やもめたちの家を食い倒し」というのは、当時はやもめたちは、一番生活に苦労している人たちでした。律法学者たちはその一番困っている人々の相談相手になってあげるわけであります。そうしては、実際に相談料をとって、やもめたちを食い倒していたというようなことではなく、そういう人々の相談にのってあげて、結局は彼らを真に助けようとしているのではなく、彼らを利用して、自分の名声を高めるためにそうしていた。それがここで、「やもめたちの家を食い倒し」と言われているということなのではないかと思います。
 ともかく、彼らは自分は善をしている、あるいは正しいことをしている、信仰あつい人間なんだということを誇りたいのです。そのように人々からいわれたいのです。それは神様からそのように認めてもらいたいというのではなく、もっと手っ取り早く、周りの人間からそのように評価されたい、ほめられたいのです。もちろん、本当は神からほめられたいのです。しかし神からほめられるとしても、それはずっと先の話になるし、終末のことになるかもしれないし、いつになるかわからない、だからもっと手っ取り早く、今その報酬を得たいのです。死んでからほめられてもひとつもうれしくはないのです。

 マタイでは、イエスはそういう偽善的な行為に走る律法学者パリサイ人に対して、彼らは「報いを受けてしまっている」というのです。つまり、彼らは神からの報いを受ける前に、人からの報いを受けてしまっているというのです。
 
 手っ取り早くほめられたい、生きているうちに、目に見えるかたちで、自分は立派な人間なんだと人々に評価されたい、彼らはそこに生き甲斐を求めていたのであります。そのために、彼らは偽善的になるのであります。

神様を相手にしたら、そんなことは通用しないことを知っているのです。神の目はそんなに甘くないことをわれわれは知っています。ですから、もしわれわれが神の前に立つならば、われわれは偽善的になりようがないのです。すべては神に見透かされてしまうからであります。それで彼らは、いや、彼らというよりは、われわれはといったほうがいいと思いますが、われわれは神を相手にするのではなく、人を相手にする。人からほめてもらおうとするのであります。そのために見栄のために長い祈りをしたり、上座の席に座るのを好むのであります。あるいは、最初は末座に座って、人からどうぞ、あなたは上座に座ってくださいとすすめられたいのです。神様の目はごまかせないが、人の目はごまかせるとわれわれは思っているのです。

 しかし考え見れば、本当に人の目をごまかせるのでしょうか。神の目が厳しいということであるならば、本当は人の目だって甘くはないのではないでしょうか。本当は人の目もまた厳しいのではないでしょうか。長い祈りをする人を見て、われわれはその人が信仰の厚い人だと思う人など、ひとりもいないのではないではないでしょうか。ああ、あの人はいかにも自分は信仰深いと見せびらかすためにわざわざ人前で長い祈りをしていると、すぐわれわれは見抜けるのではないでしようか。施しをする前に、わざわざ自分はこれから施しをするぞといって、ラッパを吹き鳴らす人を見て、あの人は本当に立派な人だと思う人がいるでしょうか。本当はそんなふうに思うお人好しは、ひとりもいないと思います。

 神の目はごまかせないと思って、しかし人の目はごまかせると思っているかもしれませんが、本当は人の目だってごまかせないのだと思います。人はそんなに甘くはないはずです。われわれはいつだって、人の偽善性に敏感であります。ただ気がつかないふりをしてあげているだけであります。

神の目はごまかせない、そして人の目もごまかせない、それならば、誰の目はごまかせるのでしょうか。それは自分の目はごまかせるのであります。われわれは自分自身の目はいくらでもごまかせる、神の目は甘くはない、そして人の目も甘くはない、しかし自分を見る自分自身の目は甘いのであります。

長い祈りをしながら、人は自分の祈りを聞いて、きっと感心してくれいるだろうと、自分で勝手に思い込んでいるだけなのではないか。ラッパを吹いて施しをするときには、本当は人はそんな人のことをひとつも偉いとは思ってはいないのに、そのように施しをする本人は、きっと人々は自分のことを偉いといってほめてくれるだろうと、自分で思い込んでいるだけなのでなはいか。いや思いこみたいだけなのではないか。偽善者がごまかしているのは、神の目ではなく、人の目でもなく、結局は、自分の目なのではないでしょうか。あくまで自分で自分をほめようとしているに過ぎないのであります。
 
 偽善者は、結局、神の前に、そして人の前にも、立っていない、はじめから終わりまで、ただ自分の前に立っているだけ、自分の世界に入り込んでいるだけなのです。偽善者というのは、人に対して善を装うって、自分をごまかしているのではなく、ただ自分に対して自分を装うとして、自分をごまかしているだけなのです。

つまり、偽善者というのは、神という他者の前にたっていない、そして人という他者の前にも立っていない。本当の意味での自分以外の他者としての人の前にも立っていない人であります。

 しかし信仰というのは、自分以外の他者としての神の前に立つということであります。信仰というのは、自分を信じるのではなく、自分を超えた、自分以外の本当の他者である神を信じるということであります。偽善者は、どこまでいっても、自分という世界の中から出ない人で、それでは、信仰というものはなりたたないであります。

レプタ二つを献金箱に投げ入れた貧しいやもめはどうだったでしょうか。金持ちは有り余る中から、沢山の献金を人に見せびらかすようにして投げ入れたのでしょう。しかしこの貧しいやもめはもちろん、人にみせびらかせようとはしていないのです。しかしそうかといって、自分はレプタ二つしか献金できないから、恥ずかしいといって、恥ずかしそうにそれを人に隠すようにして、投げ入れたのでもないのです。もしそうだったならば、イエスには見えなかった筈です。つまり、この婦人はもう人にみせようともせず、また隠そうともしないで、ただ神のみをみつめて、自分のなけなしのレプタ二つを捧げたのです。神だけを見つめた、神以外の周りの人に目をやっていないのです。

 この婦人にとって、レプタ二つというのが、彼女の生活費のすべてだとは思えません。レプタ二つとは、最低の硬貨だそうで、今でで言えば、一円玉二つ、あるいは、十円玉二つということであります。それが彼女の生活費のすべてとは思えませんし、またイエスが彼女が生活費のすべてを捧げたことをお褒めになったのだとすれば、それでは「律法学者たちがやもめの家を食い倒し」、ということ同じことをしていることになってしまうと思います。

 イエスがこの婦人の姿をほめたのは、金持ちたちが周りの人にみせびらかせて献金をしているのに対して、この婦人は、人にみせびらかすのでもなく、またあえて人に隠そうとするまでもなく、ただ神のみをみつめて捧げている、その姿勢に打たれたのではないかと思います。

 彼女はどうしてレプタ二つを捧げたのでしょうか。もっているレプタのうち、ふたつもっていたのですから、一つでもよかった筈です。しかし彼女はその時もっていた二つのレプタ、つまりすべてを捧げた、それが生活費のすべてをささげたということだと思いますが、なぜ彼女はそうしたのでしょうか。それは神に対する感謝のしるしでしょうか。もしかすると、彼女は貧しいやもめでした、だから彼女はこの貧しい苦境からなんとか脱却したい、なんとかしてくださいと、お願いする思いを込めて、このレプタ二つを神にささげだのではないか。神に対する感謝の思いというよりは、神に対する必死の願いをこめてのささげものなのではないでしょうか。

 なぜなら、彼女は貧しかったからです。貧しいなかでも神に感謝したということも考えられますが、しかしそれよりは、貧しいなかで必死に神に祈り、神に訴え、神に助けを求めようしてレプタ二つを捧げたと考えたほうが自然ではないかと思います。

それは、われわれ日本人が子供が病気の時には、お百度まいりしたり、お茶断ちをしたりして、なんとか子供の病気を治してもらおうと、神社にお参りする、お地蔵さんにお供え物をする、それと同じようなことではないか。いってみれば、御利益信仰であります。そしてわれわれはその時に初めて神に頼り、神を信じようとするのではないでしょうか。子供が病気になった時に、神にお祈りをする、こんなに必死に祈ったことはありませんでした、という人の話をよく聞きます。そして真実の祈りというのは、そういう時にはじめて起こるのではないでしょうか。

 ある人が「キリスト者とは、ただキリストだけに頼る人のことだ、ただキリストだけに頼らざるを得ない人のことだ」と言っておりますが、このレプタ二つを投げ入れた婦人は、この時、ただ神様だけに頼らざるを得なかったのではないか。だからもうこのとき、この女は、周りの人など気にしないで、必死に神様だけをみつめて、神さまだけにお願いして、神様だけを頼ってこの献金を捧げたのではないか。

ある時、十二年間も長血をわずらっていた女が自分の病を治してもらおうとして医者にかかって、自分の財産を使い果たしてしまい、最後にもしかしたらイエスさまならなおしてもらえるかもしれないと思い、イエスの衣のふさにふれた、という婦人がいました。イエスはこの女の信仰を退けませんでした。イエスの衣のすそにさわれば病気が治るなんていうことは、いかにも迷信的な信仰であります。御利益信仰であります。

しかしイエスはその女の信仰を決して軽蔑しませんでした。その信仰を受け入れたのであります。多くの群衆がイエスと一緒に歩いていて、多くの人がイエスの衣のすそにさわっていても、イエスは何も感じませんでしたが、しかしこの時
、この女がイエスの衣の裾にさわった時に、イエスのからだから力が出ていったのを感じたというのです。それでイエスはその女を捜して出し、ご自分の前に立たせて、「お前の信仰がお前を救ったのだ」と言われたのであります。この女の大変素朴な迷信的な信仰、御利益的な信仰をイエスはひとつもしりぞけないで、「お前の信仰が」といわれたのであります。
 
 「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、これは信仰を批判する言葉とて用いられますが、しかしこの言葉はわれわれの信仰の真実を示す言葉でもあるのではないではないでしょうか。われわれは苦しい時に、はじめて神にすがろうとする、神に祈り、神に必死にささげものをして、神に祈る、その時には、もう人のことを気にしない、もう自分を信じようとしない、もう自分を信じられなくなっている、ただ神のみを信じようとしているのであります。
 
それが信仰の真実というものではないでしょうか。われわれが自分の偽善性から脱却できるとすれば、その時以外にないのではないではないか。

「キリスト者とは、ただキリストだけに頼るしかない人のことだ」と言う言葉を心に受け止めておきたいと思います。