「十字架を担う」  ルカ福音書二三章二六ー三一節

 イエスはいよいよ十字架刑が決定され、その刑が執行されるゴルゴダまで、十字架を背負ってみんなのあざけりの中を行進させられます。十字架を担うといいましても、十字に組んだものを担うのではなく、十字架刑の縦の木はすでに処刑場に設置されていて、その横木を処刑される人間が背負って行進させられるのだとも言われております。そうなると、一体、どうやって、処刑者を十字架につかせるのかということも問題になりますから、やはりあらかじめ、十字架に組んであるものを処刑者が背負っていって、そして処刑場ではりつけにして、くぎをうち、そしてそれを縦に立ち上がらせるということのほうが、自然な気も致します。
 それはともかく処刑者は自分がはりつけにされるその太い大きな重い木を背負わせられて処刑場まで行進させられたようであります。
 
 イエスもみんなのあざけりのに中で行進していくわけです。しかしイエスはその十字架を背負い切れなかったようです。もうその時までにイエスは疲労困憊していたようなので、途中で倒れてしまったようなのであります。それで護衛に当たっていた兵士は仕方なく、たまたま通りかかったシモンというクレネ人にそれを負わせたのであります。それはシモンにとっては、大変屈辱的なことでありました。しかしそれはイエスにとっても、大変屈辱的なことだったのではないかと思います。あんなに自分は十字架につくんだと弟子達に公言しておりながら、その十字架を担うことができなかったからであります。

 今日の説教の題は、「十字架を担う」という題にしましたけれど、本当は「十字架を担えなかったイエス」という題にしたかったのですが、それでは少し奇をてらったことになるかもしれないと思い、平凡に「十字架を担う」という題にしました。

 イエスは弟子達に、「十字架を負うてわたしに従ってきなさい」といわれたのです。考えてみれば、この「十字架を負うて」というのは、この十字架で処刑されまでのゴルゴダの丘までに背負わなくてはならない十字架のことであります。イエスは弟子達に対して、またわれわれに対して、「十字架ではりつけにされて、わたしに従ってきなさい」、十字架ではりつけにされて、そのように殉教の死をとげなければ、わたしの弟子になることはできないといわれたのではないのです。

 イエスが十字架ということで、イメージしていたものが、ただ十字架ではりつけにされて殺されるという、そういう殉教の死を思い浮かべたのではなく、十字架を負うということを思い浮かべた、ということはおもしろいというか、考えさせられることであります。それは何よりもゴルゴダに行くまでに担っていかなくてはならないこの十字架を背負って、みんなのあざけりをうけながら、行進しなくてはならない十字架をイエスが思い浮かべていたということであります。
 
 それは十字架ということでイエスが考えておられたことは、殉教の死のことではなく、十字架を負う、つまり重荷を負うということ、それはつまりは、罪を負うということをイエスはまず考えておられたのだ、ということであります。死ぬことが大事なのではなく、罪の重荷を負うということが大事なだということであります。

ですから、殉教の死をとげて、堂々と死んで、英雄のように死んでも、それによってその殉教の死を遂げた者が賞賛されるような死、見事な死だったとか、立派な死だったとか賞賛されるような死であるならば、それがどんなにつらい死であっても、それは本当の意味での十字架の死とはいえないということであります。
 
 十字架の死ということで、イエスが一番重要なこととして、考えたことは、その十字架の死がなんらかの意味で人間の罪を負うものでなければならない、他人の罪であれ、あるいは自分自身の罪であれ、その罪を負う、そういうものが十字架を負うということであり、そういうことが十字架の死ということなのだ、だからイエスは弟子達に対して、そしてわれわれに対して、「十字架を負うて」といわれたのではないかと思います。

 われわれは「十字架を負うて」という時、すぐ殉教の死のことを想像しがちですが、そうではないのです。何もいさぎよく死ぬ必要はないのです。大事なことは、その死ぬまでの道行き、歩み、重い重荷を背負って、ある時には人にあざけられながら、その屈辱を受け、重荷を負うて、生きていくということが大事だということであります。死ぬことが目的なのではないのです。十字架の重荷を負うということが目的なのです。死は結果にすぎないのです。殉教の死はかっこいいかも知れない、それに比べれば、その処刑場までの道行き、人々にあざけられ、あなどられながら、あえぎあえぎ、たどたどしく歩む姿にはかっこよさなどはみじんもないのです。しかしそれを引き受けて生きる覚悟をしなくてはならないのだと主イエスは言われたのです。

 それはイザヤ書五十三章にある「苦難のしもべ」の歌でも歌われております。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」と歌われているのであります。
 われわれにとって人から尊ばれるのがわれわれの生き甲斐かもしれません。人からほめられること、賞賛を受けることがわれわれにとって唯一の生き甲斐かもしれません。その唯一の生き甲斐を捨てる覚悟が必要だというのです。十字架を負うということは、そのように考えてみると、本当に大変なことだということがわかります。

若いときに、聖書を読んで、「自分を捨てて、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」というイエスの言葉に感激して、クリスチャンになろうと思ったりしますけれど、しかし「自分を捨てる」そして「自分の十字架を負う」ということは決してそんなかっこいいものではない、われわれの心の中にある英雄主義を刺激するような呼びかけではないのであります。

イエスは弟子達には「十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」といわれたのです。しかしイエスご自身はその一番大事な十字架を途中で負えなかったのであります。それまでの疲労困憊が重なってしまって、その十字架を負えなかった。途中で弱り果ててしまったのです。それで仕方なく、たぶんローマの兵士だといわれておりますが、その死刑囚をゴルゴダまでムチうちながら連れて行く兵士が、たまたま通りかかったクレネ人シモンにイエスの十字架を背負わせたのであります。

弟子達には「十字架を負え」といい、「負わなくてはだめだ」と言っておきながら、それができないで途中で代わりにシモンに負ってもらったのです。この時イエスはどんな思いだっただろうか。
シモンに対して申し訳ない、気の毒なことをしたと思ったかもしれません。しかしまたこの時イエスは、これもいいことかも知れないと思ったのではないか。人間の罪を負うということは、それほど大変なことなのだ、それは自分ひとりで負おなどと気負い立つ必要などはない、ある時には、傍らにいる人に代わりに担ってもらう必要だってあるのだということであります。

 イエス・キリストはご自分ひとりでわれわれ人間の罪を担いきろうとしたのではなく、われわれにも一緒に担おうではないかと、呼びかけ、われわれにもイエスの罪との闘いの一端を担わせてくれた、われわれにも十字架を担う余地を残してくださったということなのではないかと思ってもいいのではないか。

 そんなことをいうと、それはこじつけだといわれるかもしれませんが、わたしはこのシモンのことを考えている時に、パウロの言葉を思いだしたからなのであります。コロサイ人への手紙の一章にこういう言葉があります。
 「今わたしはあなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは神の言を告げひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである」というのです。「キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」というのです。

 これは何かキリストの十字架は不十分で、それをパウロが補うのだということにもなりかねないので、この解釈はむずかしいのですが、多くの注解者は、そんな意味にとってはいけない、キリストの十字架はわれわれの救いにとって完全であって、いささかも足りないなどということはない、ただイエスがなさったあの十字架の福音を今度は伝道者が自分の肉体をもってこの地上で宣教することがわれわれに委ねられているのだと受け取っております。

 それその通りだと思います。キリストの苦しみが足りなかったということではないのですが、イエス・キリストは、あの十字架の苦しみを独り占めにしないで、クレネ人シモンに、そしてわれわれにも、共に担おうと呼びかけておられるのだと考えてもいいのではないかと思います。

 イエスは十字架をひとりで担い切れないで、途中で挫折してしまい、倒れてしまった、そして見るに見かねて、兵士はたまたま通りかかったシモンに負わせた、イエスはその時、シモンにすまないと思うと同時に、これもまたよかったかもしれないと思ったのではないか。十字架を負うということ、人間の罪を負うということは、そういうことなのだと思われたのではないか。それはただ自分ひとりで負うのではなく、多くの人の助けをうけながら、十字架をになっていくことの大切であります。

 パウロはローマ人への手紙の中で、われわれが神の子にしていただいたのだ述べて、そのあとこういうのです。「もし神の子であれば、相続人である。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリスと共同の相続人なのである」というのであります。われわれはキリストのあの十字架の苦難を共に苦しむのだ、だからキリストと共同の相続人なのだというのであります。

十字架はひとりで担う必要はないのです。自分が担い切れない時には、傍らにいる人にも共に担って欲しいと呼びかけて担っていく、それが十字架を負うということなのではないかと思うのです。イエスの十字架への道行きはそのことをわれわれに教えているのてばないか。十字架を担いきれなかったイエスの姿のなかに、人間の罪のあまりの重さを知ると共に、それをシモンに担ってもらったイエス姿のなかに、イエスの限りない謙遜な姿をわれわれは推察してもいいのではないかと思うのであります。

 後にこのクレネ人シモンはクリスチャンになったのではないかともいわれております。それはマルコによる福音書では、このシモンのことを「アレキサンデルとルポスの父シモンというクレネ人が」と記されていて、そしてローマ人への手紙の一六章では、「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある」という言葉があるからであります。この「ルポス」と、イエスの十字架を担ったルポスと同一人物がどうかを決めるものはないのですが、そう考えることは美しい想像ではないかとある人が言ってりおます。

 それにしても、福音書というものは、十二弟子の証言がもとになって編集されていったものであります。イエスの弟子たち、ペテロをはじめとしてイエスの弟子達は、このことを人々に伝えた時に、どんな思いで人々に伝えのだろうか。本当ならば、クレネ人シモンではなく、自分こそがイエスの十字架を担ってあげなくてはならない時に、それを自分達はしなかったのだという思いがあったのではないかと思うのであります。


二七節からみますと、大勢の群衆と悲しみ嘆いてやまない女たちがおりました。イエスと一緒についていったようであります。その様子をみて、イエスはこういうのであります。「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」といいます。そしてその後、終末の裁きについて述べます。
 「不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とはさいわいだ」というのは、終末の裁きはすざましいものだから、子供をもつ母親は逃げ延びるのが難しい、むしろ子のない母親のほうが早く逃げられるからさいわいだという意味で、終末の裁き、その悲惨さをあらわす特有の表現であります。

 三○節の「そのとき人々は、山に向かってわれわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出す」というのも、終末の時の神の裁きがあまりにも厳しいので、山や丘が崩れてわれわれ人間の罪の恥を被って隠してくれという意味なのだということであります。あるいはもう自暴自棄になって、いっそのこと神の厳しい裁きを受けるよりは、山なだれの中に巻き込まれたほうがいいという意味かもしれません。いずれにせよ、これも終末の神の裁きの厳しさを表現する言葉であります。

 最後の「もし、生木でさえもそうされるならば、枯れ木はどうされることであろう」というのは、多くの注解者は難解だといいます。おそらく、ここでは、「生木」はイエスのことで、「枯れ木」はわれわれ人間のことのようであります。罪のないイエスですら、裁きを受けるということが大変なことなのだから、まして、罪のために枯れ木同然になっているわれわれ人間はどうなるか、というような意味であります。

 ともかく、ここでイエスがエルサレムの娘たち、それはつまりは、われわれ人間に対してですが、イエスが十字架につれられていく姿をみて、「おかわいそうに」と嘆くよりは、自分自身の罪について、もっともっと厳しく見つめよ、終末の裁きのことを考えよ、そして自分の罪について嘆けということであります。自分は十字架で処刑されない、だから自分たちは罪人ではない、だから自分たちは安泰だなどと、自分の立場を安全な場所に置いて、人の不幸を嘆くということがいかに無責任なことかということであります。

 われわれはしばしば人に同情する時には、そのような立場から同情してしまうのであります。パウロが「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」といわれましたが、「悲しむ者と共に悲しむ」ということがいかに難しいかということであります。
 
 ヘブル人の手紙には、イエス・キリストのことを「この大祭司はわたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」というのであります。罪のないイエスが罪人のひとりとして十字架につくということこそ、われわれと同じ試練に会われたということであります。
 
 それにしてもここの箇所を読む時に、いつも思うことは、罪を犯したことのないイエスがどうして罪を犯してしまうわれわれの弱さを理解できるのかということであります。これはしかし子供に対する親のことを考えみればわかるのではないかと思います。子供がなにか過ちを犯した時には、親は子供と同じあやまちを犯したことがなくても、そしてその可能性がなくても、親は子供の弱さを理解できて、過ちを犯した子供と一緒に悲しむことはできると思います。それは子供を愛しているからであります。
 
 イエスがわれわれ人間の弱さを思いやることができたのは、イエスがわれわれ人間を限りなく愛しておられるからであります。もしこの愛がなかったならば、どんなにわれわれと同じような試練にあったとしても、われわれの弱さを知るなんてことはできないのであります。

 愛が想像力を生むのであります。また想像力を生まない愛は愛とはいえないのです。イエスは愛とは、「なにごとでも、人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ、これが律法であり預言者である」といわれましたが、ここには想像力の愛がいわれているのではないかと思います。もし自分がその人の立場に立ったならばと想像力を働かせて、その人が今一番してもらいたいことを想像して何かをしてあげる、それが愛だというのであります。愛はただ親切のおしつけではないというのです。

 その想像力は同じ試練に会った時に、その経験した時に、その想像力はより深いものになるのであります。罪のないイエスは、ひとりの罪人のひとりに数えられて十字架についてくださった時に、イエスはわれわれの罪についての嘆きをいっそう深く理解されて、われわれの弱さと罪を知り、われわれを救おうとなさったのであります。
 
イエスは愛が深いかたでしたから、ご自身は罪を犯さなくても、われわれの罪を理解することができましたが、われわれはそれほど深い愛をもっておりませんから、なによりも自分自身の罪を知る必要があります、そうしてはじめて、人の罪も、人の弱さも理解し、そして深く同情できる、想像力としての愛を発揮できるのではないかと思います。
 
 「わたしのために泣くな、あなたがた自身のために泣くがよい」と、イエスは言われたのであります。イエスの十字架を思う時に、われわれは自分自身の罪を何よりも深く知り、そして嘆かなくてはならないのであります。